第2580日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉2/3 [日々の思い・独り言]

 ここで一つ提案、『暗黒館の殺人』を読み終えたらば改めて『十角館の殺人』を読んでみよう。というのも『暗黒館の殺人』はシリーズ最重要人物の語られざる物語であり、或る意味で本作がシリーズ出発点となっているからだ。『十角館の殺人』は新装改訂版を用うべし。
 九州は大分県、S半島J崎の沖合約5キロの海上に浮かぶ、角島。そこに建つ洋館(青屋敷)で或る建築家が殺された。中村青司。享年46。1985年9月20日未明のこと。犯人は行方不明の庭師と目されたが、その死にまつわる諸々に疑念を抱いた人物が2人──当時まだ大学生であった江南孝明と鹿谷門美を名乗る前の島田潔である。かれら素人探偵は事件で唯一死体の発見されていない庭師、その未亡人を大分県の安心院に訪ねる。その折彼女が洩らした台詞──青司は子供が好きでなかったのではないか、てふ一言が、角島の事件に新たな光を投げかけた。
 結果、2人が辿り着いたのは、急性アルコール中毒で急死した青司の娘千織は中村青司の妻とかれの弟の間にできた不義密通の結晶であったこと、角島での殺人・放火事件も庭師の犯行ではなく中村青司が使用人と妻を殺害してその後自らも焼身自殺を遂げ、同時に青屋敷も全焼したのだ、という図式に変わったことである。──1985年9月にあった事件のおさらいをした。
 以下、『暗黒館の殺人』を踏まえたお話になる。中村青司が娘を好きになれなかったのは、彼女が実子ではないだろうという推測から逃れられなかったことに加えて、もし彼女が実子だったらかつて浦登邸で口にした<ダリアの肉>、玄児の輸血によって胎内に取り込む結果となった<ダリアの血>ゆえに、千織も<不死の血>……それは呪縛かもしれない……が体内に流れる存在なのかもしれない、と恐れを抱いたからでなかったか。幸いに(?)娘は事故死だったので<復活>は免れたものの、却ってそれが中村青司のなかでなにかのスイッチが入るきっかけとなり、件の凶行へ駆り立てたのかもしれない。
 が、それはダリアの呪縛を己の死を以て絶とうとしたからだ、とはどうしても思えない。自殺した者は生者にあらず死者にあらず、この世に在って惑い続ける存在となるゆえに──中村青司も暗黒館で知っていたはずの、<ダリアの肉>を食した者の逃れられぬ定め──。
 そこで注目されるべきは、中村青司が死の直前に弟へ掛けてきた電話での台詞だ。曰く、自分たちはいよいよ新しい段階を目指す。曰く、大いなる闇の祝福が云々。なんの予備知識も与えられていない第三者にはチンプンカンプンな内容だけれど、『暗黒館の殺人』のあとで『十角館の殺人』を読み返すなら否応なくこの台詞にぴん、と来る。即ち、<ダリアの宴>の結果を意識した台詞──遺言──頌(オード)なのだ。なお、この箇所は新装改訂版の刊行に伴い加筆された。
 ところで、なぜ中村青司は自邸の離れとして、よりにもよって十角形の建物を建てたのか。角島の屋敷と十角館、湖の小島の暗黒館と十角塔。思うにかれは、浦登家の人々を、就中浦登玄児のためのモニュメントとして建築したのだろう。再建にかかわった暗黒館の各館を<惑いの檻>を中心に交差する廊下(十角塔から見おろすと、十字架を模した形になる)でつないだのと同じ想いから。……『十角館の殺人』の初稿タイトルはそういえば、『追悼の島』でしたね。
 『暗黒館の殺人』の「中也」が語り手を務めるメイン・パートが終わった瞬間から、中村青司と<館>シリーズの物語が新しく始まる。となると、最大級の疑問が脳裏をかすめて、やがてじわじわと侵食して中心に居坐るようになる──即ち、果たしてかれ中村青司は本当に死亡したのか? 暗黒館の中庭の<惑いの檻>で他の者同様未だかれも惑い続けてこの地上にいるのだろうか? ……生きることも死ぬこともできず……なんとなればかれも<ダリアの宴>に列なり、<ダリアの肉>を食した者であり、玄児経由で<不死の血>を体内に取りこんだ「仲間」なのだから。玄児がいみじくもこぼしたように、──「いったんは去っても、君はここに帰ってくる。俺には分かる。今は否定し、拒否しようとしていても、いずれはすべてを受け入れ、帰ってくる」(第3巻 P154)──ついでに触れれば、作者は『水車館の殺人』旧文庫版の「あとがき」でぼやいている。曰く、いっそ中村青司を生死不明にしてしまおうか云々、と。
 もう一つ。『十角館の殺人』にて中村青司が妻の左手を切り落としたのは、ダリアや玄児の左手首にあった傷、<聖痕>を意識したか、それとつながるなんらかの事情ありきの行為だったのかもしれない。……と、これはただ、ふと思うたまでのこと。□

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第2579日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉1/3 [日々の思い・独り言]

 この感想を書くにあたってどうしてもカバンへ入れて持ち運ぶ必要があるため、古本屋で講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』上下巻を買ってきた。それから折につけノベルス版であれ文庫版であれ読み返してみて、やはり『暗黒館の殺人』を傑作だと信じて疑わぬ思いに揺らぎはなかった。
 ──いつかやってみたかった、浅倉久志による『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)「訳者あとがき」の一節の模倣で本稿を始めたのは、他でもない、これまでに読んできた綾辻行人の諸作のうちでこれ程、「傑作」という呼称を問答無用で冠すに相応しいものが(すくなくともわたくしには)見当たらないからである。
 5月いっぱいを費やして物語の世界に沈潜していた時間は、とても幸福だった。現実ではいろいろあったけれど、物語のなかへ潜りこんでいる時間はしあわせだった。物語の世界に足を踏み入れて種々諸々の意味で幸福と悦楽を実感したことは、2017年に於けるわたくしの読書体験でもおよそ最たるものとなるだろう……。
 幸福だった、という理由の一つはこういうことでもある──こちらが抱く、犯人はこの人だろうか、こんなトリックではないか、などと考えても、それらがことごとく、見事に外れてゆくことで尚更、一語一行、一文、行間を丹念に読み、或いは前の方を読み返して検討するのだけれど、やはり凡百の頭では真相を見出し、そこへ辿り着くのは難しく、そうしてそれは二度、三度と繰り返され。
 こんなわけだから、文庫版第4巻の中葉あたりから徐々に、いい方を変えればそこそこ露骨に全体像が窺えてきたときは、新緑の気持ち良い時節だというのに、思わず薄ら寒くなり、肌に粟粒が浮かんできたよ。同時に、興奮と驚愕のつるべ打ちに脳みそは沸騰して体は火照り続け、昂ぶるばかりの心を鎮めるため途中で敢えて読みささねばならなかったこともしばしばで。
 文庫版「あとがき」にて作者自ら曰うこの件り──「(この『暗黒館の殺人』は)何と凄まじくも僕好みの傑作であることか」には惑うことなく首肯したわたくしなのだけれども、実はこの作品、インターネット上では賛否両論、いや、悪罵の方が目立つ印象のある作品でもあった。
 たしかにミステリ小説として読むならば、明快な真相究明と結末を求めるならば、最後まで読んだあとで「ふざけんな!」と怒り心頭に発して本を床なり壁なりに叩きつけたことだろうが、21世紀になって以後、ハイブリッドというかジャンル・ミックスされた作風、内容の小説がとみに顕在化してきたことを併せて考えればわたくしは『暗黒館の殺人』を謎解き小説として読むことはどうしてもできないし、またそう読むべきでもないだろうなぁ、と考える。
 『暗黒館の殺人』に頻出する<謎>の多くは誰彼によって真相が暴かれないまま──というよりも、そんな如何にも人智の枠内での解決や説明を拒絶する/寄せ付けない類の、人間が踏みこむべきでない領域に属する類の<謎>であるゆえに、最後の最後まで、それこそ読了して巻を閉じたあとまで一種、異様な空気のなかへ在り続けるのだ。物語の幕切れでいみじくも江南孝明が述懐するように、そこは僕たちが──人間が近附いてはならない場所であるゆえに。
 むろん、ミステリの体裁を採っていながらミステリでもオカルトでもなく……てふ中途半端ぶりを指して「駄作」と評したい向きの気持ちもわからないでもないが、受け取るばかりで思考を停止させた読み方も果たしてどうなのか、と考えさせられますな。
 『暗黒館の殺人』を傑作たらしめている要因の一つは、自在に分裂して個々の登場人物のなかに入りこんだり、時間を行ったり来たりすることのできる<視点>の導入にある。マルチ・キャラクターによるマルチ・プロットという方法を採り難い(『暗黒館の殺人』の)物語構造である以上、澱みなく、滞りなく、語られるべきことが語らしめられるためには<視点>の採用と活用が不可避であった。
 この<視点>を採用した長編小説の書き手には、たとえばチャールズ・ディケンズやスティーヴン・キングがいるけれど(ウィリアム・サッカレーもいたか)、そこそこ長くて、そこそこ入り組んだ物語を破綻なく語るためには、時としてこのように全能とさえいうてよいカメラの存在が不可欠になる。もし<視点>という突破口を見出すことができなかったら『暗黒館の殺人』は<館>シリーズ屈指の失敗作となっていたのではないか。もっとも、この<視点>の採用ゆえに「読みにくい」という声もあるのだろうけれど、それ程のものであろうか?□

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第2578日目 〈綾辻行人『黒猫館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 “黒猫館”といえばわたくしの世代には悶々とした感情を抱かれる方もおられよう。人里離れた場所に建つ妖しの洋館。そこで営まれる背徳と淫靡の生活。いまにして思えば、人生初のメイドさん萌え……。わたくしが書きたい物語の或る方向に於ける目標は、この、戦前の雪深い山中に建つ洋館を舞台とする物語にあったのだ。それはいまも変わることなくあり続けており──
 ──さて、マクラはここまでにして、綾辻行人『黒猫館の殺人』である。
 宿泊していたホテルの火災によって記憶をなくした老人、鮎田冬馬から一冊の手記をあずかった江南孝明と鹿谷門美。それを読んで自分の正体と書かれた内容が事実なのか、回答を導き出して自分に教えてほしい──鮎田は2人にそう依頼した。手記には、鮎田老人が雪深く人里離れた地に建つ洋館<黒猫館>の管理人として独り住まわっていること、館のオーナーの息子とそのバンド仲間が滞在することになったいきさつとかれらの無軌道な言動、かれらが現地で若い独り旅の女性をナンパしたこと、その夜館の大広間でかれらがドラッグに耽り誰かが女性を殺害してしまったこと、その後館の地下で白骨死体が発見されかつ1人が後に命を落としたこと、が記されていた。
 『黒猫館の殺人』を読むにあたって自身も推理合戦に参加したい、という向きは、新装改訂版の帯に特筆された「全編に張り巡らされた伏線の妙」を常に念頭に置きながら、けっして読み急ぐことなく都度都度立ち止まりながらページを繰ってゆくことをお奨めする。
 作者が仕掛けたトリックはまさに空前絶後、なんとスケールのでかい大技であることか……と嗟嘆せざるを得ない類のものだ。『人形館の殺人』程ではないものの、読者の賛否がこれまたはっきり分かれる作品であろう。本作がオマージュをささげるのがエラリー・クイーンの中編「神の灯」だけれど、スケールでは『黒猫館の殺人』の方がはるかに凌駕する。凌駕したからなんなのだ、といわれても困るけれど、判明した途端に椅子からずり落ち、或いはのけ反って天を仰ぐこと必至。そうして、設計士・中村青司と依頼主・天羽辰也の常識外れな企てにツッコミの一つも入れたくなってしまうのだ。
 鮎田老人が鹿谷たちへ託した手記(奇数章で語られる)は犯人当てミステリの<問題編>で、偶数章での鹿谷門美&江南孝明の行動は真相解明の調査と推理である。読者よ、奇数章で語られる事柄に疑問を抱け。読者よ、偶数章で判明してゆく事実と手記の齟齬に気附いて真相を看破せよ。そうして読者よ、<回答編>に相当する「エピローグ」を充足の溜め息と共に読み終えたまへ。
 真相解明の手掛かりはなにか、ですと? それは言わぬが花だ。ミステリ小説の書評や感想を書くのは難しい。ストーリーとトリックについてどこまで語っても構わないか。ネタバレにつながることは一切書かない方がいいのか、それとも細心の注意を払いさえすればぎりぎりのところまで筆を進めてよいのか。これらの点に自分なりの折り合いをつけられない限り、真相解明の手掛かりは? と訊かれても返す言葉はなにもない。
 あるとすれば……そうね、中村青司が恩師神代教授に依頼主を評して曰うた「あれはどじすんですね」(P152)と、むかし依頼主が神代教授に己のことを述懐した際の台詞、「私は鏡の世界の住人だ」(P238)、かなぁ。嗚呼、わたくしはもう口を閉ざすべきだ。作者のこの言葉──「ある程度の読者が八十パーセントまでは見抜けるかもしれないが、問題は残りの二十パーセントにこそありますぞ」(P417)を紹介した上で。
 感想の筆を擱く前に、「ミステリ小説の読者あるある」に第8章で遭遇して、思わず、これって自分のことだ、と深く深く首肯させられた一節のあったことをお伝えしておきたい。黒猫館で発生した密室殺人の現場調査での江南による、あまりに正直過ぎる述懐。曰く、「時刻表を使ったアリバイトリックと同じで、まあどうにかしたんだろうな、という気分になってしまって、種明かしをされても『ふーん』としか思えないのである」(P321)と。身に覚えのある読者も多くおられることだろう。もしかするとこの一節、骨の髄からのミステリ小説作家、綾辻行人からの苦言なのかもしれないね。
 ──ところで、千街昌之の解説を読んで、いったいどれだけの人が前作『時計館の殺人』を読み返しただろう。たしかに『黒猫館の殺人』の真相そうしてトリックの背景と成立のための前提条件は既に『時計館の殺人』に埋めこまれていた。それは<回答編>「エピローグ」につながってゆく事柄でもあった……。
 もう一つ、ついでに。第4章;神代教授が「自分の影響か知らないが」と前置きした上で、若き中村青司はイタリアの建築家、ジュリアン・ニコロディに関心を持っていたと話す(P139)。むろん、『暗黒館の殺人』でかの館の建築に影響を与えた異郷の建築家として名が出る人物である。こちらの感想はまだお披露目していないから、これ以上は書くのを控えよう。まぁ、<館>シリーズを順番に読んでこそ得られる愉しみの一つを『黒猫館の殺人』も備えているのだ、と申しておきましょう。◆

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第2577日目 〈綾辻行人『時計館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 シリーズ第5の館のお目見えである。
 『時計館の殺人』の舞台は鎌倉今泉、時計屋敷(時計館)。館は大きく3棟に分かれ、玄関と時計塔があるのが1979年以後に増築された<新館>、初代館主の古時計コレクションがずらりと飾られて今回の惨劇の主会場となる1974年に立てられた<旧館>、そこと廊下で結ばれた先にある開かずの間<振り子の部屋>。
 時計塔に設けられた時計盤は、しかし中庭を向いており、しかもいま針は長短いずれも外されてしまっている。まだ針が備わっていた時分の時計盤を見る機会のあった者はいつでも好き勝手な時間を射しているように見えたものだから、「きまぐれ時計」と呼んでいた(ここ、解決編に至って重要となる指摘)。そうしてシリーズのお約束として、初代館主の依頼を受けて旧館・新館いずれも中村青司の設計になる。
 ──“いま巷で評判の美人霊能者と、曰く付きの洋館で交霊会をやろう!” 物語の発端を有り体にいうてしまえば、こうなる。舞台は鎌倉今泉、時計屋敷(時計館)……とはしつこいか。向かうは交霊会を企画したオカルト雑誌の取材チームと、大学のミステリー研究会(実態は超常現象愛好会)の面々。先に現地入りしていた霊能者と合流した一行は以後3日間、密室状態となった<旧館>にて外部との接触を一切断って、館に棲みつくという少女の亡霊とのコンタクトに臨む──のだが、程なくして第一の、続けて第二、第三の殺人事件が発生。おまけに唯一、いずれの犯行が可能であった人物は早々に失踪してしまい。
 斯くして……交霊会ご一行様、赴きし中村青司の館にて謂われなき──と当初は思われた──連続殺人の犠牲者となりにけり(免れし者もありとは雖も)。
 ……改めて感想を書くために読み返してみると、もうプロローグから露骨なまでに伏線が張られていることにびっくり。その堂々ぶりに却ってこちらはあたふたしてしまうのである……そんな書き方じゃすぐにトリックも真相も見破られちゃうよ! とあらぬ心配を抱きつつ。ミステリ小説を読むに年季の入った御仁ならば、それこそ上巻2/3あたりで幾つかの小さな真相を看破し、かつメイントリックにかかわる仕掛けに気附いて限りなく正解へ近附けてしまうのではないか、というぐらいの堂々ぶりだ。なのに、どうあってもはぐらかされてしまうのに嫌気がさして、挙げ句の果てにはこれがミステリ小説の読者のあるべき姿かもしれないな、と取り繕ってみたりして。
 正直なところを申しあげればですね、遅まきながらわたくしも下巻を半分ぐらいまで読んだところでメイントリックについては察しがついたのですよ。賊に狙われた参加者の一人がお馴染み、秘密の抜け道を通って納骨堂の外に広がる光景を見て驚いた場面じゃった。以下、一部ネタバレな文章になるけれど(『時計館の殺人』未読の方はここから数行を読み飛ばしていただいて構わぬが、読んでしまっても気にすんな。神林しおり嬢もいうておる、読んでいない小説のネタバレなんて記憶に残らない、と[施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第3巻P20 一迅社REXコミックス 2016.11]。だから読んでしまわれてもまるで問題はない。安心して)、昼夜が逆転しているという事態に、108個の古時計が刻んで知らせる<旧館>での時間の流れとグリニッジ標準時が示す外の世界の時間の流れが異なっていること以外、どんな理由を与えられるのか。
 が、さすがにこのメイントリックの全貌──ねじ曲げられた時間が統べる虚構の世界はなぜ作られたのか、それが真実だと思いこませるため敷地内の隅々にまで施された造作の数々はどうして必要だったのか──までは見破ることができなかった。残念、残念。
 本作に於けるメイントリックとは前述の通り、時間の流れ方が<旧館>の内と外とでは異なる、というものだが、実はこれ、犯人が意図して拵えたわけではない。先代(初代)館主、古峨倫典がやがて死ぬべき運命を負わされた一人娘、永遠の夢をかなえてやるためにあつらえた、狂おしいまでの愛情の産物だったのだ。別の単語で表現すれば、即ち「妄執」という。
 永遠の夢──それは16歳の誕生日に母のウェディング・ドレスを着て婚約者と結婚すること。が、昔から信頼していた占い師の口から永遠が16歳の誕生日を迎えることなく死亡することを聞かされた父の胸は、信じたくない気持ちと信じざるを得ない気持ちに苛まされ、引き裂かれんばかりとなった。というのも、かつて占い師が永遠の母の死期を占い、その通りになったのを古峨倫典は忘れていないからだ。そうして永遠にまつわる占いを裏付けるかのように翌年、少女は完治不可の難病「再生不良性貧血」と診断されてしまった……。そこで父は考えた、要するに娘が16歳の誕生日を迎えて結婚式を挙げられれば良いのだ、と。斯くして古峨倫典は資産を投じて時計館<旧館>の設計を中村青司に依頼。完成してからは館内の古時計すべてを、実際よりも早く時間を刻むよう調整、永遠をそこへ幽閉した。
 斯様にして古峨永遠はそこで正確な時間を知ることなく、季節の花々、移ろう季節を楽しむことなく、「本当の時間」というものから徹底的に切り離された環境で成長するのだが、死の直前、10年前の夏の日に敷地内に迷いこんでいた子供たちから実際の年月日を知ってしまう。すべてのからくりに気附いて絶望した永遠は、なかば錯乱して挙げ句に自死を遂げたのだった──。件の子供たちが長じて時計館を訪れたミステリー研究会の中心人物たちであることは、既に述べた。
 自分が永遠のために構築した世界を壊された古峨倫典は、娘に死のきっかけを与えたかの子供たちの名前を調べあげて日記にかれらの名前を、フルネームで書き綴った。愛娘を亡くした哀しみと死に追いやった連衆への憎悪のなかで。為に古俄倫典は「私はやはり、彼らを憎まないわけにはいかない」と無念の思いを滲ませる文章を残さなくてはならなかった……。
 当初は今回の連続殺人、父から聞いたか或いは偶然からか、永遠の自死がミステリー研究会の面々に原因があると信じて疑わなかった永遠の弟、由季弥が非道なる下手人と思われたが……然に非ず。真犯人は別にいた。犯行の動機も、また別にあった。学生たちは10年前の夏の日、我知らずして古峨家の関係者をもう一人、死に至らしめていたのだった。
 ──と、ここまで書いたところで恐縮だが、真犯人は誰か? 動機は? 殺害方法は? エトセトラエトセトラ、本稿では語らず触れず済ますとしよう。時計館<旧館>に閉じこめられた江南孝明と行動を共にして事件の経過をつぶさに観察して、鹿谷と一緒に時計館の外或いは時計館<新館>で提示された手掛かりと記述の齟齬を見落とすことなく検めて、謎解きを愉しまれるがよい。
 なお、講談社ノベルス版「あとがき」にてシリーズ第一期〆括りと位置附けられた本作は、1992年3月、第45回日本推理作家協会賞長編賞を受賞した。◆

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第2576日目 〈鎌倉の古我邸のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 あなたはJR横須賀線を使ってここへ来たのだろうか。それとも江ノ電? まぁどちらでも構わない、電車を降りたら西口に出て、目の前のバス道路を市役所前の交差点まで歩こう。信号を右方向へ折れ、道なりに150メートル程北へ。そうすると、鎌工会館ビルを右斜め前に臨む十字路へ出る。そこを左に曲がって日本キリスト教会鎌倉栄光教会の前を通り過ぎて歩くこと、約60メートル。厳めしい鉄製の両開き扉の前に出る。
 そうして扉の柵の間から奥を窺うと、<ザ・洋館>としか言い様のない建物を目にするはずだ。ここが「鎌倉三大洋館」で近頃まで唯一非公開を守り続けた古我邸である。数年前に当主が逝去されたあとは取り壊しの話もあったようだが、現在は装い新たにフレンチ・レストランとして新しい一歩を踏み出している由。
 もとより鎌倉散策の名所、隠れた観光スポットとして知られていた古我邸の前を一時期、明らかに異質な面子が邸の写真を撮ったり、同行者と顔を寄せ合い恍惚の表情(?)を浮かべて何事かを囁き交わしている光景を、扇ガ谷のあたりを散策路としていたわたくしは、確かに見たことがある。当時は「聖地巡礼」なんて言葉、一般化していなかったから、なにかのドラマや映画にでも使われたのかなぁ、ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、20世紀から21世紀になり、今年2017年になってようやっとわたくしは、あのときかれらを古我邸前まで来させたその原動力がなんだったのかを知った。
 あれはやはり「聖地巡礼」だったのだ。そうしてわたくしもつい最近、改めて同じことをしてきた。散策に使わなくなってずいぶんとなるけれど、あたりの景観はまるで変わることなく、そこに在り続けていたものだから、駅を出てからこちらへ来るまでのふとした瞬間にタイムスリップしてしまうたかと錯覚した程だ。そうしてかの古我邸も前述の通りフレンチレストランとして生まれ変わり、相変わらず深い新緑の森を背中にして、そこへ静かに建っていた……。
 そうか、この見馴れた古我邸が時計館のモデルになったのか。自分が立つのとあまり変わらぬ位置に、鮎川哲也と綾辻行人が立っていたのか。そんな風な感慨に浸りながら、その一方でかつて目撃した、ここに足を運んで写真撮影したり、何事かを囁き交わす人々の光景を思い出す。成程、所がわかっていれば熱心なファンなら一目見たい気分にはなるよなぁ……。
 古我邸は現在フレンチ・レストランとしてランチもディナーも行っているが、前庭(オープンエアテラス)でカフェも楽しめる。残念なことに本稿執筆の時点ではカフェでのランチは行っていない様子だが、いまの季節、源氏山から新緑の森を吹き抜けてくる風を感じながら、スパークリング・ワインや鎌倉ビール、或いはコーヒーなど味わいながら、いっときの至福を堪能してみては如何だろう。
 次は『時計館の殺人』にて鹿谷門美が立ち寄った極楽寺にある<純喫茶A>訪問の記録(?)でも綴ろうか、と企んでいる(けっして『時計館の殺人』感想の筆が遅れているがための苦肉の策ではない)。ネット情報は見ていないが、土地勘頼りにたぶんあすこだろう、という見当はついている。江ノ電沿いの坂道の……。◆

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第2575日目 〈綾辻行人『人形館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『人形館の殺人』(講談社文庫)は〈館〉シリーズの異色作である。どこが? まず舞台となる地。これまでは、そうしてこのあとも中村青司の館は人外魔境ならぬ人里離れた地に建てられていたが、本作の人形館はなんと京都市中、しかも左京区北白川てふ場所なのだ。しかもこの館と中村青司のつながりは、シリーズに登場する館群のうちでもまた異色で……この点を縷々綴ると仕掛けられたトリック(大技、というた方がよいか)を割ることになるので、以下自粛。
 因みに北白川は著者の母校のある百万遍の東にあって、著者にも馴染み深いエリアであるからか読んでいて、シリーズの他の作品よりも土地の描写に力が入っているように見受けられる。気のせいだろうけれどね。
 粗筋を文庫裏表紙から引く、──「父が飛龍想一に遺した京都の屋敷──顔のないマネキン人形が邸内各所に佇む「人形館」。街では残忍な通り魔殺人が続発し、想一自身にも姿なき脅迫者の影が迫る。彼は旧友・島田潔に助けを求めるが、破局への秒読みは既に始まっていた!?」
 本作は館の立地以外の点でも異色である。但しそれを述べようとするとミステリ小説の書評/感想の独自コードに抵触してしまう。ゆえに、どこまで書くか、悩んでしまうわけだが、ぎりぎりのラインでその異色なる点に触れるなら……「一人称はすべてを語らない」、「一人称は目の前の事象を現実として語るが、その現実は必ずしも事実とは限らない」だろうか。加えてもう一つ触れれば──島田潔はどこにいる?
 この奥歯に物が挟まったような説明にもどかしさを感じて(正しい反応だ)もっと直截簡明な物言いを求める人は、こんな風に訊ねてくるかもしれない。で、全体的にどんな雰囲気の小説なのさ、と。わたくしはそのお訊ねに対して、そうねえ、と一頻り顎を撫でさすった上で、ヒッチコックの『サイコ』を彷彿とさせるかなぁ、とお答え申しあげようと思う。
 顧みて自分はミステリ小説の模範的読者かもしれない。読書中はあれこれと推理を働かせてみても大抵最後のドンデン返しにしてやられ、きいっ! と叫んで地団駄を踏み、そうしておもむろに前の方を読み返して成程と首肯し、作者の仕掛けにまんまと引っ掛かった自分に舌打ち、溜め息するのだから。
 その騙され易さは本作の読書中も健在で、就中クライマックスとなる第九章、416ページにて思わず「えっ!?」と叫び、そのあとは困惑して頭の整理にこれ努めなくてはならなかった。読み進めてきて自分なりに推理を組み立ててきて、一部については極めて正解へ近附いたようだったのに、かのページ以後になって根本からあざやかに引っ繰り返されてしまうた。執筆・出版された時期を念頭に置けば真相と仕掛けを然るべく看破できたはずなのに、まさか〈館〉シリーズでこのテを喰らうとは……!! 新装改訂版の帯に躍る「シリーズ最驚の異色編!」てふ文言の真意を、(未読の)読者よどうぞご確認なされよ。
 刊行当初から賛否両論、はっきりと二極化するという『人形館の殺人』だが、わたくしはこの長編を専らそのシチュエーションゆえに好む者である。著者もまたお気に入りの一作である由。◆

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