第2462日目2/2 〈『ザ・ライジング』第3章 19/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 抱擁から解放された希美は、ビロード地の小箱を手渡された。それを掌に置かれたとき、ふいに、白井に出逢った日のことを、告白したあの夜のことを思い出した。
 教育実習の初日、朝のホームルームの折、自己紹介のために教壇に立った白井を見ているうち、希美は気持ちが乱れるのを感じた。それが恋だと気づくのにそう時間は必要なかったが、これまで経験したことのない強い感情だったせいで、彼女はとまどいを覚えた。だが、気持ちを整理し、それを伝えようとした矢先、実習は終わり、白井は学園を去った。それからずっと心の奥にしまいこんでいた想いに決着をつけよう、と腰をあげて、前から考えていた計悪を実行に移したのは、八月もあと二週間で終わるというころだった。
 事の発端は宮木彩織だった。教育実習が始まって十日が過ぎた時分、白井の一挙手一投足が言動がニュースとなって学内をめぐっていたある日の放課後、部活を終えて教室に戻ってきた希美を、彩織は喜色満面の顔で迎えた。彼女は親友に一冊の冊子を差し出した。
 なあに、これ、と希美は訊いた。
 ま、ええから読んでみ、と彩織は答えた。
それは白井のポートレート付きプロフィールだった。希美の恋を誰よりも早く見抜いた彩織が(「えっへん、名探偵彩織ン様はなんでもお見通しなんや」)、その日一日を費やして休み時間のたびに白井につきまとい(六時間目が終わった後に、さすがに見かねた高村から雷が落ちた)、彼の略歴や現居の住所と電話番号――ファクス番号やメールアドレスまで――、読書傾向やスポーツ(特にこれといった運動はやっていないようだった)、よく聴く音楽、好きな料理、好きな女性のタイプ、先生になろうと思ったきっかけなどもらさず聞き出して、五階にあるコンピューター室のパソコンで冊子を拵えていたのである(製本は職員室横の印刷室に忍びこんでやった)。写真は合唱部の後輩が持ち歩いているチェキを借りた。……恐るべし、彩織ン! そうして希美は決意した。彼がここにいる間に必ず告白しよう、と。
 だがそれは果たされず、希美は教育実習の最終日に白井を、高村やクラスメイトらと一緒に正門まで見送ることもしなかった。けっきょくなにもいえないまま終わってしまったことに対する後悔と、彼への日増しに深まってゆく想いのギャップに苦しんで、午後から吐き気を覚えていた。とうてい白井を見送れる状態でもなく、放課後、彼女は滅多に誰も使わない六階のトイレでむせび泣き、迎えに来た彩織に促され、腕を引っ張られ、その階の正門を見られるベランダから、白井の背中に手を振った。もしかしたらこのまま忘れられるかも、と数日はなかば期待したが、一度心に宿った想いと幻影は成長を続けてゆくばかりだった。
 やがて初夏は過ぎて夏の盛りとなった。希美は彩織に誘われて、海へやって来た。照り返しのきつい駿河湾を眺めながら、なにを話すでもなく防波堤に坐りこんでいた。砂浜には海水浴客がひしめき、氷売りやジュース売りがその間をうろうろし、その夏限りの海の家で休んだり海に入って遊ぶ人々を見おろしながら。三度ばかりナンパされたが、無視し続けているうちにその男達もどこかへ行ってしまった。□

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第2462日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 18/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美を抱きながら、コートの内ポケットに入れた贈り物に指先が触れたとき、白井はふと彼女と出逢ったときのことを思い出した。
 六月第二週に始まった教育実習の初日から、希美は目立って気になる少女だった。高村千佳と教室に入った途端、生徒達のかまびすしいお喋りの声がやんだ。三十四人六十八の瞳が、一斉にこちらへ向けられた。来てはいけないところへ迷いこんでしまったような気がした。彼女達がまんじりともせずに、白井を見つめている。その静けさはあまりに不気味だった。やがてそれは一人の生徒の、はああ……、という納得したような溜め息によって破られ、思わず耳をふさぎたくなるほどの悲鳴じみた大歓声と拍手に取って代わられた。顔が真っ赤になるよりも先に、体中がこそばゆくなった。高村に促されて教壇に上がって自己紹介をした。ああ、ヌードモデルを引き受けた男性は鋭い視線で自分を見る、居並ぶ女性陣を前にすると、そうか、こんな気分に陥るんだな、と合点がいった。
 どうにかして自己紹介をすませたとき、白井は一人の生徒に引きつけられた。臙脂と黒の格子模様をしたベストとスカート、オフホワイトの半袖ブラウスに臙脂一色のリボンという装いは同じながら、他の誰よりもあどけなさとしとやかさが同居した容に、半開きになっている唇からこぼれるように見える八重歯が、妙に印象に残る、そして、嫌みにならない程度に醸し出された気品が漂っている少女だった。彼女は机の上で腕を交差させて上体を少し前屈みにし、クラスメイトと同じ好奇あふれる眼差しで白井を見つめている。前の席に坐ったお団子頭が記憶に残る生徒が少女に振り向いて、なにやらこそこそ囁いている。小さく頷いたり、笑みをこぼすたびに、八重歯の少女のツインテールにした髪が揺れた。思わず白井は心臓を鷲摑みにされたような気分を味わった。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの歌の一節が脳裏に字幕スーパー入りで浮かびあがり、いまこそ彼はその歌詞の意味を本当に理解したように思えた。わかるかい、ハンマーでやられた感じだよ/重い鉛で一発だよ。
 なにはともあれ、それが白井正樹と深町希美の出逢いだった。
白井は教育実習が終わるころには、朝夕のホームルームと週三回の日本史の授業を通じて、希美にすっかり心を奪われ、恋心を抱くようになっていた。やがてこの学校にさよならしなくてはならない日が近づいてくると、どうにか自分の気持ちを希美に伝えようと考えたが、そのたびに年齢差と、それ以上にかつて自分が被った恋の傷にためらって、なにもいい出せぬまま、彼は高村と三組の生徒達に見送られて、聖テンプル大学付属沼津女子学園を後にした。もう、これきり彼女と会うことはないのかな、と傷心の心を抱えたまま。
 初夏はすぐに夏の盛りを迎え、寝苦しい日々がやってきた。塾で教えるだけでは生活できないので、交通誘導や倉庫で仕分けや入出荷の作業に従事し、大学やアルバイトに行かない日は小田原のアパートで本を読んで過ごし、希美の顔を思い出してぼんやりとしていた。卒業論文も参考文献に目を通そうとしても、いつだって読みかけの小説と希美の笑顔が作業を邪魔だてした。一日一日がのどかに過ぎていった。そのときには、八月が終わろうとしていたある日の宵に人生を一変させる出来事が訪れるのを、白井はまだ知る由もなかったのである。
 そうか、とコートの内ポケットから、ビロード地の小さな紺色の箱を希美の掌に置きながら、彼は口の中で呟いた。出会ってもう半年、付き合い始めて四ヶ月になるんだな、と。あの頃はこんな日が未来に待っているなんて思わなかった。でも、僕はこうして自分の居場所と、ずっと求め続けてきた女性を見つけられた。煩悩の日々は今日で終わり、明日からは新しい日々が始まる。それはきっと素敵なことに違いない。
 「希美ちゃん……僕と、結婚してほしい」と白井はその小箱を開け、中を彼女に見せながら、いった。□

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