第2896日目 〈ドストエフスキー中短編の新訳を望む。〉 [日々の思い・独り言]

 砂を噛むような思いでようやっと、ドストエフスキーの短編「初恋」(「小英雄」)を読み終えたとき、ゆくりなくも心に浮かんだのは平井呈一が米川正夫の翻訳を評した台詞であった。曰く、「トルストイのものでもぼくは英訳で読んだんだけれども、『復活』にしても、それはすごいもんなんだよ。米川正夫の訳だと、春の始めの草が萌えて来て陽炎がグラグラするような、あの冒頭の描写なんか、全然感じられないな。……モード訳の英訳でも陽炎がたつようなんだよ。文豪だもの、味もそっ気もないものなんか書いてる筈がないんだよ」(「対談・恐怖小説夜話」生田耕作との対談 『幽霊島』P470 創元推理文庫 2019/8)と。
 『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を読むための、いわば前哨戦のようにして文庫にまとまったドストエフスキーの短編を読んでいるのだが、意外にその期間が長引いてしまっている。嵌まったのだ。ちょうど、かつて福武文庫から出ていた米川正夫・訳『ドストエフスキイ前期短編集』『ドストエフスキイ後期短編集』のセットを、比較的安価で入手できる幸運に恵まれたのに後押しされて、この2冊も好い機会だから読んでしまおう、と、数日前から通勤電車のなか、仕事帰りのスターバックスやパブ、寝しなの床のなか、巻を開いて活字を辿っているが、まったくというてよい程物語へ入りこめないまま今日、ようやっと最初の1編を読了できたところ。
 わたくしはロシア語が読めないから「おそらくは」と留保附きでいうのだが、米川正夫の翻訳は原文にひどく忠実であるのだろう。能う限りドストエフスキーの文章にこめられた熱気を損なうことなく、日本語へ移し替えることに粉骨砕身したのだろう。それが最終的に結実したのが1969年から1971年にかけて刊行・完結した河出書房新社版『ドストエフスキイ全集』全20巻別巻1であり、更にそれを底本にして出版された幾種もの文庫なのだろう。
 古くからのドストエフスキー読者、ロシア文学ファンにとって米川正夫の翻訳は<名訳>と讃えられて然るべき存在であり、またそれが同作異訳の出来映えを検討する一種のバロメーター役を果たしている様子。新潮社版『決定版 ドストエフスキー全集』第2巻月報で作家、真継信彦は若い頃のドストエフスキー読書を回顧して、当時の自分はドストエフスキーの作品というよりも米川正夫ら(の訳文)に影響を受けた面が多いのではないか、と述懐する。斯様に米川正夫の翻訳を<名訳>とし、またその訳文を良しとする人々はずいぶんと在る。否定はしない。とはいえ、──
 米川正夫の翻訳は既にアンティークの域にあり、サビがそこかしこに浮かび出た、機関に深刻なダメージを抱えてもはや動かすことかなわぬ退役を義務づけられた巨艦に等しい。珍重する者があるとすれば、およそ2つの種別に分けられよう;1つはそこにノスタルジーを覚えるがゆえ愛でる者と、1つはその訳文に日本語の滋味を感じて愛す者と。が、こんにちの読者に果たしてそれは受け容れられるものであろうか?
 受け容れられる、とはチト誤解されるやもしれないが、現代を生きる老若男女が米川訳ドストエフスキーなりトルストイなりを手にして、訳者が選んだ訳語、綴った文章に異を感じるところなく没入でき、その世界に生きることができ、未読の人たちへその魅力の様々を説きかつ奨めることができる、経年劣化の誹りを跳ね返して第一線に立ち続けることが可能な翻訳であるかどうか、ということだ。
 わたくしは残念ながら、否、だと思う。繰り返しになるけれど、これは疾うに現役の任を負うことが不可能になった、退役艦である──艦籍を除かれた、記念艦として余生を送ることを決定せられた……。いまとなっては生気に乏しく色彩を欠いた、時代の波に打ち克つことかなわなかった、かつて名訳と讃えられた時代の徒花。言い過ぎ? 済まぬ、わたくしは本気でそう思うている。勿論、米川正夫の訳業、読書界にもたらした功績、それらを否定するつもりはまるでない。紀田順一郎いうところの。「その時々の考え方や立場に左右されない、<零度の書物>」(『書斎生活術』P187 双葉社 1984/5)の任を担っているのがこの場合の米川正夫の翻訳である、というに過ぎぬ。
 が、これは実は米川正夫に限った話でない。すくなくともドストエフスキーに関していえば、前述の新潮社版全集に収まる、或いはむかし単独で翻訳されたような中短編群については概ね同じことがいえるはずだ。近年出版されたうちでも安岡治子が訳した『白夜/おかしな人間の夢』(光文社古典新訳文庫)を除けば、繰り返し読むには向かぬような日本語訳が未だ新刊書店の棚に並んでいる。
 有り体にいって、目につく限りでもう10種近くになんなんとする中編『白夜』以外のドストエフスキーの中短編は、いまこそ新訳が渇望されるべきものではあるまいか。5大長編や『死の家の記録』『地下生活者の手記』などの新訳もうれしいが、それ以上にわたくしは長編以上に内容の充実した、作風も振り幅の大きい中短編群を生命力に満ちあふれた日本語で読みたい。むろん、ゴーゴリを腰砕けの落語調で訳して悦に入っているような人の登板はご遠慮願いたく──。
 実現したら大いに歓迎、狂喜に乱舞し、鏡花じゃぁないが「夜が明けると、多勢の通学生をつかまえて、山田が其吹聴といったらない。鵺が来て池で行水を使ったほどに、事大袈裟に立至る」(「怪談女の輪」 『鏡花怪異小品集 おばけずき』P73-74 東雅夫・編 平凡社ライブラリー/平凡社 2012/6)と苦笑しつつ揶揄されても構わないとさえ思う(註して請う、山田をどうぞブログ主に脳内変換されよ)のは、光文社古典新訳文庫が全5巻ぐらいでドストエフスキーの中編集、短編集を、相応しい訳者を採用して充実した解説を付し、5大長編に代表される深刻深遠なるドストエフスキー、『貧しき人々』や『白夜』に代表されるリリカルなドストエフスキーのイメージを刷新するような、それの出現によって、よりこの文豪の多面な創作活動を伝えるような傑作選が編まれることだ。実現したら大いに歓迎、狂喜に乱舞して、あちこち吹聴して回ろう。
 『作家の日記』に含まれる短編は既に満足できる翻訳があるから良しとして、わたくしは『プロハルチン氏』や『弱い心』、『ネートチカ・ネズワーノワ』や『伯父様の夢』、エッセイ『ペテルブルグ年代記』『ペテルブルグの夢』、就中丸谷才一激賞のユーモア小説、ラブコメ小説『ステパンチコヴォ村とその住人』を新訳で読んでみたい。もしくは、新潮社が自社の全集から短編をセレクトして2冊か3冊の文庫にまとめてくれるか、だ。これらが出版の暁には絶対、新たなドストエフスキー像の形成に大きく益あるはずなのだが……。
 咨、いったいそんな日は来るだろうか?◆

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