第2448日目 〈『ザ・ライジング』第3章 4/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 母の気配はすぐそこまで近づいていた。手を伸ばせば触れるかもしれない。が、この前の夜、父に触れようとしたときのことを考えれば、母の場合とてそれは同じだろう。そう希美は考えた。わずかの逡巡の後、闇の中を手探りで歩くのにも似た感じで希美は左腕を伸ばし、あたりの虚空をまさぐってみた。が、結果は予想通り。手に触れるものはなにもない。
 涙がこぼれそうになった。力を失った左腕をだらりと降ろし、左脚の太腿に掌をおいた。
 「のんちゃん、ママはね、あなたがどれだけ白井さんを想っているか、よくわかっているつもり。そりゃあね、男と女だもの、将来がどうなるかなんてわからないわ。そんなの神様だって知りっこないと思うの。でもね、あなたの答えはもう決まっているはずよ。口に出して心を決めるのが怖いだけ。ねえ、のんちゃん。女の先輩として、ううん、母から娘に、っていった方がいいのかな。アドヴァイスできるとしたらこれだけ。――希美、行って想いを果たしなさい」
 そうして母の気配は消えた。
 下唇を噛みながら再び仰向けになり、掌を後頭部で組みながら、天井を見あげた。細く長い溜め息が、自然と唇を半開きにさせて、こぼれるように流れ出ていった。
 自分の想いを果たしなさい。
 目蓋を閉じて、じっと自分の声に耳を傾ける。はじめこそノイズや歌、知っている人達の話し声が渦巻いて混沌としていたが、しばらく耳をすませていると、なかなか言葉となって口から出てこなかった〈それ〉――自分の気持ち、自分の思いが呪文を唱えるような様々な低い呟きとなって聞こえてきた。十七歳の少女にはあまり似つかわしくない響きの言葉だった。しかしいまの希美はその本質がどういうものかわかり、それが原因となって生じる苦しみや喜び諸々の感情がはっきりと、我が身に引き寄せて理解できるようになった。〈それ〉は遂に彼女の中で、生きた言葉となったのだ。
 いつまでも一緒にいて。
 そして――
 愛しています。
 希美、行って自分の想いを果たしなさい。
 頷くと彼女はダブルベッドからはね起きて、裸のままで自分の部屋へと走っていった。

 もしも自分がタバコを吸うならば、と白井は考えた。きっといまごろは足許に吸い殻の山が築かれていただろう――来るかどうかもわからない少女を待ちながら。本は熱海駅を過ぎたあたりで読み終えた。することもなく待ち合わせ場所に突っ立っているのも、正直飽きてきた。読む本はなし、聴く音楽もなし、話し相手もなし。目の前を行き交う人もほとんどないとくれば、退屈はやむなきことであった。風が吹きつけないだけマシか。そう彼は独りごちて、くしゃみした。
 腕時計と改札口上の時計を交互に見やった。何度繰り返したかしれないささやかな行為だった。数秒の差はあっても大した違いとはいえまい。いずれにせよ、少女が約束の時間から十五分経ってもやって来ないのは事実だった。
 バスが遅れてるんだよ。
 そうだな、きっとそうだ。
 服を選んだりお化粧したりで時間がかかってるんだよ。
 そうさ、年頃の女の子だものな。身だしなみに人一倍時間をかけてたって仕方ないよ。それにバスは時刻表通りに動いてるわけじゃない。彼女の最寄りのバス停ってな、港と駅のほぼ真ん中にあるんだぜ。……いや、もう少し港寄りになるのかな。それはともかく、大丈夫だよ、正樹。彼女は来てくれる。そうそう、いつものように、てへてへ、と笑みながら。それに彼女が遅れてくるのなんて、今日が初めてじゃないだろう?
 ロータリーにバスが停まった。吸い寄せられるように視線が動いた。降りてくる乗客の中によく似た少女がいたがお目当ての相手ではなかった。乗せていた乗客をすべて降ろしたバスは、鈍いエンジン音を唸らせてロータリーを半周した。始発のバス停で停まったその様は、くたびれきって家に帰り着いた男が玄関に坐りこんで,溜まった疲労を吐き出しているようだった。列をなしていた十人ばかりの客が、待ちくたびれた様子で乗ってゆく。
 くたびれ半分、希望半分の表情でロータリーを眺めながら、観光案内のポスターが何枚も貼られた掲示板に背中をくっつけた。キオスクでコーヒーでも買ってこようかな。もう少しここにいた方がいいかな。そんなときだった――□

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