第1403日目 〈創世記第2章2/2:〈天地の創造〉2/2withここに慰めありき;和久井映見『Dearest』を聴きました。〉 [創世記]

 創世記第2章2/2です。

 創2:4-25〈天地の創造〉2/2
 神が天と地を創造したとき、水は一つ所にあって陸地は姿を見せていなかった。第三の日に及んで陸が生まれ、木や草が生えたけれども、大地を耕す人はまだなかった。
 が、いまや人以外の生物が地にも空にも海にも満ちている。こうしたことがあって神はいよいよ人を造った。土(アダマ)の塵から造られた人(アダム)は、神によって鼻へ命の息を吹きかけられて、生きる者となった。
 東の方にあるエデンの園に人が置かれた。園には果樹が植わっている。神はアダムに、そこを耕し、守る仕事を与え、そこに実るものを獲って食べてよい、といった。但し、園の中心に生える命の木と、就中善悪の知識の木からはけっして食べてはならない、と命じた。食べるとかならず死んでしまう。
 このエデンの園に一つの川が流れ出ていた。園を潤す川はやがて4つに分かれ、それぞれに名が付いた。一にピション、金や琥珀、ラピス・ラズリを産出するハビラ地方を巡る。二にギホン、クシュ地方全域を巡る。三にティグリス、アシェルの東の方を流れる。四にユーフラテス、ティグリスの西にあってバビロンの畔を流れる。
 さて、神はいった。人が独りでいるのはよくない。かれに合う助ける者を造ろう。
 このようにして神は野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を造った。それはアダムの前に持ってゆかれ、かれはそれらすべてに名を付けた。が、神のいう「人に合う助ける者」は、そのなかにいなかった。
 神はいよいよ女を造った。アダムを眠らせた神は、かれからあばら骨を一部抜いて跡を肉で埋めた。そのあばら骨で神は女を造ったのである。――神が女を自分の前に連れてきたとき、かれは、これをこそ女(イシヤー)と呼ぼう、といった。まさに男(イシユ)から取られたものだから、とも。
 (こうしたわけで、男はやがて両親から離れて女と結ばれ、2人は1つとなるのである。)
 ――アダムと妻は裸だったけれど、それを恥ずかしいとは思わなかった。相手に欲望を抱くこともなかった。食べるな、と神より命じられ、禁じられていた果実とはまだ縁がなかったからである。

 聖書に登場する固有名詞のうちで、エデンは認知度の高いものである、といえます。では、エデンはどこにあったのか? 川の名前が具体的に出るところからシュメール神話に基づいて南西ペルシア、もしくは聖書に主舞台であるカナンの地であろうか、など幾つかの説があるそうですが、決着を見ることはタイムマシンが実用されないと難しそうです。個人的には現在のイラク北部やシリア東部に広がる丘陵地帯のあたりかなぁ、と倩考えております。
 エデンがカナンの地にあるとする。「ヨハネの黙示録」に登場するハルマゲドンも、同じカナンの地に存在する。ハルマゲドンはヨルダン川西部にある町メギト(マナセ族領)である、とされます。――エデンとハルマゲドン。斯くも印象に残り、聖書全編を通じてエルサレムやバビロンと同じぐらい知られた地名が、旧約聖書の最初と新約聖書の最後に登場することに、一つの円環が開き閉じる様を想像できてなりません。
 命の木、善悪の知識の木に人よ、近寄りその実を食べることなかれ。――神が人間に与えた殆ど最初の命令はやがて<破られる約束>となります。禁忌を犯した代償は感情を持つこと。まずは恐ろしい、恥ずかしいという感情を抱くことであった。そのあたりが次の第3章で語られます。



 汚濁末法の世にあってやるかたなき寂寥感に襲われたとき、いわれなき誹謗と中傷に悩み、辞めることも出来ぬまま仕事を続けなくてはならなかった頃、この人の歌声に救われたことは幾度もあった。
 わが生涯の必需品ともいえる音楽のなかで、楽聖と等しく大切な位置を占める存在――それが和久井映見、殊に10枚目のアルバム『Dearest』である。殊に「海辺の休日」と「hope-新しい未来のために-」、「忘れないで」は日常の生活に紛れて見失いそうな想いに寄せる、彼女の優しさと強さに彩られた、珠玉の名歌と思う。
 傷ついた心をそっと包みこむ、あたたかみのある声に秘められたふしぎな慰めの力を強く感じるこの一枚こそ、歌手・和久井映見の最高作というてよかったであろう。残念ながらこの人は次のアルバムを以て歌手活動を辞めてしまった。嗚呼!◆

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第1402日目 〈創世記第1章&第2章1/2:〈天地の創造〉1/2withそういえば亡き婚約者の使っていた聖書も、……〉 [創世記]

 創世記第1章と第2章1/2です。

 創1:1-2:4〈天地の創造〉1/2
 ――神がいた。まず始めに天と地が造られたが、それまであたりは混沌としていて形の定まることがなかった。闇は深淵の面にあって、水の面を神の霊が漂い動いていた。
 そうして遂に神はいった。光あれ。それが最初の言葉である。
 神の言葉によって光が生まれた。それを見て神は良しとした。闇のなかに生じた光は昼と呼ばれ、闇は夜と呼ばれるようになり、神はそれぞれを分かった。夕べがあり、朝があった。これが第一の日である。
 次に神はいった。水のなかに大空あれ、水と水を分けよ。
 神は空を造った。それまで一つ所にあった水は空の上と下とに分けられた。神は空の上の部分を天と呼んだ。夕べがあって、朝があった。これが第二の日である。
 次に神はいった。天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ。
 神の言葉に従って、空の下にあった水は一つ所へ集まり、水が退いたあとは乾いた所、地と呼ばれる所が生まれた。水が集まった所は海と呼ばれた。その様子を見て神は良しとした。
 続けて神はいった。地は草を芽生えさせよ、種を持つ草とそれぞれの種を持つ実を付ける果樹を地に芽生えさせよ。――すると、地には草が生えた。種を持つ草と種の持つ実を付ける果樹が、地に生えた。神はそれを見て良しとした。夕べがあり、朝があった。これが第三の日である。
 次に神はいった。天の大空に光る物があって昼と夜を分け季節のしるし日や年のしるしとなれ、天の大空に光る物があって地を照らせ。
 神は2つの大きな光るものと星を造った。光るものの大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせた。またこれらを以て昼と夜が分けられた。即ち太陽と月の創造である。その様子を見て神は良しとした。夕べがあって、朝があった。これが第四の日である。
 次に神はいった。生き物は水のなかに群がれ、鳥は地の上つまり天の大空の面を飛べ。
 神によってあらゆる水棲の生き物が、大きな怪物までも含めて創造された。また、翼ある鳥もそのときに創造された。神はこれを見て良しとし、自らの創造物を祝福した。神の言葉;産めよ増えよ海の水に満ちよ、鳥は地の上に増えよ。――夕べがあり、朝があった。これが第五の日である。
 次に神はいった。地はそれぞれの生き物を生み出せ、家畜這うもの地の獣をそれぞれに産み出せ。
 神はそれらを造り、それらを見て良しとした。
 続けて神はいった。我々にかたどり我々に似せて人を造ろう、そして海の魚空の鳥地の上を這う生き物すべてを支配させよう。
 自分をかたどって人を、神は創造した。男と女を神は造った。神は自らの創造物を祝福した。神の言葉;産めよ、増やせよ、そうして地に満ちて地を従わせよ。生きとし生けるものすべてを支配せよ。
 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」(創1:29-30)――これが、天地創造に於ける神の(記録される)最後の言葉であった――。
 そのようになった。神は自分の創造したすべてのものを見た。それは極めて良かったのである。夕べがあり、朝があった。これが第六の日である。
 ……斯くして天地万物を創造する仕事は完成した。
 第七の日、神は仕事を離れ、安息した。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創2:3 ex;出20:8,11)
 これが天地創造の由来である。

 旧約聖書の神は言葉を以て自ら行動する神である。それはそもそもの始まりからであった。神が言葉を発しなかったらいつまで世界は闇に閉ざされ、不定形のままであったのだろう。
 わたくしは旧約聖書は神話と歴史と詩歌と幻視譚の集合体である、と常々思って疑わぬ者であります。初めて旧約聖書――それはつまり「創世記」ということですが――を一行ずつ追って読んだ際、万物創造が<言葉>というありふれた手段を採って為されてゆくところに驚きを禁じ得ませんでした。そうして同時に、日本神話をも連想したのでありました……。
 第六の日(創1:27)に神は人を創造しました。これをアダムと考えることは宜なるかな、と思うのですが、それで宜しいでしょうか。間違ってはいないでしょうか。神は土の塵から造った人を東の方にあるエデンの園に置いて、或るとき人は一人でいてはいけない、と思い立ち、かれが寝ている間にあばら骨を一本抜いてそれに命を吹きこみ、かれの妻とした。それがアダムとエバでありましたが、それを神の一連の創造行為のなかに置いて、いわば第2章の予告編としているのが、第六の日の当該節であります。――勿論、これについては明日に触れる予定でおります。
 それにしても海の怪物レビヤタンは第五の日に創造されているのですかね、やはり。
 ――今日から改めて、気持ちを引き締めて旧約聖書を読んでゆきます!



 今年の初めに補綴したわが聖書ですが、早くも再びちょい壊れ状態になってきました。旧約聖書続編を読了するまでは、なんとか形を保つのだろうけれど、問題はそのあと、新約聖書に入ったあとですね。
 あと2年半は付き合うことになる本だから、なんとか持ちこたえてほしいのだけれど……。だって「ヨハネの黙示録」の最後の一文字までこの聖書で走り抜きたいですから。そうしたあとで、再び聖書を読む機会も巡ってくるだろうから、その際はまた新しい聖書を買って、再びぼろぼろになるまで使えばよい。
 そういえば亡き婚約者の使っていた聖書も、こんな風にぼろぼろであちこちに書きこみとかしてあったなぁ……。もっとも、書きこみの集中してる書物から察するに、授業やら礼拝やらでそこを読んだ際に生じた書きこみが専らであるのだろうけれど。
 んんん、なんだか目から汗が出て来たよ。えへ。◆

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第1401日目 〈「創世記」前夜withやはりあのとき無理にでも……、〉 [創世記]

 続編と新約を併せて収める新共同訳聖書の1/2を、旧約聖書が占めている。5年を費やして39の書物を読み果(おお)せたあと、どうして始めに戻って<前夜>と題するノートを書いているんだろう、と筆を執っていてつくづく疑問でならぬ、いま仕事の上で岐路に立たされて悩んでいる本ブログ管理人のみくらさんさんかです。
 聖書読書ノートとして開設、更新を続けてきた本ブログは今日から(欠落分を補う目的も兼ねて)「創世記」に入ります。「創世記」、「出エジプト記、「レビ記」、「民数記」、「申命記」で構成されるモーセ五書は<律法>と称されてきました。
 聖書物語のいちばん最初に置かれた本書は、神と人間が近しい立ち位置にあった原始の時代から、(良くも悪くも)両者の関係が徐々に離れてゆき独立独歩の思考と感情を持つようになったエジプト奴隷時代までの間に、イスラエル/ユダヤ民族が辿った歴史の道程を伝える書物でもあります。
 また、非キリスト教国、非ユダヤ教国である日本に生まれ育ったわれらにも馴染みある挿話がたくさんある読み物でもあります。たとえば、――
 「光あれ」という神の言葉で幕を開ける<天地創造>や、アダムとエバ(エヴァ、イヴ)の誕生からカインとアベル兄弟の確執、楽園追放に至る顛末を綴った人間の原罪を描いた<エデンの園>のお話、粛正ともリセットとも受け取れる<大洪水とノアの方舟>のお話、人間のあくなき挑戦心が混乱を招くきっかけとなった<バベルの塔>、後の世まで再三に渡って悪徳の象徴として語られる<ソドムとゴモラ>の挿話、そうしてアブラハムとイサク、ヤコブ、ヤコブの子ヨセフを主人公として語られてゆく民族の歴史譚。
 ――そうしたどこかで聞いたり観たりした覚えのある物語、或いは過去に本ブログでも触れてきた出来事が「創世記」のなかにはひしめいております。こうした個々の挿話については当該章に於いて別途、ご紹介してゆきます。
 「創世記」は他の律法の書物と同じくモーセが著したとされ、それを否定する意見はあるにはあるが勢いを持っていない様子であります。モーセ時代の「創世記」と現在われらがこうして読む「創世記」にどれだけの相違があるか、それはわかりません。今日われらが知る状態の「創世記」が成立したのは、おそらくバビロン捕囚期、或いは解放後であろうか、という考えがあることを、自己の備忘も兼ねて申し添えておきます。
 他にも語るべきことがあります。が、まだ<前夜>でもありますので、必要なことは後日に譲ることにしましょう。いまは一旦筆を擱きます。
 それでは明日から「創世記」読書を始めましょう。



 足繁く通ったことのある喫茶店が閉まるのも淋しいことですが、そこに新しい店が開いたのを見るのも同じぐらいに淋しい思いがするものだ。伊勢佐木モールにあった南蛮屋cafeは震災の翌年に閉まり、ラーメン屋を経て先日シルバー・アクセサリーの店が開店した。
 こんな有為転変の遍歴を辿るぐらいなら、あのとき無理にでも南蛮屋cafeで働いていた人を口説き落として、居抜きで買い取り、喫茶店をオープンさせて社長(……ぷっ)にでも納まっておくんだったな。本当に考えていたんだ。開店資金を捻出するだけの貯金もあったし、そこを管理している不動産屋にも相談していたしね。
 でも、その人は首を縦に振らなかった。横浜は自分にとってアウェイなんだ、といって、断固拒み通されたんだよね。その人に現場を任せられない以上、喫茶店を開く意味はない。だから計画は断念した。良かったのかもしれないけれど、店舗の跡が斯くも流転の途を辿るのを見ていたら、やはりあのとき無理にでも……と悔やまれてならないのですね。
 ああ、もう一度あのコーヒーが飲みたいなぁ……。◆

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