第1434日目 〈創世記第27章2/3:〈悔しがるエサウ〉&〈逃亡の勧め〉with望む仕事も望む家族も得られぬまま?〉 [創世記]

 創世記第27章2/3です。

 創27:30-40〈悔しがるエサウ〉
 こうして祝福を受けたヤコブが去った直後、エサウが戻ってきて父に料理を出した。最前祝福を与えたのがヤコブであったことに気附いた父は狼狽し、そうと知ったエサウは泣いて悔しがった。エサウは何度も何度もいった。お父さんの祝福は一つだけのなのですか、わたしにも、わたしにもお父さんの祝福を与えてください。
 イサクは頭を振って長子の願いを拒むよりなかった。お前の弟が父をだまして、本来長子のものであるお前が受けるべき祝福を奪ってしまった。祝福は一つのみだ。
 エサウは泣いて悔しがり、そこにはいない弟を詰った。あいつをヤコブというはお似合いだ、あいつは一度ならず二度までもわたしをだました。一度は長子の特権、一度は父からの祝福。それらを得るため、あいつはわたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いたのだ。
 が、時既に遅かった。イサクはエサウにいった、――
 「すでにわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」(創27:37)
 また曰く、――
 「地を産み出す豊かなものから遠く離れたところ/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて。/お前は剣に頼って生きてゆく。/しかしお前は弟に仕える。/いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす。」(創27:39-40)

 創27:41-45〈逃亡の勧め〉
 それゆえにエサウはヤコブを憎んだ。そうして、イサク逝去後のヤコブ殺害を決心した。
 が、それをリベカは知って、ヤコブに逃亡を勧めた。――じきにお兄さんの怒りは鎮まり、お前のしたことも忘れてくれるだろうから、それまでの間、ハランにいるラバン伯父さんのところに身を寄せていなさい、といって。1日のうちに息子2人を失うことがどうしてできましょう?

 んんん、とさんさんかは思うのであります。祝福についてはともかく、長子の特権はヤコブによって奪われたというがすべてなのか? あのとき、ヤコブは機知(?)を働かせて空腹のエサウから長子の特権を奪った。〈悔しがるエサウ〉にてエサウは長子の特権を奪った弟ヤコブを詰る。
 しかし、あのときエサウは空腹を満たす代償としてヤコブに長子の特権を譲ったのではなかったかしら? 確かそれは長子の特権を軽んじたがゆえの行いではなかったっけ? そのくせ兄はここで弟を詰り、恨み、憎むのです。何をか況や、であります。もしかするとかれを祖とするエドム人の性質は、こんなところに源を見出せるのかも知れません。
 ――ヤコブに逃亡を勧めるリベカの台詞に物言いたげな顔をする方が居られましょう。が、これは次の〈ヤコブの出発〉の伏線になる台詞ですので、いまはこのままにしておきましょう。



 ただ無能無才にして只此の一筋につながる、と芭蕉翁はいいますが、これから自分はいったいどうなってしまうのだろう、と、月を見あげて空しくこの考えを弄んでみます。
 文章で身を立てることも叶わず、無能無才ゆえに組織に組みこまれたまま唯々諾々と過ごし、「一筋につながる」といえるものをなにも得られぬまま、独りさびしく死んでゆくのかな。
 望む仕事も望む家族も得られぬまま、死ぬときは一人ぼっち? 嗚呼、天よ、あまりに残酷です!!◆

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第1433日目 〈創世記第27章1/3:〈リベカの計略〉&〈祝福をだまし取るヤコブ〉with i-PhoneのOSをようやくアップデートしました。〉 [創世記]

 創世記第27章1/3です。

 創27:1-17〈リベカの計略〉
 イサクは老いた。目もよく見えなくなっていた。かれは或るとき、エサウを呼んで、いった。これから狩りに行って獲物を得よ、それでわたしの好きな料理を作って持ってきなさい、死ぬ前にお前の料理を食べてわたし自身の祝福をエサウよお前に与えたい。
 エサウはそうした。
 が、イサクの言葉をリベカが物陰で聞いていた。彼女は下の息子ヤコブを愛していた。リベカはヤコブを呼んで、お父さんはこんなことをいっていました、とエサウに告げられた祝福の話をした。エサウ同様狩りに行って獲物を得なさい、それを使ってわたしが料理を作ります、お前はそれをお父さんのところへ持ってゆきなさい、そうしてお前が祝福を受けるのです。
 しかし、とヤコブは難色を示した。幾ら目がよく見えないとはいえ触れればぼくが兄さんではないのはすぐわかるでしょう、ぼくの肌は兄さんと違って滑らかです、祝福どころか呪いを受けることになってしまいます。
 母は、案ずることはありません、といった。呪いは母であるわたしが引き受けます。そうしてヤコブを狩りに行かせた。
 やがてヤコブが獲物を携えて帰ってきた。それを使って、さっそくリベカは料理を作った。更にヤコブにエサウの晴れ着を着せ、(肌の感触をごまかすための)子山羊の毛皮を腕や首筋に纏わせてから、イサクのところに向かわせた。

 創27:18-29〈祝福をだまし取るヤコブ〉
 ヤコブは料理を持って父のところへ行った。狩りから戻って料理を出してくるにはあまりに早過ぎる、と訝ったイサクだが、主の計らいによってすぐ獲物を得られたのだという詭弁と、相手に触ったときの肌の荒々しさとにすっかりエサウと信じた。イサクは出された料理を食し、ぶどう酒を飲んだあと、相手を祝福した。本来のエサウでなく、母の手引きもあって兄を出し抜いたヤコブに。
 「どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。/多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。/お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。/お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」(創27:28-29)

 ヤコブのずる賢さ、計算高さ、策士ぶりはエサウから長子の特権を奪うことで発揮されました。が、実はその性分は母親譲りではないか、と思わせられる〈リベカの計略〉と〈祝福をだまし取るヤコブ〉。
 例え親と雖も兄弟を等しく愛することなどできよう筈はありません。なら今回の一件は、単に子を愛する母の情の濃さ深さがなさしめた、しかし神によってあらかじめ定められた未来を実現するための事件であった、と申すことができましょうか。
 イサクが息子に与えた祝福は聖書の道筋をいま知る形に整えたという意味で、頗る重要な意味合いを持ってきます。事実、本ブログでも聖書の各書物を読むにつけ、何度アブラハムとイサクの祝福、エサウとヤコブの祝福の奪い合いの場面に立ち帰ったことでしょう。確か両手の指の数ぐらいはあったと記憶するのですが……。



 i-PhoneのOSをようやくiOS7.0.2にアップデートしました。恥ずかしながら今春買ったばかりということもあり、OSについてはしばらく無関係を装ってきたのですね。しかし、設定アプリのアイコンにずっと通知が出ていることにそろそろ耐えきれなくなって……一昨日の晩、寝る前に勇躍アップデートしてしまいました。
 iOS7.0.2の感想? まずホーム画面の綺麗さにびっくり! 本当は大差ないのだろうけれど、アップデート終了後に表示されたホーム画面はなんだかとっても色鮮やかで、アプリがいちだんと使いやすそうに見えましたよ。アイコンのデザインが多少変わったことに途惑いはあったけれど、10秒で馴れました。位置は変わっていないものね。ただ、Safariの勝手が異なるのには、ちょっと時間がかかってしまいましたが……。
 昨年のiPodデヴューに続き、今年はi-Phone。いずれも必要に迫られてのデヴューでしたが、またもや必要に迫られてデヴューしそうなものが、わたくしには実はある。むろん、PCの話。りんご信者になるとは思えないけれど、周囲が現在次々とWinからMacへ宗旨替えしている波に呑みこまれる可能性は否定できません。……みくらさんさんか、ただいま真剣に迷っております。◆

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第1432日目 〈創世記第26章2/2:〈イサクとアビメレクの契約〉&〈エサウの妻〉with『ONE PIECE』TVシリーズ、第1話からリピート放送スタート!〉 [創世記]

 創世記第26章2/2です。

 創26:26-33〈イサクとアビメレクの契約〉
 或る日、従者を伴ったアビメレクがイサクを訪ねてきた。かれらを迎えてイサクは、どうして憎んで追い出したわたしのところへなど来たのですか、と問うた。
 主があなたと共にいることがよくわかったからです、とアビメレクが答えた。そこで提案なのですが、われらは誓約を交わし、契約を結ぼうではありませんか。われらがあなたになんの危害も加えず送り出したのと同じように、あなたもわれらに如何なる害も与えないでください。イサクよ、あなたは確かに、主に祝福された方です。
 イサクはアビメレクの提案を受け入れ、祝宴を催した。翌る日の未明、アビメレクとその一行はイサクに見送られて、やすらかに去っていった。
 同じ日、井戸を掘っていた僕たちが帰ってきて、イサクに報告した。水が出ました。その井戸はシブア(誓い)と名附けられた。それゆえにこの井戸を擁す町はベエル・シェバ(誓いの井戸)と呼ばれて今日に至っている。

 創26:34-35〈エサウの妻〉
 イサクの長男エサウは、ヘト人の娘ユディトとバセマトの2人を妻とした。
 2人の嫁はイサク夫妻にとって頭痛の種、悩みの種となった。

 創21に続いてベエル・シェバの名の由来が語られます。いずれの場合もアビメレク王が訪ねてきて、その場で誓いを交わしあった場面であるのが面白いところです。
 しかし、由来となるとどうでしょう。2つの章で述べられることが異なるのにお気附きでしょうか。ベエル・シェバとは創21では「7つの井戸」の意味であり、創26では「誓いの井戸」であります。
 時間の流れるなかで語義が変化したのだろうか。アブラハムの時代には創21であったものがイサクの時代には創26となった、と? この間、正確にどれだけの歳月が流れたかわかりませんが、語義の変化は時代や地域によって非常に早い場合があるという。ベエル・シェバの由来の一件も同じ理由なのかも知れません。
 或いは聖書に書かれなかっただけで、「シェバ」には「7つ」の他にもともと「誓い」の意味があったとか? このあたり、ヘブライ語の専門家に尋ねてみたいことであります。
 もう一つ。
 エサウが迎えた2人のカナンの娘が、イサク夫妻にとってどう頭痛の種、悩みの種となったのかはわかりません。が、想像は容易につきます。カナンの娘を嫁に迎えるな、との言い付けが守られなかったが、いちばんの原因でありましょう。その警告は第24章〈イサクとリベカの結婚〉で出されております。
 神の民は異教の娘を娶るな。エサウはそれを敢えて破った。イサク夫妻にとって異教の娘の闖入は悩ましきことであり、自分たちの慣習から外れたカナンの民の振る舞い、行いに翻弄されたがため、夫妻には2人の嫁が「悩みの種」となったのであろう、と推察される。また、これゆえにリベカは後にヤコブの嫁に同胞の娘を選ぶよう夫に働きかけるのであります(創27:46)。



 TSUTAYAのアニメ・コーナーの前に立つたび、いつも迷うこと――『ONE PIECE』のDVDを最初から借りて、ウォーターセブン編まで視聴してしまおうか。でも結局やめてしまう。怯んでしまうのだ。このまま第1話から観ることは叶わぬ望みなのだろう。そう思って諦めて、改めてCS放送で魚人島編を終えて新世界編を観始めたわたくし。
 が、なにを血迷うたか、今月に入ってフジテレビTWOは『ONE PIECE』TVシリーズをイーストブルー編から改めてスタートしてくれたのだ。問題は概ね解決された。あとは時間を作って、夜中に録画した分を滞りなく消化してゆくことを心掛ければよい。仕事もブログもお出掛けも読書も映画も演奏会もお食事会も飲みもあって忙しいけれど、なんとかなる。ちなみにただいまWOWOWでは劇場版『ONE PIECE』全作を放送中。いったいなにが起こっているのだ?
 とはいえ、問題点が一つ。果たして第1話より放送が始まった『ONE PIECE』はぶじに、少なくともウォーターセブン/エニエス・ロビー編まで辿り着いてくれるのか? 途中で他のエピソードに、或いは中断の憂き目に遭わないだろうか? かつてAXNにて『LOST』が同じ目に遭っているだけに心配は尽きることがない。その点のみ心のずっと奥底で不安を覚えつつ、『ONE PIECE』を視聴中のわたくしであります。◆

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第1431日目 〈創世記第26章1/2:〈イサクのゲラル滞在〉&〈井戸をめぐる争い〉with『スプートニクの恋人』を読み始めました。〉 [創世記]

 創世記第26章1/2です。

 創26:1-14〈イサクのゲラル滞在〉
 再びネゲブ地方を飢饉が襲った。そのため、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。その際の主の言葉はこうであった、――
 エジプトへ下ってはならない。もしあなたがこの地に留まるならば、わたしはアブラハムに誓ったように、あなたを祝福し、あなたの子孫を増やして栄えさせよう。これらの土地をかれらに与えよう。諸国民はあなたの子孫によって祝福を受けることだろう。あなたの父アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからだ。
 斯くしてイサクはゲラルに留まった。
 ゲラル滞在にあたってイサクには懸念があった。妻リベカの美しさゆえに自分は殺害されるのではないか――それが為にイサクはリベカを<妹>と称して、ゲラルでの日々を過ごすことにした。誰もがリベカはイサクの妹と信じ、妻と疑う者はなかった。
 ……ゲラルでの生活が長くなった或る日のこと。アビメレクが窓の下を見ると、イサクとリベカは仲睦まじく戯れていた。びっくりした王がイサクを呼び出していうには、彼女は妹ではなく妻ではないか、なんと大それたことをするのか、われらを罪に陥れる気か、と。イサクは事情を告白し、アビメレクはすべての民に勅令を出した。即ち、イサクとその妻リベカに危害を加えし者は何人と雖も死刑に処す云々。
 「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。」(創26:12-14)

 創26:15-25〈井戸をめぐる争い〉
 ――ペリシテ人はかつてアブラハムが掘った井戸をことごとく埋めてしまっていた。
 或るとき、アビメレクがイサクに、あなたはいまやわれらより強くなった、どうかここから出ていってほしい、といった。イサクはそれに従ってアビメレクのいるペリシテ人の国を去り、ゲラルの他の地域に天幕を張って住んだ。
 そこにはかつて父アブラハムが掘り、ペリシテ人が埋めた井戸があった。イサクはそれを掘り直して使い、水が豊かに出るまでになった。それを知ったゲラルのその地方の羊飼いが、井戸から出る水はわれらのものだ、と主張した。このことでかれらとイサクの羊飼いたちは争うようになった。件の井戸はエセク(争い)と名附けられた。
 同じことがもう一つの井戸についても起こった。そちらの井戸はシトナ(敵意)と名附けられた。
 イサクはそこを去り、新しい場所に移って天幕を張り、住んだ。そこにも、かつて父アブラハムが掘ってペリシテ人が埋めた井戸があった。イサクはそれを掘り直して使い、水が豊かに出るまでになった。それを知ったその地方の誰彼が来るかと思いきや、今度は誰も来なかった。争いは起こらなかった。井戸はレホボト(広い場所)と名附けられた。イサクの感謝の言葉、――「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった。」(創26:22)
 ――イサクはそこを去ってベエル・シェバに上った。その夜、かれの前に主が現れて、恐れるな、わたしはあなたと共にいる、といった。イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。かれはそこに天幕を張って住み、かれの僕たちはそこに井戸を掘った。

 アブラハムのゲラル滞在の挿話にも登場したペリシテ人のアビメレク王(創20)。本章でも同じ地方の同じ名前の王が登場するので、一瞬同一人物かと錯覚します。同一人物とする考えもあるが、時間の隔たりを考慮に入れて同名の別人、しかしながらおそらくは親子であろう、とする考えの方が濃厚なようです。創20がイサク誕生前のものであることなど時間の経過を視野に入れれば、やはり同名の親子と判断するのがいちばん自然でありましょう。
 水をめぐる争いが起こりました。水の確保は命にかかわることであると共に、水は今も昔も重要な資源でありました。石油もガスも重要な資源であることに変わりはありませんが、それらは将来的に他の資源に転換することが可能でしょう。
 が、水ばかりは他のなににも転換することのできない資源です。そうして水はわれら生きとし生けるもの皆例外なくその恩恵を受ける命の糧であります。裏を返せば、水を取りあげられたら生きとし生けるものは皆例外なく死に目を見ることになるわけです。それゆえに砂漠のネゲブ地方やゲラルにあってアブラハムは井戸を掘って水を確保し、ペリシテ人は井戸を埋めて使えなくして息絶えさせよう、少なくとも他の地に追いやろう、と考えるのです。
 水をめぐる争いは熾烈です。それは洋の東西いずれも等しく烈しかっただろう。水資源をめぐる争いは既に旧約聖書、しかも「創世記」の時代から存在していたことを教えてくれるのが、本章であります。
 本章を契機に、世界の水問題についていろいろ調べてみるのもいいかもしれません。



 『スプートニクの恋人』を読み始めました。さくさく読めて、なんだろう、このちょっと力を入れたら砕け散ってしまいそうな、躯体の脆さと表面の滑らかさは。明らかに『ねじまき鳥クロニクル』とは違う手触り。
 でも、結構この作品も好きかもな、と思い思いしつつ、寝る前の1時間程度をこれの読書に費やしております。ファンの間の評価はさほどのものではないようですが、どうやらぼくは評価が低いとされる作品を好む傾向がある様子。
 まぁ、小説なんて難しいこといわずに楽しんで読むものだからね。好き嫌いが他と異なるのは当然の話。『スプートニクの恋人』を読んでいて、つくづくそう思います。

 問)七転八倒してみても『ねじまき鳥クロニクル』の感想が書けません。どうしたらいいでしょう?
 答え)いまは無理でも、あとでそれなりのものが書ければいいんじゃない?◆

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第1430日目 〈創世記第25章2/2:〈エサウとヤコブの誕生〉&〈長子の特権〉withせめてあと10歳若かったらな、……〉 [創世記]

 創世記第25章2/2です。

 創25:19-26〈エサウとヤコブの誕生〉
 リベカを妻に迎えたとき、イサクは40歳であった。それから20年後、彼女は双子の男児を産んだ。
 不妊に悩む妻のため、イサクは主に祈った。祈りは届き、リベカは身ごもった。妊娠中、彼女は胎内で子供たちが押し合うので不安になり、主の御心を尋ねようと出掛けていった。
 主の曰く、――「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの胎内で分かれ争っている。/一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に使えるようになる」(創25:2)と。
 やがて月が満ち、リベカは双子の男児を出産した。先に生まれた子は、赤く、全身が毛皮の衣のようであった。ゆえにエサウと名附けられた。あとに生まれた子は、兄エサウの踵を摑んで母胎から出て来た。ゆえにヤコブと名附けられた。
 リベカが息子を産んだとき、イサクは60歳であった。

 創25:27-34〈長子の特権〉
 歳月が流れて。成長したエサウは狩りを能くし、野に暮らした。一方でヤコブは性質穏やかで、天幕のそばに暮らした。イサクはエサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。
 或るとき、狩りに疲れたエサウが弟のところにきて、そこの赤いもの(アドム)を食べさせてほしい、と頼んだ(エサウがエドムなる別名を持つのはこの由縁である)。ヤコブは諾った。その代わり、とかれはいった。兄さんが持っている長子の特権を、いまこの場でぼくに譲ってください。
 ひもじかったエサウは二つ返事で長子の特権を手放し、一杯のレンズ豆の煮物とパンを食べ、更に飲み食いしてから去った。
 エサウは長子の特権を軽んじていた。

 性質穏やかなるヤコブ。が、その本性は案外とずる賢くて、計算高く、策士であったようであります。兄の持つ長子の特権を空腹を満たす代わりに要求するなど、ましてやその場ですぐ譲れ、などとは、余程のことでないといえそうもありません。
 そこに母リベカの寵愛がどこまで関与していたでしょう。確かなことはわかりませんが、まったく無関係とはいえないと思います。事実、父は兄を愛し、母は弟を愛したのだから。それが高じて兄が受けるべき祝福を弟が騙し取る事態になるのです。なお、ヤコブには「踵」という意味の他、「だます」、「(足を)引っ張る」など負の意味合いもある由。
 エドムとも呼ばれたエサウは父亡きあと、弟とも別れてセイルの山地に移り住みました。その子孫はエドム人と呼ばれるようになった。後の世にイスラエル/ユダとたびたび角突き合わせることになるエドム人の祖のことも、本章からしばらくは語られるのであります。



 10代の時分に書いた小説や映画のプロット、ファンタシー世界の設定などのノートを見直していました。いまからでもこれらに形を与えることができればなぁ、と思うのですが、もう時間と能力はそれを許してくれない。せめてあと10歳若かったら、これらをフィクションに仕立て上げられたことだろう。残念です。◆

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第1429日目 〈創世記第25章1/2:〈ケトラによるアブラハムの子孫〉、〈アブラハムの死と埋葬〉&〈イシュマエルの子孫〉withマクペラの洞穴虐殺事件〉 [創世記]

 創世記第25章1/2です。

 創25:1-6〈ケトラによるアブラハムの子孫〉
 ハガルの他にもアブラハムは側女を持った。名をケトラという。2人の間にはジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアが生まれた。
 このうちヨクシャンにはシェバとデダンが生まれた。このデダンの子孫がアシュル人、レトシム人、レウミム人である。
 ヨクシャンの兄弟ミディアンの子孫はエファ、エフェル、ハノク、アビダ、エルダア。
 以上は皆、アブラハムとケトラの間に誕生した血筋である。
 アブラハムは自分が生きている間にハガルとケトラの子らに贈り物を与えて、東のケデム地方へ移住させた。全財産を譲った息子イサクから遠ざけるためであった。

 創25:7-11〈アブラハムの死と埋葬〉
 遂にアブラハムは175年の生涯を閉じた。それは非常に満ち足りた生涯であったという。
 かれの遺骸は息子イサクとイシュマエルによって、マクペラの洞穴に埋葬された。そこは生前のアブラハムが亡妻サラの墓所として選び、購入した場所である。そこにアブラハムは妻と共に、2人の息子の手により埋葬されて眠った。
 アブラハム亡きあと、神はイサクを祝福した。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近郊に住んだ。

 創25:12-18〈イシュマエルの子孫〉
 アブラハムとハガルの子イシュマエルは、かつてその父が神によって告げられていた通り、12人の子供を持った。長男はネバヨト、続けてアドベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。12人の名前は村落や集落地に基づいて付けられた。かれらはそれぞれの部族の首長となった。 
 イシュマエルは137歳で逝去した。
 かれの子孫は「エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル地方に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」(創25:18)

 第25章は後半がイサクの子エサウとヤコブにまつわる挿話になりますので、まとまりをよくするため敢えて本日のように、2回に分載させていただくことにいたしました。ご了承ください。
 アブラハムにはもう一人の息女がいた。出自は不明ながらもケトラというその名がアラビア半島の香料に由来することからかの地方の出身の者であったか、と推察されます。本ブログにて側女という身分にしたのは、創25:6に基づいたものであります。
 ハガルとケトラの間に生まれた子供たちをアブラハムが遠ざけた理由はただ一つ、息子イサクのみが自分に与えられた祝福を継ぐ者であるからでした。神の祝福と寵愛を受ける民、後のイスラエル/ユダがイサクの血を伝えてゆく民であることを考えれば、これも当然の配慮ということができましょう。即ち――敵となり得る者は例外なく遠ざけよ。



 さて、マクペラですね。20年程前にその場所で起こった事件について、今日はエッセイ部分を充ててお話ししようと思います。とは申しても、わたくしもこのあたりには詳しくないので概略のみ申しあげることになりますが。
 ここが現在はパレスティナ自治区内の町ヘブロンにある古代宗教史跡であることは先日述べましたが、1994年2月25日、マクペラの洞穴にて痛ましい事件が起こりました。
 その日はちょうどプリム祭でありました(われらは既に「エステル記」でこの祭の起源を読んでおりますね)。また、ムスリムの祭ラマダーンも奇しくも同じ日に催されておりました。イスラエル国防軍の予備役兵ゴールドシュテインがその日の朝、マクペラの洞穴へ礼拝に集まっていたムスリムのパレスティナ人に向けて銃を乱射した。それによる死傷者は合計154人に上りました。ゴールドシュテインも事件後に射殺されたといいます。
 この襲撃事件は単独犯なのか集団によるものなのか、当初は報道も混乱を来しましたが、調査の結果ゴールドシュテインの単独犯による、というところで落ち着いたようであります。殺害対象が個人であるか否かを別にして、わたくしにはあたかもケネディ暗殺事件を思わせる内容であることに最初は興味を持ったのですが、よもや歳月が巡り聖書のブログを書いていて、この事件と再会することになろうとは思いもよらぬことでありました。
 話が一瞬脇道に逸れましたが、これが〈マクペラの洞穴虐殺事件〉であります。
 聖書、就中旧約聖書を読むことは、往々にして現代の中東が抱える問題や、この複雑な国々の歴史について知ることと重なります。この読書を通して、安定することなど永遠にないのではないか、と思われるこの地域の様々に関心を持っていただければ幸いです。◆

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第1428日目 〈創世記第24章:〈イサクとリベカの結婚〉with『SKE48のエビフライデーナイト』が始まりました。〉 [創世記]

 創世記第24章です。

 創24:1-67〈イサクとリベカの結婚〉
 サラ亡きあとの或る日、アブラハムは家に長く仕えて全財産の管理を任せている家僕を呼んだ。息子イサクの嫁をわが父の故郷で探し、連れて来るように。イサクの嫁はカナンの娘であってはならない。アブラハムは家僕にそういった、もしその娘がここへ来るのを拒んだら、お前の役目はそこで終わる。お前の、わたしへの誓いはその場で解かれる。嫁となる娘がここへ来るのを拒んだからとて、けっしてイサクをかの地へ連れてゆこうなどと考えてはならぬ。神はこのカナンをわたしの子孫に与える、と約束したからだ。
 家僕は主人に誓い、あずかった高価な贈り物と選んだらくだ10頭を携えて、アラム・ナハライムのナホルの町へ出発した。女たちが水汲みに来る夕方、かれはらくだをナホルの町の外れにある井戸の傍らで休ませた。そうして、祈った。――わたくしは水汲みに来た娘の一人に、水を飲ませてほしい、と頼みます。その娘が、いいですよ、どうぞお飲みください、らくだにも飲ませてあげましょう、と答えたら、どうか主人アブラハムの神よ、あなたがその娘をイサクの嫁と決めた、ということにさせてください。そのことによってわたくしは、あなたが主人に慈しみを示したことを知るでしょう。
 ……そこへリベカという名の娘がやって来て、泉に下りて水瓶を満たした。家僕はリベカに駆け寄り、水を飲ませてほしい、と頼んだ。すると彼女は、いいですよ、どうぞお飲みください、と答えた。らくだにも飲ませてあげましょう。そうしてリベカがらくだに水を飲ませている間、家僕は黙って事の経緯を見守っていた。らくだが水を飲み終えると、かれは贈り物のなかから金の鼻輪と金の腕輪2つをリベカに渡した。
 家僕はリベカに訊いた。あなたはどこの家の娘さんなのですか。今夜、あなたの家はわたくしを泊めてくれるでしょうか。
 わたしはナホルとミルカの子ベトエルの娘リベカです、わたしの家はあなたを泊めることになんの不都合もありません、と、彼女は答えた。
 それを聞いた家僕はひれ伏した。主人の神はわたくしの旅路を導き、主人の一族の家へと辿り着かせてくれました。
 リベカは急いで母の家に帰り、兄ラバンにこのことを報告した。ラバンはすぐに家僕がいる町外れの泉のところへ走ってゆき、まだ立ったままのアブラハムの家僕を迎えた。そうして家に同道し、食事を整え、歓待した。食事の席で事の次第を語り聞かせられたラバンとリベカの兄妹は、アブラハムの申し出を受け入れた。
 「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の子息の妻になさってください。」(創24:50-51)
 家僕は主人から託された金銀の装身具や衣装をリベカに、高価な品物をラバンとかれらの母に贈った。その夜、家僕はおもてなしを受け、家に泊まった。
 翌朝、家僕はカナンへの帰途に就いた。リベカとその乳母がかれに従った。リベカをあともう少しの間手許に置いておきたいと願うラバンたちであったが、リベカの意思を受けてその朝、家僕と共にカナンへ発たせたのである。かれらは出発した。
 ――ネゲブ地方に住んでいて、ちょうどベエル・ラハイ・ロイから帰ってきたイサクは、宵闇迫る頃、野原の向こうから近附いてくるらくだとその上の人の姿を認めた。ほぼ同時にらくだの上のリベカも、こちらを見るイサクに気附いた。野原を歩いてくるあの方は何方ですか。リベカはらくだから降りて、傍らの家僕に訊ねた。あれこそわが主人の息子イサクです、とかれは答えた。帰還した家僕から報告を受けたイサクは、ベールをかぶったリベカを母サラの天幕に案内した。
 「彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」(創24:67)そのリベカは「際立って美しく、男を知らない処女であった。」(創24:16)

 ここまで罪と血の臭いをそこかしこに漂わせ、ややダークな面を見せてきた感の強い「創世記」にあって、本章は殆ど初めてわれらが読む牧歌的な雰囲気に包まれた挿話であります。イサクとリベカの出会いが最後に置かれているので尚更そう感じるのかもしれません。ほっと一息のつけるあたたかで誠実な一章といえましょう。これを読んでいてわたくしは、ふっ、と、『古事記』にある神武天皇の妻乞いの物語を連想しました。突飛な連想かも知れませんが、両者には通じ合うものがあるように思います。
 アブラハムは息子イサクの嫁にカナンの娘は相応しくない、と判断しました。というのも、カナンの地こそアブラハムの子孫に与えられる<約束の地>であるからです。ゆえにエジプトにて使役されていたイスラエル人たちはモーセを頭に脱出してそこを目指し、荒野の40年のあとヨシュアの指導の下“乳と蜜の流れる地”カナンへの入植を果たしたのでありました。神の民は神の民とこそ結ばれるべきである、それが神の民であるかれらの役目である、とアブラハムの神はいうのであります。とはいえ、時代が下るにつれてイサクの子孫たちはカナンの先住民を初めとする異教の娘と雑婚して、神の怒りを買うことになるのですが……。
 アブラハムの家僕が辿り着いたアラム・ナハライムは北シリアの一部を成す地方で、ユーフラテス川上流地域の東側に広がっております。おそらくアブラハムの兄弟ナホル一族が住まい続けた町でありましょう。
 イサクが帰ってきたばかりであるベエル・ラハイ・ロイは、かつてかれの母サラが夫に召すよう進言した女奴隷ハガルが、女主人の虐めに遭って逃げ出した際、主の御使いと出会った場所であります(ex;創16:7-14)。



 右肩の痛みにのたうち回って唸り続け、それでもどうにか今日の原稿を書き終えたことに感謝しているさんさんかです。
 『SKE48のエビフライデーナイト』が日テレ系列で始まりました。番組趣旨を事前に知ったさんさんかは、だいじょうぶかぁ……? と思わず天を仰ぎました。MC大久保佳代子がSKE48を鍛えて、独断と偏見に満ちた人選で新しいバラエティ番組を作る。
 ――バラエティ苦手集団としては芸能界随一のSKEですよ? 正直、番組が成り立つのか、と不安でしたが、それは杞憂であるとわかってよかった! 松村香織へのメンバーの容赦なきルックス採点やMCと松村の絡みなど、これまで見たことのないSKE48の魅力が満載の番組でありました。大久保佳代子のMCとしての技量の高さに敬服するばかりの30分。大矢真那のコマネチや木本花音の毒舌を開拓など、優等生集団であった彼女たちがこの番組を通じてどんな風に化けるか、早くも期待度大。
 なによりもうれしかったのは、向田茉夏のセンター抜擢かな。やる気のなさが買われた、という非常に彼女らしい理由なのだが、2列目にSKE48イズムの体現者2人(JRコンビ)が並び、更に3列目にアクの非常に強いメンバーがぶうぶういいながら前に出て来る(であろう)なかで、茉夏がどれだけ――願うならば良い方向に――変化してくれるかが楽しみ。でも、変わってほしくない気持ちも一方には相当強くあり……。むぅ、複雑であります。
 さて、これの予約更新を終えたら、もう一度観るとしようかな。◆

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第1427日目 〈創世記第23章:〈サラの死と埋葬〉with『ねじまき鳥クロニクル』全3巻を読了しましたが……、〉 [創世記]

 創世記第23章です。

 創23:1-20〈サラの死と埋葬〉
 サラは127歳で世を去った。於カナン南部の町キルヤト・アルバ即ちヘブロン。深い嘆きと悲しみのあと、アブラハムはヘト人に、寄留人であるわたしに妻の墓所となる土地を譲ってもらえませんか、と頼んだ。
 ヘト人は、あなたは神に選ばれた方です、どうぞ遠慮なさらずいちばん相応しいと思う場所を選んでお使いください、といった。われらのなかに墓地の提供を拒む者、亡くなった奥様を埋葬させぬ者など、一人もいません。
 国の民であるヘト人に向かってアブラハムはいった。では、ツォハルの子エフロンの所有地のなかになるマクペラの洞穴を、わたしの妻の墓地として譲っていただけませんか。じゅうぶんなだけの銀をお支払いしますから。
 それを聞いてエフロンは、町の門の広場に集まってきたすべてのヘト人の前で、アブラハムにこう答えた。――どうか御主人、あの畑も洞穴も、わが一族立ち会いの下あなたに差しあげます。さっそく奥様を埋葬してあげてください。いえ、そんな多くの代金なぞ要りません。銀400シェケルの価値しかあの畑にはありません。さあどうぞ、奥様を埋葬してあげてください。
 ――アブラハムはエフロンの言い値を支払い、その場所を有するに至った。そこへかれは亡き妻を埋葬した。
 「こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界線に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。」(創23:17-20)
 やがてそこにはアブラハムも埋葬されることになる。

 われらの耳へ馴染んだ固有名詞に置き換えるなら、ヘト人とはヒッタイト人であります。かれらは「創世記」の時代よりもずっと下った全18-13世紀に、現在のトルコにヒッタイト王国を築き、栄えた。前14世紀頃には北シリアを含めた地域を勢力下に置いて一大帝国と化した由。後に王国を築くかれらの祖の一部がエルサレムの南にあるヘブロンへまで流れてき、定住して土着化した――それがエフロンの所属するヒッタイト人の共同体なのでしょうか。
 となると、アブラハム夫妻は晩年ヘト人の共同体に身を置いて過ごしてきたことになりますね。ゲラル滞在のあと、イサク誕生の前年までにはマクペラの洞穴がそばにあるマムレの樫の木の近くに住まうようになった。寄留者でありながら神ゆえに外国人共同体から敬われていたアブラハムを思うにつけ、ソドムに於けるロトの境遇と正反対であるあたりに主なる神の計画の真意を窺い見る思いがいたします。
 そのマクペラは「マムレの前のマクペラの洞穴、その周囲の土地」として出てまいります。マムレは既に述べた通り、マムレの樫の木のある場所で、かつてアブラハム夫婦が暮らし、神との交流多かりし縁の土地。
 その目と鼻の先にある土地を、アブラハムはサラの埋葬地に選んだ。亡妻にとって馴染みある地に埋葬したい、というアブラハムの希望と、いつでも墓参できたり彼女との生活を懐かしんだり偲んだりできる場所を求めた結果、かれをしてそこを墓所として選ばせたのでありましょうか。
 現在マクペラはパレスティナ自治区内の町ヘブロンにある古代宗教史跡として知られますが、それ以上にここを有名にしたのは1994年2月25日にあった<マクペラの洞穴の虐殺事件> であるかもしれません。これについてはアブラハム埋葬の場面を語る日に触れようと思います。忘れません、いま聖書の余白にメモしました。



 『ねじまき鳥クロニクル』全巻を読了しました。半年ぐらい読んでいましたね。本来ならここで、では感想書きます、となるのだろうが、それが出来ないのだ。
 この物語はあまりに自分のなかに深く入りこんできた。その圧倒的な重みと重層的な物語の解きほぐしをどう自分の言葉で語ればよいか、わたくしは考え倦ねている。
 数日は全3巻を溜め息しつつ読み返し、なんとかして自分の思いを言葉に置き換える作業に腐心するのだろう。そうしていつの日か、ここで『ねじまき鳥クロニクル』の感想をお披露目できたら、それはとってもうれしい。
 ――<村上春樹長編小説・再読初読完走プロジェクト>もいよいよ大詰め、残るは『スプートニクの恋人』と『海辺のカフカ』、『アフターダーク』の3作となりました。昔の人との邂逅をきっかけに始まった本プロジェクトも終わりが見えて、少々淋しい気分が頭をもたげてきたのも否めぬ事実であります。◆

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第1426日目 〈創世記第22章:〈アブラハム、イサクをささげる〉&〈ナホルの子孫〉with口にしてはならぬ名前。〉 [創世記]

 創世記第22章です。

 創22:1-19〈アブラハム、イサクをささげる〉
 これらのことがあったあと、いよいよ主はアブラハムを試した。
 ――主は、イサクを連れてモリヤの地にある自分が命じた山へ登れ、といった。そこであなたは息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。
 アブラハムはイサクと従者を伴ってモアブへと発った。3日目、遠くにモリヤが見えた。アブラハムは従者をそこに残し、薪を背負ったイサクを連れてかの山を目指した。
 途中イサクが、献げ物にする羊はいったいどこにいるのか、と父に訊ねた。アブラハムは、案ずるな、と答えた。きっと主が用意してくれる。
 やがてかれらはモリヤの地、主が定めた山に到着した。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ――息子イサクを縛って祭壇の上に寝かせた。アブラハムは一瞬間も迷わなかった。かれは持ってきていた刃物を手にし、振りあげ、わが子を屠ろうとした。そのとき、――
 ――天から主の御使いが降ってきて、やめよ、といった。なにもしてはならない、いまあなたがまこと、主を畏れぬ人であることがわかった。独り子をささげることになんのためらいもなかったのだから。
 アブラハムは周囲を見渡した。木の茂みに一頭の羊がいたので、かれはそれを屠って焼き尽くす献げ物とした。
 御使いがアブラハムに、主の言葉を伝えた。曰く、――
 「わたしは自らに賭けて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしに聞き従ったからである。」(創22:16-18)
 アブラハムとイサクは待たせていた従者と合流してベエル・シェバに帰った。アブラハムは175歳で世を去り、2人の息子によってマクペラの洞穴に埋葬される(ex;創25:7-10)までの間、ベエル・シェバに住んだ。

 創22:20-24〈ナホルの子孫〉
 カルデアのウルに残った弟ナホルからアブラハムに連絡があった。
 ナホルとその妻ミルカに8人の子供が生まれた。長男はウツ、次男はブズ、次がケムエル、続いてケセド、ハゾ、ピルダシュ、イドラフ、ベトエル。ケムエルはアラム人の父、ベトエルはリベカの父となった。
 また、ナホルと息女レウマの間にも子供が生まれた。テバ、ガハム、タハシュ、マアカである。

 主への揺るぎなき信仰心、絶対なる信頼を図る試練として、息子を焼き尽くす献げ物としてささげよ、というのは非道といえばいえましょうが、わたくしは寧ろそこに古代の人々が持っていた信念の頑なさを見る思いがいたします。
 イサクもそれを甘んじて受け入れたのだろうか。父になんのルサンチマンも抱かなかったのだろうか。アブラハムは息子を殺めることの罪悪感よりなお主への信心、畏怖の方が優っていたのだろうか。
 そうしたことを押し隠す――抑え付けて主への奉仕に勤しむことができる頑なさに、寧ろ嗟嘆したいのであります。
 モリヤに到着するにはベエル・シェバから徒歩3日の行程というから、一説にそこは後にエルサレム神殿が築かれる山である、とされ、また一般に高所の意味でしかない、とする考えもある。モリヤは「主が顕現する山」の意味であります。
 ベトエルの娘リベカについては創24を待つとしましょう。



 読んだ端から捨ててゆける小説家の本を読んでいると、いつもながら「お金返せ!」と叫びたくなる気分に襲われる。それなら読まなくてはいいのではないか、と親切に忠告してくれる方もおられるが、どっこい、そうはいかぬが世の習いというものだ。
 書評を頼んできたならその本送ってくださいよ、とお願いしたくなるが、そこは力関係ゆえに出した拳を知れず引っこめ、自腹を切ることになる。それで原稿料が単行本と交通費とカフェ代を足してやや余りが出る、という程度の額なら、正直やってられないな、と頭を振りたくなる。
 で、そうしたときってたいてい嫌いな作家の本だったりするんだ。そうなるともはや読書は時間の浪費、頼まれ仕事なら徒労でしかない行為だ。読書を罰せられぬ悪癖、と呼ぶ文学者がずっと昔にいた。好きな本だけ読んで過ごすなら罰せられぬ悪癖という言葉に大いに頷くところはあるのだけれど、それがそうでない本となった日には、もう、ね……。
 さて、ところでさんさんかは誰の小説を書評せねばならなかったか。名前は伏す。彼女の名誉を慮ってのことではない。ヴォルデモート以上に<口にしてはならぬ名前>がこの世にはある。わたくしにとってその女流作家は筆頭格。沈黙こそが最良の批判ならば名を明かさぬは最良の侮蔑というてよいだろう。
 どうしてこの人の作品が江湖に受け入れられ、直木賞まで受賞しているのか、ライトノヴェルから一般文芸の分野に進出できたのか、その理由が、或いは、その読書日記に顔を出す脳天気な担当編集者たちが嬉々としていられる理由が、皆目わからぬでいるのはこちらの老化現象なのであろうか。
 ――新作を読んでも受け入れられぬという告白が、もはや時代遅れの弁と取られかねないことは承知している。◆

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第1425日目 〈創世記第21章:〈イサクの誕生〉、〈ハガルとイシュマエル〉&〈アビメレクとの契約〉with夢に現れる君を、誰もぼくからは奪えない~『村上ソングズ』が甦らせた思い出〉 [創世記]

 創世記第21章です。

 創21:1-8〈イサクの誕生〉
 去年、マムレの樫の木のところでアブラハムは主に会った。そのときの約束通り、主がサラを顧みたので、彼女は夫との間に一人息子イサクを授かった。イサクが生まれたとき、アブラハムは100歳。
 イサク生まれて8日目、割礼が施された。
 サラは諦めていた息子を授かった喜びの言葉を以て主に感謝した。
 ――イサクが乳離れした日、アブラハムは盛大に祝宴を催した。

 創21:9-21〈ハガルとイシュマエル〉
 或る日、イサクとイシュマエルが一緒に遊んでいるのを見てサラは、夫にハガルとイシュマエルを追放するよう訴えた。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創21:10)
 悩むアブラハムに主がいった。曰く――苦しみ悩むな。すべてサラのいう通りにするがよい。わたしはイサクをあなたの跡継ぎとするが、イシュマエルも一つの国民の父とする。
 翌朝早く、母子は発った。が、ベエル・シェバの砂漠で遂に水がなくなった。――ハガルはイシュマエルを灌木の下に寝かせて、離れた場所から息子を見続けた。間近でわが子が渇きに苦しみ、死んでゆくのを見たくなかったからである。見つめる母の目に涙が浮かび、やがてそれは止め処なく零れ落ちるのであった。ハガルは大きな声をあげて泣いた。
 それを聞いた主の御使いがハガルのそばに来て、いった。曰く――もう泣くな、行ってイシュマエルを抱きかかえるがよい。主はあの子を一つの国民の父とするのだから、と。
 御使いによって目を開かれたハガルは近くにあった井戸から水を汲み、イシュマエルに飲ませた。
 神が共にあったため、イシュマエルは成長して、荒れ野に住んで弓を射る者となった。バランの荒れ野に住んでいたとき、ハガルは故郷エジプトから息子のために嫁を迎えた。

 創21:22-34〈アビメレクとの契約〉
 ゲラルの王アビメレクとアブラハムがネゲブ地方の砂漠で会ったとき、アブラハムはアビメレクの部下たちが井戸を奪ったことを、王に訴え責めた。王は今日までそれを知らなかったが、友好関係を誓ったあとでもあったので、素直に部下の横暴を詫びた。
 アブラハムは羊と牛の群れを連れてきてアビメレク王に贈り、更に7匹の雌の子羊を別にした。――7匹の雌の子羊をわたしから受け取ることで、王はこの井戸を掘ったのがわたしアブラハムであるとわかってくださったのです。
 契約はベエル・シェバで結ばれた。ベエルは「井戸」、シェバは「誓い」の意味である。
 アブラハムはベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植えた。そうして永遠の神、主の御名を呼んだ。アブラハムは長くペリシテの国に寄留した。

 子供に寄せる情愛はサラよりハガルの方が濃いように読めるのは気のせいでしょうか。 ――本章は舞台を専らベエル・シェバの砂漠にして、ハガルとアブラハムそれぞれの挿話が語られます。イサクの誕生もネゲブ地方即ちベエル・シェバ近郊での出来事です。舞台を一にする挿話が集まって章立てされているのが偶然なのか、それは定かでありませんが、アビメレクとの同盟締結の場面でベエル・シェバの意味が明らかにされるのは、ここには一種の契約にまつわる挿話が集められていることと無関係ではないように思うのであります。
 そういえばやはり、ハガルが見附けた井戸は次項で触れられるアブラハムが掘った井戸の一つなのでありましょうか。



 「夢に現れる君を/誰もぼくからは奪えない。//恋のでこぼこ道で/二人はもう会わないだろう。/それでも僕はいつまでも/思い出を大切にしまっておくよ。」
 “The way you haunt my dreams――/No,no! They can't take that away from me!//We may never,never meet again/On the bumpy roadto love,/Still I'll always keep/The mem'ry of――”
 「誰にも奪えない」“THEY CAN'T TAKE THAT AWAY FROM ME”という歌の一節であります。作詞・作曲はジョージ&アイラ・ガーシュイン兄弟、1937年のアメリカ映画『踊らん哉』“SHALL WE DANCE”にてフレッド・アステアが歌っている。
 村上春樹・和田誠の楽しい一冊『村上ソングズ』(中央公論新社)所収の一篇ですが、和田誠による訳詞を読んで、ずきり、と胸が痛みました。心が痛くなりました。思い出が甦ったからでした。
 ――過去がどうであったとしても、あなたのことは忘れずに、共に過ごした短い期間の思い出を大切にしまっておくよ。
 ずっと昔のように思える。Oさん、どうしていらっしゃいますか? ぼくはなんとか元気でいます。でも、……。◆

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第1424日目 〈創世記第20章:〈ゲラル滞在〉with忙中閑の企み〉 [創世記]

 創世記第20章です。

 創20:1-18〈ゲラル滞在〉
 ソドム滅亡後、アブラハムたちはネゲブ地方に移ってカディシュとシュルの間に住んだ。ゲラル滞在中、かれは妻に、この地ではわたしを兄と呼んでほしい、と頼んだ。妻サラはそうした。
 エジプト同様、彼女の美しさは広く知られるようになり、やがてゲラルの王アビメレクの耳に入った。王はサラを召した。
 その夜、アブラハムの神が王の夢に現れて、あなたはサラゆえに死ぬ、その女は夫ある身だから、と告げた。
 そのとき、アビメレクはサラにまだ指一本触れていなかった。王はアブラハムの神にいった。曰く、――人妻と知っていれば召したりしなかった、彼女を<妹>と偽ったのはアブラハム自身だ、わたしは少しも後ろめたくなく、ましてやましい方法で彼女を妻にしたのでもない、と。かれは己の潔白を訴えた。
 わかっている、承知している、と、アブラハムの神はいった。あなたがサラに指一本触れなかったのは、あなたに罪を犯させたくなかったからだ。さあ、彼女を夫に返しなさい。「彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家族も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(創20:7)
 翌る朝、アビメレクはアブラハムを呼んでこの件についてかれを詰った。わたしとわたしの王国に大それた罪を犯させるつもりだったのか。
 アブラハムはサラを妻でなく妹と呼んだ理由を述べた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。事実、彼女はわたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄です、と言ってくれないか』と頼んだのです。」(創20:11-13)
 ゲラルの王アビメレクはアブラハムにサラを返した。羊や牛、男女の奴隷を与え、領内の好きなところに住め、といった。またサラには、一夜の疑惑を晴らす証拠としてアブラハムに銀1,000シェケルを贈ったこと、よって彼女の名誉は回復されたことを伝えた。
 ――アブラハムが祈ると、神はアビメレクとその妻、女たちを癒した。これにより再び子を作り、産むことが出来るようになった。というのも、「主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。」(創20:18)

 エジプト滞在(創12:10-20)の語り直しと見えるが、こちらの描写の方が詳しい。ゲラル時代のアブラハムには重要なエピソードが連続するためであろうか。人と土地の結びつきを堅固にさせるための作為かもしれない。
 サラの件、アブラハムはゲラル滞在時と同じ弁明を、エジプトでもしていたのだろか。偽りの真意はわかりかねる。が、発端といえる土地移動の理由は、かれらが遊牧民であることの証しであります。
 なお、ゲラルはペリシテにあり、ガザの南に位置する(ここでは)地域。カナンの南境に横たわる地帯がゲラルだ。
 引用した創20:10「かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき」とは創12:1「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」を踏まえた表現であることを、備忘を兼ねて記しておきます。



 江戸時代の文学を専攻した名残で岩波文庫の黄帯や同書肆の新旧日本古典文学大系、小学館の日本古典文学全集他がいまでも書架に鎮座坐している。図体ばかりデカくて場所塞ぎなジャンルの筆頭格というてよい。が、如何せんその手前にSFやら幻想文学やらのジャンル小説が盾を持った兵隊のように整列してるため、古典の本は滅多に手にすることのできぬものとなっている。
 仕事帰りに立ち寄った古書店で『橘曙覧全歌集』(岩波文庫)を、所持しているかどうかわからぬけれどページを開いたときに湧き起こったノスタルジーと意欲と偶々目についた短歌の魅力に抗いきれず、重複を覚悟で購入しました。明日の休みに時間を作って読み耽ろうと考えています。
 聖書を読み終わったあとはなにを読もうか、と考えることもいまからしばしばなのですが、思い切り近世期の文学へ耽溺してみるのも(年齢的にも)悪くないかもしれないな、と企んでいるのです……。これが忙中閑の企みであります。◆

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第1423日目 〈創世記第19章2/2:〈ロトの妻〉with『ねじまき鳥クロニクル』は間もなく読了します。〉 [創世記]

 創世記第19章2/2です。

 創19:30-38〈ロトの妻たち〉
 ツォアルに逃げこみ、ソドムの災禍を免れたロトと2人の娘は、いまツォアルを出て山中に入り、そこの洞穴で暮らしていた。そのあたりの慣習によって娘たちのところへ通う男たちはいなかった。ゆえに彼女らは父ロトをぶどう酒で酔い潰させ、かれの子種を受けて妊娠、子供を残そうと計画した。
 その晩、まず姉が寝入ったロトに侍り、父の種を己が胎の奥へ植え付けた。
 翌朝、姉から行為の件を報告されて妹も、夜になって父がぶどう酒で酔い潰れるのを待って、父の傍らへ侍り、子種を受けるに及んだ。
 ロトは夜毎の行いを知らず過ごした。
 やがて2人の娘はそれぞれに身ごもり、男の子を産んだ。姉はモアブ人の先祖モアブを、妹はアンモン人の先祖ベン・アミを生んだ。順に「父親より」、「わたしの肉親の子」の意味である。

 モアブ人とアンモン人は既に馴染みのある名と思いますが、いずれもイスラエルの対抗勢力として、後々大きな存在となってゆく者らであります。かれらの先祖はここで見るようにアブラハムの甥ロトであったことは、2008年のいま頃「創世記」を読んでいながら今日まですっかり忘れておりました。
 デレク・キドナーはモアブとアンモンについて、「イスラエルの歴史のなかで最悪の肉欲的な誘惑(バアル・ペオルの誘惑。民数25章)をもたらすこととなり、また最も残虐な宗教的濫用をもたらすことになった(モレク崇拝。レビ18・21)」(ティンデル『創世記』 P169)と端的に述べております。
 近親相姦によって誕生したモアブとアンモンが歴史的民族的にイスラエルと近しい関係にあることを示す一方、宗教的には忌避すべき、唾棄すべき存在であることも示されます。



 残念ながら『ねじまき鳥クロニクル』を9月中に読了することは不可能であった。が、最後の70ページにまで到達した今日の今宵、ますますページを繰る手が止まらなくなってきているのを感じます。明日明後日にはなんとか読み終えられよう。
 これまで読んできた村上春樹の長編のなかで<深み>という点では断トツで、読み応えという点では一、二を争う。お気に入りというなら、『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウェイの森』、『国境の南、太陽の西』に続く作品。と同時に再読、三読を要求してくる――その物語の世界へ立ち帰ることを求められる小説でもある。つまり、それだけ多層的な物語である、ということ。
 読み終えていないのにそうまでいうか、との言葉もあろうけれど、それをいわせてしまうだけの<力>のある小説が、この『ねじまき鳥クロニクル』なのだ。読了してしばらくは次の作品に手を出せそうもないぐらいの<力>を持つ小説など、実はそうそう滅多にあるものではない。◆

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第1422日目 〈創世記第19章1/2:〈ソドムの滅亡〉with一ブロガー、アクセス数とかについて考える。〉 [創世記]

 創世記第19章1/2です。

 創19:1-29〈ソドムの滅亡〉
 主と別れた2人の御使いは夕方になってソドムへ到着した。ロトは町の入り口の門のところに坐っているとき、2人の御使いが来るのを見た。ロトはかれらをおもてなししようと、どうぞわたくしの家に宿泊して疲れを癒してください、といった。広場で夜明かしするつもりだったかれらは、ロトの重ねての勧めに応じた。ロトは酵母の入っていないパンを焼いて供した。
 御使いたちがまだ床に就いていない刻。ソドムの男たちが一人残らずロトの家へやって来て取り囲み、ロトに詰め寄った。――夕方、町に来た2人を出せ。嬲り者にしてやる。
 ロトは連衆に、乱暴なことはしないでほしい、といった。代わりに2人の娘を渡す、好きにするがいい。だから今宵の客人に手を出すのはやめてほしい。
 が、町の男たちは聞こうとしなかった。
 そのとき、御使いたちが戸口のロトを引っ張って家のなかに入らせた。家を取り囲む連衆には目潰しを喰らわせた。そうしてかれらは自分たちの目的をロトへ伝えた。――われらは主によりここへ派遣されて、このソドムの町を滅ぼしに来た。身内の人がいるなら、早く連れて逃げなさい。
 ロトは親族にその旨伝えた。が、娘婿たちはそれを冗談と思うた。ゆえにかれらは危難を避け得なかった。
 夜明けの刻。御使いたちは再び、早く妻と2人の娘を連れて逃げなさい、といった。
 その期に及んでまだロトは脱出をためらっていた。主は憐れんで、2人の御使いにロトの手を取らせて外へ出させた。郊外まで来たとき、主はいった。――全力で逃れよ、後ろを振り返るな、低地には留まらず山へ逃げこめ、そうでないと滅びることになる。
 逃げるなか、ロトがいった。――主よ、山までは無理です、せめてあの小さな町で勘弁してください、あすこへ逃げ延びてソドムの滅びから免れさせてほしい。主は諾い、その町をツォアル(「小さな町」)と名附けた。主はロトがそこへ逃げこむまで、ソドムに手を下さなかった。ツォアルへは太陽が昇った頃に到着した。
 そうしていよいよ主の怒りがソドムとゴモラの上に降った。その轟音の凄まじさにロトの妻は振り向き、塩の柱となった。「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」(創19:24-26)
 ――その朝早く、アブラハムは主と対面した場所に立ち、あちこちから煙が上がる低地一帯を眺めた。ソドムとゴモラ、その低地一帯の町はいずれも滅びて、消えた。
 主なる神はアブラハムを心に留め、ロトを破滅のただ中から巣喰った。

 間違いなく旧約聖書前半最大級のクライマックス。じっくり読んで味わっていただきたい。このあと延々と罪の象徴、堕落の代名詞として語り継がれてゆくソドムとゴモラの物語はこれである。正しい者がわずかでもいるならば滅ぼさない、と約束されたソドムは自らの住民の暴虐ゆえに滅びのボタンを押してしまった。嗚呼!
 なお、ロトの妻がソドムを見舞った災禍の轟音に驚き、思わず振り返った(と、さんさんかは解釈します)――すると塩の柱になってしまった。現在も死海南岸には塩柱が多数見られるといいます。わたくしは中東に行ったことがありませんので仄聞する限りですが、ロトの妻の話と重なる点があって、意欲のある方は調べてみると面白いと思います。



 一介のブロガーとしてやはり日々のアクセス数は気になってしまう。この一ヶ月強というもの、アクセス数は一日平均500というところで、それはずっと続けてきてようやく達した大台でもある。ブログ開設一ヶ月とか一年で万の単位を叩き出すブログもあるそうで、まこと、羨ましい限り。しかし、そこにはブログの性格も反映していよう。
 ライフ・ハックや趣味のブログでは一日1,000のアクセス数を記録し、職業ブロガーでなんとか生活してゆけるだけのお金を稼ぐ方法も、確かにあるとのこと。が、いったいわたくしの本ブログがそれだけの記録を連日出してゆけるものであろうか。そうなればいい、という希望はある。一方で、見果てぬ夢さ、と苦笑して諦めてしまう現実も存在する。
 アクセス数さえ稼げれば道は開けるように思うのだけれど、どうやれば本ブログのアクセス数を伸ばすことができるのだろう。わたくしとしては地道に毎日更新してゆくより考え付かないし、結果としてそれがいちばんの近道なのだろうけれど、5年掛けてようやくアクセス数が平均500前後をうろうろするようになったことを考えれば、おそらく新約聖書が終わる頃にやっと平均700を視野に入れるか辛うじてそこに達したか、という程度であるまいか。それまではいまの読者を失うことなく続けて行くことができるように頑張る。でも、それしかないのだ。続けてゆくことこそいちばんのPRであることを、たぶんブログを毎日更新している人は知っているはずだ。
 一度ハック系のブログを運営する人とメールのやり取りをした際、このアクセス数のことを話したら呵々大笑して志の低さ、ブログの質の低さを揶揄されたっけ。まぁ、斯様な視点を持つ人が見ればそう映るし、それでも毎日熱心に訪問してくださる読者諸兄が――その人にしてみれば微々たる数の存在だそうだが――いるのは、それなりに魅力あるブログなのであろう、と自讃し、かつ独り無聊を慰めている。
 現在の質を維持して、更新ペースを崩さず、地道にアクセス数を上げることも目標として、これからも本ブログの運営をしてゆくので、どうぞ宜しくお願いします。
――みくらさんさんか拝◆


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第1421日目 〈創世記第18章2/2:〈ソドムのための執り成し〉with斎藤孝『15分あれば喫茶店に入りなさい』を(数年ぶりに)読みました。〉 [創世記]

 創世記第18章2/2です。

 創18:16-33〈ソドムのための執り成し〉
 アブラハムの天幕を発った3人の客人は、低地の町ソドムを見おろす場所まできた。アブラハムも客人たちを見送るため、そこまで来ていた。
 主はいった、なにをアブラハムに隠す必要があろうか、とかれは諸国の父となり、諸国民はかれゆえに祝福に入る。「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムと約束したことを成就するためである。」(創18:19)
 ソドムとゴモラの罪はとても大きい、と訴える声がある。それが本当であるかどうか、では確かめよう。
 2人の客人がソドムへ向かった。アブラハムはそこに留まる主の前にいた。かれは主に向かって、いった。曰く、――
 あなたは正しい者と正しくない者の別なくあの町は滅ぼされるのですか。正しき者の在るがゆえにあの町が赦されることはないのですか。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずがありません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」(創18:25)
 主はアブラハムとの問答のなかで、いった。ソドムに50人であれ10人であれ正しい者がある限り、わたしは町を滅ぼさない、と。そのあと、主はアブラハムの前から去り、彼も自分の天幕へ帰っていった。

 アブラハムはソドムのために主と交渉し、正しい者の在る限り滅ぼさない、と約束させるに至り、かれは自分の天幕へ帰っていった。――果たしてアブラハムは安堵したであろうか。そこにわずかでも正しい者はいる、と信じて安心して、主とその御使いを迎えた天幕へ帰っていっただろうか。思いは裏切られるのか、報われるのか――その顛末を同じ丘から見おろしたとき、いったいかれの胸中に飛来したのはなんだったでありましょうか。
 これは裏を返せば、正しい者が1人でもあるなら主はその人ゆえに町を滅ぼさない、という希望でもある。いくらなんでも正しい者が誰もいない町などあり得ようか。今日のわれらならばそう思う。が、どうやら旧約聖書の時代はそうとは限らないようだ。既に皆が皆ソドムとゴモラの行く末は知っているけれど、それが如何に為されたかを知る人は実は案外と少ない。その過程を本ブログに於いてようやく知ったという人が、数人でも現れてくれれば嬉しいです。



 ブックオフの105円コーナーで斎藤孝『15分あれば喫茶店に入りなさい』(幻冬舎)を見附け、読んでみたのは発売から間もない時分のこと。早々に処分したのがいまになってまた読みたくなり、同じブックオフの105円コーナーで買ってきた。
 ここに書いてあることは、本書の出版以後にカフェや喫茶店で資格取得のための勉強を行う学生・社会人、或いは創造行為に勤しむようになった人々には有益な情報が詰まった一冊かもしれないけれど、それより前からのカフェ・喫茶店利用者には「なにを今更……」という内容が過半を占めるのではないか。少なくともここから著者ならではの利用法を見附けることは、まず不可能といえるだろう。宿題や受験勉強に勤しむ中高生や資格取得のための勉強を行う学生・社会人の、もっと肝の据わった使い方を取材、紹介してくれた方がよほど首肯できる一冊になっていただろうに。
 成る程、利用者にとって漫画喫茶はだらけることしかできない場であり、マクドナルドは創造行為に向かぬ場であるのか、と、普段これらを使うことの殆どないわたくしには、有益といえなくもない<情報>だったが、逆にいえばその程度でしかないのだ。著者のように執念を燃やすには至らぬだろうが、隅っこの席が空いたら移動したいと思うのは、常用者ならも同じだろう(わたくしとて例外ではない)。一つの仕事を終えて次の仕事にかかる際、店を変えるのは無意識に行うことではあるまいか、と思うのだが。
 ただ、本書の装丁は内容に相応しい。◆

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第1420日目 〈創世記第18章1/2:〈イサクの誕生の予告〉with『ミステリー・ゾーン』DVDコレクション発売中、ゆえにデンジャラス?な問題を抱えこむ我。〉 [創世記]

 創世記第18章1/2です。

 創18:1-15〈イサクの誕生の予告〉
 或る暑い日の昼のこと。暑気を避けて天幕の入り口に坐っていたアブラハムは、マムレの樫の木のところに3人の人が立って、こちらを見ているのに気附いた。
 かれはその姿を認めるや慌てて駆け寄り、ひれ伏した。そうして、いった、――どうか僕の許を通り過ぎないでください。水と食事を用意しますので、木陰で涼みながらお召し上がりください。疲れを癒してから出発なさってください。
 3人の客人は、ではそうしましょう、と奨めに従った。
 アブラハムは行って自ら子牛を選び、召使いに渡して急ぎ料理させた。また、凝乳や乳、サラにいって作らせたパン菓子、出来上がった子牛の料理を客人の卓へ運んだ。アブラハムは傍らで給仕を務めた。
 やがて客人が訊ねた、奥方はどちらにいるのか、と。アブラハムは、天幕のなかにいます、と答えた。
 すると、客人のうちの1人がアブラハムにいった。――来年のいま頃、わたしは再びここへ来るが、その頃にはあなたたち夫婦の間に子供が生まれているだろう。
 が、アブラハムもサラもそれを信じなかった。特にサラはその言葉に知らず苦笑した。彼女は思ったのである――自分も夫も年老いているのにどうして子供を授かることがあろうか、と。また、サラには既に生理がなかった。
 語りかけた者、即ち主がアブラハムにいった。どうしてサラは笑うのか。なぜ子供が生まれない、と思うのか。わたし主に不可能ならざることが果たしてあるというのだろうか。わたしは来年のいま頃、かならずここへ戻ってくる。そのときサラには男の子がかならず生まれている。
 その言葉に怖くなったサラは、いいえわたしは笑っていません、と首を横に振った。が、主は、いやあなたは確かに笑った、といった。

 ソドム滅亡の序曲が奏でられるなか、イサク誕生の予告が主によりアブラハム夫婦に直接される。
 或る暑い日の昼、アブラハムの前に現れた3人の客人、そのうちの1人は創18:1により主であることがわかります。主自らがアダム-ノア直系の個人の前に現れて大事なことを語るのは、エデンの園以後では初めてであるように思います。ハガルの前に御使いの形を取って現れはしましたが、こことあすこでは個人の<格>が違う。それだけに主自らの登場が、どれだけ重みのあることなのか、を示す挿話になっていることがわかります。
 2人はこのとき高齢で、とてもではないが子供を出産できる状態ではなかった。普通に考えれば、なにを世迷い事を、というところだろうが、語りかけるのは神なる主であり、およそ不可能ならざることはない<いと高き神>である。やがて生まれてくるイサクはイスラエル民族の歴史の礎を築く重要な役割を担う者である。その子の誕生を笑うとは何事か――。主はおそらくそんな思いであったのではあるまいか。
 子供のようにむくれて重ねてイサク誕生を宣り、(少なくとも)わたしのいうことは正しく絶対である、と言い張る主は、ちょっぴり可愛らしいな、と思いもし、子供のように頑なで純粋、ゆえに限りなく残酷であることに、神なるものの尊大の親玉っぷりを感じもするところであります。
 ソドム滅亡に関する後半は明日に持ち越しとし、そのまま明後日に予定している第19章〈ソドムの滅亡〉へ進んでゆく予定としております。



 ちかごろ無性に焼き鳥が食べたくてならないさんさんかです。こんばんは。こんにちは。おはようございます。
 『ミステリー・ゾーン』のDVDコレクションが、ディアゴスティーニより隔週刊で出されています。このTVシリーズを高校生の頃、地上波が24時間放送を始めた時分、放送時間を埋める目的もあったか、深夜帯に放送されているのをヴィデオに録画し、繰り返し観て滋養としたわたくしにとって垂涎の刊行物なのですが、それでもなお定期購読に踏み切れずにいるのは果たして最終話まで継続して発売され続けるのだろうか、そうなったとき果たしてDVDと解説書を補完するだけの空間を確保し続けられるのだろうか、という疑問によるところが大きい。
 ロッド・サーリングが残した永遠の世界の夢の残滓をわがものにして、いつまでも慈しみたい、という望みはあるのですが、なんというてもそれ程広いお家に住んでいるわけではないのでね。嗚呼、なんと悩ましい問題だろう。ただ憧れでしかない人から好意を伝えられるのと同じぐらいデンジャラスなこの問題、それでも遅かれ早かれ解決させねばならぬことのため、近いうちに本欄で結論をお披露目できる日が来る、と思います。sigh.◆

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第1419日目 〈創世記第17章:〈契約と割礼〉with想いはいつでも何度も還ってくる。〉 [創世記]

 創世記第17章です。

 創17:1-27〈契約と割礼〉
 アブラム99歳のときである。主の言葉がかれに臨んだ。曰く、――「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすだろう。」(創17:1-2)
 ひれ伏すアブラムに、神は続けた。これがあなたとの契約である、と。そうして、――
 アブラムはアブラハムである。諸国民の父となり、多くの王がそこから出る。サライはサラである。諸国民の母となり、多くの王が彼女から出る。また、サライは一人の男児を授かる。
 わたしはあなたの子孫との間に永遠の契約を立てる。あなたの子孫に永久の所有地としてこのカナンすべての土地を与える。為、わたしはあなたとあなたの子孫の神となる。
 子々孫々に至るまであなたたちが守らねばならぬ契約はこれである。即ち、あなたたちの間で暮らす男子は皆、割礼を受けなくてはならない。赤子は生まれて8日目に、既に在る者は身分にかかわらず。「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創17:13-14)
 あなたアブラムとサラの間に一人の男児が生まれる。あなた方の血を継ぐ子だ。その子をイサクと名附けよ。わたしはかれと契約を立て、かれの子孫のために永遠の契約とする。
 アブラハムよ、あなたの願い通り(ex;創17:18)、わたしはイシュマエルをも祝福しよう。かれは12人の首長の父となる。わたしはかれを大いなる国民としよう。が、わたしの契約はイシュマエルとではなく、来年のいま頃に生まれるイサクとの間に立てる。
――以上、アブラム99歳のとき臨んだ主の言葉。主は語り終えると、アブラハムから離れて昇っていった。
 さて。アブラハムはさっそく民のなかから男たちを皆集め、主の言葉に従いかれらに割礼を施し、包皮を切り取った。アブラハムと息子イシュマエルはその日のうちに割礼を受けた。

 割礼を受ける対象をノートでは一切割愛しましたが、勿論聖書にはきちんと規定されております。即ち、「いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、かならず割礼を受けなければならない。」(創17:12-13)
 そうして民の男子は皆、家で生まれたか外国人から買い取られたかの別なく、割礼を施されて包皮を切り取られたのであります。この時代の包茎手術が如何なるものであったか、ちょっぴりではありますが興味が生まれますね。
 イシュマエルに生まれる12人の首長は、創25:13-16に名前があります。そのときにまた触れることといたします。



 想いは何度も何度もぶり返す。「想いは重い」とはよくいうたものです。◆

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第1418日目 〈創世記第16章:〈ハガルの逃亡と出産〉with既に他人事。〉 [創世記]

 創世記第16章です。

 創16:1-16〈ハガルの逃亡と出産〉
 アブラムがカナン地方に住んで10年経った。夫婦の間には未だ子供がなかった。
 或る日、サライは夫に側女を持つよう奨めた。せめてわが子と呼べる者を欲しいの一心からであった。アブラムはこの提案に乗り、妻が所有するエジプト出身の女奴隷ハガルを召した。
 やがてアブラムの子を宿したハガルは途端、サライを見下し、これを軽んずるようになった。サライはそれに耐え得ず、夫のところへ行って訴えた。曰く、あの女は自分が妊娠したのをいいことに私へ横柄な態度を取るようになりました、それもこれもあなたが悪い、どうか主が私とあなたの間を裁かれますように、と。
 アブラムが、あの女はお前の所有ではないか、というと、サライはハガルをいじめ抜いた。ハガルはそれに耐え得ず、主人(あるじ)夫婦のところを逃げ出した。
 すると、主の御使いが現れて、荒れ野の泉の畔、シェル街道沿いの泉の畔にてハガルと会った。どこから来たのか、どこへ行こうとしているのか。
 ハガルは事情を説明した。御使いは、女主人の許に帰って従順に仕えよ、といった。わたしはあなたの子孫を数えきれぬぐらいの数にする。あなたは安心してお腹の子供を産みなさい。主はあなたの願いを聞き入れたゆえに、その子はイシュマエルと名附けられる。イシュマエルは「主は聞き入れる」の意味だ。かれはあらゆる人に対して拳を振りあげる。かれは兄弟すべてに敵対して暮らす。主の御使いはハガルにそういった。
 ハガルは自分へ語りかけた主の御使いに、あなたこそ私を顧みられる神(エル・ロイ)、と呼んだ。「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで(神を)見続けていたではないか。」(創16:13 ()内筆者補語)
 カデシュとベレドの間にあるその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれる。
 ――やがてハガルは男児を産んだ。児はイシュマエルと、父により命名された。イシュマエルが産まれたとき、アブラムは86歳であった。

 自らの意志で女奴隷を側女に推しながら、相手が身籠もるとその精のヌシである夫を詰る妻サライ。挙げ句に、「主がわれらの間を裁くように」と一種の呪いとも脅しともつかぬ台詞を放つ。
 どうしてだろう? 奴隷の腹を借りて自分たちの子供を孕ませよう、というのが、彼女の目的であろうはずなのに、どうしてここで妻の提案を受け入れた夫に言い掛かりの矛先を向けるのか。
 それとも、妊娠の事実を以て女主人たる自分を蔑ろにし、あわよくば妻の座を奪い家の相続権を手中に収めようと企んだのであろうか、このハガルは?
 ――ふぅむ、女性って怖いね。底知れないや。
 本文を読んでいての疑問。唐突に触れられる「その井戸」とはなにか? ここで井戸とありますが、実のところ荒れ野の泉、シェル街道の泉を指して「その井戸」というのがそれである、と考えるのがいちばん自然なようであります。「ベエル・ラハイ・ロイ」とは「わたしを見てくださり、生きておられる方の井戸」と訳される由(ティンデル『創世記』P159 いのちのことば社)。
 なお、ハガルはこのときエジプトへ戻ろうとしていた様子があり、シェルとはネゲブ砂漠の要害であり、と同時にエジプトの北東の国境に広がる荒れ野でありました。
 主の御使いはこのあと旧約聖書のなかで何度か出てまいりますが、イシュマエルの家の繁栄を約束したことで、主自身と同定して差し支えないでしょう。



 会社と聖書読書&原稿書きで一日の過半が潰れる日が続く。役職に就き、他業務兼務が始まった関係上、退勤時間は幾らか遅くなりもしよう。
 そのなかで自分に課した読書のノルマは、今月中に『ねじまき鳥』第3部を読了すること。いや、本当にね、そろそろページ・ノルマを増やさないと、年内に『海辺のカフカ』へ手を伸ばすことが難しくなっちゃうんですよ。
 聖書も読んでゆかねばならぬし、さて、この計画、いったいどんな結末を迎えるのでしょう。もはや他人事に等しい物言いになっているのは重々承知しております。えへ。◆

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第1417日目 〈創世記第15章:〈神の約束〉withG.ギッシング『ヘンリ・ライクラフトの私記』、新訳刊行。〉 [創世記]

 創世記第15章です。

 創15:1-21〈神の約束〉
 様々あったあと、主の言葉がアブラムに、かれの幻のなかで臨んだ。曰く、――わたしはあなたの盾である、あなたが享受する報いはとても大きいだろう、と。
 わたしが受ける報いとはなんですか。そうアブラムは問うた。わたしたち夫婦には子供がおりません。わたしの家を継ぐのはダマスコ出身の僕(しもべ)エリエゼルです。
 主が答えた。あなたの家を継ぐのは家の僕などではなく、あなたとサライの間に産まれる実の子である。外へ出て夜空を仰ぎ見るがよい、あなたは星の数をちゃんと数えられるだろうか。まさしくあなたの子孫はあの空に瞬く星のように増えて栄える。
 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6)
 続けて、主がいった。わたしはあなたにこの地を与え、あなたの子孫にこの地を相続させる。アブラムよ、あなたはこれを献げ物によって知ることが出来る。即ち、3歳の雌牛と雄山羊、雄羊と、山鳩と鳩の雛を祭壇まで持ってきなさい。
 アブラムはそうした。牛と山羊、羊を半分に裂いて、向かい合わせて置いた。やがて日が傾くと、アブラムは深い眠気に襲われた。恐ろしく大いなる暗黒がかれに臨んだ。そのなかで、主の言葉、――
 「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、かれらが多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻ってくるのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(創15:13-16)
 日が沈み、あたりは暗闇に閉ざされた。すると何処からか煙を吐く炉と燃える松明が来て、半分に裂いて置かれていた動物の間を通り過ぎていった。
 その日、主はアブラムと契約を結んだ。そうして、ユーフラテス川からエジプトまでの間の土地、そこに暮らすアモリ人やカナン人、エブス人らの土地をあなたの子孫に与える、といった。

 まず、かねてよりアブラム夫妻が懸念していた家の相続者について。実はかれらの家を誰が継ぐかは決まっていた。子のないかれらの家は僕の者が継ぐことになっていたようだ。が、主はここで明確に<否>を下した。即ちイサク誕生の、最初の予告である。
 イサクの誕生は創21にて語られますが、それ以前にも都合3度、誕生が予告されている。本章の他、創17:19と創18:10、14である。ここで主がいうのは、アブラムとサライの実子がカナンの地を嗣業の地として相続してゆく、2人の間に生まれた子は星の数程に増えて栄えてゆく、という点だ。旧約聖書の歴史の舵が、われらの知る未来へと切られた瞬間であります。
 本章に於いて歴史書としての旧約聖書は本式に開幕した、というてよいでしょう。
 が、それと同じぐらいに大事なのが、引用もした主の台詞の内容、即ち出エジプトにまつわる予告であります。民族繁栄の礎となる挿話にて、早くもかれらが未来に迎える辛苦が語られる。
 奴隷となって出エジプトを果たすまで実際は約430年と、主がいうよりやや長い時間を要すことになるが、ここで主が強調するのは、斯様なことがあってもかならずわたしがアブラムの子孫に与えたこの土地(カナン)へ帰ってこられるからけっして腐ったりせず、主を信じて依り頼め、というのである。
 やがてモーセの意志をも継いでヨシュアがイスラエル部族を率いてカナンへ侵攻しますが、これは既に予告された未来の実現でしかなかったのかもしれない、と考えると、「創世記」に旧約聖書の重要なエッセンスは殆どすべて詰まっているように思うのであります。



 光文社古典新訳文庫からギッシング『ヘンリ・ライクラフトの私記』の新訳が出された。およそ初めて読んだ岩波文庫の「イギリス文学」ということもあり、またそこに書かれた貧乏文士ライクラフトがどうしても他人と思えぬ場合もあり、今回の新訳に期待して、書店の平台に積まれたそれに手を伸ばし、さっそく一本を購ったわけだが、どうにも読むに意志と忍耐を必要とする代物で、とてもでないがこれが風雪に耐えて生き残る日本語ではない、と思うた。非道い悪訳、というのではない。ずいぶんとずるっぺたな、粘着質の文章で、読んでいて皮膚にナメクジが這うような嫌悪感を覚えた。ティブルス詩集を手に入れたときのライクラフトの悦びがまったく伝わってこないのは、とても残念なことでありました。
 この作品、買って読むなら岩波文庫がお奨め、但し、巻末の解説は良い。この点を以て光文社古典新訳文庫は買うべき、というてもなんら可笑しくないでしょう。◆

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第1416日目 〈創世記第14章:〈王たちの戦い〉、〈ロトの救出〉&〈メルキセデクの祝福〉withiPodの音楽を復旧させる。〉 [創世記]

 創世記第14章です。

 創14:1-12〈王たちの戦い〉
 その地方を二分するような戦いがあった。ソドムとゴモラ、アドマ、ツェボイム、ツォアルの王が同盟を結び、シンアルとアラサルの王、就中エラムの王ケドルラオメルの支配から独立しようとしたのである。12年間の支配に耐え、13年目に遂に決起した5人の王の同盟は、シディムの谷、塩の海で結ばれた。
 シリアの諸所で敵を破ってきたケドルラオメル王を頭とする枢軸側は、いまやシディムの谷に迫った。そこには同盟軍の王とその軍勢が駐屯していた。ソドムの王たちはシディムの谷を決戦の場とし、自らも兵を率いて出陣したのである。が、時の趨勢は枢軸側にあった。同盟軍はかれらの前に敗れて逃れた。
 逃れるとき、ソドムの王とゴモラの王その他の兵はシディムの谷のあちこちにある天然アスファルトの穴に落ちてしまった。枢軸側は2人の王の財産や食糧をすべて奪うと、矛先をかれらの町へ向けた。ソドムの町に住んでいたアブラムの孫ロトの家も荒らされ、かれ自身捕虜となり枢軸軍に連行されていったのである。

 創14:13-16〈ロトの救出〉
 ソドムを逃れた人がアブラムの許へ来た。ロトが連れ去られたことを知ったアブラムは、かれの家で生まれて戦いの訓練を受けていた者318名を召集した。そうしてエラムの王ケドルラオメル率いる枢軸軍を追撃してダンまで進み、夜襲をかけてこれを倒した。更にダマスコの北ホバまで残党を追った。こうしてアブラムは奪われた財産、奪われた人々を取り戻した。そのなかにはロトの姿も勿論、あった。

 創14:17-24〈メルキセデクの祝福〉
 勲をあげて凱旋するアブラム一行を、ソドムの王ベラはシャベの谷即ち王の谷で迎えた。いと高き神の祭司であるメルキセデクも、パンとぶどう酒を持ってそこへ来た。メルキセデクはアブラムを祝福し、かれらのいと高き神を讃えた。
 ソドムの王はアブラムに、捕虜となった人々は引き渡してほしい、が、奪われて取り戻された財産はあなたにあげよう、といった。
 アブラムはこれを固持した。ソドム王のいう財産をわたしは少しも欲しいと思わない。アブラムが豊かになったのはソドム王の財産を譲られたからだ、と、陰でいわれたくはありませんし。――ただ、とアブラムはいった。一緒に戦ってくれたアネルとエシュコル、マムレの兄弟には然るべき報酬として相応の財産を与えてください。

 旧約のみならず聖書のなかで初めて語られる戦争の場面であります。というより、初めてアダムの末裔にまつわる挿話から離れて、他国の侵略と周辺国の動静が描かれた章でもある。文中で枢軸国としたエラム、シンアル、アラサルはティグリス・ユーフラテス川流域に興った国であります。それが覇権を築かんと塩の海(死海)の南にまで勢いを伸ばし、ソドムとゴモラ始めとする都市国家を12年の長きに渡って支配していた、というのです。かれらの運命を賭した一種の独立戦争を背景に、アブラムの無欲と協力者への感謝をこれ見よがしに語った箇所、と捉えるのは、やはり邪かなぁ……。
 ノートに於いては固有名詞を殆ど省いてあります。枢軸軍と同盟軍それぞれの王の名、枢軸軍がシリア侵攻の過程で破った人々など、興味のある方は是非当該節にあたっていただきたいと思います。
 バベルの塔のところでも出てまいりましたが、どうしても今日のわれらにとって聖書の文中に「アスファルト」なる語が出て来ることに抵抗があります。まだ確かめておりませんが、これは新改訳聖書などでは「瀝青」となっており、シディムはソドムやゴモラ同様現在は死海に沈んだ町でありますが、瀝青の採掘場ということもあって塩の海は「瀝青の海」と呼ばれることもあった由。多くの人が落ちるだけの穴が掘られているのですから、シディムの谷は一帯でもいちばんの採掘場であったのでしょうね。なお瀝青はエジプトにも輸出されており、現在発掘されている聖書時代の遺跡でも瀝青が使われた跡が確認できるそうであります。以上は『新エッセンシャル聖書辞典』を基に述べました。
 メルキセデクのいたサレムとは、当時まだカナンの都市国家の一つであったエルサレムであります。アブラムを祝福してメルキセデクが讃えた「いと高き神」は、カナンの神ではなくアブラムの神である。アブラムの神が示す御業は早くも周辺国家に知られるようになっていたことが窺えますね。



 iPodに入れていた音楽の1/3が消滅する事件があった。時間を見附けてそれの復旧にあたること数日、ようやく90%を回復させるに至った。AKB48とビートルズ、ビートルズ・メンバーのアルバムがそれだけの量を占めていたことに、まずはびっくり。あ、枚数的にはビートルズ関連の方がはるかに上回りますよ。無用の冷や汗かかぬ前に弁明しておきます。えへ。
 いやぁ、こうやって聴いていると、ビートルズは良いですね。PCを買い換えたらビートルズのCDを買ってゆこうかな、と考えますが、タワーレコードが撤退して洋楽とジャズとクラシックに関しては店舗購入不毛地帯になった故郷に於いて、これがなかなか難儀な予定(欲望)であることに溜め息を吐いてしまいます。市長、なんとかして。呵々。
 3連休最後の日の午前中、曇り空を見あげてカーテンを揺らす風にやや寒さを覚えるさんさんかはこのあと、スニーカーを履いて両手を振って床屋さんに行きます。村上春樹のエッセイみたく、<男の子スタイル>で散髪に行くのだ! 耳には勿論、ビートルズさ!!
 ――村上春樹といえば、今月中に『ねじまき鳥クロニクル』第3部を読了するよう調整していかないとな。◆

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第1415日目 〈創世記第13章:〈ロトとの別れ〉with生活を営むに必要なもの〉 [創世記]

 創世記第13章です。

 創13:1-18〈ロトとの別れ〉
 エジプトをあとにしたアブラム一行はネゲブ地方の、以前主のための祭壇を築いたベテルとアイの間の場所へ戻った。その頃になるとアブラムもロトも多くの財産、多くの羊、多くの家畜を持っていた。またロト自身、たくさんの天幕を持つ者になっていたのである。
 が、如何せん、アブラムとロトのすべての持ち物を収めるにかの地は狭すぎた。そのせいもあって、アブラムの家畜飼いたちとロトの家畜飼いの間に大小の諍いが起こるようになっていた。その頃にはカナン人もペリジ人もネゲブ地方に住んでいた。
 或る日、アブラムはロトのところへ来て、いった。われらは血のつながった者同士だ。これ以上の諍いを避けるためにも別々の土地に住もうではないか。あなたの前には幾らでも土地が広がっておる。続けてアブラムはいった。あなたが右へ行くならわたしは左に、あなたが左へ行くならわたしは右へ行こう。
 そこでロトは目を上げてあたりを眺めた。まだソドムとゴモラが主の怒りによって滅ぼされる前であったためヨルダン川流域の低地一帯は、エデンの園のように、エジプトの地のように、見渡す限りよく潤っていた。ロトはその地域を選び、東へ移った。斯くしてアブラムはそのままカナン地方へ留まり、ロトは塩の海南部に広がる低地の町ソドムへ移ったのである。カナン地方にはアブラム一家とかれらに雇用される者らの他、カナン人たちもいた。ロトの行くソドムで民は既に邪悪であり、主に多くの罪を犯していた。
 ロト去りし後、、主がアブラムにいった。曰く、――
 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き廻るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(創13:14-17)
 アブラムは天幕をヘブロンへ移し、そこに主のための祭壇を築いた。

 ヘブロンにあるマムレの樫の木、というのがよくわかりません。後にはこのマムレという人物が登場することから、この地に住み着いた有力者の裔であったろうことは想像に難くないけれど、どうしてわざわざ「樫の木」などと註記する必要があるんだろう。「ヘブロンにあるマムレの樫の木」(創13:18)と「シケムの聖所、モレの樫の木」(創12:6)と書かれても、気附かず素通りするのが最善だったのかな。が、どうにも気になるのですよね。
 カナンの地はアブラムに与えられた。主なる神にはほぼ目論見通りであったろう。無意味にエジプトへ下ったときは、子孫にカナンの地を与える、というていただけに、戻り来たってそこへ留まることになったときは、変な話だが、ほっと胸を撫で下ろした。とはいえ、それも旧約聖書を初めの一ページから読み始めた2008年のことであります。現在は却って意識に留まることもなくするすると頭のなかに入ってきてしまう。そうしていつの間にやら消化され、忘却の彼方へ――。いけませんな。
 しかし、カナンの地には不穏な空気がまだ漂っている。むしろ、長い紛争の歴史の始まりなのだ。なにしろまだそこには、後のイスラエル民族と対立することが専らなカナン人が住むようになっていたからだ。嗚呼!



 なにも持たない生活。それを営むことは現代に於いて不可能であろう。が、生活必需品だけを持った生活は営めると思う。最小限の書籍と筆記用具、iPodと幾枚かのCD、パソコンとその周辺機器、携帯電話と充電器、最小限の着衣と季節用品、あとは通帳類と判子と身分証明書。それだけあれば、なんとか暮らしてゆけると思う。それだけを携えて世界の片隅で、ひっそりと、誰にも知られることなく過ごせればいいと思う。◆

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第1414日目 〈創世記第12章:〈アブラムの召命〉&〈エジプト滞在〉with人生模様〉 [創世記]

 創世記第12章です。

創12:1-9〈アブラムの召命〉
 ハランを離れよ、わたしが示す地カナンへ行け。――主はそうアブラムにいった。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。あなたが祝福の源となるように。わたしはあなたを祝福する人を祝福し、あなたを呪う人を呪う。地はすべてあなたによって祝福に入る。
 主の言葉に従い、アブラムは妻サライ、甥ロトを連れ、それまで蓄えたすべての財産を携えて“主の示す地”カナンを目指して出発した。当時アブラムは700歳。一行はカナンへ入り、シケムの聖所、モレの樫の木のところまで来た。周囲に住むはノアの末子ハムの子カナンを祖とするカナン人であった。
 あなたの子孫にこの地を与える。――主はそうアブラムにいった。かれはシケムに主のための祭壇を築いた。しかしかれらはそこに逗留しなかった。
 シケムを発つとアブラムはベテルの東にある山まで来た。西にベテル、東にアイを望む位置に天幕を張って、かれらは住んだ。そこでもかれは主のための祭壇を築き、そうして主の御名を呼んだ。しかしかれらはそこへ逗留しなかった。そのあとアブラムたちはネゲブ砂漠まで南下した。

 創12:10-20〈エジプト滞在〉
 アブラムの妻サライは美しかった。かれをして悠久の希望を抱かせる程の美しさであった。
 ネゲブ地方を襲った飢饉の非道さゆえそこをあとにし、エジプトを目指す一行であったが、その国に入る前アブラムは妻サライにこういった。エジプト人は皆、お前の美しさに陶然とし、夫たるわたしを殺そうとするだろう。だからあなたはわたしを夫と呼ばず、どうか兄と呼んでほしい。そうすればわたしは殺されずに済むであろう。サライはそうした。
 案の定、エジプト人は老若男女、サライに羨望し、恍惚とし、欲情し、陶然とした。やがて評判はファラオの耳にまで届いた。ファラオはさっそくサライを召して妻とし、“兄”アブラムに多くの財宝を与えた。
 ――と、主がそれを見て、ファラオと廷臣を恐ろしい病気に罹らせた。ファラオは事実を知り、アブラムを呼んで詰った。なぜ妹などと偽ったのか、さあ、何処へも行ってしまえ。
 為、アブラムとサライ夫婦はエジプト国外へ追放されたのである。

 シケムはエバル山とゲリジム山の間にある町ですが、モレとは? ここはシケム近郊にあったとされ、町や村というより聖所を擁する場所である由。その近くに樫の木があるのですが、これは次章で読むヘブロンにあるマムレの樫の木についても同じでありましょう。
 シケムはこのあと何度も出て来るので、既に読者諸兄には耳に馴染んだ地名かもしれません。イスラエルはこの地で祝福か呪いかの選択を迫られ(申11:29-30)、後にはこの地に於いてサウル-ダビデ-ソロモンの王国が南北に分裂する事件があったのであります(王上12)。シケムは選択の場、決断を促される場と捉えておくとわかりやすいのでしょうね。
 昨日、わたくしはアブラム一行はカナン目指してウルを発ったのではなく、北のハランをそもそもの目的地としていたのではないか、と述べました。その根拠としたのが<アブラムの召命>に見る主のカナン行きの指示であります。記述が前後に錯綜している点が「創世記」に目立つ特徴の一つと思います。今回に於いてもそれは例外ではないでしょう。
 エジプト滞在の挿話は果たして必要か? 初読のときから疑問でなりませんでした。殺されるかもしれない、という危惧を抱いたアブラムが、危険回避のために妻を妹と偽り命拾いをし、かつ宝までも得て金満家となる、ずいぶんねじくれた挿話のように思えてならなかったし、実を申せばいまでもその感想は変わりません。
 この点についてデレク・ギドナーはティンデル『創世記』でこう書いています。少し長くなりますが、引いておきます。「あらゆることが明らかにしていることは、アブラムが神に尋ねるために立ち止まることをせず、神以外のことをすべて考慮に入れ、自分自身の考えを優先したということである。(中略)この物語のいちばん重要な点は、この物語が、土地と民に関する約束とどのような関連にあるかということである。このことは、アブラムのヴィジョンが絶えず挑戦を受けたということと並んで、これらの章の真の主題となっている。ここにおいて、餓えと恐怖と富に初めて出会い、ヴィジョンは失われ、みわざ全体が危険にさらされた。サライを本来の導きに戻らせるためには疫病が必要であったし(17節)、アブラムをカナンに帰らせるためには退去(20節)が必要であった」(P144-5)
 然るにアブラムの行為とそれに伴う結果を正し、本来の役割、本来の土地へ帰らせるために斯様な行いは必要であったのであり、と同時に主のみわざの顕現によってエジプトがかれらの神の力を思い知ることも必要だったのであります。



 判で捺したような生活を嫌う人がいる。ルーチンに組みこまれることを厭う人がいる。
 判で押したような生活を好む人がいる。ルーチンに組みこまれることを望む人がいる。
 望むものを概ねすべて手に入れられる人がいる。それが当たり前のように思う人がいる。
 望むものを全てさらいとられてしまう人がいる。それに馴らされてしまった人が、いる。
 望む人との生活を手に入れたくて力を尽くしても、かなわぬ希望になる人もいる。
 ささやかな希望が奪われて、ささやかな願いが踏みにじられることもある。
 ――たぶん、それは人生なんだ。◆

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第1413日目 〈創世記第11章:〈バベルの塔〉、〈セムの系図〉&〈テラの系図〉with音楽フェスタ、開催〉 [創世記]

 創世記第11章です。

 創11:1-9〈バベルの塔〉
 かつて言語は一つであった。今日人々はそれぞれの言語を使い、生活している。或る事件のゆえにそうなったのである。
 世界に言語が一つしかなかった時代。東の方からシンアルの地に移り住んできた人々がいた。かれらはそこでレンガを作り、焼き、それを用いて高い高い塔を建てようとした。天まで届く塔を造って有名になろう、誰がどこから見ても高くそびえる塔を、と人々はいった。そうして、全地に散らされることがないように。
 主はこれを見て、いった。
 かれらは同じ言語を用いているからあのような物を造るのだ。二度とこうしたことが起きぬよう、かれらの話す言葉を異なるものとし、かれらの社会を混乱させてしまおう。
 ――斯くして人々は混乱し、主により全地へ散らされた。塔とその町の建設は中断された。主がその地でかれらの言葉を混乱させ、その地からかれらを遠近へ散らせたので、かの地は(「混乱」を意味するバラルを語源とする)「バベル」と呼ばれるようになった。
 かつて言語は一つであった。今日人々はそれぞれの言語を使い、生活している。<バベルの塔>の事件ゆえにそうなったのだ。

 創11:10-26〈セムの系図〉
 これはノアの長子、セムの系図である。
 セムは100歳のとき、息子アルパクシャドを授かった。洪水の2年後のことである。セムはそれから500年生きた。
 アルパクシャドは35歳のとき、息子シェラを授かった。アルパクシャドはそれから430年生きた。
 シェラは30歳のとき、息子エベルを授かった。シェラはそれから430年生きた。
 エベルは34歳のとき、息子ペレグを授かった。エベルはそれから430年生きた。
 ペレグは30歳のとき、息子レウを授かった。ペレグはそれから430年生きた。
 レウは32歳のとき、息子セルグを授かった。レウはそれから207年生きた。
 セルグは30歳のとき、息子ナホルを授かった。セルグはそれから200年生きた。
 ナホルは29歳のとき、息子テラを授かった。ナホルはそれから119年生きた。
 ――いずれも皆、名を挙げた他にも息子と娘をそれぞれ設けた。
 さて、テラは70歳のとき、3人の息子を授かった。名をアブラム、ナホル、ハランという。

 創11:27-32〈テラの系図〉
 これはアダムとノアの末裔でナホルの子であるテラの系図である。
 テラにはハランがいた。ハランはロトを授かった。残念ながらハランは父よりも早く逝去した。故郷カルデアのウルの地にて――。
 その地でアブラムはサライを、ナホルはミルカを娶った。ミルカはハランの娘であった。ミルカの姉妹にイスカという女子がいた。アブラムの妻サライは不妊であった。
 テラはアブラム夫妻と孫のロトを連れてウルを発ち、カナンへ向かった。ユーフラテス川上流域の町ハランまで来たとき、テラは逝去した。205年の生涯であった。

 バベルの塔は果たして如何なる目的で建てられたか。シュメール人の町に多く見られた最上階に宗教施設を要する宗教的建物としてであったろうか。それとも今日まで考えられているように、神の領域へ近附かんとする人間のあくなき挑戦と傲慢の表れとして天まで届く建物を建てようとしたか。どちらも正とすべきである、とわたくしは思います。きっかけは神への挑戦であったかもしれない。完成の暁には主なる神を崇めるための宗教施設として機能したかもしれない。と同時に、遠くからでも見ることの出来る建物を造ろう、という人々の望みは自分たちの力の誇示の裏返しでありましょう。
 テラは息子アブラム夫妻と孫ロトを連れてウルを出発した。ロトの父ハランはその地で既に没している。おそらくナホルはウルの地で子宝にも恵まれたのか、そこに留まり肉親の出発を見送ったのであろうか、と推察されます。
 ユーフラテス川上流域の町ウルはバビロン(バベル)の下流にあります。そこから上流のハランまでは北西に約1,320キロ、カナン地方はウルからほぼ真西に約700キロである。なにゆえテラ一行はすぐに西へ向かわず、ハランに赴いたのであろうか。ちなみにハランとカナンの距離は約640キロである。
 釈然としない行程であります。カナンへ行く前に一目でいい、祖ノアゆかりの地アララトを見ようと進むなか、どうにかハランまで辿り着いたけれどそこでギブ・アップしてしまったのだろうか……。いや、まさかね。
 ただ次章の主の言葉を併せて考えると、もしかするとテラ一行の目的地はアララトを北方に戴くハランであったのかもしれない――或いは父より先に身罷った息子と同じ名前であることに端を発する感傷主義? それなら付き合わされたアブラム夫妻と孫ロトはいい迷惑であります。good grief.



 昨日というべきか、今日から11月末まで横浜では「音楽祭り」というイヴェントが開催されるらしい。
 オープニング行事の一環なのか、今日通りかかったクイーンズスクウェアの吹き抜けの下からブラスの厳かなる響きが聞こえてきた。曲は「アメージング・グレイス」であったか。
 どこの団体なのか、まさに通りがかりゆえに確かめることはしなかったが、おそらく会期中、みなとみらい周辺ではどこを歩いても音楽が聞こえてくる、そんな状況が生まれると思いますよ。桜木町駅の前でも、日本丸ミュージアムのそばでも、吹奏楽の合奏が聞こえていました。
 それをスターバックスのテラス席で聴いていたわたくしです。◆

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第1412日目 〈創世記第10章:〈ノアの子孫〉with求めてやまぬ夢の最終着駅〉 [創世記]

 創世記第10章です。

 創10:1-32〈ノアの子孫〉
 セムとハム、ヤフェトの子孫を系図ごとにまとめると、以下のようになる。地上の諸氏族は洪水のあと、このようにしてかれらから分かれ出たのであった。

 セムの子孫。――セムはエベルのすべての子孫の先祖である。
 セムの子はエラム、アシェル、アルパクシャド、ルド、アラム。
 アラムの子はウツ、フル、ゲテル、マシュ。
 アルパクシャドの子はシェラ、シェラの子はエベル。
 エベルの子はペレグとヨクタン。
 ヨクタンの子はアルモダド、シェレフ、ハツァルマベト、イエラ、ハドラム、ウザル、ディクラ、オバル、アビマエル、シェバ、オフィル、ハビラ、ヨハブ。
 かれらはメシャからセファルまでの東の高原地帯に住んだ。
 「これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめらセムの子孫である。」(創10:31)

 ヤフェトの子孫。
 ヤフェトの子はゴメル、マゴグ、メディヤ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
 ゴメルの子はアシュケナズ、リファト、トガルマ。
 ヤワンの子はエリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニム。
 「海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。」(創10:5)

 ハムの子孫。
 ハムの子はクシュ、エジプト、プト、カナン。
 クシュの子はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。また、ニムロド。
 ラマの子はシェバ、デダン。
 エジプトの子はリディア人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、上エジプト人、カスルヒム人、カフトル人が生まれた。カフトル人からペリシテ人が生まれた。
 カナンから長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルフド人、ツェマリ人、ハマト人が生まれた。「その後、カナン人の諸氏族が広がった。」(創10:18)
 カナン人の領土は北のシドンからゲラルを経て南のガザへ至る。更にカナン人の領土はソドムとゴモラ、アドマ、ツァボイムを経てラシャにまで広がっていた。これらは塩の海南部にあったと伝えられる低地の町々である(ex;創19:24-25,28)。
 「これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたハムの子孫である。」(創10:20)
 ――クシュの子ニムロドは地上で最初の勇士である。かれは勇敢な狩人であった。かれの王国はシンアルの地にあり、バベル、ウルク、アッカドが主だった町である。ニムロドはそこを拠点にアッシリアへ進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンの町を建てた。特にレセンはニネベとカラの間にあって、とても大きな町であった。

 「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」(創10:32)
 
「創世記」当該章をご覧になればわかるように、本ブログでは兄弟の順番を変えて記しています。昨日の記事にてわたくしは、ノアの台詞他からハムは末子であろう、と考えました。それと同じ理由であって、それ以外の理由はございません。
 3兄弟の子孫が列記されます。が、本ブログ開設当時にこれを書いていたらわからなかったけれど、逆にいまだからこそ馴染みのある固有名詞が幾つも出て来ていることにお気附きいただけたと思います。ヤフェトの子孫は沿岸地域の地名として「サムエル記」や「列王記」他でわれらは接してきました。ハムの子孫は出エジプト以後カナン進攻、イスラエル王国の誕生と分裂、衰退と滅亡、その後も文学書や預言書の端々で目にしてきたイスラエル/ユダ、エルサレムに良くも悪くも縁ある固有名詞と重なります。
 イスラエルを取り巻く地勢、国家がいずれもノアの3人の子供たちから出た、という点に着目して読み進んでゆくと、面白いと思います。
 長子セムの系図の詳しくは次の章で改めて述べます。結論だけ先に申せば、セムはアブラハムの祖、血はヤコブを経て遠い時代まで継承されてゆくのであります。



 はい、と差し出された一枚の紙切れ。その子はペンを一緒に突き出して、これに必要事項を記入の上、役所窓口まで持参し提出せよ、という。
 どうして? そうわたくしは訊く。
 相手は答える――だっていつまでも事実婚じゃ子供の手前よくないでしょ?
 そうか、と首肯して書類に書きこみ、バスに乗って役所の然るべき窓口へ行く。戸籍上も晴れて夫婦となった。
 くだらないけれど、これが求めてやまぬ夢の最終着駅。フォーラム以後逢っていないけれど、あの人はこの夢を果たしたのだろうな。◆

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第1411日目 〈創世記第9章:〈祝福と契約〉&〈ノアと息子たち〉with喜ばしいことは一度に重なるらしいが、……〉 [創世記]

 創世記第9章です。

 創9:1-17〈祝福と契約〉
 全地を覆い殆どすべての肉なるものを滅びした洪水が去り、乾いた大地へ降りたノアとその家族、方舟へ収容されたつがいの動物たち。ノアはアララト山頂にて主のための祭壇を築いて焼き尽くす献げ物をささげた。
 神はノアと3人の息子たちを祝福して、いった、――
 産めよ、増やせよ、地に満ちよ。地の獣、空の鳥、海の魚のすべては、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手へゆだねられるものとなる。あなたたちはこれら命あって動くものを食糧とせよ。わたしは青草と同じくこれらをあなたたちに与える。但し、肉は命である血を含んだまま食べてはいけない。
 「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の血を賠償として要求する。/人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。/人は神にかたどって造られたものだからだ。」(創9:5-6)――
 続けて神はノアと3人の息子たちにこういった、――
 わたしはあなたとあなたたちとその子孫に対して、否、のみならず生きとし生けるものすべてにこの契約を立てる。契約が立てられたらば、二度と肉なるものが洪水によって滅びることはなく、洪水によって地が滅びることもない。
 代々とこしえにわたしは契約を立てる。そのしるしとは、雲のなかに置かれる虹だ。わたしと大地の間に結ばれた契約のしるしとして「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(創9:16)
 神はノアに、祝福と契約について、そういった。

 創9:18-29〈ノアと息子たち〉
 ノアの3人の子とは即ち、セム、ハム、ヤフェトである。
 方舟を降りたあと、ノアは(地上で最初の)農夫になった。ぶどうを植え、ぶどう園を持ち、ぶどう酒を造った。或る日、ぶどう酒を飲んでよって裸のまま、天幕のなかでぐっすり寝こんでしまっているノアを、末子ハムが目撃した。かれはそれを2人の兄に伝えた。セムとヤフェトは後ろ向きになって天幕へ入り、父の体に着物を掛け、入ったときと体の向きを同じにして天幕を出た。かれらは父の裸を見なかった。
 起きて息子たちの行いを知ったノアは、末子ハムを叱責した。(カナンの父となる)ハムは呪われよ、とノアはいった。呪われて奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。カナンはセムの奴隷となって征服されよ。ヤフェトの地は広がり、セムは栄える。ハムとカナンは奴隷となれ。
 ――ノアは950歳で逝去した。洪水から350年後のことである。

 人の食糧は洪水前は青草であり、果実であった。洪水後はそこに動物の肉が加わる。神の言葉がノアに伝えられたとき、まだ地上にはそれまでかれらが食糧としていた青草や果実はじゅうぶんには生育していなかったのかもしれない。だから手っ取り早く食糧になりそうな動物の肉を食べてよい、ということになったのか。聖書時代の人々が肉をも食べる事実について説得力を与えようとしたのが、当該節であるようにわたくしには思えます。
 ノアの3人の息子たちを聖書はセム、ハム、ヤフェトの順番で紹介します。が、〈ノアと息子たち〉を読めば、その記述は必ずしも母の胎より出た順番でないことがわかります。〈ノアと息子たち〉ではハムが末息子として書かれている。と同時に読者を混乱させるのは、「ハムはカナンの父である」と唐突な説明が入り、ノアはハムに対して「カナンは呪われよ」と訴える点であります。
 これらを矛盾なく説明しようとすれば相当に頭を悩ませることとなる――最後に残る疑問は、なぜノアは孫にあたるカナンの名を口にしたのか? これについて研究書や解説書、牧者たちのブログなど原稿を書く傍ら覗いてみましたが、どうにも十全に納得の出来るものとは出会えず、却ってこの単純な挿話の抱える面妖さに気附かされた次第です。父の裸を見ることが禁忌であり、それを黙して語ることをせず兄弟に告げた事実を以て「呪われよ」というのだ、と考えられましょうけれど、どうにも釈然としないところがあるのもまた事実なのであります。困ったものですね。



 松井珠理奈じゃんけん大会優勝を記念して殆ど半年ぶりにSKE48 TeamSのアルバムを聴き、現在の職場で昇格が決まったことを喜んで一杯の安堵と一抹の不安を抱えながら、この原稿を書いている。
 喜ばしいことは一度に重なるようで、他にも買い逃していたドナルド・タイスンの小説を某嫌いな新古書店で手に入れたり、10年ぶりの友との再会も約束された。
 あとは以前のように自作が買われ、おぐゆーさんと巡りあえたらどんなにか幸せだろう、と思うが、いずれも見込みのない望みであるかわかっているだけにこの夢は儚く脆く、すぐに消えちゃうんだ。ぐしゅん。◆

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第1409日目 〈創世記第8章:〈洪水〉3/3with台風18号の被害に遭われた方々へ。〉 [創世記]

 創世記第8章です。

 創8:1-22〈洪水〉3/3
 全地に雨が降り注ぎ、洪水となり、地上で動いていた肉なるものはすべて呑みこまれて息絶えた。ただ、神の好意を得て神に従って歩く者であったノアと、その家族、神がノアに集めて船に乗せよ、と指示したつがいの動物たちを除いて。かれらが乗った方舟は洪水が勢いを失うまでの150日、波間を漂ったのである。
 神は方舟に乗るノアたちと動物すべてを心に留めていた。深淵の源と天の窓が閉じられたことで雨はようやくやんだ。風が吹き、水は徐々に引いていった。神がノアらを慮ってのことである。そうして第7の月17日に方舟はアララト山の頂に着底した。以後も水はどんどん減ってゆき、第10の月1日になると山々の頂が水の下から顔を出した。
 アララト山に着いて40日後、ノアは一羽の烏(からす)を放った。が、まだ水は引ききっていなかったため、烏は方舟の窓から出たり入ったりを繰り返していた。
 そのあと、ノアは一羽の鳩を放った。水が引いて地が乾いたかを知るためである。が、鳩はすぐに戻ってきた。7日後、ノアは再び鳩を放った。夕方になって鳩は戻ってきたけれど、くちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは三度、鳩を放った。今度は待てど暮らせど鳩が戻ってくることはなかった。
 ノアは601歳になった年の最初の月、方舟の覆いを外して地上を眺めた。水は引き、地は乾いていた。とはいえ、大地が完全に乾くのは、その年の第2の月27日のことだが。
 神がノアにいった、人も動物も皆外へ出なさい、と。地に群がって地上で子を産み、増えるよう励みなさい。――その言葉に従って皆、方舟から出てその足で土を踏み、その翼で空を飛んだ。
 ノアは主のために祭壇を築いた。すべての清い家畜と清い鳥のうちから取って、焼き尽くす献げ物をささげた。
 主はその宥めの香りをかいで、心のうちでこういった。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。/地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」(創8:21-22)

 神は自分の行いを省みて反省した。もう二度と人の行為ゆえに地を呪うことはすまい、と。旧約聖書の神は言葉を以て行動する存在であると共に、自分の行いを点検して後悔した後反省して斯様な愚行はわが創造物のためにも繰り返すまい、と誓うことの出来る、なんとも人間くさく、それがためにその怒りの凄まじさを想像できる存在であった。でもこうした姿(?)を見るからこそ、後世に於いて主なる神が嗣業の民に降す数々の怒りや裁きが愛の裏返しであることを痛感するのです。
 ――前段にてわたくしは「神」といい「主」と述べました。これまでの「創世記」のブログ原稿でもそうなっているはずです。どうしてこんなことを言い出すか、といえば、わたくし自身まだ「神」と「主」の使い分けについて、ちゃんとした定義を持っていないからであります。
 聖書の文章、場面ではどちらの語が使われているかを以てブログ原稿もそれに則る、とは決めていますが、逆にがちがちに使い分けの基準を設けてしまうと却って柔軟性を失い、フレキシブルな対応が出来なくなるように思えてなりません。使い分けということについていえば、精々が、単独であるときは<神>、人に働きかけるときは<種>と分けることにしていることぐらいですか。むろん、それとて絶対的なものでないことはいうまでもないでしょう。
 この点について読書に用いている新共同訳以外の日本語聖書を読んでみても、殊「創世記」前半についてはそれも同工異曲の感を免れず、では英語やドイツ語の聖書を傍らに侍らせせ都度黙考すればよいのか、さもなくばヘブライ語や70人訳ギリシア語の聖書を都度参照するためそれらを揃える図書館へ日参すればよいのか、解決方法は幾つかあると雖も、とてもではありませんが実行は難しいものばかりであります。いやはやなんとも。呵々。――
 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」とは、まあ所詮は希望でしかなく、また、全人類に対してはしないけれども、という但し書き付きの言葉でしかないのでしょう。個人に対してはひどく近いことをやっていたような覚えがありますからね。
 続く「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」も、慎重にその意味を汲み取る必要があるでしょう。そも洪水は自らの創造物である人間がいつの間にか悪事を企んだり邪な考えも抱くようになったことが原因で起こりました。変な物言いですが、「一回この世界――悪巧みを描く人間に満ちたこの世界をリセットして、そのあとで新しい人間の世界を造り直そう」という神の意向を反映したのが、40日40夜に渡る雨と洪水なのでした。
 <そのあと>の世界の担い手に、神なる主はその世代に於いて唯一義の人であったノアとその家族を選んだ。そうして起きた洪水によって悪を企む輩は一掃されたはず。なのに、神の件の台詞です。それだけ人の心に悪は根強く巣喰っており、いわばDNAに組みこまれたどうにもしようがない本能であり、けっして取り去ることのできないものなのでありましょう。スティーヴン・キングの小説『ザ・スタンド』のテーマの一つは、<解決手段に一つとして本能に組みこまれた暴力>でありますが、旧約聖書を読んでいてたびたびそれを思い起こすことがあったことを告白しておきます。
 ――ケネス・ウォーカー著・安達まみ訳『箱船の航海日誌』(光文社古典新訳文庫)ハノアの方舟と洪水の物語をベースに創作された英国児童文学の傑作ですが、いままでわたくしが申しあげてきたことともつながる部分がありますので、いちど手にして読んでみてください。たぶん作者はこの作品の依頼を受けたとき、<そのあと>の世界にも悪がまだしぶとくあり続け、かつ蔓延していったことに自分なりの見解を与えようとしたのだと思うのであります――スカブという存在を使って。……こんな風なことは別としても、これはなかなかに楽しめる、そうして奥の深い作品。方舟に押しこまれた動物たちが不平不満を募らせ、ノアたちがそれに対して心労を重ねてゆく様子には、本当に頬を緩ませるぐらいの面白さがあります。



 台風18号によって昨日までの生活をなくされた方々へ謹んでお見舞い申しあげます。
 復旧と回復の日が早く訪れて生活が再建されますことを願っております。◆

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第1408日目 〈創世記第7章:〈洪水〉2/3with法政二高吹奏楽部の定期演奏会に行ってきました。〉 [創世記]

 創世記第7章です。

 創7:1-24〈洪水〉2/3
 主がノアにいったこと――、
 これから地は水に満ち、すべての生き物を地の面から拭い去る。わたしはそう決めた。が、義の人ノアよ、あなたは別だ。いまの世代のなかであなただけがわたしに従う人だからだ。ノアよ、清い動物を7つがいと清くない動物を1つがい、空の鳥も7つがい、集めるようになさい。
 ノアは神に従ってその指示を実行した。
 7日後のことである。「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。」(創7:11)雨が40日40夜降り続き、洪水が起こった。妻と息子夫婦、命の霊を持つ肉なるものと一緒にノアは方舟へ乗りこんだ。ノア600歳の年、第2の月17日のことである。
 全地を覆い、地上で動いていた肉なるもの皆を呑みこんで息絶えさせた洪水によって浮かんだ方舟は、それから150日の間漂い続けて第7の月17日にアララト山へ漂着した。

 ノアの方舟の物語でいちばんわれらがよく知る場面ですね。映画であるのか絵本であるのか、アニメであるのかコミックであるのか、そのあたりの別は取り敢えず脇に置くとして。
 恥ずかしいことを申すようですが、本章を読んでいて単純な読み解きが出来ず、しばし考えこむところがありました。一度方舟へ乗ったのにどうしてその直後、再た方舟へ乗りこんだ旨、描写されているのか、と。それは同時に、退勤後に眠気を半分飼っている状態で読んでいると、単純な読み解きもすぐには出来なくなるのか、と、われながら呆れた発見でもあったのですが……。
 とどのつまり、ノアとその一家は洪水に備えてあらかじめ方舟に居を移しておき、いよいよ本格的に洪水が起こったとき乗船したのです。「(ノア600歳のとき洪水が起こり)ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱船に入った。(中略)(ノア600歳の年第2の月17日に)ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の嫁たちも、箱船に入った。(中略)(集めた動物も箱船に入った後)主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(創7:7,13,16)とは即ちそうした意味です。
 本ブログではわたくしの読みの浅さまずさを露呈する文章が幾つもあります。本章へ寄せるこの文章も例外ではない。が、こんなことを恥を忍んで書くことで、自分がちゃんと聖書の一々の物語、一々の書物と向きあって読み進められている、という充足感を感じていることも事実なのであります。



 昨日ですか、川崎のミューザにて行われた法政二高吹奏楽部の定期演奏会に行ってきました。吹奏楽の腹に坐った響きと高校生の若き情熱を全身に浴びて、体のなかから震えが走って止みませんでしたよ。オーケストラもよいけれど、やっぱり吹奏楽もいいよね。修復なったミューザに響き渡った音楽のことは忘れない。◆

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第1407日目 〈創世記第6章:〈洪水〉1/3withS.キング『11/22/63』購入に寄せて。〉 [創世記]

 創世記第6章です。

 創6:1-22〈洪水〉1/3
 地上に人間が多くなり、女も増えた。神の子らは人間の美しい娘をそれぞれ妻とし、ネフィリム(巨人)を拵えた。ネフィリムは太古の名高き英雄たちである。
 主はこうした様子に、自分の霊は人間のなかに留まるべきではない、と考えた。人間は肉にすぎないのだから。――こうして人間の一生は120年と定められた。
 地上に人間の数が増えるにつれ、かれらの間には悪が芽生えて幅を利かせ、かれらの心はいつも悪を企むまでになった。
 主はこれに心を痛め、かつて自分に似せて人間を創造したことを後悔した。いまや地は堕落と不法に満ちていた。人はこの地で堕落の道を歩んでいる。そうして遂に神は、生きとし生けるものを地より拭い去ることに決めた。

 これはノアの物語である。
 神に従う無垢なる者は、その世代でノアただ一人であった。主の好意を得ていたノアは、神の企てを聞き、難を免れるための方舟建造の指示を受けた。
 ノアへの神なる主の言葉、――
 「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊を持つ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。/わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱船に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱船に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。(中略)更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」(創6:17-19,21)
 ノアは神に従ってその指示を実行した。

 方舟の建材はゴフェルの木。長さは300アンマ、幅は50アンマ、高さは30アンマ。上から1アンマの所に明かり取りを作り、船の両舷には戸口を設けよ。船内は三層とし、幾つもの小部屋を作ること。外にも中にもタールを塗ること。
 「アンマ」という単位は本ブログにて何度も触れたところでありますが、旧約聖書ではここが初出なので、改めて。1アンマは約45センチ。つまり長さは約135m、幅は約22.5m、高さは約13.5mとなります。
 ゴフェルの木というのがどんな木であったのかはわかりません。というのも、ゴフェルの木は創6:14でのみ聖書では言及される木だからであります。ただ察するに、洪水前の地上に於いて船を造るに最も適した頑丈で耐水性ある木だったのでありましょうね。これがなんなのか不明なのは、ちょっと残念な気がいたします。
 ところで――ノアっていったいどこに住んでいたのでしょうね?



 スティーヴン・キングの新刊を買ったよ! ケネディ暗殺を扱った時間改変ものの長編『11/22/63』(文藝春秋)です。これの原書ハードカバーを持っているけれど、結局途中まででやめてしまったっけ。『IT』で描かれた事件をバーテンダーが語る場面だったか。
 自分の誕生日がケネディ暗殺と同じ日であることからこの事件には興味を持っていました。祖父が遺したケネディの伝記本を貪り読んで以来、エッセイなり小説なりで自分なりにこの暗殺事件を描いてみたいな、と思うたことも真剣にあったのですが、お察しのようにいつの間にやらそんな夢想はどこかへ消えてしまいました。が、こんな風に書いていると、またぞろ興味が湧いて出て来て、……性懲りもなく書いてみようかな、なんて考えてしまうからまったく以て質が悪い。
 えへ、っと笑ってごまかして、さっさと筆を擱くことにしましょう。
 ではまた明日。ちゃお!◆

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第1406日目 〈創世記第5章:〈アダムの系図〉withブログを続けてゆくにあたって、わたくしの希望、願望、そうして願い。〉 [創世記]

 創世記第5章です。

 創5:1-32〈アダムの系図〉
 神は創造の日々に人を造り、祝福した。人はアダムと名附けられた。
 そのアダムは130歳のとき、息子セトを授かった。アダムはその後、930歳で死んだ。
 セトは105歳のとき、息子エノシュを授かった。セトはその後、912歳で死んだ。
 エノシュは90歳のとき、息子ケナンを授かった。エノシュはその後、905歳で死んだ。
 ケナンは70歳のとき、息子マハラルエルを授かった。ケナンはその後、910歳で死んだ。
 マハラルエルは65歳のとき、息子イエレドを授かった。マハラルエルはその後、895歳で死んだ。
 イエレドは162歳のとき、息子エノクを授かった。イエレドはその後、962歳で死んだ。
 エノクは65歳のとき、息子メトシェラを授かった。エノクはその名の通り(「従う者」)、神と共に歩み、神に取られていなくなった。かれは365年生きた。
 メトシェラは187歳のとき、息子レメクを授かった。メトシェラは969歳で死んだ。
 レメクは182歳のとき、息子ノアを授かった。レメクは777歳で死んだ。
 ――いずれも皆、名を挙げた他にも息子、娘をそれぞれ設けた。
 さて、ノアであるが。かれが生まれたとき、父レメクは、主の呪いを受けた大地で働くわれらの手の労苦を、きっとこの子が慰めてくれることだろう、と希望した。ノアとは「慰め」の意味である。
 このノアは500歳のとき、セト、ハム、ヤフェトという3人の息子を授かった。
 ……そうして全地を粛正するが如き、大洪水とそれに伴うノアの物語が始まる。

 聖書の特徴の一つ、<系図をだらだらずらずら、バカ正直に全部書いてみた>の第一弾が本章<アダムの系図>であります。もう少し正直にいうなら、アダム-カインとアベル兄弟に続くものではなく、アダム-セト-エノシュと続く聖書の中心を担ってゆく人々の父祖の系図――いわば第二の系図です。
 かつてカインの子(アダムの孫)にエノクがいた。エノクの玄孫にレメクがいた。アダムからノアに至る系図のなかにもエノクとレメクの名がある。短期間で同名の者が登場すると、折りにつけ混乱しがちだけれど、勿論別人であります。
 本章で述べられるアダムの系図に連なるエノクだけが何歳で死んだ、という説明がありません。というのも、神に従って共に歩き、神が取ったからである。「取った」という語にどれだけの意味合いが含められるのか、わかりませんけれど、その説明ゆえに後の人々に好んで(?)語られる人物となったのでありました。長き歳月のあと、北王国イスラエルに現れた預言者エリヤの原型ともいえましょう。
 ノアについては次章から始まる洪水と流離の物語のなかで、述べるべきことあらば述べようと思います。レメクの台詞は創3:17と創4:11を踏まえてのそれであります。



 書く以上は読者に対して責任がある。定時更新を実行してきたのに同じ時間に新しい記事があがっていないと、もしかするとがっかりしたり、もう二度とここへは来ないという人がいるかもしれない。そんな恐れを抱いて、それゆえの義務と愉悦を抱いて、飲んだくれて帰宅した午前1時前に、カップラーメン啜って原稿を書いています。それは礼儀ですよね。でもなぜこうまでしてブログを更新するかといえば、やはり読者を失いたくなくて、読者を繋ぎとめておきたくて、しかしそれ以上に読者を獲得し続けてゆきたい、という願望の表れかな。こんな風になっても前に進む。だから読者諸兄よ、許す範囲で一緒に前に進んでほしい。これがわたくしの希望、願望、そうして願い。ダメかな?◆

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第1405日目 〈創世記第4章:〈カインとアベル〉withそこまで薄情にはなれないよ。〉 [創世記]

 創世記第4章です。

 創4:1-26〈カインとアベル〉
 アダムは妻エバを知った。エバは夫アダムを知った。エバはカインを産み、アベルを産んだ。兄カインは羊を飼い、弟アベルは土を耕した。
 時が経ち、カインは農作物を献げ物として主にささげた。アベルは羊の群れから初子を選んで主にささげた。主はカインの献げ物に目を留めることはなく、アベルの献げ物に目を留めた。これに兄は怒った。そうして顔を伏せた。これを見た主がいった、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創4:6-7)
 怒りの収まらぬカインは或る日、野原にてアベルを襲って殺した。
 主がカインに訊いた、アベルはどこにいるのか、と。カインは、知らない、と答えた。わたしは弟のお守りではない。すると主がいった、なんということだ、アベルの血が土のなかからわたしに叫んでいる、と。わたしはお前を呪われた者とする、弟の血を吸いこんだ土よりもなお呪われた者とする。土を耕しても作物が獲れることはなく、お前は地上を流離う者となる。
 わたしの罪は重すぎて背負いきれません、とカインはいった。ここから追放されて地上を彷徨う者となれば、わたしが出会う人は皆わたしを殺すことでしょう。それに対して主は、それゆえにお前を殺す者はその7倍の復讐を受けるだろう、といい、今後かれと出会う者がかれを殺したりしないよう、カインにしるしを付けた。
 こうしてカインはエデンを去り、流離った末にエデンの東にあるノドの地に住んだ。ノドとは「さすらい」の意味である。その地でカインは妻を知り、息子エノクを授かった。カインは町を建てたが息子に因んで「エノク」と命名した。
 エノクから4代あとの子孫、レメクはアダとツィラという2人の妻を娶った。アダはヤバルとユバルの兄弟を産み、ヤバルは家畜を飼い天幕に住む者の先祖となり、ユバルは竪琴や笛を奏でる者の先祖となった。ツィラもトバル・カインという子を産み、青銅や鉄で様々な道具を作る者の先祖となった。トバル・カインにはナアマという妹もいた。
 レメクは2人の妻にいった。「わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。/カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」(創4:23-24)
 エバに次いでアダムは妻を知った。男児が産まれ、セトと名附けられた。カインがアベルを殺したため、神がかれに代わる子をアダムに与えたのである。このとき、アダムは130歳であった。セトも男児を得、エノシュと名附けられた。人が主の御名を呼び始めたのは、この頃からのことである。

 最後の節のアダムの子孫は付け足しと思いきや、実はそうでないことがすぐに明かされる。ここで歴史は修正され、軌道に戻ったのだ。神があらかじめ規定していた未来に軌道が修正されるための情報が、最後の節でわれらに提示される。これ以後の聖書の中心を流れる人物の系譜は、アダム-セト-エノシュの血筋から――真の意味で――始まるのだ。
 アダムとエバの一夫一婦制からカインの多婚制まではずいぶんと一足飛びであるな、との印象を受けますが、一世代で神の意向に背く社会風習を確立させてしまった点で人間の罪の深さを端的ながらも思い知らされる感がいたします。人間は造られた当初から罪ある存在であり、<愛>に背く者として、少なくとも聖書では描かれているようであります。それはずっと後の新約聖書の時代まで受け継がれ、イエスの死を以てしても贖いきれなかったことでありました。斯様に汚濁末法の時代の続くなかにあってこそ、主の目に正しいと映ることを行った人の存在がやたらとクローズアップされ、かつ後の時代にまで語られてゆくのでありましょうね……。
 なぜ神はアベルの献げ物を是とし、カインのそれを退けたのか。詳しくは語られていませんが、アベルの行いが神の目に良しと映ることであったためでしょう。まだ「創世記」では明文化されていない献げ物の規定が、本章にて物語の形を借りて定められている点を踏まえると、特に「レビ記」でしつこいまでに説明される献げ物の規定が少しはわかりやすく、抵抗なく、興味を持って読めるように思います。
 「骨肉相食む」と申しますが、西洋に於いてはこの兄弟の挿話が起源なのでしょう。親の愛を巡って兄弟で争うことを“カイン・コンプレックス”と呼ぶそうですが、そういえば『古事記』にも似たようなお話があったなぁ。
 ――<カインとアベル>と来てわたくしがすぐに思い浮かぶのは、ジョン・スタインベック『エデンの東』であります。J.ディーン主演の映画でも有名で、今世紀初めに新訳が刊行されましたけれど、これはカインとアベルの争いをモティーフにした長編小説でした。これを読んだ当時は旧約聖書はおろか、カインとアベルの話もろくに知らなかったのでそのあたりは特に注意を払わずに読んでいましたが、こうして旧約聖書を読んでおり今日こうやって<カインとアベル>の話を読んだので、たとえば年末の休みになど時間を割くことが出来れば読み返してみたく思うております。
 そういえばジェフリー・アーチャーにもこれをモティーフにした『ケインとアベル』という長編小説がありました。高校生のときに手を出して読んでみましたがどうにも馴染めず上巻だけで挫折し、それっきりです。こちらはどうも読み返そうという気がしないのは、やはり好みの問題でしょうか。
 珍しく本稿はノートPCで書いてみました。この方法にも馴れておかないとな。



 恋人の裸を見知らぬ不特定多数の他人が見て興奮しているのかと思うと腹が立つ。
 それがカノジョの仕事だろ、割り切れよ、見られてナンボ・勃たせてナンボの世界で生きてるんだから綺麗事ぬかすなよ。そんな言葉を頂いてきました。彼女の仕事が受け入れられないなら別れろよ。そんな言葉も頂きました。
 斯様な言葉を寄せてくださった皆さんが羨ましい、どれだけ情を交わしても将来を約束した彼女の仕事がAV女優だったら後腐れなくさっぱり離縁できるのだから。これまでのことをすべてなかったことにして自分上位で別れを切り出せるのだから。残念ながらわたくしはそこまで薄情にも冷たくもなれません。
 とはいえ、そろそろカウント・ダウン開始かな……?◆

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第1404日目 〈創世記第3章:〈蛇の誘惑〉with癒しの歌;和久井映見『心に花が咲くように』を聴きました。〉 [創世記]

 創世記第3章です。

 創3:1-24〈蛇の誘惑〉
 第六の日、主なる神は野の生き物を造った。そのなかで、いちばん賢いのは蛇であった。その蛇が、人即ちアダムのあばら骨から造られた女に訊ねた。神は、園のどの木からも食べてはいけない、といったのか。女が答えた。いいえ、園のどの木からも食べてよいといわれています。しかし神様は、園の中心にある木の果実だけは食べてはならない、触れてもいけない、といいました。死んでしまうから。
 蛇は否定した。死ぬことはけっしてない。神はな、お前たちが自分たちのような善悪を知る者となるのを危惧するから、食べるな、といったのだ。
 それを聞いたあと、女は件の木を眺めた。そこに実る果実はとても美味そうに女の目に映った。それは賢くなるよう唆しているみたいだった。誘惑が彼女を襲った。遂に女は善悪の知識の木から実をもいで食べ、それをアダムにも手渡して食べさせた。――2人の目は途端、開かれた。自分たちが裸であるのを知ったかれらはいちじくの葉を綴り合わせて、腰を覆うものとした。
 その日の風の吹く頃である。アダムと女は主なる神が園を歩く音を耳にした。かれらは神の顔を避けて木の間に隠れた。神は立ち止まり、アダムを呼んだ。どこにいるのか。
 ――どこにいるのか、と神が問うて、アダムはおずおずと木の間より姿を現した、わたしはここです、ここにいます。隠れていました、裸なので。
 神が訊ねた。誰がお前が裸であると教えたのか、食べるな、と命じておいた木の実を食べたのか。アダムは、女から渡されたのでその実を食べました、と白状し、女は蛇が私を唆したのです、と告白した。
 それを聞いて神は憤った。蛇を呼び出して詰り、あらゆる野の獣のうちで最も呪われる存在(もの)とした。お前は生涯地を這いまわり、塵を喰らうようになる。
 神はそのあとで、女に孕みと産みの苦しみを与え、男を求め、男に隷属する存在とした。男は、生涯食べ物を得ようと苦しむ存在とされた。「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。/お前がそこから取られた土に。/塵にすぎないお前は塵に返る。」(創3:19)
 ――エバ。アダムによって女はそう名附けられた。その意味は「命」。エバは命あるすべてのものの母となったからである。主なる神はアダムとエバに皮の衣を作って着せた。
 「主なる神は言われた。/『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』/主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:22-24)

 蛇はサタンとされます。サタンが蛇に己を擬して女/エバに近附き、誘惑したのだ、といいます。これが人間を神の愛すべき創造物の座から転落する要因となりました。原罪とはこれであります。
 なによりも神が恐れたのは、自分の創造物である人間が自分に匹敵する、もしくは自分を凌駕する存在となることでありました。それゆえに園の中心にあった木の実を食べることを禁じた。約束が破られたり、破られそうになると、神は人間を園から追放した。創造主ならではの危惧といえましょう、創造主ならではの手段と申せましょう。こうして人は楽園を追放され、永い永い歴程の一歩を刻んだのでありました。
 追放されたと明記されるのはアダムだけですが、エバも一緒にエデンの園をあとにしていますよね、きっと。それとも他の翻訳だとそのあたりは補われているのかな。アダムとエバは互いを知り、カインとアベルの兄弟を設けます。が、それは明日のお話です。



 iPodへ最初に入れたCDの一つが和久井映見の『心に花が咲くように』だった。彼女の歌は聴いたことのない人がほとんどかもしれないけれど、じつは歌手歴十年を誇る、れっきとしたJ-POPの一人なのである。
 この11枚目のアルバムに収められた歌を聴いていると、ささいなことで塞ぎこんだり、悩んでいても、いいんだよ、それが生きているってことなんだから、と慰められ、明日からも頑張ろうね、と励まされる。こんな自分は少しばかり単純で、ネガティブな性質の持ち主なのだろう。それだからこそ、和久井映見の歌は生活必需品に等しいのかもしれない。
 朝の目覚めの刻、彼女の歌声で目を覚ますのは、最も甘美な時間の一つだ。いたずらに神経をたかぶらされることのない穏やかで、ぬくもりを感じさせられる歌声には、なにものにも代え難い<ヒーリング>の力が、確かにある。
 一日の始まりにも終わりにも、原稿書きの手が空いた隙間時間にも、気附けばこの人のアルバムへ手を伸ばし、耳を傾けるのは、そんな理由からなのかもしれない。◆

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