第2455日目 〈『ザ・ライジング』第3章 11/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美に劣らず、池本も大船駅では白井を見失わないように必死になった。丹那トンネルの中ですっかり寝入ってしまい、気がついたときには大船駅に電車は着いていた。後ろに白井達がいる気配はなかった。あわてて立ちあがり、振り返ってみる。ボックス席は空だった。ふと見ると、窓の外にあの二人の後ろ姿があった。発車ベルが鳴り始めた。池本はバッグを摑んで車内を走り、ドアが閉まる数秒前に電車を降りた。息を落ち着かせる暇もなく彼女は階段を駆けのぼり、ホームをつなぐコンコースに出た。人の陰から目的の二人がかいま見える。よろめく足をなんとか操り(ヒールのブーツでなんか来るんじゃなかった、と激しく憤激したが、そんな後悔が果たしてなんの役に立とうか?)、京浜東北線に乗りこんだ。
 また睡魔が襲ってきたが、過ちは繰り返すまい。二人の様子がうかがえるいちばん端の席に身を沈めると、脚を組んでコートの胸元に顎を埋めた。これは立派なストーカー行為だよね、と池本は考えた。が、すぐにそれを否定した。ストーカーではない、毅然とした真実なる愛故の行為(凶行)だ。
 希美は外の世界に目をやり、白井は暇そうに吊り広告を眺めている。ときどき少女と会話し、楽しそうな笑い声をあげた。ここまで聞こえてくる。微妙に空いている車内に響いたが、けっしてうるさくはない。おい、そこのガキ、場所を取り替えろ。その人は私一人のものだ。誰にも渡しはしない。その笑い声を耳にしながら、池本は深町希美への憎悪をはっきりと意識した。明日にはお前と彼のおままごとな関係も崩壊するんだ。いまのうちだ、たっぷりと偽りの幸せを味わうがいいさ。憎悪と共にゆがんだ慈悲も、確かに。
 眠気が晴れると、最後の乗換駅になる新杉田駅で二人をつけるのも、心軽かった。明日になれば、明日になれば。池本玲子は勝利者になります、晴れて白井正樹の恋人になります。それで……淫靡で爛れた日々とは、さようなら。妄想はとめどなく広がっていった。それは遂に、白井との結婚式の場面にまでたどり着いた。蜘蛛の巣がそこかしこにかかり、毒蛇が床や祭壇を這う教会に彼等はいた。天井から鎖で吊りさげられているのは、深町希美の無惨な死体。繰り返された暴行の痕が、全裸の体のそこかしこに残されていた。自分の許を去っていった男を恨めしげに見つめている。池本は少女の死体に満足げに頷き、ドレスの上からもはっきりわかる自分の大きなお腹を、隣に立ってにっこりほほえむ夫と一緒に愛おしそうに撫でた。いつシーサイドラインの切符を買ったのか、姿を見られることなく列車に乗れたのか、それさえわからないぐらい、彼女は自らが生み出した妄想に浸って、恍惚とした表情を浮かべていた。子供が三、四人ばかり、それに恐れをなして逃げていったのも、彼女は知らない。
 八景島シーパラダイスの入場口に至って、ようやく池本は自分が今どこにいるのか、ここに立ってなにをしようとしているのかに気がついた。妄想の世界が消え去り、現実の世界が戻ってくる感覚は、あたかも『タンホイザー』に於けるヴェーヌスベルクの崩落と、それに続くヴァルトブルグ城郊外の牧歌的光景の出現を、池本に思わせて口許に笑みを浮かべさせた。彼女はそばにいた男性職員からおどおどした声をかけられて、入場ゲートをくぐって閑古鳥が鳴いている園内に足を踏み入れた。
 白井と少女はアクアミュージアムに向かっている。そちらへ一歩、足を踏み出そうとしたときだった。少女が年上の恋人に腕を絡めた。熱愛中のカップルにしか見えない二人を、池本玲子は目を細めて見つめていた。唇が引き結ばれ、片方の端から血が筋を引いて落ちてゆく。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。