第2439日目 〈『ザ・ライジング』第2章 36/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 天井をどれだけ見ていても、気分が落ち着く様子はなかった。ふと、彼の視線がいつも持ち歩いている鞄に向いた。――あの中に、念書がある。俺とかなえの将来の安全を約束した文書。いまの彼にとってなによりも大切なものだった。池本が約束を違えることはないだろう、と上野は根拠こそないがそう確信していた。約束は守る、と彼女はいっていた。それは信じていいだろう。自分が抱えるすべての軋轢に調和をもたらすものが、あすこにある念書だ。
 すぐそこにある未来の漠然とした映像が、天井にゆらいで映った。おびえて後ずさりする少女。じりじりと迫る自分、いや、猛獣。獣は腕を伸ばし、獲物を力任せに捕らえて喰らいつくす。満足した様子で獣がそこを離れてみると、あとには少女の無惨な死体が残っている。焦点の定まらぬ両眼はうつろに見開かれ、口からはぬらぬらしたよだれが糸を引き、四肢は力が抜けたようにそれぞれ勝手な方向へ投げ出されている。すでに肌は土器色に変化しつつあった。猛獣はその姿に一瞥もすることなく、足音一つ立てずに去ってゆく。やがて彼は草深い大地をよろめきながら進み、突然口を開いた崖の淵から落ちて絶命し、奔流すさまじき大河の流れに身を乗せて、誰も知らぬ場所で骨となり、大地に帰ってゆく。これが俺の人生の結末、か。ははは、笑わせるじゃないか。
 上野は頭を抱えながら寝返りを打った。壁に対峙して滂沱と涙を流した。肩が震え、喉から嗚咽がこぼれる。「かなえ」と口にしてみる。しかし、それは念書以上の力を彼には与えなかった。――かなえ、かなえ、俺を救ってくれ。すべてお前との未来を手に入れるためにやることなんだ……。袋小路に迷いこんだ気分だった。八方塞がり……いや、逃げ道はある。そこから抜け出せれば、永遠の安息が待っている。契約違反が発覚したら、そうだ、あの念書を振り回せばいい。そう、逃げ道はある。暗闇におおわれていたトンネルに、一筋の光は差しこんでいる。ただし、あちらへ行くためには一つの犯罪に手を染める必要がある。
 君には仕事をしてもらうよ、池本がこちらに流し目をくれながら、そういった。やるしかない、と上野は呟いた。それは聞こえるか聞こえないか、判然としかねる声量だった。上野は仰向けになると溜め息をついて、唇を引き結び、目蓋を固く閉じた。そして、ゆっくりはっきりと頷いて、「ああ、やってやるとも。……ごめん、ごめんよ……」と呟いた。その声は涙で震えていた。
 ――壁時計の鐘が九回鳴ったころ、ようやく大河内が帰宅した。そのころにはすっかり涙も枯れ果て、あまつさえ寝息を立てていた。かがんでされたキスにも気づかぬまま、彼は眠った。大河内と子供と自分の三人で、富士山に登って御来光を拝んでいる夢を見た。

 宮木家での国民投票の結果――といっても上位十人の発表でしかなかったが――のヴィデオを観ながらの夕食を終え、彩織と希美が、彩織の両親や弟と『ロード・オブ・ザ・リング~旅の仲間』のDVD(四枚組のスペシャル・エクステンデッド・エディションだった)を観ていて、いよいよクライマックスにさしかかろうとしていた時分。大河内の手料理と蔵元から取り寄せたという日本酒に舌鼓を打ったあと、共に風呂に入り、一時間以上もかけて前戯をしている最中に何度も果てた恋人の求めに応じて、ようやく上野が彼女に我が物を挿入せんとした時分。赤塚理恵は自宅の自分の部屋に籠もって、パソコンを立ちあげインターネットへ接続し、お目当てのサイトのお目当てのコンテンツのある箇所を凝視していた。
 何度見直しても投票数が変わることはなく、番号が自分のものであることにも変わりはない。上位十人の中に入っているあの二人とは雲泥の差であることは、あまりに明白だった。何千、何万の人がこのコンテンツにやってきた、お目当ての誰彼に票を入れていったのかは知らない。なのに、この結果はどうしたものだろう。 
NO、363 58票□

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第2438日目 〈『ザ・ライジング』第2章 35/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 御殿場駅で降りると駅前のバスロータリーを横道に入って、足柄方面へ御殿場線の線路に沿って歩く。やがて道は県道四〇一号線(御殿場箱根線)を渡り、国道一三八号線にぶつかる。そこは二枚橋と呼ばれる。信号を越えて一分ほど歩いて線路とは逆の方向に折れる路地を少し入ったところに、大河内かなえの住むマンションはあった。前の住人が音楽の仕事をしていたとかで、室内は玄関まわりを除いた部分に防音工事が施されていた。
 ここを訪れるのは、上野にとって約三週間ぶりだった。彼は吹奏楽部の部員の自主練習にも顔を出すことなく、学園をあとにしてまっすぐここへ足を向けた。そうすれば少しでも池本の毒素は薄まるような気がしたからだったが、離れれば離れるほど耳の奥に池本の声がこだまし、心の奥底でとぐろを巻き続けた。
 上野は大河内のマンションに到着すると、すぐに着ていたものを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。たっぷりと時間をかけて全身をくまなく洗い、シャワーを浴びては湯船につかり、顔を冷たい水で洗った。風呂から出たときはすっかり陽は暮れ、来てから一時間以上が経っていた。
 まだ恋人は帰る様子がなかった。禁止されていたことをやってみよう、と上野の心にいたずら心が芽生え、彼は大河内のタンスに近寄った。下着がどの段にあるかは承知している。彼はおもむろに引き出しを開けた。甘美な香りが立ちのぼり、色彩豊かな下着がぎっしりとつまっていた。そこに顔を突っこみたい衝動に駆られた。この香りに包まれていれば、毒蛇の恐怖から逃れられるような気がした。まだあいつが帰る心配はない。ばれやしないさ……。気持ちが落ち着くなら、どんな手段だって取るべきだ。上野はそこに顔を押しつけ、目を閉じた。まるで恋人に抱かれているような錯覚がする。かなえ……。お前との未来を手に入れるためなんだ。許してくれ、願わくば、我を救い給え。二度と奴に脅かされることのない、魂の休息を我に与え給え。おお、願わくば永遠に。
 いつのまにか、上野は自分が涙を流しているのに気がついた。誰に対して流しているんだろう、と彼は疑問に思った。自分にか、恋人になのか。それとも、これから自分が未来を踏みにじることとなるあの少女にか。そうして、はたと思い当たった。いかん、濡らしちゃまずいだろう!?
 急いで彼は顔をあげ、指先で顔の当たっていた場所を触ってみた。布地の感触と、わずかに濡れた感触が伝わってくる。ドライヤーででも乾かそうか。だが、その間に帰ってくる可能性がある、いや、はるかにその可能性は高い。なら、しばらくこのままにしておこう。少しは乾くかもしれない。彼はこんな状況でもそんな漫画めいた行動を取っている自分の姿を想像して愕然とするよりも先に、腹を抱えて床を転がって大笑いしたい気分に駆られた。
 上野はふらふらと立ちあがり、セミダブルのベッドに寝っ転がった。あと何時間かしたら繰り広げられる恋人との愛の営みを想像してみる。今夜はどんな風にしようかな。しかし、これっぽっちも興奮しなかった。むなしさだけが心の中を吹き過ぎてゆく。手練手管を尽くされてもその気になれず、彼女が求めてやまないペニスが勃起しないとなれば、かなえと雖も不審に感じるだろう。池本に強要されては従わないわけにいかず、それに加えて今日は女王が自分の中で身悶えて果てた。求めに応じて二回、女王の中に自分の欲望をはき散らした。かなえを抱いても大丈夫なのかな……。□

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第2437日目 〈『ザ・ライジング』第2章 34/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 駅の改札で美緒と藤葉を見送ると、希美は商店街で夕飯の買い物をしてゆくから、といって彩織と別れた。希美も彩織も、駅前のロータリーからバスで自宅へ帰ることになる。「じゃあね」「バイバイ」とそれぞれの行く先へ足を向けた。一、二歩の後、彩織は立ち止まって振り返り、「ね、のの」と希美の背中に声をかけた。
 踵を返してこちらを見やった希美に、
 「今夜なあ、もしよかったらウチんとこで夕飯一緒にどう? お母さんも喜ぶ思うんやけど」
 希美は目をぱちくりさせた。「久しぶりだね、彩織が誘ってくれるの。でも、急にどうしたの?」
 「一緒にヴィデオ観ながら、って思ったんやけど……。あ、なにか予定でもあるん?」
 「ううん、別にないよ」と希美は頭を振って答えた。「――じゃあ、お誘いを受けようかな」
 二人はちょっとの間、顔を見合わせて、ぷっ、と吹き出した。ずっとこんななんでもない時間を希美と共有してゆけたらいいのに、と彩織は笑いながら思った。あと何年かしたら希美は自分から離れていってしまう。いまのように二人して屈託なく笑うことも、いつかそのうちなくなってしまうのだ。
 それならいまの時間を思い切り謳歌したっていいじゃないか。そう、芸能界に入っていたずらに大切な時間を捨てることはない。本心でない夢より大事なものなんて、いくらでもあるじゃんか、と彩織は胸の内で呟いた。
 それを敏感に察したのか、希美はふと笑うのをやめると彩織の顔をじっと見て、
 「夢とのお別れの日にするつもりだね、彩織?」
と訊いた。その目には、少し淋しげな表情が浮かんでいる。
 彩織はそれに頷いた。
 歌手になる。芸能人になる。子供のときからそんなことは考えていたが、自分がその世界で生き残ってゆけるわけがない、と心のどこかでわかっていた。才能とか素質とかっていうよりも先に、自分はそんな世界でやってゆくだけの度量を持っていないことがわかっているから。きっとそれは憧れであって夢ではなかったのだ、とようやく彩織は思い至った。自分にはまだ見つけられていないが、きっとなりたい姿がある。自分の身の丈にあった仕事がある。まだ見つかっていないけど、そんなのこれから探してゆけばいい。
 夢とのお別れの日。その通りだ。だが、彩織はむしろこんな表現で、希美を交えた今宵の夕食の席を形容したかった。
 「道はつづくよ、先へ先へと。さらに先へと。道を辿ってわたしはゆこう……」
 なあに、それ、と小首を傾げて、希美は彩織を見つめた。
 彩織はその視線を感じて、「『指輪物語』や。トールキンの原作の方」と答えた。納得した様子で頷き、彩織の言葉を小声で繰り返す希美へ続けていった、「国民投票のヴィデオのあとで『ロード・オブ・ザ・リング』のDVDも観る?」と。
 「買ったの!?」いや、買うてもろたんや、と彩織。「うん、観たい! 夜中になっても観たい!」
 「よし、決まりや。じゃあ、六時半頃、お母さんの車でののん家に行くわ。準備しといてな」
 「うん、わかった。六時半だね。待ってる」
 そうして二人は手を振り合って、別れた。希美は商店街へ歩いてゆく。彩織は自分が乗るバスがロータリーに入ってきたのを見て、あわてて駆けだしていった。□

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第2436日目 〈『ザ・ライジング』第2章 33/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 部室が用事があるから、といってホームルームが終わるとすぐさま教室を駆け出していった藤葉を待ち(その間、彩織は世界史のワークブックを教科書と年表片手に格闘し、美緒は借りてきた『幽霊の恋人たち』を読み耽り、希美は徐々に青みを失ってあかね色となりさらに墨染めた色へ変わろうとしている東南の空を見つめて物思いに耽っていた――その横顔を、もし美緒が目にしていたら、きっと胸をときめかせていただろう)、携帯電話でそれが済んだのを伝えられると、希美達は自分達の荷物に加えて藤葉の鞄も持って――三人で交代しながら持った――一階の昇降口で藤葉と合流した。
 正門へ歩いてゆく途中、希美は吹奏楽部の、中等部の後輩に呼びとめられ、テューバを購入するに際して注意すべきこと、楽器店の選び方について、今度いろいろ相談に乗ってほしい、ということだった。顧問代理の上野先生に聞いたら一通りのアドバイスはもらったが、そのことなら深町さんにも相談した方がいいね、といわれたらしい。希美は待たせてある三人のことを思うと気が急いたが、詳しいことは明日ということにして簡単にポイントだけ伝えた。それを終えると向き直り、少し離れたところで待ってくれていた(待たせていた)彩織と美緒と藤葉の方へ、八重歯が覗く笑顔で歩み寄っていった――「ごめん、ごめん」といいながら。彩織は校舎の壁に映る自分達の影を面白そうに、体をいろいろ動かしながら眺めていた。
 そのとき、ふいに希美が真顔になったのを、美緒と藤葉は同時に見て取った。口を開くのは藤葉の方がやや早かった。美緒はちょっとの間、藤葉に向かって頬をふくらませたが、希美に向き直るときにはそれもやめた。
 「どうかしたの、ののちゃん?」
 その声に彩織は振り返って藤葉を見、希美を見た。
 希美の視線は自分達の頭上を越え、背後へ注がれている。
 彩織も美緒も藤葉もそれに気づき、希美の視線の先にあるものを見定めようとした。
 老いたる桜の巨樹が一対、正門の脇に鎮座坐していた。まだ花のない枝をいっぱいに広げていた。それは春の入学式の時期には寒気を感じさせるぐらいに美しい花を爛漫と、絢爛に咲かせる。薄紅色の花が一斉に咲き乱れる様はまさしく圧巻、学校案内のパンフレットでも表紙を飾るほどだった。もっとも葉桜のころとなれば毛虫に悲鳴をあげる生徒は、一日に十名や二十名では利かないだろう。
 いまや希美は唇を思い切り噛み、目尻がややさがっているものの目を細め、桜の老樹を見あげていた。
 哀しそう、とその顔を見ながら、美緒は思った。
 「どうしたの、ののちゃん?」
  桜が花をつけていた。この真冬の夕暮れ時に、桜が満開の花を咲かせている。散り舞う花びらさえ、希美の目にははっきりと見えた。もちろん、これが幻であるのは百も承知だ。桜の木の根本には両親が肩を寄せ合って立ち、共にほほえみをたたえながら、一人娘を静かに見つめていた。さながらそこに実態があるかの如く、生前の姿そのままに。
 いつでもどこでも希美を想い、見守っているわ。
 いつでも君を想い、見守っているからね。いつも近くにいるよ。
 愛してるわ/愛してるよ。
 涙がこぼれそうになったが、どうにかこらえた。鼻をすすり、表情をやわらげた。
 父と母が娘に手を振ってよこし、共に投げキッスを送ってよこした。希美はそれを受け止めたといわんばかりに右手の人差し指と中指をそろえて指先で、自らの唇に、わずかに微笑しながら押しあてた。
 これが欲しかったの。
 そうしてそこで、幻の情景はふっつりと消えた。
 「おーい、ののぉ。どうかしたんかあ?」と、わざと間の抜けた声で、しかし真剣な面持ちで彩織は、その場に立ちつくしている親友の肩へ右手を置いた。
 希美の目蓋が閉じられ、また開かれた。その拍子に一粒の涙が頬を伝って流れ落ちていった。
 彩織は喉をひゅっと鳴らして、口をつぐんだ。背後の桜を振り返って、見あげた。二人といない大切な存在を涙させた桜の巨樹を、その哀しい記憶を甦らせたらしい桜の巨樹を、恨めしく眺めたあとで、また希美に向き直った。視線がぶつかり合った。いまは希美も涙を拭い、いつもと同じ笑顔で彩織を見ている。「もう、大丈夫なん?」その問いに希美がこっくりと頷くのを見て、彩織は安心したように口許をほころばせた。安堵の溜め息も思わずこぼれた。よかった……。
 わずか十数秒とはいえ、希美の心ここにあらずの様子に、彩織に劣らず心配していた――そして彩織よりも先に希美の変化に気がついていた美緒と藤葉も、同様に安堵した。
 桜の木の下には死体が埋まっている。しかしここは学校。正門の桜の下に死体があるはずもないだろう。けれど、死者が姿を現すことはあるかもしれない。もしかすると希美ちゃんは――。希美の手を取りながら、そう美緒は思いをめぐらせた。
 他の生徒達が傍らを通り過ぎてゆく。藤葉は何気なく右の手首にはめた腕時計に目をやった。針は四時五分を指している。あと四分で――
 「バスがそろそろ来るよ。行かなきゃ」
 その声に反応して彩織と美緒が振り返りざま体の向きを変え、希美を真ん中に据えて歩き始め、藤葉は三人の数歩前を歩いた。
 正門を出るとき、藤葉は誰かの視線を感じた。自分を見ているのか他の三人なのか、それとも四人全員なのか、はっきりとはわからない。が、確かに誰かが私達を見ている。今日一日、何度となく感じた希美と彩織への興味本位な視線ではない。もっと薄ら寒い、死をも連想させるそれだった。邪悪な意志に満ちている。背筋を冷たいものが走っていった。藤葉は校舎の方を振り返った。視線は感じるがその主は見えない。でも、絶対に何者かがどこかから私達四人の誰か、あるいは全員を窺っている。
 「ふーちゃん?」
 美緒の声に想念は破られた。我に返ると藤葉は「なんでもないよ」と笑いながら、美緒の肩を叩いた。片側二車線の、東名高速沼津ICと市街を結ぶ県道四〇五号線(通称、足高三枚橋線)の左右を見やってから、藤葉は他の三人を引率するように前へ立って正門前の横断歩道を渡った。沼津駅行きのバス停には、もう十数人の生徒が並んでお喋りに興じている。
 今日は坐れそうにないなあ。藤葉は口の中で呟きながら、列の最後尾に並んだ。話題につまり、ややためらいがちにクリスマスの相談を持ちかけた。結局その話題はバスが沼津駅に着いても終わらず、駅ビルの中にあるケンタッキーフライドチキンで一時間ばかり過ごして、ようやく一応の幕となった。□

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第2435日目 〈『ザ・ライジング』第2章 32/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 どうしたんだろうね、千佳ちゃん? そんな声がもれ聞こえてきた。おそらく源は〈だいはかせ〉達の後ろに固まっている、噂好きな集団だろう。この連中ももう少しだけおとなしくなってくれればな、とときどき思う。学内の恋愛事情を、尾ひれをつけて流すだけならまだましな方だ。でもいちばん肝心なのは彼女らが、自分達の知った噂を垂れ流すことで傷つく者がおり、ぎくしゃくし始めるカップルがいることに気がついていないことだった。もう少し人の痛みをわかってあげられるようにならないのだろうか、せめて相手の気持ちを慮ってあげてくれるようになれば、けっして悪い印象は持たないのに……。生徒を個人的好みで選り分けてはいけないと思うのだが、そんなことをいっても人間である以上、個人の感情が働いてしまうのは致し方のないことだ。高村は〈噂ジャンキーズ〉(と勝手に彼女は名づけている)の話がクラスの外に出てゆくことはないだろうと高をくくり、彼女達の噂声を無視してホームルームを続けた。
 早く終わらせよう……。できれば早退したい気分だった。背中の痛みはまだ続いている。時折耐え難くなって保健室へ駆けこもうとするが、そのたびにさっきの情景が鮮明に思い出されて、彼女の足をとどめた。あの饗宴がいまも続いていたら、あんた、どうする気?二人がセックスに耽っているところに、どんな顔して保健室に入ってゆけばいいの? どうせならこういってみたら、私も混ぜて、って?
 噂か、と高村は考えた。授業中に教師と生徒が、あるいは教師同士が空き教室で色事を楽しんでいると聞いたことはあったが、まさかそれを自分が目撃しようとは、思いもよらなかった。池本と上野のセックスを目の当たりにして、眉をひそめると同時に羨望の気持ちが胸に浮かんだのを、高村は否定できなかった。誰かに欲情した私を鎮めてもらいたい。そうでなければ、私、きっと……気が狂う。しばらくしていなかった反動か、高村は職員室のある二階の女子トイレに飛びこんで、やむにやまれず自慰に耽った。いまこうしておかないとあとの仕事に差し支える、と判断したからだったが、それは見事に裏目に出て欲情は時々刻々と増してゆくばかりだった。
 なによりも彼女の記憶にはっきり残ってしまっているのは、上野の反り返って脈動するペニスだった。あんな大きいものには、たぶん私、お目にかかったことがない。あんなのが膣内に入ってきたら、どんな感じがするんだろう……。張り裂けるだろうか、ああ、初めはそんな思いを味わうに違いない。でも、その後は? そうねえ、きっと私は虜になる。いつでもどこでもあれが欲しくなる。つまりね、普通のサイズじゃもう満足できなくなるってことよ。
 高村はあの光景を頭から振り払おうと頭を二、三度振って、左手首にはめた時計を見た。
 廊下のざわめきが同時に耳につき始める。他のクラスの生徒達の顔が、扉の小窓から見えた。視線が合うと、生徒達は顔を引っこめた。
 終わらせよう、どうせたいした連絡事項なんてありはしない。
 視線をめぐらすと、つまらなそうな顔で担任を見ている希美の姿があった。この二ヶ月で、ずいぶん変わったな、と思った。内面が逞しくなり、表情もやけに毅然とした感じだ。育ちの良さから来る上品さと相俟って、いまは旧家のご令嬢といっても通用するほどだった。
 そうね、深町さんのことも……、まあ、明日にでもゆっくり二人で話せばいい。いずれにせよ、いまは生徒のことよりも私自身の問題を解決する方が先だ。こんなときに話したって生徒のことが、親身になって考えられようものか。第一、高村がいちばん欲しがっているものの持ち主と顔を合わせたって、まともな話し合いができるのか? そうね、いまは私自身の問題を解決するべきよね、ええ、だって深町さんのことは明日だって話せるんだから。職員室に戻ったら、大河内先生と上野先生にあの子の件を話して、明日、深町希美を交えて四人でこの件を話し合いたい、と相談してみよう(だが、結局高村がこの件を希美に話すことになるのは、年が明けてからのことだった。なぜならその晩から高村は不可抗力によって、この街を離れることを余儀なくされた。父が事故を起こして昏睡状態でその年は暮れることとなったからだ)。
 高村はそう言い訳して、ホームルームを終わらせた。本能は理性を征服した。この日最後の、起立、礼。□

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第2434日目 〈『ザ・ライジング』第2章 31/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 画家と別れようとしたときだった。階段の下から足音が聞こえる。リノリウムの床を歩く、かつんかつんと小気味よい音だ。女性だ、と上野は思った。この時間、一階にいるような女性なんて、あいつ一人しかいはしない。
 さっさと画家と別れて、その場を離れようとしたときだった。画家が足音の主に気がついて、笑顔を見せて「池本先生」といった。
 「こんにちは。もう授業は終わりですか?」書類を胸の前で抱えながら池本は、画家へさわやかな笑顔を見せてそう訊いた。上野には一目もくれなかった。
 「そうなんです。これから帰って、もうすぐ完成する大作の仕上げにかかろうと思っています。――池本先生はまだ終わらないんですか?」
 にこやかに頷きながら、「残念ですけれど」といって、上野を見やった。「今日は帰ったら、静かに休んでた方がいいですよ」
 上野は「はあ、そうします」とだけ答えた。
 「先生、もしよかったら今度、お食事でもどうですか」と画家はいった。「箱根に行きつけのいい店があるんです」
 「あ、うれしいな。そうですね、年が明けたらまた誘ってください。そのときにはエスコートしてくださいね」
 笑みを絶やさず池本はそういった。二人に会釈すると、その場を去って職員室に向かった。
 「いいですよねえ、池本先生。そう思いませんか?」
 去ってゆく池本の足と尻に好色な視線を投げかけながら、画家は上野に同意を求めた。
 「美人とは思いますが、どうも僕には雲の上の存在ですね」と上野は笑って答えた。その一方で、池本を誘った夜は覚悟しておけよ、と考えた。自信がないなら諦めた方がいい。なんたって女王陛下を満足させるのは、並大抵のことじゃないからな。あれ、と上野は考えた。犯罪に手を貸して解放されて、俺がかなえとの不安なき日々を過ごすようになったあと、池本は目の前にいる画家を、自分の性奴隷に任命するのだろうか、と。そうかもしれない。飛んで火にいる夏の虫だからな、この男は。まあ、どうでもいいか。こいつがどうなろうが、俺の知ったことじゃない。
 「じゃあ、失礼します」といって、上野はその場を離れた。階段を降りてゆく画家の足音が、かすかに耳についた。
 念書に指が触れた。君には仕事をしてもらうよ。そうしたら解放してあげる。池本の声が胸に響くと共に、自分が未来ある一人の少女にのしかかってゆく光景が浮かんだ。少女の顔は苦痛と恐怖にゆがみ、自分の顔はきっと……飢えた野獣か狂人か見分けがつかないだろう。吐き気がこみあげてきた。耐えられそうもない。上野は青ざめた顔で、トイレに駆けこみ個室の扉を思い切り閉めると、便座を抱えるようにしゃがみこんで嘔吐を繰り返した。□

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第2433日目 〈『ザ・ライジング』第2章 30/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 池本玲子と別れた(彼女から釈放された)あと、どうにかこうにか階段をのぼり終えたときには、すっかり息が切れていた。心臓が早鐘を打ち、額へは脂汗がにじんでいた。池本の豪勢な体を堪能しただけではすまなかった保健室での出来事を思い出して、上野は全身に悪寒が走ってゆくのを感じ、底無しの恐怖に襲われた。
 君には仕事をしてもらうからね、といった池本の声が耳に残って離れない。その声は冷酷で、有無をいわさぬ口調だった。抗うことはできそうもない、そう判断して上野は彼女のいう〈仕事〉について訊ねた。その後ほど、上野が池本と関わり合いになったことを後悔したことはなかった。なんで俺がそんなことをしなくちゃならないんだ……。しかし、彼女の計略に従えば、かなえとの未来が約束される。彼の不安を払拭するように、池本は念書まで、自発的に書いてくれた。拇印まで押して。――もう後戻りはできないのか……、上野はポケットに入れた、折りたたんである念書を握って、呟いた。
 上野は講師控え室に戻ろうとして足を停めた。誰かいたらどうしよう。吹奏楽部の誰かが用事を持ってやってきたらどうしよう。俺は一人になりたいんだ。だから出てってくれ。そう叫びたいのはやまやまだが、こちらは身分不安定なしがない一講師、そんなことを言えた身分ではない。
 足が小刻みに震えていた。長時間の正座のあとで経験する痙攣に似たそれだった。収まるまで、しばらくこのままでいようか、と思い、あたりを見まわした。人の気配はない。もう帰りのホームルームで、担任を持っている教師はそれぞれの教室へ行ってしまっているようだ。放課後ともなれば廊下を歩く教師の数も少なくなる。担任のない教師でもそうだが、部活の準備にはまだ早く、職員室でこなすべき事務仕事がたまっているせいだった。俺も常勤になったら、そうなるんだろうな、と上野は独りごちた。これまでは不安定だった希望が、いまはほんの少しだがより具体的なイメージとなって、目の前に現れた。その延長線上にあるのは、かなえとの幸せな生活、もはやなにものにも脅かされない安息の日日。だが、それを生み出すのは刑務所生活と背中合わせの犯罪行為。
 職員室の方から足音が聞こえてきた。だんだんとこちらへ近づいてくる。手摺りを握る手に、思わず力が入った。汗でじっとりと濡れている。エレベーターホールに姿を見せ、階段の方へ歩いてきたのは、今日の授業は一コマだけしか持っていない、少しくたびれた風な美術の講師だった。授業のある日もあまり重ならず、ほとんど顔を合わせないので詳しくは知らないが、画壇の一部では評価されているが個展も滅多に開かないために実力に比して知名度の低い日本画家であるらしい。画材や画集の入った大きな鞄を肩から提げ、手には画板とスケッチブックを持っている。これから帰るようだ。
 画家が上野を見つけ、訝しげな顔をちょっとしてからすぐにそれを引っこめ、会釈してよこした。上野もつられて、頭をさげた。
 「どうしたんですか、汗までかいちゃって?」と画家は聞いた。
 「いや、なんだか体調が悪くって……」
 うん、事実だ。五時間目が始まる前は恋人と一緒で、すごく気分がよかったんですけれどね。六時間目の最中に悪い女王様からとある少女を傷物にしろ、なんて命じられたものだから。そりゃあ、気分が悪くなって当たり前でしょう?
 「いま、保健室で薬をもらってきたんですよ」
 「ああ、そりゃいけませんな。いまより悪くならないうちに策を講じないと」
 「はは、まったくですね」
 いまは悪くない、と上野は口の中で呟いた。だが、すぐにいま以上に悪くなる。講じる策なんてないんだよ。□

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第2432日目 〈『ザ・ライジング』第2章 29/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――ゴールサークルの近くで美緒からボールを受けると、藤葉はその場で床を蹴って振り向きざまシュートした。ボールは軽くアタックボードにぶつかり、ゴールポストの輪っかをきっかり二回転した。そして、ゆっくりと真ん中をくぐっていった。ボールは床に跳ね返り、コートの外へ転がってゆく。それを追う者は誰もいない。相手チームはもはや完全に、戦意を喪失していた。
 誰かが勝利の雄叫びをあげた。藤葉は駆け寄ってきた星野に飛びついたが――あ、星野さんか、いけね、美緒と間違えた、と抱き合っている最中に気がついた。星野と離れると、まわりを見まわした。えーと、美緒、美緒は、と……。
 さして離れていないところに、美緒はじっと立っていた。お腹の前で両手を組み合わせて親指をこすりあわせ、放心したように、周囲の歓声も届いていないかのように、その場に突っ立っていた。視線は一点に注がれている。藤葉がその視線の先をたどるよりも早く、美緒は藤葉の視線に気がつき、振り返りながら笑顔を作った。目蓋にうっすらと涙が浮かんでいたが、あまり気に留めることはないだろう、と判断した。
 藤葉は希美と彩織の方を見やった。二人とも手を叩きあってこちらを見ている。視線が合うと、二人は手を振ってよこした。それを見ると藤葉は、左腕をまっすぐに伸ばして、にっこり笑いながら親指を立てた。
 ホイッスルの音が体育館にくまなく響き渡った。

 六時間目が終わると走り出したいのを我慢して、赤塚理恵は上の階のトイレに駆けこんだ。人目につきたくない理由だった。今月の生理はやけに重かった。朝起きたときは休もうかとも考えたが、昨夜の番組の結果を気にして休んだと思われるのはいやだったし、なによりも寝しなに思いついたあの女への警告を実行したくてたまらなかったのだ。
 この日の朝、赤塚はいつもより三〇分も早く登校して、昇降口の真上の教室で、獲物がやってくるのを待った。逃げ道は確保していた。その教室にもその界隈にも、滅多に人が近づくことはないのを知っていた。そこは普段から、自分に逆らう者へ罰を与える場所だったからだ。本当なら獲物をいつもと同じようにそこへ呼び出したかったのだが、なによりも獲物のまわりには必ず鉄の絆で結ばれた友人がおり、同じ高等部の面々のみならず教職員や後輩達からも慕われているとあっては、理事長の孫ということで特別視されている赤塚と雖もそう簡単に手を下すことはできなかった。発覚したが最後、自分が返り討ちに会うことは目に見えている。それだけは避けたかった。自分の立場だけは守らなくては。やるなら陰から、手を下すなら他人にやらせよう。
 便座に腰をおろしていると、ふとそんな考えが胸に浮かんだ。妙案だった。
 手を下すなら他人にやらせよう。
 けっきょく朝の警告は効果がなかった。年頃の少女達へ話題の種を提供するには十分だったが、獲物本人に被害を出さなくては、早起きと準備は無駄に終わったも同然だ。水を入れた風船の一つは地面で破裂し、もう一つはまったく関係のない三年生をずぶ濡れにさせただけだった。すばやく身を隠してその場を離れたけれど、誰にも姿を見られていないか、それだけが心配だった。しかし、誰かの姿を見た、という生徒の話も実は曖昧で、誰かいただろうけれど誰だったのか正確にはわからない、そんな程度のものでしかなかった。
 ハーモニーエンジェルスにはなれそうもないな、と赤塚は個室で溜め息をついた。あの人達と一緒にステージで歌ったり、音楽雑誌にインタヴューされてみたかった。まだ単なる国民投票なのだから、と慰めてみるが実際にオーディションが始まってみても奇跡の大逆転はありそうもなかった。自分に勝利の女神がほほえむことはない。うすうす感じていたが、こうして結果を目の当たりにしてしまうと認めたくない気持ちが巻き起こってくるのも事実だ。なんで私にはあんなに票が入っていないのよ、と唇を噛みながら彼女は毒づいた。下から数えた方が早い数字じゃない、あんなの。ううん、それどころじゃない。ビリだなんて……あまりに残酷すぎる結果だ。なんで番組スタッフは、あんな変顔してる場面を選んで放送したのよ。よほどテレビ局に抗議しようと思ったが、恥の上塗りをするような気分だったので、受話器を取りあげたところで諦めた。
 手を下すなら他人に。
 もう一度、赤塚は口の中で呟いた。私が獲物にとどめを刺す必要はない。犯罪は誰か他の奴に任せて、自分は高見の見物を決めこめばいい。
 こんな大事な仕事、さて、誰にやらせようか……。学内でやらなきゃ面白くないな、と考えた。学生を使うとあとで面倒なことになるかもしれない。それに、学園のアイドルに喜んで暴力を振るおうと名乗りをあげる馬鹿はいるわけがない。ということは、ここに勤務する誰か。教師か職員か。男だよね、当然。獲物が暴れれば力ずくで押さえこまなきゃいけないし。
 ふいに思い当たる顔があった。そうか、あいつがいたな、と赤塚は自分の選択に満足げに頷いた。あいつなら、申し分ない。獲物とは近い場所にいるのだから。あいつと称する男の顔が、ひずんでゆがみ、悲嘆に暮れて、獲物を見ていた。その下で獲物は恐怖に満ちた目を猛獣に向けている。すべてを観念した顔だった。
 くくく、と赤塚はこらえきれない様子で低く笑った。これが成功すれば、……成功すれば? あとのことはなにも考えてないけど、まあ、それで私は満足。うん、とりあえず、ね。その後のことは、また改めて考えればいい。
 調子にのるなよ、浅ましい輩め。私を踏み台にしてめだったりしたらどうなるか、この際だ、骨の髄まで思い知らせてやる。お前の幸せも未来も全部、私が根こそぎ奪ってやるからな。
 赤塚はそこまで考えると、口の端から垂れているよだれに気づき、スカートの裾でグイグイと拭いて、扉の下に空いた空間を凝視した。名前を知らない虫が床を這っていた。赤塚はためらうことなく、その虫を踏みつぶした。□

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第2431日目 〈『ザ・ライジング』第2章 28/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 なるほど、そういう話か、と希美は思った。今日か明日には、彩織に自分の意志を伝えなくてはならない。遅かれ早かれ。そうずっと朝から考えていた。チャンスは何度もあったが、親友の気持ちを考えるとなかなか言い出せずにいた。が、両親を失って二ヶ月、希美は自分の将来像をはっきりと思い定めた。進学から就職へ。そして、遅かれ早かれされるであろうプロポーズを受け、あの人と家庭を持つ。それを芸能界如きのために根本から修正する気にはなれなかった。彩織を傷つけてしまうかもしれない。けれど、だからといって私達の友情が、これを限りに失われてしまうことはないだろう。それに、傷は浅い方がいいに決まっている。――チャンスはいまだ。そう、いましかない。
 「ねえ、彩織。昨日からずっと考えていたんだけれどね、国民投票の結果はすごくうれしい。さっき借りたヴィデオテープ観たら、きっと泣いちゃうと思うんだ。でも――彩織、ごめんね。私……この先を考えるつもりはまったくない。……ごめんね」
 淡々としたしゃべり方だった。が、その声は力強く彩織の耳に響いた。この先を考えるつもりはまったくない。表現はどうあれ、予測していた答えが返ってきたことに、彩織は安堵した。過程は異なれども結果は同じ。ああ、よかった。
 「実はな、のの。ウチももうこれ以上考えとうないねん。ののとは事情がぜんぜん違うけど、出した答えは一緒。この先を考えるつもりはまったくない」
 それだけいうと、彩織は口を閉ざした。横目で観ると、希美は頬を少しふくらませ、唇を固く結んでいた。じっと試合の行く末を見つめているが、心の中ではぜんぜん違うことを考えている。その横顔に彩織は胸打たれた。これまでに見たことのない、毅然としてりりしささえ感じさせられる横顔だった。やがて、背中を壁にもたれかけさせていた希美が、じっと彩織の方を見つめながら口を開いた。
 「うぬぼれに聞こえたら許してね。――それは、私に気を遣っての結論じゃないよね?彩織が自分で考えて、自分で出した結論なんだよね?」
 正面から見据えてくる希美の視線に、彩織は一瞬たじろいだ。目の前にいる親友が、自分の知っている希美ではないような気がしたから。いいや、そんなはずはない。然り。でも、悲劇を克服して生きるためには、強く逞しくあらねばならない。なにかの本を読んでいるときに覚えた一節なのか、それとも映画の一場面だったのか、はたまた天啓のように心に浮かんだものなのか、彩織には判然としなかったけれど、いま視線を合わせている希美へ捧げるにふさわし言い回しであるのに変わりなかった。
 彩織はゆっくり頭を振りながら、「うん、そう。自分で出した結論や。だから、ののが気にする必要なんてないよ、これっぽっちも」と独り言のように呟いた。「なんだか急に怖くなってしもうてな。これまでの生活、いまの生活、家族や友達のいる生活。そんなすべてを失ってしまうのが、怖くて怖くてたまらんねん。それにな、のの。自分じゃ気がついてなかったかもしれんけど、ののがこの話にあんまし乗り気じゃないのはわかっとったよ」
 左肩が重くなった。希美が頭をもたせかけ、目をつむっていた。長い逆さまつげが濡れている。
 「ありがと、彩織……。大好きだよ」
 腕を希美の背中へ廻し、掌で希美の後頭部をそっと撫でながら、耳許へ口を近づけて、彩織は囁いた。
 「ウチもや、のの。大好き。これからもずっと一緒にいよう、な?」
 両の目蓋を手の甲で何度も何度も拭いながら、肩も小刻みにふるわせつつ、鼻をシュンシュン鳴らしながら希美が二度、三度と頷くのを、彩織は肩で感じていた。よかった、ののと友達で、そう彩織は口の中で呟いた。□

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第2430日目 〈『ザ・ライジング』第2章 27/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 視線をわずかに左へずらすと、三台のベッドが見えた。いちばん窓際のベッド(それは高村のところからいちばんはっきりと見えたベッドでもあった)に池本と上野がいた。池本はピンクのパンティを左脚に絡ませただけの姿で、上野はまったくの裸で、ベッドの上で互いの体をむさぼり、歓喜の声をあげていた。
 高村は唾を呑みこんだ。知らず知らずのうちに目が開かれていった。と同時に股間がじわ、っと熱くなるのも感じられた。これ以上見ていたら、私、どうなるかわからない……。もうだめだ、ここから離れよう。そう決めた矢先だった。
 上野のそそり立ったペニスが視界に飛びこんできた。不気味なまでに赤黒く、血管が浮かびあがっている。亀頭からカリ、サオの部分まで、離れた場所からでもはっきりそうとわかるほど濡れそぼっていた。池本が味わった跡だろうか、と高村は考えた(正解!)。ビクンビクンと脈動し、ペニスの太さ長さはそのたびに増しているような錯覚を感じた。それはいままで高村が出会ったことのない、まさに自分の中に入るかどうか不安にさせられる代物であった。
 だめ、いますぐ覗きはやめなさい……。
 高村はそっと扉を閉めると、そのまま後ろにひっくり返ってしりもちをついた。足に力が入れられない。後ろ手に腕を伸ばし、窓枠を強く握りしめ、どうにかこうにか立ちあがった。体はなおもよろめいた。
 一刻も早く保健室の前から逃げ出したい一心で、高村は千鳥足でその場をあとにした。幸いなことに、その姿を見ているものは一人としていなかった。

 バスケットボールの試合は、意外に接戦となっていた。スコアボードに記されている数字は、共に〈四〉。残り時間は二分を切っていた。どちらかのチームが相手ゴールにボールを入れれば、おそらくそのチームは頭一つ分リードしたまま逃げ切れるだろう。相手チームのオフェンスを従えた美緒がドリブルしながら突然走るのをやめると、そのまま併走していた星野香奈にボールをパスした。相手のオフェンスは対象を変えると、必死の形相で星野のボールをカットしようと躍起になった。
 どちらのチームに勝利の女神がほほえむのかわからなくなってきた試合を眺めながら、彩織は少し背中を丸め、靴下をはいた足首をさすりながら、隣の希美にちらりと視線をやったがすぐに正面へ戻し、訊いた。
 「なあ、のの。国民投票の結果はああなったんやけど、これからどうする?」
 「どうする、って?」
 「いや、つまり、本当にハーモニーエンジェルスに入りたいんかな、そう思って」
 「いってる意味がよくわからないんだけど?」
 「だってのの、就職するんやろ? 何年かしたら白井さんと結婚するつもりやろ? ハーモニーエンジェルスに入ったら、未来がまるっきり変わってしまうんや。それでもええのんか?」□

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第2429日目 〈『ザ・ライジング』第2章 26/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 ふと、池本は考えた。話を持ちかけるためには、代償を与える必要がある。上野を奴隷のままにしておくのはあまりにかわいそうじゃない? そう、この私にだって慈悲、ってものはあるんだからね。それに……眼下にあって聳え立つ代物も、考えてみればちゃんと味わったことがない。
 「ねえ?」池本は彼の耳許で囁いた。指は固くなった乳首をもてあそんでいる。「今日はちょっと趣向を変えようか?」
 訝しげに彼の視線がちょっと動いたのがわかった。
 「いつも奉仕させちゃってるものね。一生懸命私に尽くしてくれているお礼よ。今日は特別に、あなたにさせてあげるわ」
 そういって池本は上野の前に歩いてゆき、しゃがんだ。白衣の前がはだけ、ピンクのブラウスが開いてへそまで見えている。扇情的な眼差しで彼女はフロントホックのブラジャーをはずし、上野の手を取って乳房を触らせた。彼の表情が驚愕に変化した。それを楽しみながら池本は、
 「その代わり、これからもちゃんと私のいうことを聞くのよ。そうすれば君の希望を叶えてあげる。なんのことだかわかるよね?」
 ゆっくりと上野の視線が池本の目に向けられた。唇が少し開き、また閉じられた。そんなことはあり得ない。彼の目はそう語っているようであった。
 ちゃんといってあげた方がいいな、と彼女は思った。「君を解放してあげる、っていってるのよ。大河内先生の許へ戻れるわ、身も心もね。私のお願いを聞いてくれるわね?」
 上野はためらわずに頷いた。恋人との幸せを再び手に入れられるのなら、どんな屈辱にだって耐えてやる、と彼は自分に誓った。ああ、やってやるとも。
 「それじゃあ、いいこと、しよっか……?」
 「ほ、本当に……解放してくれるんだね?」
 池本は頷いた。「私はね、嘘はつかないよ」そういって唇を重ねた。舌と唾液をたっぷりと絡ませながら、彼女は上野をむさぼった。
 「君の好きな体位で、私を犯していいんだよ」
 「で、でも……」
 「さあ、早くしないと六時間目が終わっちゃうよ? ねえ、いつも大河内先生にしてるみたいに、激しくやってよ?」
 二人はベッドへ折り重なって倒れこみ、上野は初めて味わう池本の肉体に暗い法悦を感じ、池本は来るべき犯罪の成果を思って胸を熱くした。
 狂乱の時間は後ろめたい快楽に満ちていた。

 しんとした廊下を忍び足で歩いていた高村は、保健室の前まで来るとあたりを見まわした。大丈夫、誰もいない。跪いて、音を立てないようにそっと扉を開いた。二センチぐらい開けた。なにも見えなかった。声もしない。
 あれ、上野先生、いないのかな……。いいや、そんなことはないよね。入ってゆくところ、確かに見たし。姿が消えちゃうなんて、いまどきの三文推理小説でだってお目にかからないよ。おかしいな……。
 もう少し開けてみた。三センチ、四センチ……もう少し大丈夫かな……。
 と、そのとき、池本の声が聞こえた。しかし、しゃべり声ではなかった。嬌声というべきものだった。やけに色っぽい、誰をもその気にさせてしまうだろう、とろけるような喘ぎ声だった。
 思わず、高村の体は膠着した。池本先生……。
 目を凝らして、保健室の中を覗き見た。
 いますぐ覗きなんてやめなさい!
 そんな声が、確かに聞こえた。他ならぬ自分の声だった。警告を促している。そう、これはいけないことなんだ。池本先生の邪魔をしてはならない。戻ろう、職員室へ。しか試合は根を張ったように動かず、立ちあがることさえできなかった。もっと見ていたい、という本能の要求が勝ったのだ。それに、自分も前の恋人と別れてからは自慰ばかりで、誰とも体を合わせていない。そろそろ限界に等しかった。それに……ええ、これがいけないことだとはわかっている。でもね、禁忌を犯すのに優る楽しみはないのよ。心の中でスリルと悦楽を覚えている自分がいる。中学生のときの移動教室で、女湯をこっそり覗いていた男子生徒の一団の気持ちも、いまならよく理解できる。そう、禁忌を破るに優る楽しみはない。□

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第2428日目 〈『ザ・ライジング』第2章 25/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 いつの日かこんな奔放で爛れた生活から足を洗わなければな、と思ってはみてもいちど味わった快楽は忘れられず、一方でこんな生活から身を退かせてくれる懐の深い男が現れるとは、どう首をひねっても現実的な考えとは思えなかった。だが、諦め半分で過ごしていた今年の六月、この人なら、と確信させるような男が、学園にやってきた。教育実習でやってきた、自分より年上の男だった。女子校という性質もあってか生徒はもちろん、特に独り身の女教師達は否応なく、この男に関心を向けることとなった。何人かが彼にアプローチしたのを、保健室を溜まり場にしている生徒達から聞いた池本は、ある日偶然に自分以外誰もいない保健室へやってきた男を、言葉巧みにベッドへ誘って押し倒し、ブラウスを脱ぎ捨てて迫った。……が、男はけっして彼女に屈しなかった。それどころか乱暴に彼女を追い払い、這々の体でそこから逃げ出してゆき、以来二度と保健室どころか池本へ近寄ろうとしなかった。それからすぐのことだった。彼が二年生の少女に首ったけだという噂を耳にしたのは。
 畜生、あいつめ、と池本は口の中で呟いた。学園に残されていた資料から彼の住まいを知り、探偵を使って彼に関する情報を集め、暇なときには実際に自分でその近所へ出向いては日常生活を観察するようになった。さすがに犯罪を犯すつもりはなかったのでストーカー行為だけは自粛したが、男を想えば想うほど心が闇に囚われてゆくのだけは自覚できた。彼に女がいる、しかもこの学園に。相手は未熟な少女だ。そんな輩に私は負けるというのか? いいや、そんなことは断じてない。いまからでも彼の気持ちをこちらへ向けさせることはできるはずだ。だって、これまで私が誘ってなびかなかった男なんて、ただ一人を除いていなかったんだから。そのたった一人の例外――そいつを私のものにするのなんて、簡単なことだ、と池本は考えた。今度ばかりは私一人の手で決着をつけてやる。いや、あの男性の女という立場に居坐っている少女(本来なら私がいる場所にのさばっているガキ)を排除するためには、共犯が必要だ。
 彼が学園を去ったのとちょうど期を同じくして、彼女は目の前に跪いて背中を向けている忠実な肉奴隷を手に入れた。そうだ、こいつを使ってあのガキを彼の人生から抹消してやる。パソコンのデリート・キーで文字を消すよりも簡単なことだ……。
 我知らず笑いが洩れた。ぼんやりした視線で上野が振り返った。視線が合うと口を固く結び、上野の頬を平手打ちした。「誰がこっちを向いていいと命じたのよ!?」
 肩を縮こまらせた上野がまた元の姿勢に戻った。それを見ながら池本は舌打ちをした。こいつを使えば、あのガキを黙らせることはできるだろう。そう、なんたって彼には犯罪者になってもらい、あのガキを容赦なく痛めつけてもらうのだから。やがて少女は上野の虜になるだろう。いつしか常習者となり、それを知ったあの男性の心はガキから離れ、より彼にふさわしい私のところへやってきて、万事がうまく収まる。そのときには上野を解放してやってもいい、と池本は考えた。大河内先生とやすらぎの時間を人生の最後の瞬間まで堪能すればいい。となれば、少女は行き場を失うだろう。が、そんなのは知ったことでない。彼女が身を崩そうが自殺しようが、私の知ったことではない。□

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第2427日目 〈『ザ・ライジング』第2章 24/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 高村千佳は放課後の補習授業で使う教室の視聴覚設備をざっと確かめると、扉を閉めて事務室から持ち出した鍵を差しこんで施錠した。鍵の掛かる教室――それはとりもなおさず、視聴覚設備のある教室を意味していた。
 階段をおりながら、隣のクラスの担任とのやりとりを思い出して、なんだか心があたたかくなった。楽しかったなあ。彼となら何時間でもずっと話していられそうな気がした。結構いい人なのかなあ、と考えて、ふと思い至った。考えてみれば、あまり話したことってなかったような気がする。職員室での席も離れているし……いろいろ考えてみても、彼と会話を交わした記憶はなかった。それとも、あったのかな。でも、私は覚えてないや。
 三階と二階の間の踊り場でふと、南翼棟一階の廊下をとぼとぼ歩いている一人の男の姿に気がついた。
 あれ、上野先生だ、と高村は思った。ふいに、深町希美の進路のことで話し合わなきゃ、と思い出した。そして――授業ないのかしら?
 見られてはいけない。
 突然にそんな考えが浮かび、壁に背中をぴったりとつけて、膝を少し屈めてあちらの様子を窺った。上野の頭だけが辛うじて見えた。
 上野が保健室の前で足を停めた。気のせいか、あたりを縮こまった風に見まわして、扉を開けるとすばやく体を滑りこませた。扉が閉まるのを見ると、高村は踊り場の窓のそばの手摺りに掌をかけて、じっと保健室を見つめた。
 保健室へ行くのに、なんであんなおどおどしてたんだろう。不審すぎるよね、あの行動。 ふと好奇心が芽生えた。直感だ。体調が悪いとかそんな理由じゃないぞ、あれは。別の理由があるんだ。いったいなんだっていうんだろう。
 いけないよ、他人のことじゃない。放っておけよ。そんな声が聞こえた。
 ええ、そうね、千佳、でも……。
 結局、高村は好奇心に従った。もし中の誰かに見つかったら、背中の痛みを理由にすればいい。どちらにせよ、保健室には行くつもりだったではないか。
 言い訳に気持ちを強くしながら、高村は階段を一階までおり、そろりそろりと保健室へ足を向けた。

 池本玲子は上野を裸にして跪かせると、背中から脇腹へ、胸をまさぐりながら、息を彼の耳許に吹きつけた。
 そうしながら、これまで自分は誰かを愛するという感情を持ったことがあるのだろうか、と訝しんだ。高校のときから常に異性を侍らせ貢がせ、大学のときには都内の医大だったのをいいことに言い寄る男達に高価なプレゼントを要求し、幾人も手玉にとってそれぞれなりに破滅させてきた。後ろめたい気分を感じなかったといえば嘘になるが、なににもまして彼女を魅了させたのは、目をつけた男達が自分の一言に東奔西走し、得られようはずのない池本の愛を獲得せんと競争相手を蹴落とそうとする猿芝居だった。そうしていつしか池本は気づいた。自分の血にはまさしく“女王”としての性質が脈々と流れていることを。風俗の世界に足を踏み入れ、都心の高級SM倶楽部で鞭を振るって人脈と現金と都内のマンションを幾つも手に入れたのは、そんなころであった。
 池本を求めて手に入らないとわかると、途端に羊の仮面を剥いで牙をむき、力ずくで彼女を我がものにしようと襲いかかってくる男も、中にはいた。ストーカーの如く彼女の身辺を徘徊しては精神的に追いつめよう、と策を弄した男も中にはあった。しかし、それが成功した例はなかった。そのたびに池本が、大学時代に頻繁に夜遊びをした、やくざの女でもあった友人を媒介に、現金をちらつかせて雇った暴力団の男達に半殺しにさせていたからだ。□

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第2426日目 〈『ザ・ライジング』第2章 23/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「木之下さん」と後ろから呼ばれた。振り返ると、バスケット部のエースでやがてはプロになるのではないか、と噂されている星野香奈がいた。「頼りにしてるからね。森沢さんと三人で攻めこんで、相手のやる気を削いじゃおう」
 それだけいうと、星野はセンターサークルに向かって歩いていった。
 その後ろ姿を見送りながら、ずいぶんと自信満々だなあ、と藤葉は感心もし、呆れもした。が、正直なところ、その自信がうらやましかった。プロになるなら、やっぱりあれぐらいでないとだめなのかな。これまでずっと水泳やってきたけど、私の目標っていったいなんなんだろう。プロになるとかオリンピックに出るとか、そんな夢を真剣に思い描いたことなんてなかった。まあ、近いところでインストラクターなんて考えたけど。でも、星野さんに較べたらなんてちっちゃな夢なんだろう。私の夢……報道に携わることしか考えたことなかったなあ……お母さんと同じ仕事に就くんだって、それしか考えてなかったからなあ。まあ、それでもいいか、水泳はこれからも趣味で続ければいいんだし。
 「ふーちゃん、始まるよ」美緒に肩を叩かれて我に返った藤葉は、他のメンバーが既に――いつのまにか決まっていたそれぞれの位置につきつつあるのを知った。
 「私、どこ?」
 「聞いてなかったの? ふーちゃんと私と星野さんとでオフェンスだよ、って決めてたじゃないよお。もう!」と、頬をふくらませて、美緒は藤葉が立つべき位置を指で、ビッ、と指し示した。
 「フグ」
 そう口にした途端、美緒が目をスウッと細めた。友の顔から表情が消えた。藤葉は、やばい、と思った。しまった、とも思った。が、もう遅かった。美緒に両の頬を指でつままれ、思い切り引っ張られた。苦痛と後悔に顔がゆがんだ。
 「フグじゃないよ?」いつもと同じ、美緒のやわらかな口調。甘くかすれた、ふわふわした感じの声だった。でも、冷たい。
 「う、うん、うん。そう、フグじゃない。ごめん、美緒。もうフグなんていわない」
 「ホント?」
 「も、もちろん……天地神明にかけて誓います……です。あう、い、痛いよ……」
 「じゃあ、許してあげる。今度いったら――宿題、見せてあげないからね」
 そうお灸を据えて美緒は指を離した。藤葉は頬を両掌で包み、マッサージするように撫でさすった。ふと見ると、彩織がこちらを指さして笑い転げていた。希美は両膝の間に顔を埋め、掌で床をばんばん叩きながら、笑いで肩をふるわせている。
 まったくもう……。
 「おーい、木之下君よ。そろそろゲームを始めたいんだがな」教師がボールを脇腹に押しあてながら、藤葉を呆れた風な視線で見ながらそう訊いた。
 「あ、すみません。始めてください!」
 藤葉はそう答えながら、自分の位置へ小走りで向かった。美緒や星野とアイ・コンタクトを交わし、頷いた。名誉回復(ってほどでもないか)しなきゃ。
 教師がホイッスルを吹いて、ボールを高く投げた。センターサークルで向かい合っていた星野ともう一人がやや膝を曲げ、床を強く蹴って飛びあがった。互いに右腕を高く伸ばし、落ちてくるボールを我がチームのものにしようと狙いを定めた。□

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第2425日目 〈『ザ・ライジング』第2章 22/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 バスケットボールのチーム分けが、厳正かつ公平にアミダくじで決められたとき、片方のチームから一斉に不平不満の声があがった。体育教師が思わず顔を覆って、「なんてこったい」と呟くのを、すぐ横にいた藤葉ははっきり聞いていた。
 気持ちはよくわかった。藤葉も天を仰ぎたい気分で、壁の方を見やった。教師がバスケットボールの試合をやるといった途端にさっさと見学を決めこんだ希美と彩織が、ぼんやりと騒ぎのしているコートを眺め、藤葉に視線を移した。二人とも、なにかあったの、と問いたげな顔をしている。藤葉は苦笑いで答えるよりなかった。
 「なんで星野さんも木之下さんも森沢さんも、そっちのチームなのお!?」
 そんなこといわれてもねえ、と藤葉は心中呟きながら、右の掌で首をさすった。あれ、美緒はどこだろう。体育祭のときには学年の期待を、自分や星野さんと共に一身に背負うことになる美緒は。ぐるりと後ろを見てみると、そこに美緒がいた。心持ち脚を開いてうつむきながら、髪を結いあげポニーテールにしている。
 うわあ、やる気たっぷりだ。そう藤葉は思った。戦闘モードにスイッチ入っちゃったよ。軍神の出陣だ。
 「アミダで決めよう、っていったのお前らだろ!? なら結果に文句いうな!」
 教師はそう手を振りふり、反駁した。生徒達はそれぞれのコートに散っていった。藤葉のチームはさして騒ぐでもなく、一方そうでないチームは、いまだ不平の声をあげながら。
 どう考えたって負け試合じゃない。そんな相手チームの声が、藤葉の耳に触れた。誰もがそう思うゲームほど、実はとんでもないドンデン返しが待っているものよ、と藤葉は呟いた。それがスポーツのいちばん面白いところかもしれない。結果はゲームが終わるまでわからない。勝敗の確率はいつでもフィフティ・フィフティ。陸上でも水泳でも、もちろんバスケだって同じ。その場で勝敗が決まる残酷さはあるけれど、それだからこそ、ゲームの最中は気が抜けない。緊張の糸が途切れた時を見計らって、必ず自分より弱い者、実力の劣る者は切り崩しにかかってくる。そして、ときには敗北を味わうことになる。それは弱肉強食――いや、下克上、というべきか。百メートルのクロール競技で一年前の夏、同じスイミングスクールに通う当時中学三年生の少女に惨敗を喫した経験を持つ藤葉は(「ものすごくガリガリな子でさあ、風が吹いたら飛んでっちゃいそうな子なのよ、それが!」と藤葉はその日の夜、敗戦報告を美緒にした)、そんなことを思い出しながら美緒の横に立った。
 「がんばろうね」
 にっこり笑いながら、右手の親指を突き立てた美緒がいった。藤葉はなにも答えなかったが、同じように笑顔で親指を立てた。ついで、すっかり観客気分でいる希美と彩織を二人して見た。彩織が両腕を大げさに振って、「ぶーぢゃあああんっ! みおぢゃあああんっ!」と、わざとらしく濁音をつけて騒いでいた。希美もなにかを叫びながら手を振っていたが、なんといっているかは隣の彩織の声に呑まれて聞こえなかった。
 藤葉と美緒は顔を見合わせてなにごとか小声で相談すると、縦に並んで立ち、上半身を直角にひねって右腕をまっすぐに伸ばし、親指を立て、ニカッ、っと歯を見せて笑った。
 それを合図にしたかのように、希美や彩織のみならず観客にまわったクラスメイト達が歓声をあげた。
 いい気分だった。もしかしたら、この雰囲気を味方に勝っちゃうかもな。だめだめ、油断は禁物だ、と藤葉は両頬をぺちぺち叩いて、妄想を追い払った。□

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第2424日目 〈『ザ・ライジング』第2章 21/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 観念した口調で、「わかった。行くよ」と答えた。知らぬうちに携帯電話を強く握りしめていたようだ。指が強張っていた。「だけど、すぐに終わらせてくれるね?」
 忍び笑いが聞こえてきた。「心配性なのね、上野先生。ううん、君の場合は臆病者といった方がいいかな。そんなにばれるのが怖いんだ、かなえちゃんに?」
 「あいつのことをそんな風に呼ぶな。なんだって――」
 「来るの、来ないの、どっち?」声に怒りの表情がはっきりと読み取れる。「まあ、君に選択肢なんてないんだけどね、わかってると思うけど」
 彼女の意向に逆らう発言は慎むべきだな。そう上野はいまさらではあったが、思い知った。「わかった、保健室だね。いつごろ行けばいい?」
 「いますぐ、っていわなかったっけ?」
 「ごめん」
 「さっさといらっしゃい。それとね、今日は君に大事な話があるの」
 大事な話? いったいなんだというのか? まさか、解放か?
 ぬか喜びする上野の気持ちに冷水を浴びせかけるように女は、
 「いっとくけど、私達の関係を終わりにしましょう、っていう話じゃないからね」
 それきり、電話は切れた。
 苛立ちながら上野は、携帯電話をたたみ、シャツのポケットに無造作に押しこんだ。ストラップがだらしなく垂れさがる。視線を足許から正面へ動かした。講師控え室まであと十五メートルばかり。ライムグリーン色のリノリウムの廊下が、不気味に伸びている。控え室が実際以上に遠く感じられた。
 あすこまで歩くのか、やれやれだな。気分はすっかり滅入り、足取りは鉛の玉を引きずっているように重かった。
 窓を通して廊下に作り出されていた陽溜まりも、だいぶ少なくなってきていた。窓越しに見える中庭へ目をやる。南南西の空から陽光が、わずかな光の帯を作って射しこんだ。自分の置かれている状況が滑稽に思えるほど、目の前に広がる世界はのどかであった。視線をあげると、三階の廊下を、これから二年生のどこかの教室に向かう途中の恋人、大河内かなえの姿が見えた。上野はいまさらながらに電話の相手との隷属関係を心の底から嫌悪し、恋人の存在を悲しんだ。出会って数ヶ月、深く愛し合っている女を裏切っている自分に吐き気を催し、来し方の罪業に思いを馳せて悔い、嘆いた。
 上野の視線を感じたのか、大河内は足を停め、こちらを見おろした。視線がぶつかり、絡みあった。掌を開いて小さく振り、笑みを浮かべている。周囲を見渡すとやおら口許に指をやり、投げキッスを送ってよこした。その仕草に彼は、胸がちくりと痛むのを感じた。
 大河内はややあって彼に背を向けると、教室の扉を開けて、閉めた。扉を引く音が、はっきり聞こえるような気がした。小さな溜め息……何度目だろう?
 やっぱり断ろう。清算するんだ、今日を限りに。そして、かなえにすべてを告白し、許しを請おう。これ以上かなえを裏切ることはできない。ささいな行為とはいえ、あいつの支配から逃れなくては。今日こそはきっぱり縁を切る、と宣言しよう。
 だが、数分後、保健室へ勇んで足を運んだ上野は扉を開けた瞬間、決意がぐらついて、時間が経つにつれて崩壊してゆき、六時間目終了のチャイムが鳴るころにはまた後悔することとなるのであった。池本玲子の欲望のはけ口となり、その肉体と手練手管を駆使されて、暗い快楽に溺れたがために。そしてそれ故に、悪魔達の所業へ手を貸す羽目になるのだった。□

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第2423日目 〈『ザ・ライジング』第2章 20/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野宏一はシャツの胸ポケットにしまっていた携帯電話が、低く唸りながら震えているのに気がついた。バイブレータ機能にはいまだ馴れず、着信があるたびに心臓が停まる思いをする。大河内には、胸ポケットに入れなきゃいいんじゃない、と至極もっともな意見を頂戴しているのだが、つい癖でそこに突っこんでしまう。鞄に入れていると紛失するような気がして不安なのだ。
 フリップボディを開いて相手が誰かわかると、思わず顔をしかめた。畜生……。
 携帯電話の震えはやむ気配がなかった。苦虫を噛みつぶしたような表情で、上野は通話ボタンを押した。
 「もしもし?」そう低く押し殺した声で相手にいった。
 「――私だけど。出るのが遅かったわね? 大河内先生とラヴ・シーンの真っ最中だった?」
 「違いますよ」と簡単に答える。
 それが気に入らなかったのか、相手の女性はひどく冷ややかな声でいった。
 「いますぐいらっしゃい」
 お誘いか、と上野は口の中で毒づいた。もうあんたとは終止符を打ちたいんだよ、俺は。 「なぜなんです?」
 答えのわかりきったことを訊ねてみた。ああ、この女王様はどんな反応をするのだろう……。いったあとでそれを想像すると、空恐ろしい気分に襲われた。
 「わかってるくせに」と相手の女はいった。
 六時間目開始のチャイムが鳴り響いた。相手の声の向こうからも、同じ音がかすかだけれど聞こえた。
 「次、授業はないのよね?」
 上野は黙りこんだ。こいつは俺のスケジュールをすべて知っている。だが、それは難しいことじゃない。同じ学園に勤める者なら誰もが誰かのスケジュールを知ることができる。こいつと俺の間柄じゃなおさらだ。
 女はぞっとするような低い笑い声をあげると、「じゃあ、来なさいよ。私の望んだときに私の相手をする、って誓ったのはどこの誰だったかしら?」といった。
 どうする、上野宏一? 悩む必要はない。行くしかないよな。いや、断るんだ。そんな勇気もないのか? お誘いなんかつっぱねちまえよ。お前にはかなえがいるじゃないか、話も気持ちもばっちり合う最良のベターハーフのかなえが。セックスの相性もこれ以上は望むべくもない〈最高の女〉が? なら……あの女につきあうことは、ただの苦しみしかもたらさない。ああ、かなえといるときの幸せなんて、欠片も感じないしな。俺があの女といて覚えるのは、苦痛と屈辱、そして、ほんのわずかの快楽――それも結構後ろめたい。
 悲しむべきかな、否定せねばならない欲望がおもむろに鎌首をもたげてきているのがわかった。その証は――ほら。上野は努めてさりげない風を装って、持っていた教科書や楽譜で前を隠した。あたりを見廻してみる。けれども、誰もいなかった。彼は我知らず、安堵の溜め息がもれるのを感じた。
 しかし、この火照りは鎮まりそうもなかった。これを手早く解決するための方法をいろいろ考えてみる。……大河内はこれから授業がある。口説いて空き教室に誘うことなんてできはしない。俺にはここの音楽教師のポストが必要なんだ。かなえとの未来のために。そんな大それたこと、できやしない。……じゃあ、トイレに籠もって自慰でもするか。おい、馬鹿野郎、お前はなにを考えてるんだ。それがあの女にばれたから、この地獄を味わっているんじゃないか!? じゃあ、どうする……。あの女の姿が目の前に浮かんで、簡単に消えそうもなかった。あの扇情的なまでの肢体……かなえに優るとも劣らないあの肢体。
 そうか、それしか手段はないのか。□

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第2422日目 〈『ザ・ライジング』第2章 19/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 椅子に坐りこむなり、わけもなく高村は疲れを覚えた。疲れの原因が背中の痛みにあるのは明らかだった。五時間目の授業がなくて、助かった……。こらえられないというわけではないが、さりとてずっと立っていると背骨が折れてしまうのではないか、と心配になる。これが腰だったら教師という仕事の宿命かな、と考えて救われる部分もあるが、背中となるとそうもいかない。なんとかしておいた方がいいに決まっている。なるべく早いうちに。
 保健室に行って湿布でも貼ってもらおうかしら? 池本先生と久しぶりにお喋りするのもいいな。
 そう思い至って席から立ちあがろうとしたが、時計を見てまた腰をおろした。まだ休み時間だ。きっと保健室には生徒の誰彼がたむろしているだろう。そんなところにのこのこと出掛けていって、湿布貼ってください、なんていうつもり? 生徒の笑いの種になるのは、火を見るより明らかだった。プライドが傷つくわけでないが、笑われるのはなんだか癪に障る。それならあと少しの時間、痛みをこらえて席にいる方が懸命というものだ。
 高村は椅子をぐるりと回転させ、密生した常緑樹を窓越しに眺めた。高等部の学生だったときは、自分がここに坐っているなど想像したこともなかった。そもそも教員になろうと考えたことすらなく、なんとなく大学に行って、なんとなく卒業して就職し、なんとなく結婚して家庭に入るものとばかり思っていた。なのに、なんで私、教職を選んだんだろう? きっかけになるような教師と出会ったわけでもないし、理想があったわけでもない。
 私、いつまで教師やってるんだろう?
 「どうかしましたか、高村先生?」
 気がつくとそばに、隣のクラスの担任が立っていた。若い男の教師で、昨年の春に着任した。ときどき、職員室にいると、この男の視線を感じることがあった。池本先生がいってたっけ、この人、私に惚れてる、とかって。ねえ、本気なの、と高村は訊ねたくなった。
 「どうかしたんですか? 顔が赤いですよ。もし体調が悪いんだったら――」
 「大丈夫よ」と高村は答えた。謂われもない怒りが鎌首をもたげたが、すぐに自分のイライラを鎮めて、いった。「ありがとう、心配してくれてるのよね?」最後はなんだか誘うような口調だったが、気に病む必要はない。もしこの男が本当に自分を好いているのなら、つきあってみてもいいだろう。
 彼は頭を掻きながら、なにかを思い出したように高村を改めて見ながら、
 「そういえば、放課後に使う教室のことで事務室の人から言付かってきました」
 「ん? ああ、補習授業のことか」
 「大変ですね、学年主任になると」
 「私よりも適任がいると思うんだけどねえ。でもね、じきに君もやることになるのよ」
 それを聞いて彼は、うひゃあといいながら顔をしかめた。それがあまりにおかしな表情だったものだから、高村は思わず吹き出してしまった。彼はそんな高村を見て、どう反応していいものか迷い、その場に立ちつくしていた。
 ひとしきり笑ってから、高村は彼の方に目をやり、「うん、それで教室がどうしたって?」と訊いた。
 「ああ、申請されていた403教室を使ってください、って。あすこって確か視聴覚機材のある部屋ですよね?」
 「そうよ。機材の確認もしておかなきゃな。ありがとうね」
 その若い男は照れながら、その場を離れて自分の席に戻った。
 休み時間が終わったら鍵を持って、視聴覚機材がちゃんと動くか確かめに行こう。
 そう考えて、マグカップを手にした。空だった。コーヒー入れてこようかな、と背中の痛みに耐えながら腰をあげたときだ。肘がぶつかった拍子に、積みあげてあった書類の山脈が轟音をあげて崩れ落ちてきた。□

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第2421日目 〈『ザ・ライジング』第2章 18/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまでは教室の移動をしてはならない。そんな校則がある。それを守る者はいったいあるだろうか? 答えはイエスだった。が、結果的に守られているだけであって、校則に従っているわけではない。六時間目は体育だったが、ジャージに着替えるために更衣室へ行くまで、教室から出ようとする者はいなかった。
 「ねえ、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』、いつ観に行く?」と藤葉が他の三人に訊ねた。彩織の席を中心にさっきのワークブックの件でひとしきり盛りあがり、一段落したところだった。
 「もう始まってるんだっけ?」希美は藤葉を見あげた。
 「えーとね、再来週から――だったかな?」昨日の学校の帰り、近所のコンビニで立ち読みした『ぴあ』の新作映画情報を思い出しながら、藤葉が答えた。「一作目と同じ、駅前の映画館でやるみたいだね」
 「じゃあ、学校の帰りにまたみんなで行けるなあ」にらめっこしていたワークブックから顔をあげた彩織がそういった。
 「〈旅の仲間〉が宿敵ハリー・ポッターを観に行く約束をしていました」と藤葉がいった。「白井さんってまだ小説書いてたんだッけか? なんかの書き出しに使えないかな、ね、ののちゃん?」
 希美はきょとんとした顔で藤葉を見ていたが、みるみる顔を赤く染め頬をふくらませて、「もう、知らない! 書いてたってね、そんな売り込みはお断りですう!」とすねたようにいった。それが三人の爆笑を買って、じきに希美もその笑いに加わった。
 「――木曜日に行かない? みんな、部活ないでしょ、確か?」そう藤葉は提案した。 「あ、いいね、讃成。希美ちゃんと彩織ちゃんは?」と美緒が二人に訊いた。
 「ウチはOKや」
 「練習があっても全体のじゃないから、うん、大丈夫だよ」
 「じゃあ、決まりだね」そういいながら、藤葉は手帳を開いて、その日のところに丸く印を付け、「ハリポタ!」と書きこんだ。「時間とかは、まだいいよね?」
 「いいっしょー、それは」彩織が足をぶらぶらさせながら答えた。「直前になってからでええんやないの? 上映時間だってまだわからんわけやし」
 「そうだね。まあとりあえず、木曜日に観に行くことは決まり。時間は追って話し合いましょう、ってところだね」そういいながら、藤葉はジャケットのポケットに手を突っこんだ。
 美緒が乳房の下で腕を組んだのを見て、希美は、あ、大きい、と口の中で呟いた。あれぐらいあればいいのになあ……。五時間目が始まる前、美緒に抱きしめられたときの感触を思い出した。ふんわりとしてて、やわらかくてあたたかで、心が安らいだ。なんだか、ママの胸に抱かれているみたいで……。はあ、と溜め息が出た。あの人は、私のちっちゃい胸をどう思ってるんだろう?
 ややあってチャイムが鳴り、生徒達はかったるそうな声をあげながら、更衣室へぞろぞろと向かっていった。□

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第2420日目 〈『ザ・ライジング』第2章 17/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――ののかてマジで芸能界に入ることなんて、考えとらんのやろう。
 後ろの席に坐っている親友の姿を思い描きながら、そんなことを考えた。
 ののがいちばん、人生を現実的に考えなきゃならんのや。
 両親の死を契機にして希美が、それまではお子様とも深窓のご令嬢とも感じられた希美が、やけにしっかりした物の考え方をするようになり、ふとした拍子に実年齢以上の存在と見えるようになった。両親の死をきっかけにかねてより志望していた音楽大学への進学を諦め、卒業後は就職することにした一件を、彩織は知っていた。そのことで担任の高村や進路指導の大河内と何日も、何時間も話し合っていたのも。そして……何年かしたら、(おそらく)白井さんと結婚してしまうのだろう、そう彩織はつらつらと考えていた。
 たぶん、ののにとってハーモニーエンジェルスのオーディションっていうのは、夢を見ることに他ならなかったんや。きっと明日にでもののは審査から辞退するんやろな。彩織様にはのののこと、全部わかってしまうんや。なにしろ小学二年の時に出会って以来、ほぼ毎日顔を合わせている親友だ。
 で、その彩織様はどうする気や? ののが辞退しても最後まで戦うか、それとも、一緒に身を退くか? 二つに一つ、さあ、どっちにするんや? ……わからんわ、そんなこと。まだちょっと時間はあるさかい。考えさせてえな。
 ふいに周囲のざわめきが耳へ戻ってきた。さざ波のように、そしてだんだんと大きくなってくる。さわさわ、ざわざわ、ざっぷーん!! ……。
 「――彩織、――彩織ってば!」希美の低く殺した声が後ろから聞こえてきた。ついでに椅子の座部の裏をがんがんと蹴っているのも。ごつんごつん、と振動がお尻に響いてくる。なんやちゅうねん、そんなに叩いたら痔になっちゃうやんか。
 視野の一部が陰った。彩織は息を呑んだ。目の前に世界史の教師が仁王立ちしていた。
 「あ……」といったきり、彩織は二の句が継げなくなった。いつの間に……しかも気配を完全に消してウチの前に……先生、きっと忍者の子孫に違いない。五日前、父と一緒に見たモノクロの忍者映画を思い出した。まあ、それはさておき。
 しまったあ。
 「授業中なんですがね、宮木君?」と教師はうんざりした口調で言った。「いま話していたのはだな、この事件についてはテストの半分を占めるから、丸暗記でいいからきちんと理解しておけよ、ってことだったんだけどね?」
 彩織と教師の視線がまともに合った。お団子頭で瞳をうるうるさせた少女の無言の訴えに教師は赤面し、机の上のワークブックに目を落とした。
 「じゃあな、宮木。お仕置きだ。そのワークブックの……何頁だったかな」そういいながら教師はワークブックを手にして、頁をめくった。「ここから……ここまで。いまやってる時代の部分だな。穴埋め、エッセイ、全部やってこい。年明けの最初の授業のときに提出したら、勘弁してやる」
 「えーっ!?」彩織は教師からワークブックを受け取って、眉間に皺を寄せて訴えた。「これ、全部? マジでっか!?」
 教師が間髪入れずに頷いたことで、彩織はがっくりと、大仰な溜め息をつきながら頭を垂らした。その行動があまりにオーバーだったものだから、クラスの全員が笑い声をあげた。
 希美がどれどれとワークブックを覗きこむ。途端、「げっ」と一声発して押し黙った。結構な分量だった。美緒がじっとこちらを見ている。希美は親指と人差し指で、これぐらい、とその量を教えた。
 ふと顔をあげて黒板の方を見た彩織に、美緒が左手の親指を立てて、大丈夫、手伝うよ、と勇気づけた。彩織はそれを見て、安心したような表情になった。すると教師がなにかを察したのか、美緒の方へ振り返り、
 「森沢、手伝ったりする必要はないぞ。教科書や年表見れば答えのわかるものばかりなんだからな」と釘を刺した。
 今度は美緒がうなだれる番だった。またクラスが笑い声に包まれた。いつのまにか眠りこんでいた藤葉が、その笑い声で起きた。
 教師が腕時計を見ながら教壇に戻るのを見て、彩織は後ろから、アッカンベーをした。希美もそれに気づいて、必死になって吹き出すのをこらえた。
 授業は終わった。起立、礼。□

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第2419日目 〈『ザ・ライジング』第2章 16/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 宮木彩織は欠伸をした。ばれないように口を手で隠し、顔を伏せながら。世界史――というよりも文系の授業はけっして嫌いではなかったが(それが成績に結びつかないあたりが、彩織を彩織たらしめているところであった)、今日はどうにも教師の話へ耳を傾ける気が起こらなかった。昼休みの眠気がここへ至って増したように思える。
 うーむ、眠いや。
 そっと斜め後ろの方へ目をやった。意外にも、藤葉は起きていた。いまにも目蓋がくっつきそうな表情で、黒板の年号やら人名やら事件やらをノートに書き写している。彩織の視線を感じたのか、藤葉はひょいとこちらを見やった。笑いながら掌を見せて左右にひらひらさせた。彩織がそれに答えて、「眠いよー」と口をぱくぱくさせて伝えると、藤葉はすぐにうんうんと頷いて、「私もだよー」とゼスチャーを交えて答えた。黒板に向かっていた教師が生徒達に振り返り、説明を始めた。彩織と藤葉の無言の会話も必然的にそこで中断された。彩織は黒板の文字を書き写そうと前に視線を向けた。美緒の姿が他の生徒の陰から見える。特徴的な開かれた大きな目は、教師とノートの間を行ったり来たりしていた。ののは? 教師がこちらを向いている以上、真後ろを振り返る勇気はなかった。耳をすましてみる。寝息やそれに類する物音は聞こえない。どうやら起きているようだった。
 教師が再び黒板に向かったのを機に、彩織は窓の外へ視線を移した。おだやかな陽光の降り注ぐ窓の向こうに横たわっている街――それは彩織が七歳のころから過ごしてきた、いまとなってはなによりも大切な故郷であった。海と山の間にあってゆめ広いとはいえない世界だったが、ほとんど記憶にない生まれ故郷や、父親の仕事の都合で転々としてわずかな期間しかいなかった西日本の小都市以上に、自分の人生と密に結びついた全世界に等しい街。学校の境界に接して少し離れたところに建売住宅がまばらに建ち並んでいた。それを抱えこむように周囲には緑野が広がり、その一角には既に区割りされたものの建築作業が何年も宙に浮いている一戸建ての予定地が伸び放題の草に埋もれてあった。南へ視線を動かすと東海道新幹線の線路が視界を横切り、あたかもそこを境界線としたかのようにその先から、やや目を凝らさなくてはそうと見定めがたい沼津駅を中心にした市街地が広がっていた。高い建物がないだけ実際以上に街は広大に見える。その向こうには駿河湾が望めた。陽光の照り返しを受けて輝く波頭が見えるような気がした。古の沼津の民を水害から守った千本松原が数キロに渡って西へ延びていた。ののん家やふーちゃん家のある方向や、と彩織は何気なく思った。視界の左手には箱根連峰の稜線がかすかに見遙かせ、その手前に香貫山が鎮座坐し、ゆったりと流れる狩野川が山をぐるりと囲いこむように蛇行して流れ、駿河湾へ注ぎこんでいる。小さな街ながら、彩織にとってはおそらくこれからもずっと全世界であり続けるだろう故郷。
 ――でも、ハーモニーエンジェルスになったら出てかなきゃならない。
 この街を。
 さっきもふいに浮かんだ疑問が、また胸の内に湧き起こった。――果たして自分は本当に芸能人になることを希望しているのだろうか? 本心からその世界で活躍することを欲しているのだろうか? 芸能人にもしなったら、いまのこの生活は失われる。両親と弟がいる日常は過去の記憶に過ぎなくなってしまう。友達と笑ったりけんかしたりの毎日は、おそらく戻ってこないだろう。もう日曜日に朝寝坊する気易さも、家族や〈旅の仲間〉と港へ行って新鮮な魚介類をふんだんに使った料理に舌鼓を打つ地元民ならではの幸せも、すべてが奪われてゆく。そしてなによりも、これまでの、いまの生活を壊して未知の世界へ足を踏みこむことによる不安と恐怖。……自分の芸能界を目指す気持ちは、いったい本当の気持ちなんだろうか……。□

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第2418日目 〈『ザ・ライジング』第2章 15/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「あ、そうだ」と美緒は呟いて、希美に視線を向けた。「ねえ、――白井さんから電話あったの、昨夜?」
 希美は前髪をいじくりながら耳を傾けていた。やがて頬をほんのりと紅に染めながら、こっくりと頷いた。口許はゆるみ、てへてへと笑顔を見せる。
 「うん……電話はなかったけど、留守電に入ってたよ。『おめでとう、やったね!』って」
 「希美ちゃん、幸せそう」と、友人の笑顔に美緒は自分の心がずたずたに傷つけられるのを感じた。でも、我慢しなきゃ、ね。希美ちゃんが幸せになれるんだったら、私の傷なんてたいしたことないもん……。
 「そう、白井さんからもおめでとうメッセージ、あったんだね……。って、え、ちょっと待って? なんで留守電だったの?」
 「うーん、実はさあ、三回かかってたんだけど、ずっと彩織と話し中でさあ。気がつかなかったんだよね。夜遅かったから、家の電話にはかけなかったみたい。もう寝てるとでも思ったのかもね」
 「彩織ちゃんったら。ちょっとは気を利かせたらいいのに」
 「いいって、いいって。彩織はあれでこそ彩織なんだから」
 「でもさあ……」
 「気にしてないよ。彩織とは小学校のときからの付き合いだからね」
 「いいの?」
 「もう馴れた」
 二人はどちらからともなく笑い声をあげた。
 「今度の日曜日ね、久しぶりにデートなんだ」壁に背をあずけながら、ぽつりと希美はいった。「横浜に連れてってもらうの」
 「わあ、いいなあ。でも、教育実習がうちのクラスでよかったね?」
 美緒の質問に希美は頷くだけで答えた。両の掌で缶を包みこみ、笑みをこぼしながら。 ふと、視線があった。美緒は無意識に本を脇に置き、希美の肩に手をかけて力任せに抱き寄せ、その黒髪に鼻を埋め、撫でた。ああ、いとしいしと……。
 数秒の時間が流れた。授業が始まっているためもあって、周囲は静寂に満ちていた。美緒には希美を抱きしめている時間が実際以上に長く感じられ、このまま時間が停まってしまえばいいのに、と切望せずにいられなかった。
 希美がもぞもぞと体を動かした。あわてて美緒は体を離し、本を手にした。
 「あ、ご、ごめんね。そんなつもりじゃなかったの。あ、あの、き、嫌いにならないで――ね?」
 「謝らなくていいよ。ありがとうね、美緒ちゃん。うれしかったよ」
 安堵の溜め息をついて、美緒はなんの気なく腕時計に視線を落とした。一時八分。あと二分で世界史の授業が始まる。いや、正確にいうならば、世界史の授業が始まるまでには、あと一分四〇秒しかなかった。
 「あ!」という美緒の小さな叫びで、希美は事情を悟った。
 二人はスカートをはためかせながら、廊下を駆けて階下の教室へ一目散に走っていった。途中、ある教室の扉が開いて教師が顔を出し、二人の背中へ「うるさいぞ! 廊下を走るな、と校則でも決まっとるだろうが!! おまえ達、クラスと名前は!?」と怒鳴ったが、その視線は、はためくスカートから伸びる足へ注がれて離れなかった。
 もちろん、希美も美緒も教師に従うつもりは、これっぽっちもなかった。したことといえばただ、階段を降りるときに自分達の顔がばれないように、両手や本で顔を隠したことぐらい。が、それはまったく取り越し苦労というものだった。ガラス窓には陽光が反射して階段にいる者の顔なぞ識別できなかったからだ。それに、件の教師も教室の中に戻ってしまっていたから。
 希美と美緒の二人が教室に息せき切って滑りこんだのは、世界史の教師が扉に手をかけるきっかり五〇秒前だった。□

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第2417日目 〈『ザ・ライジング』第2章 14/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「うん、大好き」とにっこりしながら美緒はいった。「子供のときね、私って病気でよく学校を休んでたの。小学校の三年生のころかな、やっぱり病気で家にずっといた私に、山梨にいるお祖父ちゃんがトールキンの『ホビットの冒険』と世界中の神話が一冊になった本を送ってくれたの。とても面白くってねえ、夢中になって読んでたら次の日の朝になってて、お母さんにものすごく怒られた。それからじゃないかな、私がファンタジィとか神話とか読み始めたのは」
 膝の上に置いた『幽霊の恋人たち』の表紙を愛おしそうに撫でながら、美緒はゆっくりといった。「それに私、いじめられっ子だったからね。友達もずっといなくて、本の世界へ逃げる他なかったの。……五年生のときにふーちゃんに出会って、いじめっ子をガツンしてくれて、ようやく他の子とも遊べるようになったんだよね……」
 「初めて聞いた。いやなこと思い出させちゃったね、ごめん」
 「あ、ううん、だってふーちゃんしか知らないもん、このこと。でも、黙ってたわけじゃないの。私こそ、ごめんね」
 「いいよ、美緒ちゃん自身のことなんだから。話したいときに話せばいいよ」と希美はいって、コーヒーを一口啜った。
 横に坐る報われぬ想い人の横顔をそっと眺めながら、美緒は唇をぎゅ、っと噛んだ。
 ――そうよ、コーヒー……。
 ちょっとちょっと、ねえ、待ちなさいよ、希美ちゃんがなにを飲もうとあんたには関係ないでしょ?
 そりゃ、そうだけど……。
 いいこと、美緒、あんたがどれだけ希美ちゃんを想ってるかわかってるよ、だって私はもう一人のあんただから。でもさ、あんたがどれだけ想っても、どれだけ嫉妬したって希美ちゃんがパートナーに選ぶのはあんたじゃないんだよ?
 わかってるわよ、そんなこと!! それぐらい、私だってわかってる……確かに〈女〉と〈女〉よ。でも、好きになっちゃったんだから仕方ないじゃない!
 おお、怖い、怖い。なにも逆ギレしなくたっていいじゃない……。
 逆ギレなんかしてない!
 もういいよ、好きにしな、って。
 いつまで自分の気持ちを抑えていられるなんか、わかんないよ……。
 「美緒ちゃん?」希美が肩を揺さぶっていた。「泣いてるの?」
 泣いてる? 美緒はその声に導かれるように右手を動かし、甲で目蓋を拭った。あ、本当だ、濡れてる。
 「はあ、ごめんね。なんだか小学生の頃を思い出しちゃったみたい」と美緒は無理に笑顔を作った。「おかしいね、こんなの……」
 「ううん、そんなことないよ。昔は昔、いまはいま、ね?」
 美緒が上目遣いで笑みながら頷いた。「ありがとう、希美ちゃん……」
 「いえ、いえ、どういたしまして。――ところで、美緒ちゃん?」
 「ん、なに?」
 「お汁粉、冷めちゃうよ?」
 「あ、もう、やだあ!?」
 美緒はあわてて缶を持ち直した。しばらく美緒は無心にお汁粉をたいらげることに専念した。□

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第2416日目 〈『ザ・ライジング』第2章 13/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 自動販売機の前で立ち止まると、さて、なにを飲もうかな、と二人してしばし思案に暮れた。先に決まった美緒が百円硬貨を一枚、投入口に入れてボタンを押した。なににしたの、とニコニコしながら希美は美緒の持った缶を覗きこんだ。「あ、やっぱりお汁粉だあ。美緒ちゃん、いつも飲んでてよく飽きないよねえ……」と感心したように希美はいった。
 「だって、おいしいんだもん」美緒は少し頬をふくらませた。「飲み比べてみた結果、この会社のがいちばん“お汁粉”してる」
 はあ、そうですか、となかば呆れ顔で希美は財布をジャケットから出した。ちりん、と鈴が涼しげな音を立てる。百円がなかったので、五百円玉を入れた。三段に並んだ押しボタンが一斉に赤黒いランプを点ける。数瞬視線をさまよわせて迷った末、一番上の列、右端のボタンを押した。わずかな間があって、自販機の中から低いモーター音が聞こえた。ガコン! 希美は腰をかがめて、乳白色をしたプラスチックのプレートを押しあげ、ホットコーヒーの缶を手にした。小声で「熱ッ!」と呻き、左肘の裏で抱えて、右手の指を耳たぶにやってこすった。
 ……希美ちゃん、コーヒーなんて飲むんだ。
 壁の窪みに設けられた三人掛けのベンチで美緒は、希美の選択を少々意外に思って、感心したような風で呟いた。選んだ飲み物を目にして少々意外に思った。
 いつからコーヒーなんて飲むようになったんだろう? うん、ま、まさか希美ちゃん、モーニング・コーヒーを経験したの!? ――ひゃあ、と心の中で足をばたばたさせながら、そんな場面を妄想していたら、お尻がむずかゆくなった。いや、でも、たぶん違うだろう……。たぶん、まだ希美ちゃんは経験していない。だって……もしそんなことになってたら、ねえ、美緒、あんただって女なんだからわかるでしょう? ……。
 夢にまで現れる〈いとしいしと〉のそれとわからぬ変化に心を痛めながら、自分でもそうとは知らないうちに長い溜め息をもらした。どうやらそれが聞こえたようで、希美は隣に坐りながら、「なにかあったの?」と聞いてきたが、美緒は頬を真っ赤に染めながら頭を思い切り左右に振って、なんでもないよ、と答えた。「変なの」といった希美の声にちょっとだけ傷ついたが。
 「美緒ちゃんってそういうファンタジィとかって、本当に好きなんだね?」
 美緒の膝の上に置かれた図書室の本を見ながら、希美は無邪気な調子でそういった。美緒の家に遊びに行ったとき、部屋の一面の壁を支配するようなどっしりとした木製の書棚――大工だった母方の祖父が、本好きな美緒の中学入学祝いに作ってくれた書棚――にも驚かされたが、それ以上に希美の口をあんぐりと開けさせたのはほとんど隙間なく埋められた本の数々にであった。そこに納められた千に届こうかというぐらいの量の本、本、本……。驚いたままでいる希美を見て、「――私って本だけは捨てられない性分なの。お母さんによくいわれるんだよ、ちょっとは女の子らしい部屋にならないの、って。でも、そんなこといわれたって困るよね。それに、人それぞれだし」とくすくす笑いながら窓べりで話してくれた美緒。書棚に収められた本の多くはファンタジィだった。クリスマスや誕生日の贈り物だったり、お年玉や少ないお小遣いを貯めてブック・オフや古本屋を回って買い集め、読破した、一冊一冊に思い出と感動がつまった本だった。三年前の十二月、『ハリー・ポッターと賢者の石』も発売されたばかりのころでまださほど話題になっていなかった時分だ。たまたま三島駅前のツタヤで立ち読みしていたら、あまりのおもしろさにたちまち物語の世界に引きずりこまれた。なんとかして一日でも早くそれを手に入れたかった美緒は数日後の日曜日、母親と一緒に駅前に買い物に出掛けたときにねだって買ってもらった。ちょっとしたブームが日本中に沸き起こり、短日のうちに本が重版に重版を重ねるようになるのは、それから旬日経ぬ頃である。□

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第2415日目 〈『ザ・ライジング』第2章 12/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 校舎の中はいつに劣らず寒暖の差が激しかった。空には一点の曇りもなく、陽射しをやわらげたりさえぎるものもなかった。グリーンベルトの百葉箱の中にある温度計は十八.五度を示していた。春を思わせるような陽気だった。とは申せ、校内の陽光が射しこまない場所へ足を踏みこめば思わず体が震え、ジャケットの上にコートでも羽織りたいと思わずにはいられないぐらい冷えたところがあるのも、やはり事実だった。この季節になると夏とは反対に教室であれ職員室であれ図書室であれ、窓際かそれに準ずる場所――陽光の注ぎこむ範囲内――へ人気が集中するのは、やむなきことであった。
 希美と美緒は図書室を後にして教室へ戻る途中だった。二人は窓際に生まれて沿うように伸びる日溜まりの中を、ぽっくらぽっくらお喋りしながら歩いていた。
 ほぼ同時に彼女らは「あ、そうだ」といって相手の顔を見た。希美はエレベーターホール裏のフリースペースにある自動販売機が直っているのを思い出し、美緒は五時間目の授業がいつも十分おくれて始まる世界史だったことを思い出し、まったく同じタイミングで相手に「ねえ、ジュースでも飲んでいかない?」と提案した。一瞬の間が空いて、あたりに元気な笑い声が重なってはじけた。

 職員室でぼんやりとしながら、高村千佳は机の上の封筒をもてあそんでいた。その日何度めかの溜め息をついた。しかし視線は積み重なった書類の一番上に、無造作に置かれたファイル――自分のクラスにいる生徒達の、出身中学からの内申書の写しや入学時に回収された身上書、一年生のときの成績や素行を当時の担任達が記した書類、部活動報告書(これはもちろんそれぞれの顧問が書いた。試合やコンクールなどの結果も、ここに記録されていた)、年三回の健康診断のカルテの写しなどを、それぞれの生徒ごとにわけてすっかり膨れあがったA4の分厚い表紙のクリアファイルだった――に、じっと注がれている。彼女は、そうか、私が学生だったときも、こんな風に私の記録も管理されていたんだな、といまさらながら思い至った。
 高村は封筒を受け取った二時間目の授業が終わった休み時間から数えて何回めかの溜め息をついた。だがその溜め息は、失望や悩みのそれではなく、安堵を端々にちりばめた満足げなものだった。
 頭を二、三度振って意識をはっきりさせ、そっと目を左右に走らせた。誰も周囲にはいない。右手の人差し指と親指で輪っかを作り、自分の額を軽くデコピンしてみる。ぱちん、と乾いた音がした。
 封筒を天地逆にして中身が、すとん、と落ちてくるのに任せた。高村はそれをつまんで広げてみた。差出人は静岡県警の音楽隊の隊長からだった。大意はこうだ。音楽隊として進路指導の先生宛に出したもの以外、二年三組担任である高村へ私的に一通差し出す無礼を許していただきたい。先生のクラスにいる深町希美さんのことだが、かねてお父上から聞いていた深町嬢の希望もあり、本人さえ最終的に承諾してもらえるならば、卒業後は是非、彼女を当音楽隊に迎えたい。実は深町氏とは警察学校時代からの友人で、その関係もあって吹奏楽コンクールの東海大会や貴校の文化祭などで深町さんの能力の高さには、個人としてのみならず音楽隊として大変感銘を受けていた。彼女の才能を我々の中で花開かせて思う存分羽ばたかせてもらいたい。そう書いて結んであった。
 県警の音楽隊か……音楽のことはよくわからないけれど、深町さんにとってはけっして悪い話じゃない。ううん、事実はそのまったく逆。考えてみれば、縁もゆかりもない職場ではないのだし。
 「……芸は身を助ける、っていうことか」
 これは、と高村は考えた。希美のいまは亡き両親が死後に残した贈り物かもしれない。人生の経験値が低い少女には、これ以上にないほどの哀しみと苦しみがつまった二ヶ月だっただろう。それも希美の両親の事故は単なる事故ではない。緊迫していた――そして自分達に火の粉が降りかかるなど思いも及ばぬ、悪化してゆく一方の世界情勢の犠牲になったのだ。そんなる両親からのプレゼント。これを活かすか否かは、深町希美の意思次第。
 大河内先生の手許に音楽隊からの手紙はあるはずだ、と高村は考えた。五時間目の授業が終わったら、吹奏楽部の顧問代理の上野さん(今日ってあの人、授業あるよね? あ、あるね、ちょうどいいや)も一緒にこの件について話し合おう。あの子に伝えるのは放課後になっちゃうけど、でも、遅くはないよね。
 そう考えをまとめると、なんの気なく腕時計に目をやった。あと十分もしないうちに昼休みが終わる時刻だった。□

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第2414日目 〈『ザ・ライジング』第2章 11/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 昼休みが終わる十五分ばかり前、午後からの授業のために出勤した音楽講師、上野宏一は進路指導を担当している大河内かなえから一通の書面を、職員室横の講師控え室で受け取った。二人きりの控え室だった。生徒達の声は耳をすましてみても聞こえてこなかった。教師達もよほど用がない限り、ここに顔を出すことはない。
 体の線にぴたりとあったブラウスは否が応でも豊満な乳房を強調し、ミニのタイトスカートからすらりと流れ出る足を視界の端でとらえ、下半身に熱いものを覚えながら、
 「なんですか、これ?」
と上野は訊いた。おそらくこれはコピーされたもので、原紙はきっともう進路指導室のファイルに綴じこまれているんだろうな、と考え、ちらりと上目遣いで、唇に誘うような笑みを浮かべる大河内を見やった。
 「吹奏楽部に深町さん、いるでしょ? その子の“引き”よ。――静岡県警からのね」
 「――県警? 県警の音楽隊が深町を欲しがってるのか? へえ、さすがだな……まあ、あの子なら中央でやってゆくだけの実力もあるから、誘われてもふしぎじゃないし、こっちも自信を持って送り出せるけど……」
 「けど、なに?」
 大河内は上野の荷物をどかして机の上に座り、指でスカートの両端をつまんで太腿までめくりあげながら、彼の正面で足を広げた。上野が反応せずにじっと自分を見あげているのに不満だったか、彼女はさらにスカートをずらして、ガーターベルトをはずし、ひもで結んだ黒いパンティを見せつけた。そして、彼の手を取って指を絡ませると、自分の秘所へ導こうとした。が、上野はそれを払いのけた。
 「ここじゃできないよ、かなえ。見つかったら俺は即座に解雇だ。ここの常勤のポストが欲しいんだよ、俺は? おまえだってわかるだろう?」
 「そりゃあね。でも、もう三日もしてないのよ、我慢できないわ。それとも、なに、セックスレスを理由に三行半突きつけたっていいわけ?」くすくす笑いながら、大河内は訊いた。「いいわ。その代わり今夜、たっぷりとしてもらうからね? ……で、深町さんの話。けど、なんなの?」
 「ああ、深町ね。あの子はさ、才能もあるし、実力も――おそらく全国レベルで見たって上の方にいると思う。いますぐにプロでもやっていけるだろうけど、できればね、指導してる側としては音大にね、行ってもらえたらな、と思ってるわけさ。もっとも彼女は家庭の事情が特殊だからな。確か亡くなったお父さんって警察の人だったんだよね? そうか、県警っていうのはそれの絡みか……。じゃあ、これが最良の選択なのかもしれないな」
 大河内はそれに相槌を打って答えた。「そうね、深町さんはもうこれから一人だしね……卒業したら働かなきゃならないわけだし。才能のある子が自分の実力を磨くこともできずに社会へ出てゆく、っていうのが、送り出す方としてはいちばん辛いわね……」
 「そうだなあ」と上野は頷いた。いつか深町希美がひとかどのテューバ奏者になるのではないか、と内心とても楽しみにしていたからだ。
 「あの子には幸せになってもらいたいわね、白井君と」
 「白井?」どこかで聞いた名だと思いながら、上野は訊ねた。「誰、それ?」
 「覚えてないの? 教育実習で来ていた白井君。深町さんと現在相思相愛中。女の勘だけどね、あの二人、結婚するよ、絶対」
 「へえ、知らなかった。学園にいつもいると、そういう情報も耳に入ってくるんだ?」 「うらやましい?」大河内は上野の掌を、ブラウス越しに乳房へ押しあてさせながら訊いた。恋人が頷くのを見て、彼女は笑んだ。「じゃあ、私のためにも好印象残して、年度を終わってね。そうしたら、常勤になれるだろうし、私達もまじめに結婚を考えられる。たまには、学校の中でできるかもよ?」
 「今夜、どう?」と上野は訊いた。「久しぶりに君の部屋でやりたい」
 いいわよ、と大河内は囁いて、上野の唇に自分のそれを重ねた。「あなたの方が先に終わるわよね? はい、鍵。先に行って待ってて。た・だ・し、タンス引っかきまわさないでよ?」
 「わかってる、わかってる」と笑いながら、上野は大河内のやわらかな太腿と秘所のすぐそばに、強く唇を押しあてた。「浮気防止だよ」
 「しないわよ、あなた以外の人となんて」
 もう一度、二人は唇を重ねた。
 大河内は机から降りると、衣服の乱れを掌で直し、「それじゃあね。授業、がんばって」とウィンクしながら、控え室から出て行った。
 それを見送ってから何気なく鼻をすすった。そこいらに、大河内のつけていた香水の匂いが漂っているのに気づくと、彼は慌てふためいて窓に駆け寄った。寒風が容赦なく入ってくるのも構わずに、窓を全開にして、何度もくしゃみしながら香水の匂いが早く消えてくれることを祈った。
 だって、そうじゃないと……。
 香水の匂いは消えただろうか? 試しに窓を閉め、鼻をくんくん鳴らしてみた。けっして鼻は悪い方ではない。いや、むしろ、困るぐらいによい方だった。うん、もう平気だろう。でも、念のために、もうちょっと……。
 また窓を開けて、手近にあった雑誌をうちわ代わりにしてそこらをやたらめったら扇いだ。数分が経って、その日のその時間、彼と一緒に控え室を使う書道の講師がやってきた。扉が開いた瞬間、上野は派手なくしゃみを三回、立て続けにして、講師の失笑を買った。□

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第2413日目 〈『ザ・ライジング』第2章 10/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 いきなり呼ばれて一瞬身をすくめ、膝から力が抜けそうになったのを辛うじて踏ん張った。希美は書架の棚板へ手をかけながら、少し顔を後ろへやり、ついで全身を一八〇度めぐらせた。部活のとき以外はあまり顔を合わせたくないと思っている人物がそこにいたのに、ほんの少し不機嫌になった。
 「なあんだ、赤塚さんか。びっくりさせないでよ」と笑顔を作りながら、希美は答えた。
 「ごめんごめん。宿題やってたら、そばに深町さんが立ってたからさ。ちょっと驚かそうと思ったんだ。ごめんね」
 「いいよ、別に。心臓が停まっちゃったわけじゃないしね」
 二人はくすくす笑いながらお喋りした。
 少し離れたところから美緒は、その様子を恐怖半分、哀傷二分の一、嫉妬二分の一で眺めていた。そばへ近寄ろうとしても、足がそこに根を張ってしまったように動けなかった。次の獲物に希美ちゃんを選んだんじゃないでしょうね? もし本当にそうだったら……私は絶対に貴女を許さない。
 「あ、そういえば国民投票の結果やってたね。すごいね、宮木さんと一緒で。ハーモニーエンジェルスになれるといいね」
 「うん、ありがとう。応援してよ」そこで話題の種はなくなった。むりやり希美は会話を続けようと試みた。「――赤塚さん、今日は自主練、やってくの?」
 赤塚理恵は首を振った。「ううん、今日はお祖父ちゃんの家に行くからさ、学校終わったらすぐに帰らなきゃならないんだ」オーバーアクション気味に肩をすくめて両手を広げながらそういうと、「さて、宿題やっちゃわなきゃ。じゃあね、深町さん」
 「宿題、がんばってね」
 席へ戻る彼女の背後からそう声をかけると、赤塚はちょっと振り返って手をひらひらさせた。希美も手を振り返した。
さあて、と。あれ、美緒ちゃんはどこ行ったんだろう?
 図書室の中をぐるりと見回してみた。すると、海外小説の書架の間を、うつむき加減に歩いている美緒の姿が見えた。
 お目当ての英国小説が並んでいる書架の前で足を停めると、美緒は深くて長い溜め息をついた。希美と赤塚理恵が喋っているのを見るのは今日が初めてではない。なのに、なんで今日に限ってあんなに怖くなったんだろう? 
 「――美緒ちゃん、本、決まった?」
 てへてへと笑いながら八重歯を覗かせた希美が、書架の影から顔を出してじっと美緒を見つめながらいった。美緒はたまらなく愛おしさを覚えた。口許がみっともないぐらいにゆるむのをなんとか制止し、心の中があたたかくなるのを感じながら。
 「あ、の、希美ちゃん……ううん、まだ、これから。もう、いいの?」
 希美がいま自分に見せている無防備なまでの笑顔を、そうか、やがてあの人が独り占めすることになるんだな……口惜しいけど、仕方ないよね、と美緒は思った。でも、うらやましい。溜め息。
 「ん? ああ、赤塚さん? うん、済んだよ」
 「そう、じゃ、本借りてくるね。希美ちゃんはなにか借りるの?」
 「ううん。しばらくは〈ハリー・ポッター〉の余韻に浸ってるよ。美緒ちゃんが借りてる間に私、先に出てるね」
 美緒は書架からアン・ローレンスの『幽霊の恋人たち』を取ると、貸し出しカードと一緒に持って、希美と小声で喋りながらカウンターへ向かった。
 その頃、用事から戻った彩織と藤葉は教室のベランダへ出て、午後の陽光を浴びながら坐りこみ、うつらうつらと舟を漕いでいた。□

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第2412日目 〈『ザ・ライジング』第2章 9/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 二十五分ばかりして昼食を終えると、彩織は二年生の合唱部員の呼び出しを受けて音楽室へ、藤葉は水泳部の練習プログラムの立て方について教えてもらうために三年生の教室へ、それぞれ行ってしまうと、二年三組の教室には希美と美緒が残された。
 「――ねえ、図書室に行かない? 返す本があるんだけど……」
 そう美緒が唐突なタイミングで希美を誘ったのは、目下二人が熱をあげている〈ハリー・ポッター〉シリーズの第四巻『ハリーポッターと炎のゴブレット』の感想を口にし、ふとそれが途切れたときだった。
 「うん、いいよ。授業が始まるまでまだ時間もあるしね」
 希美はそういうと美緒と一緒に席を立った。美緒は自分の席へいったん戻り、鞄から小口に図書室の蔵書印が押され、ビニール・コーティングされた表紙にバーコードの貼られた本を二冊取り出し、先に廊下へ出て自分を待っている希美の許へ駆け寄った。抱きしめるように胸に抱えているのは、ジョージ・マクドナルドの『リリス』と『黄金の鍵』だった。今年の夏休みの後半、陸上部の練習が終わって仲間と沼津駅行きのバスを途中下車してケンタッキーフライドチキンで一時間ほどを過ごし、別れたあとに立ち寄ったブック・オフでたまたまマクドナルドの『お姫様とゴブリンの物語』を購ってからというもの、マクドナルドはトールキンやローリング、リチャード・アダムズ、ビアトリクス・ポター、ウォルター・デ=ラ=メアと共に美緒のお気に入りの作家となっていた。実のところ、彩織と藤葉の『指輪物語』への興味も希美の〈ハリー・ポッター〉シリーズへの興味も、その水先案内人となったのは美緒だったのである。
 二人は並んで〈ハリー・ポッター〉の話をしながら、四階の北東にある図書室へ足を向けた。中庭に面して足許までガラス張りになっている階段の窓に背をもたれさせて話しこんでいた一年生の一人が、横にいて中庭を見ていた生徒の袖を指で摑み、なによ、と振り向いた顔に自分のそれを近寄らせ、耳のそばでなにごとか囁いた。相手は「ええ!?」と小さな声で叫び、「ホントだってば」と主張する友人と一緒に、階段を登ってエレベーターホールを歩いている希美の後ろ姿を見送った。もっとも、そのときには希美の上半身しかそこからは見えず、美緒に至っては後頭部がわずかに見えている程度だった。
 ワイヤーの網目が斜めに走って交わる厚手のガラス扉を押し開けて図書室へ入ると、美緒はそのまま返却カウンターへ歩いていった。貸し出しカードと本二冊のバーコードを読み取るピッ、ピッ、という甲高い音が続けて三度したあと、カウンターの向こうに坐っている図書委員と会話する美緒の声が聞こえたが、その内容までははっきりと聞き取れなかった。
 美緒が振り返ると、希美は辞書や事典の並ぶ参考図書の書架の前でうろうろしていた。そちらへ小走りに寄ろうとしたとき、すぐ手前の机にいて希美の背中に視線を注ぐ生徒の姿が目に入った。学園の人間なら誰もが知っている人物だった。赤塚理恵。誰に聞いても評判は芳しくない。祖父がここの理事長であるのをいいことに、いつでも女王様気取りでお金の魔法に囚われただけの幾人かの生徒をまわりに侍らせ、影で悪口雑言を囁かれてもちっともそれに気づかない、常に世界は自分を中心に回っていると確信している哀れな女の子。
 一瞬だが赤塚理恵の口許がゆるんだのを、美緒は見逃さなかった。それが笑いだったのかどうか、しかとは判断しかねるものだった。が、それを見た瞬間、美緒の背中に悪寒が走った。底無しの不気味さを感じさせるものだったのだ。
 その生徒は自分に背を向けている希美の肩を叩いた。「深町さん」□

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第2411日目 〈『ザ・ライジング』第2章 8/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 学内に鳴り響いた四時間目の終わりを告げるチャイムの音で、藤葉は居眠りから覚めて現実に引き戻された。どうやら先生には見つからなかったらしいや。前の席に自分より背の高い者が坐っていると、たまにはそんなお目こぼしもあるらしい。藤葉はその生徒の名前を口の中で呟いた。ん、グッド・ジョブ!
 日直の号令に自然と体が従って礼をすますと、美緒が弁当箱をバッグから出しているのが目に入った。後ろで一まとめにした黒髪の房が左肩から流れ落ち、こちらを振り向きざま宙で弧を描いてた。大きな瞳に前髪がかかったのに払うそぶりを見せない美緒を見て、なんだか最近綺麗になったなあ、好きな人でもできたのかなあ、とぼんやり考えた。
 藤葉の視線を感じたのか、列のいちばん後ろに視線を向け、微笑した。口を開いてなにかいっているが、声は届かなかった。しかしその唇の動きと弁当箱を捧げ持つ仕草で、だいたいなにをいっているのかはすぐに推理できた。「お昼、どこで食べる?」と美緒はいっていた。が、答えようとしても寝覚めたばかりだからなのか、頭の中に雲がかかったように感じられ、なにかを考えようにもあいにくと思考能力はそうすぐに働いてくれそうもなかった。それでも、美緒が「どうかしたの?」といいたげに近づいてくるのがわかる。そのわずかに後、希美と彩織も訝しげな顔つきでやってくるのが視界の端にとらえられた。その瞬間、藤葉の視界は曇り、青一色に染めあげられた。自分の周囲は薄気味悪くなるほど濃い青で、ずっと先へゆくほど薄まってゆき、色を失っていた。でも、その光景はすぐに消え果てた。耳許で、美緒の声が聞こえた。
 「ふーちゃん? ふーちゃんってば!?」
 片手に弁当箱をぶらさげて、空いた方の手で藤葉の肩を揺さぶりながら、美緒は呼びかけた。友達の名前を口にするたび、そこにこめられた感情は変化しているようだった。心配。驚愕。不安。最悪の事態――まさか!! 汝、死を忘るゝなかれ。メメント・モリ。
 三度ばかり頭を前後に揺らし、髪を乱れさせ、口をぼんやりと半開き、はっきりと焦点の定まらない目で、不安げに自分を凝視する美緒を見、口許をほころばせた。その笑みは相手を安心させるためでもあり、自分を安心させるためでもあった。ともあれ、この笑顔で、美緒はいうに及ばず希美と彩織も、ほっ、と安堵の溜め息をついた。
 「もう、心配させて! どうかしちゃったのかと思ったよ」美緒は、藤葉を揺さぶっていた方の手の甲で、目蓋にあふれていまにもこぼれ落ちそうになっていた涙を拭った。鼻をシュンシュンと鳴らしつつ。「でも、なにもないならよかった……」
 藤葉がなにかいおうと口を開きかけると、
 「だめやんか、ふーちゃん。美緒ちゃんに心配かけちゃあ」と間髪入れさせずに彩織が口をはさんだ。その調子はなかばからかい、なかば心配。後者のほうにずっと比重が傾くけれど。
 「いつものふーちゃんらしくないよ。どうかしたの?」
 頭を振って希美の質問に答えると、
 「ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃった。お許しくだされ」と机の上に両手で三つ指をつき、深々と頭をさげた。
 唇をとがらせて、美緒が藤葉の後頭部を軽くパンッ、と叩いた。「まあ、これぐらいで勘弁してあげましょう」
 その勢いで両手の甲に額をぶつけた藤葉を見て、三人はプッ、と吹き出した。「いった~い」と額をさすりながら顔をあげた藤葉も加わって、四人の輪笑が教室の一角に響いた。
 それが収まると美緒は弁当箱を目の前にかざして、「今日はどこで食べる?」と他の三人に訊いた。見まわすと同級生の半分以上がいなかった。学生食堂や他のクラスで食べているらしい。空いている席が散見される。
 「教室で食べよっか。ところでみんな、お弁当なん?」
 彩織の問いに三人が異口同音に諾い、「じゃあ、ふーちゃんのところで食べようよ」という希美の提案に美緒達は頷き、机の向きを変え、寄せて、弁当を広げてしばし会話に打ち興じた。□

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第2410日目 〈『ザ・ライジング』第2章 7/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「本当に体調が悪いの?」
 わざとらしいぐらいに親しみをこめたいい方で、池本は姪に訊いた。
 「うん。今日はね、本当に体調が悪い」
 オウム返しに答える赤塚の背中を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、どうにかそれは抑えることができた。
 「ベッドで横になっていい?」
 「いいわよ。好きなとこで寝なさい。──あ、そうだ、私、今夜の夕食会には出られないから。お祖父様や他のみんなにそういっておいて」
 赤塚が無表情に頷いて、ベッドへ向かった。それを横目で見ながら、椅子を机に向けて池本は、「仕事させてもらうよ」とだけいって、いますぐに目を通す必要もない書類を手にした。早く出ていってくれないかな、安心して写真も眺められないじゃない。
 保健室にはそれから数分、静寂の時間が流れた。時計の針が動く音、ストーブの上に乗せたやかんの口から立ちのぼる湯気と蒸気の音、二人の息づかいと赤塚がベッドの上で寝返りを打つ音だけが、その静寂を破ろうとしていた。
 「ねえ、おばさま?」
 カーテンの向こうから姪の声がした。「なあに」と池本は、そちらに目を向けることなく答えた。
 「昨夜の番組、観た? ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーを募集してたんだけど」
 「ううん、観てないよ。興味ないしね。……それがどうかしたの?」
 「私さ、応募してたんだよね」うつろな声だった。
 「あ、そう。それで?」
 そういいながら池本は、「ちょっと、いまなんていった?」と口の中で訊ねた。ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーの応募にあんたが参加した? あらまあ、と放心に近い状態で彼女は思った。世も末だわ……新世紀になってまだ二年なのに。ただね、お祖父様の顔に泥を塗るのだけはやめてよね。まあ、私もあまり人のことはいえないけれど、自分以外に知る人はいないし、私の場合は趣味だからね、男を手玉にとって隷属させるのは。進んでこういう状況を生み出してるわけでもなし、全部男達が自分から身を捧げてきただけのこと──あ、だけど〈彼〉、進路指導を担当している色っぽい先生を恋人に持つ講師の場合は、そうね、あれだけ例外か。あれは私がてなずけたんだから。それはともかくとしても、へえ、あんたがねえ……。
 「選ばれたの?」と、あるはずもない結果を口にしてみた。これでイエスなんていわれたらどうしよう。だが、杞憂だった。
 「ううん、だめだった……三組の宮木さんと深町さんは上位の十人に選ばれてたけど、私なんか名前も出てこなかったよ」
 カーテンの向こうに耳をすませてみると、涙をすする音がした。演技ではなさそうだ。本当に泣いている。
 池本は椅子から立ちあがると、足音をたてずにベッドへ歩いていった。そっとカーテンを引き、こちらに背を向けて肩を振るわせている姪の肩に手を置いた。それはなだめるようでもあり、親しみがこもっている風でもあった。それをさせた感情が果たして真実だったのか、それとも、自分の脳裏へ瞬く間に思い浮かんだ、だがまだはっきりと形を成していない計画を実行するための計算ずくの行為だったのか、池本玲子は後になってさんざん考えてみたが、いつになっても答えは出せそうもなかった。
 いきなり身を起こした赤塚が、池本の胸へ飛びこんだ。「くやしいよ」とひたすら繰り返し呟きながら。下着を着けていない胸に顔を埋める姪の頭を撫でながら、池本はなにかいおうとして口を開いたが、いうべき言葉もないことに気づくとそのまま口を閉じた。
 「選ばれなかったことなんてどうでもいいの。みんなが陰で私を笑っているのに耐えられないの」
 なるほど、そういうことか。砂上の楼閣に住む勘違いお嬢様には、その結果は残酷だったかもね。あれだけのアイドル達の追加メンバーの募集となれば否が応でも衆目を引くだろう。そこにあんたは十代の記念(うーん、そうだったのかしら?)に応募した。結果は芳しくなかったけど、その結果が最悪だった。それに輪をかけたのは、同じ学校の、しかも同学年の二人が名前を呼ばれたことだった。その番組を観ていた人々があんたのみじめっぷりに注目して、陰でこそこそ額を寄せ合い笑ってる。なんでもないことじゃない、といってやればいいのだろうが、いまはそんな風に励ます言葉も喉元にはあがってこなかった。
 ふと、最前頭をかすめていった計画が明瞭な形を取って、池本の脳裏に再び浮かびあがった。あのガキをあの人から遠ざけるために、私は奴隷を使う。完膚無きまでにガキを痛めつけ、あの人を私に振り向かせるために、私はてなずけた奴隷を使う。あのガキは姪の逆恨みを買ったことだろう、本人はまだ知らないだろうが。赤塚理恵はそう簡単に気持ちを切り替えない。相手を傷つけずにはいられない女だ。ならば、と池本は考えた。私の計画にこいつを(白衣とお気に入りのセーターを涙で濡らしてくれている薄汚れた姪とやらを)巻きこむのもいいかもしれない。理恵ちゃん、あんたも奴隷と一緒に共犯になってもらうよ。
 ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。
 胸に顔を埋めて泣きじゃくる姪が、無性に愛おしくてたまらなくなった。抱きしめこそしなかったものの(これ以上セーターが濡れるのはごめんだった)、優しく髪を撫でて囁いた。「ねえ、理恵ちゃん。今夜、私の携帯に電話しなさい。もしかしたら、いい話ができるかもしれないから」
 赤塚が顔をあげるのがわかったが、そちらを見るつもりはなかった。せっかくまとまりかけてきた計画が雲散霧消してしまうかも、と考えたからだ。ただその代わり、「きっと君も気にいる話だと思うよ」といい加えた。
 たまらなくいい気分だ。もうすぐ私の想いは実を結ぶ。仕方ないから、あんたの望みも叶えてあげるわ。□

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