第2470日目2/2 〈『ザ・ライジング』第3章 28/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 白井の後ろ姿を見送りながら、池本は敗北を痛感した。これまで経験したことのない混乱した感情が襲いかかってきた。
 どれだけ策を弄してみても、あの二人の絆は断ち切れそうにない。真実の愛によって育まれた絆はかくも強く、想い合う二人を結びつける。それを思い知らされた池本は後ろによろめき、アウディのボンネットに手をついた。彼を振り向かせることができないならば、奴隷と姪を操って計画を実行する他ない。八景島で会ったあの奇天烈な姿をした男の声が耳許に甦る――あの男の運命の糸、そなたに委ねよう。そうか、それってそういうことだったのね。
 池本はアウディに乗りこんで、エンジンをスタートさせた。白井が立ち去った後をフロントガラス越しに見つめる目から、涙が滂沱とあふれてくる。それを拭おうともせず、彼女はただ冷たい声で呟いた。思い知らせてやる、と。
 思い知らせてやろう。白井正樹に、女の嫉妬と復讐心がどれほどのものか。深町希美と共に苦痛を味わうがいい。メメント・モリ。◆

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第2470日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 27/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 白井は顔をあげた。まっすぐに池本を見た。
 「なんで横浜に行ったのを知ってるんですか?」と白井はいった。「つけまわしてたんですね、気持ち悪いな」
 今度は池本が白井に目を向ける番だった。気持ち悪い、ですって? この私のやることに気持ち悪いことなんてあるものか。すべて私が快適な人生を送るために必要な行為なのよ。それがあなたにはわからないの? でもね――
 「いまのは聞き捨てならないわね。気持ち悪いってなによ。あなたのことが好きなんだから、仕方ないじゃない!」
 「やめてくださいっ!」
 白井が叫んだ。澄み渡った夜の空気の中で、それはいっそう響いて聞こえた。誰かが窓を開けて外を窺う気配があったが、単なる痴話喧嘩と判断したか、すぐに気配は消えた。あたりにしんとした空気が帰ってきた。ゆっくりと時間が流れてゆく。一秒が一分にもそれ以上にも感じられた。
 「好きでいてくれるのはうれしいですけど、先生のはまるで愛の押し売りですよ。そんなのを受け容れる男はいませんよ。少なくとも、僕はお断りです」
 「あ、あんな小娘に夢中になるなんてどうかしてるわよ。自分とは不釣り合いだってこと、わからないの?」
 「わかりません」と白井は間髪入れずに答えた。「それに互いが不釣り合いだなんて思ったことはありませんよ。確かに年齢は離れてます。でもね、そんなの問題じゃないんです。僕には彼女が必要だし、彼女も僕を必要としてくれている。必要、っていうのが事務的ないい方なら、こういい直しましょう。僕はずっと彼女にそばにいてほしいと思いました。彼女のそばにいたいと思った。だからあの子と婚約したんです。傷を抱えた者同士、お似合いだと思いませんか?」
 「違うわよ! あなたにふさわしいのはこの私。深町のような年端もいかないガキじゃないわ。私の方がいい女だってこと、あなたにわからないはずないでしょ!?」
 「わかりませんよ。わかるつもりもない。僕にとってあの子こそ最良の女性だと思ってます。ねえ、先生。僕は先生のことはまったく知らない。先生だってそうでしょう?」
 「そうかもしれないわね」と池本はいった。「でも、そんなの関係ないわ。これからお互いのことを知っていけばいいわけじゃない。恋や愛というのはそういうものよ」
 「お断りします」と白井は相手を封じるようにいった。「さっきもいいましたけどね、僕は彼女と婚約しました。誰よりも大切な存在だったからです。確かに先生にいわせれば年端もいかない女の子ですよ。けれど、あの子は先生よりもずっと大人ですよ。少なくとも先生のように相手の気持ちも考えず、自分の願望を押しつけてくるような理不尽さは持ち合わせていない。ついでにいえばね、あの子は他人の苦しみや哀しみをわかってあげられる、他人の幸せを心から喜んであげられる子ですよ。先生はあの子が抱えた哀しみを、何分の一かでもわかってあげられるんですか? 他人の心の傷を踏みにじれるなんて、僕は先生という人間が理解できませんし、信じられません。――とにかく、僕は彼女以外の女性を受け容れるつもりなんて、これっぽっちもありませんから」
 一息にそれだけまくし立てると、白井は池本に背を向けて、すたすたと歩き始めた。
 「必ず破滅させてやる! あんたも深町もこの世から消してやる!」
 なんとまあ、理性の欠片もないわめきだこと。これでもあの人、教員なのかな、と白井は訝しんだ。その一方で彼女の独裁者めいた性格に薄ら寒いものを感じた。帰ったら、このことを希美ちゃんに伝えておいた方がいいかもしれないな。
 白井は、この十分ばかり続いたのだろうか、池本との会話を、いまはつとめて記憶の底に押しやろうとした。今日一日にあった希美との楽しい思い出が心の中を駆けめぐる。だが、どうあってもクライマックスは八景島でのプロポーズに立ち返る。あのときの感情と共に、目を潤ませてこちらを見る希美の顔が甦ってきた。もう独りぽっちにはしないし、戻らせもしない。ああ、そうとも。約束するよ。
 郵便受けから新聞を取って、アパートの階段のいちばん下の段に足を置いたとき、ふといま来た道を振り向いて池本の姿が見えるか確かめようとした。天神社の境内やその手前にある家の庭から大きく伸びている、葉をたわわにつけた枝が道路に垂れている。いま帰ってくるときは気がつかなかったが、どうやらそれが格好の隠れ蓑になってくれていたようだ。それに、アウディのいるところからアパートの全景は見えないはずだ。それはよくわかっている。なぜなら、二度目にここを訪れた希美が道に迷ったと信じこみ、まさしくアウディが停まっているあたりから「なんだか道にね、迷っちゃったみたいなんだけど……」と携帯電話で連絡してきたのを覚えていたからだ。うん、平気だろう、このまま帰っても。白井はゆっくりと階段を昇って、視線をまっすぐ前に向けて自分の部屋まで歩いていった。□

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第2469日目 〈『ザ・ライジング』第3章 26/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 女が腕組みをして、アウディのボンネットに寄りかかっている。ピンヒールのブーツを履き(さっきの鋭い音はこれか、と白井は合点した)、深紅のコートを着ていた。なにを思っているのかまったくわからない目で、じっとこちらを見つめている。白井は背中に恐怖心が走ってゆくのを感じた。そして、あれ、と思った。
 どこかで会ったような気がするな。
 確かに見覚えのある顔だったが、どこで会ったのか、さっぱり思い出せなかった。ヒントになりそうな記憶さえ浮かびあがってこない。自分の名前を知っているということは、面識はあるんだよな、きっと。でも、思い出せなかった。学生時代の知り合い。銀行にいたときの同僚、顧客。アルバイト先の塾に通ってくる学生の保護者。聖テンプル大学付属沼津女子学園の教職員。……どれだけ頭をひねってみても、記憶にある人々と目の前にいる人物は該当しそうもない。
 どなたでしたっけ? 気を悪くするかもしれないが、そう訊いてみようか、と白井が考えていると、
 「思い出せないの? 覚えてくれていると思ってたのになあ。仕方ないわね、改めて自己紹介するわ。聖テンプル大学付属沼津女子学園の池本玲子です。保険医なんだけど、記憶にない?」
 白井は思わず眉間に皺を寄せた。――ああ、あの人かあ、思い出した。教育実習は希美に逢えたというのを別にしても、彼にとても良い思い出を残した。唯一の例外、というか、汚点だったのが、目の前にいる池本玲子だった。二日酔いで学校に来たとき、それと察した高村が保健室に行くのを奨めてくれ、内心それに感謝しつつ、そこを訪れた。池本玲子とはそのとき初めて会った。保健室の先生ってね、評判の美人なのよ、と高村が教えてくれたものの、目の前にいるご本人はさして評判が立つほどではないな、と白井は率直に感じた。仕方ない、そのとき既に彼の目も心も、深町希美にのみ向けられていたのだから。汚点というのは二回目に保健室に行ったとき、具合が悪くて保健室のベッドで休んでいたときだ。休み時間こそ生徒達が入れ替わり立ち替わりお見舞いに来ていたが、授業が始まると当然のことながら、部屋には池本と白井だけになった。授業時間も半分を過ぎたころ、もう大丈夫だろう、と起きあがって池本に礼をいって部屋を出ようとした。そのとき、ものすごい力でベッドに引き戻され組み敷かれ、白衣とブラウスを脱ぎ去って迫ってきたのが池本だった。彼はほうほうの体でその場を逃げ出し、二度と保健室に足を向けることを拒み、池本を可能な限り避けた(少なくとも二人にならないように注意した)。
 なんでこの人、ここにいるんだ? しかも、よりによって生涯最高の日に?
 途端、白井は全身に悪寒が走ってゆくのを感じた。その場から逃げ出そうと踵を返しかけた。
 「待ってよ。話があるのよ」と池本がいった。
 顔が苦虫を噛みつぶしたようになるのがわかった。
 「あなたが学校にいたときは伝えられずに終わっちゃったけど、今夜こそいうわ。白井さん、私、あなたが好きです。付き合ってもらえないかしら?」
 「はっきりいった方がいいですよね?」と白井は池本から視線をそらした。正面から目を合わせていると、例えようもない恐怖に耐えられそうもなかったからだ。「僕はもう付き合っている人がいるんです。今日、その人と婚約したので、先生とは付き合えません。申し訳ないんですけれど」
 「深町さんね?」
 思わず背筋が伸びた。なんで知ってるんだ、この人? 疑問を口にするより前に、池本がいった。
 「知ってたわよ。有名だったもの。これまでに何度デートしたの? ううん、こう訊いた方がいいかしら。何回あの子を抱いたの?」
 「――そんなの、先生の知ったことじゃないと思いますけれど」
 不快な気持ちが感情の表面に浮かんできている。きっと顔に出ているだろうな、と白井は思った。でも、ここで事を荒立てるわけにはいかない。一歩間違えばこの人は、そう、希美ちゃんに逆恨みしかねないから。「帰っていいですか?」
 「そうか、まだあの子、〈女〉にしてもらってないのね。もうてっきり、深町さんの若い体に溺れているんだと思ったけどね。横浜じゃどこにも寄りそうになかったから、あの子の家でエッチしてくるとばかり思ってたのに」□

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第2468日目 〈『ザ・ライジング』第3章 25/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 玄関の前で希美は振り返った。自宅から十メートルほど離れた曲がり角の電柱の脇に立って、白井がこちらを見ていた。いつもと同じ、別れのシーンだった。どちらからともなく手を振ってみせる。希美の顔に浮かんでいた幸せそうな笑みが、さらに広がり、深みを増したようだった。できることなら、と身を切るような想いを抱きながら、心の中で呟いた。いますぐ走っていって、もう一度、あの人の腕の中で抱きしめられたい。でも、今日はもうお開き。二人にはわかっていることだった。楽しみはちょっとずつ、と曰ったのは、他ならぬ自分ではなかったか?
 くしゃみをしたか、白井の影が前のめりに大きく揺れた。鼻の下をさすっているのが見て取れた。
 私が家に入るまで、正樹さんはああしてこちらを見ているのだろう。それもいつものことだった。ならば続く動作もいつもと同じように――
 希美は軽く手を振り、玄関の重い扉を開けて、家の中に入った。もちろん、その間際に婚約者へ一瞥をくれるのは忘れない。
 はああ……。大きな溜め息が希美の口からもれた。別れたばかりの切なさが、その溜め息を生んだのではない。帰りの電車の中で知った、大人がするような舌と唾液が絡まりあうキス。そして、バスを降りてからそこの曲がり角で別れるまでの間に、公園の暗がりでそのキスを交わしながら、互いの体へ掌を這わせあったときに感じた胸の火照りと、じっとり濡れた股間の入江。自分も白井を求めているのは承知している。約束――十八になるまで待って、というあの約束さえなければ、今夜にでも未来の夫へ純潔を捧げていただろう。彼のアパートに初めて一人で出掛けたとき、自分に覆い被さってきた白井を制するため、とっさに口から出た呪縛という名の約束に、いったいどれだけの重みと神聖さがあるというのか。いまさらながら彼女は、なぜあんな約束をしてしまったんだろう、とぞろ後悔した。とどのつまり、痛い思いを少しでも先に延ばしたかっただけなのでは――?
 希美は玄関扉を開けて一歩足を踏み出し、曲がり角の電柱へ目をやった。が、もうそこに彼の姿はなかった。がっかりした様子でうなだれて、再び扉を閉め、鍵をかけた。まだあすこにいたならば――私は彼を家に誘っていた。食事を作り、お風呂に入って、その後は……痛みと喜びの入り混じった朝を迎える、隣には正樹さんがいて……。クリスマス・イヴになれば彩織達とのパーティーでそれを報告。きっと大騒ぎが巻き起こるに違いない。
 自然と笑みがこぼれた。でも、これでよかったのかもしれない。そんなに焦って処女でなくなる必要はない。もうこれから私と正樹さんはずっと一緒なんだから。焦る必要なんてまったくない。そう、時間はたっぷりある。然るべきときに〈女〉にしてもらえばいい。 ブーツを脱いで消臭剤をそれぞれに入れてから、トートバッグを持って廊下から居間に歩いてゆき、電気を点けた。仏壇の前で立ち呆け、両親の写真に見入った。希美は鉦を叩くと、目をつむって合掌した。
 「パパ、ママ。今日ね、正樹さんにプロポーズされたんだよ。……私、あの人と結婚するから。必ず幸せになるから。だから、いつまでも見守っていてね……」

 街灯と門灯が路面を照らす幅の狭い道を、白井は弾むような足取りで歩いていた。口許はしまりなくゆるみ、鼻の下もこれ以上ないぐらい伸びきっている。こらえようのない程の歓喜が胸の奥底からこみあげてくる。四囲を見渡して道行く人のないことを確かめると、彼は両腕を突きあげて、爪先立ちで一回転した。続いて二度、三度と。心の中で希美の名前を叫ぶ。おめでたい男だった。が、この程度は勘弁してあげよう。彼はわずかしかない勇気を振り絞って希美にプロポーズし、ああ、イエスの返事をもらったのだ。気持ちが舞いあがるのは致し方ない。既婚の男なら誰もが最初はこうだったはずだ。いまはこの喜びを噛みしめよう。レイ・ブラッドベリ風にいうならば、「歌おう、感電するほどの喜びを!」だ。
 コートのポケットに手を突っこんで、再び歩き始めた。知らず知らずのうちに口笛を吹いていた。メロディはなぜか、ヴェルディのオペラ『椿姫』第一幕の「乾杯の歌」だった。口笛が、合唱も加わるフィナーレへ至ろうとした矢先、白井は天神社の前に黒のアウディが停められているのに気がついた。――でも、僕には関係ないさ。路上駐車している車の一々にまで注意を払っていられるかっての。ごもっとも。
 そのままアウディの横を通り過ぎ、五メートルばかり歩いたところで、ドアを開閉する音が聞こえ、かつん、と路面を打つ音が耳についた。気をつけよう、暗い夜道となんとやら。お馴染みの標語が一瞬ながら白井の脳裏をかすめ、君子危うきに近寄らず、という『論語』の一節が思い出された。白井は肩を振るわせ、背中を丸め、その場から遠ざかろうと歩を早めた。
 「待って、白井さん」と呼びとめられた。思わず心臓が停まりそうになった。暗がりで見知らぬ人に呼びとめられるほど、心臓に悪いことが果たしてあるだろうか? 白井はそんなことを思いながら、おそるおそる振り返った。

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第2467日目 〈『ザ・ライジング』第3章 24/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 根府川駅を発って白糸川を越え、トンネルを抜けては出るを繰り返し、左手に箱根へ連なる峰の斜面を、右手に海岸線と線路の間を並行する真鶴道路、岸辺の燠火と海上の漁り火がほの見える相模湾を望みつつ、希美と白井を乗せた東海道本線は次の真鶴駅に向かって、終着点である沼津駅を目指して、のんびりと走っていた。車内はめっきり人の数が減り、白井達の座るボックス席のまわりにもほとんど人の姿はなかった。レールの継ぎ目が原因の小刻みな揺れが振動となって伝わり、それは一定の間隔で座席に坐っている人々の体を震わせた。
 茅ヶ崎駅を過ぎたあたりからうつらうつらと舟を漕ぎ始め、じきに熟睡してしまった白井は、根府川駅での発車のアナウンスを遠くに聞き、揺さぶられれている内に目を覚ましかけ始めた。目をしばたたいていると、意識もはっきりしてきて、あたりの光景が徐々に形を取ってきた。
 気がつけば、隣に坐っていた希美がいなかった。トイレにでも行ったかな、よもや、途中下車したなんてことはないだろう。あれ、でも、向かいの席にはいないし、荷物もない。ううむ、本当に降りたのか……、おい、ちょっとやめてくれよな。僕は作者の被造物ではあるけれど、操り人形になんかなるつもりはないからな……。閑話休題。
 頭を振って、中をすっきりさせた。途端、欠伸が出た。すると、通路をはさんだ反対側のボックス席から――
 「起きた?」
 婚約者の声が聞こえた。そちらを見るよりも先に、結婚したら毎朝、こんな風にいわれるのかな、と考えた。いかんなあ、最近やけに希美ちゃん絡みで、妄想を逞しくしているような気がする。ああ、改めなきゃ。そんなことはともかく、
 「よく寝てたから、ずっと起こさないでいたの」と希美がいった。トートバッグを膝上に乗せて、愛らしい仕草で片手で抱きしめている。もう片方の手は窓枠に肘をつき、軽く握った拳を頬にあてていた。向こうの窓から民家の明かりも車のライトもないせいで、黒一色にしかここからでは見えない相模湾が横たわっている。
 白井は無意識に、ミニスカートからこぼれる希美の脚を見た。けっして細いとはいえないものの、適度に肉付きのいい脚だった。ワインレッドのブーツとチャコールブラウンのミニスカートの濃い系の色合いが、却って希美の肌の白さを際だたせている。考えてみれば、ブーツを履いた希美を見るのは初めてのような気がした。ようやくブーツを履く季節になったのだから、それも致し方のない話かもしれなかったけれども。手袋を脱いだ、トートバッグを抱える左手に指輪が光っている。
 「エッチなことでも考えてるんじゃないでしょうね?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、希美がそう訊いた。質問というよりは詰問だな、と白井は思った。彼は首を横に振りながら、「違いますとも」とそれを否定した。心の片隅で少しは考えていたが、なに、それはいつものことだった。然り、いまに限ったことではない。
 「そっちに行ってもいい?」
 希美が「いいよ、どうぞ」といって、左手を彼に差し出した。
 白井は腰をあげて、希美の前に移動した。窓の外を見て、「そうか、こっちの方が海が見えるんだね」といった。返事はなかったが、彼女が頷くのを視界の端にとらえた。
 ――もう独りぽっちにはなりたくないし、戻りたくもない。いつまでもそばにいる、って約束して。 
数時間前、八景島でプロポーズを受け入れた希美が、ぽつりと呟いたのを思い出した。いま目の前で彼女が見せている笑顔は、終生癒されることなき傷を隠すための仮面でもある。僕もそれなりに、いや、誰もがそれなりに傷を抱えて生きている。けれど、希美ちゃんの抱える傷はまったく違う種類のそれだ。僕らの傷なんて「傷」というのもおこがましい。……もし僕にできるのなら、ずっと希美ちゃんのそばにいて、わずかでも彼女の傷を癒していきたい。
 ああ、もう独りぽっちにはしないし、戻らせもしない。約束するよ。
 「希美」と彼は呼びかけた。ハッとした表情で希美が白井を見る。刹那、目が合った。下唇を噛んで、未来の妻を見つめた。過去に出会った人々の顔や声が、かつての職場の同僚達の姿が、くっきりと心に浮かんだ。やがてそれらは消えてゆき、代わって行員時代に愛を交わした件の女性の姿が立ち現れた。その人があなたに添い遂げる人なのね。彼女の目はそんなことをいっているようだった。する内、その女性も消えた。目の前から靄が晴れてゆくような気分だった。僕はこの子と結婚するよ、と白井は誰にいうでもなく胸の中で呟いた。必ず幸せにするし、命に代えてでも守ってみせる。それが、これまで自分の心に悪夢の如くまとわりついて、機会あるたびに苛まされてきた思い出と決別するにあたっての約束。
 抗うこともせず、希美は白井に抱かれ、膝の上に腰をおろした。白井は希美の頬を撫で、髪に顔を埋めた。静かに吐かれる息が彼女のうなじを撫でる。それに希美は小さな喘ぎ声をもらした。無言のまま離れると、彼は希美を胸にかき抱いた。
 約束しよう。
 希美が自分の両腕を白井の首へまわしてきた。目蓋が閉じられ、唇が薄く開かれている。白井は希美の唇に自分のそれを重ねた。軽く触れあう程度のものだった口づけはやがて、相手の存在を確かめ、求めるような濃厚な――もちろん、希美にとっては初めて交わす男と女のキスになっていた。□

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第2466日目 〈『ザ・ライジング』第3章 23/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 よくもまあ、毎日毎日、こんなひどい騒音の中でみんな生きていられるなあ、というのが、横浜駅は東海道本線が発着する六番線ホームに立っている希美の疑問であり、感心であった。
 ホームへ入ってくる電車が、白線の外側を平然と歩く者に向けて、立て続けに警告音を鳴らす。ドアが閉まり発車を知らせるベルが幾度となく鳴り響く。駆け込み乗車を制したり、諫めたりする駅員の気違いじみた声がスピーカーからがなり立てる。人々が声高に交わす世間話に、携帯電話の千差万別な着信音と会話内容が容易にわかる大きな声。エトセトラ、エトセトラ。
 都会ってうるさいなあ。……気が狂いそう。おまけに人はいっぱいで、ぶつかってきても人の足を踏んづけても知らんぷり、謝るどころか逆ににらみつけてくる。いつだって喧嘩が始まってもおかしくない状況下で、都会に暮らす人はみんな我慢強いんだな、とそんなおよそあり得ないことを考えながら、希美はその場に突っ立っていた。キオスクに行っていた白井が戻ってきたのも気がつかなかった。都会に住むって事は、忍耐を身につけることなのかしら。……ああ、嫌だ、嫌だ、やっぱり私はここでは暮らせない。
 沼津行きの十九時五十二分発の電車を待つ列の先頭に、二人は並んで立っている。ひょい、と何気なしに後ろを振り返ってみる。疲れた様子を隠せずにいるスーツを着た男と、目が合った。不審そうな目で希美を見ている。なにかいおうとしてもごもごと唇を動かしていたが、結局口から出てきたのは、ちっ、という舌打ちだけだった。男はポケットからタバコの包みを出したが空なのに気がつくと、またもや舌打ちしてそれを線路に放り捨て、その場から立ち去った。希美はその背中を見送りながら、非常識だなあ、と蔑んだ。正樹さんがあんなだったら……うん、私、絶対に好きにはならなかったろうな。
 希美は眼下のレールに目を落として、ふと思った。あれ、正樹さん、ご実家には顔出さなくていいのかしら、と。でも、そんなことになったら私、なんて紹介されるんだろう。現役高校生をいきなり連れて行って、僕の婚約者です、なんて臆面もなく紹介するつもりなのかな……それでもいいけど、うーん、私はどんな顔して彼のご両親に挨拶すればいいんだろう? 
 それを口にしていいものかどうか迷っているうち、ホームに電車が来た。□

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第2465日目 〈『ザ・ライジング』第3章 22/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 根岸線を関内駅で降りると、十分ほど歩いた路地裏にある海鮮料理屋の座敷で夕食を摂った二人は、食後の腹ごなしも兼ねて、桜木町のみなとみらい地区まで夜道を縫うようにして散歩した。日曜日、おまけに年末の近いオフィス街ということもあって、人目を気にせず腕を組んで歩けるのが、なにより希美にはうれしかった。この約二時間半、心を包みこむあたたかさとおだやかさの生まれ出る源が、左手の薬指にはめた指輪であるのは明らかだった。希美は指輪がもたらす安堵と幸福の力を、改めて感じた。
 大岡川の河口にかかる北仲橋を渡りながら、白井が訊いてきた。「どこか見たいところってある?」
 希美はあたりを見回した。右手には水面に影を落とす横浜ワールドポーターズが見えた。そこから時計の針とは逆方向に視線をめぐらす。帆の形をしたコンチネンタルホテルから三棟から成るクイーンズスクエア、横浜ランドマークタワーを経て、動く歩道が視界を横切る様を眺め、もうすぐ二人が使うことになる桜木町駅が見えた。電車の発着する様は見えないが、こちらへ吹きつけてくる風でホームのアナウンスが切れ切れに聞こえた。それぞれの建物の窓からこぼれる光が何百と重なり合って、あたりの宙に靄となって漂っている。
 やがて、希美はみなとみらい地区のファンタジーとしかいいようのない光の洪水の中から、ランドマークタワーの手前に掘られたドックで永久停泊する日本丸を指さした。
 「あすこに行きたい」と希美はいった。白井もこれまでに何度か聞いたことのある、(木之下藤葉命名するところの)〈おねだりののちゃん〉の口調だった。脳天に重い鉛のハンマーで一突き、喰らった気分だった。かわいいなあ、といわんばかりに白井が口許をゆるめ、うんと頷いた。
 北仲橋を越え、みなとみらい大通りに沿った歩道を行く。ドックを中心に半月状に広がった芝生の斜面を、石畳の歩道を二人はゆっくりと日本丸の方へ降りていった。波が砕ける岸壁の際で二人は立ち止まった。希美は初めて見る帆船を見あげた。白い船体にオレンジ色のマストが、夜の闇を背景に気高い姿を誇っていた。かつて七つの海を駆けめぐり、海の男達に海のすばらしさと恐ろしさ、神々しさを教えた船が、海に愛でられ慈しまれて育った希美を、優しく出迎えていた。今夜はもう乗ることはできないが、いつか、もう一度ここへ来よう、と希美は思った。八景島は、まあ、ともかくとして、この船を見るためだけにでも。
 白井の控えめなくしゃみに我に返った希美は、「行こう」といって彼の手を取った。日本丸に背を向けるとき、また来るね、と口の中で呟いた。彼等は広場を戻って、動く歩道へあがる階段に足を向けた。
 動く歩道の上の人となって、ぼんやりと左手、日本丸の向こうに横浜ワールドポーターズや赤レンガ倉庫、横浜港の内湾を眺めていた。そのとき、ふと希美は確信した。ここは私が生活する場所じゃない、と。正樹さんと結婚して家庭を持ち、子供を産んで育ててゆくならば、私は沼津で暮らしたい。子供の頃にくらべればだいぶ寂れてしまった港町だけど、すべての記憶が沼津と密接に関わり合っている。どこにいても故郷の光景と思い出は瑞々しく私の中で息づいていることだろう。なんていうか、うまく表現できないけれど、私は沼津であり、沼津は私自身なのだ。
 「帰ろう」と希美はいった。
 二人はみなとみらい総合案内所と喫茶店の前を通った。電光掲示板に、アメリカ軍のイラク侵攻を危惧するニュースが流れていた。二人はそちらを見ることもなく、桜木町駅の改札口に向かった。□

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第2464日目 〈『ザ・ライジング』第3章 21/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 そわそわした様子の白井を横目でずっと観察していて、トイレにでも行きたいのかなあ、遠慮しないで行ってくればいいのに、まだ電車が来るまで時間はあるんだし、とぼんやりそんなことを考えていた希美に、たまりかねた表情の白井が振り向いた。あ、行ってくるのかな、そう思いながら、「どうかしたの?」と希美は婚約者に訊ねた。
 「さっきはどこのパンフレットをもらったの?」
 違ったらしい。希美は内心がっかりしながら、トートバッグの中にしまった数冊のパンフレットを探った。これのことがそんなに気になってたのかしら。ただの海外旅行のパンフレットなのに。いや、と希美はいまの自分の呟きを否定した。ただの、ではない。大切なセレモニーのためにもらってきたのだ。実現されるかどうか知らないが、ここ二ヶ月の間、白井と逢うたびにつらつら描いてきた場面。
 「気になる?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて希美は訊いた。
 白井はふいに視線をはずして、「そりゃあね……」といった。
 それを見て小さく吹き出しながら、トートバッグの中からさっきここ、新杉田駅について根岸線の改札へ行く途中の旅行代理店でもらってきたパンフレットを出した。表紙にしばし目を落としていたが、すぐに白井を見あげて、これよ、と手にしたパンフレットを見せた。
 受け取った白井の顔つきが変わるのがわかった。目が少し見開かれ、唇を噛んでいる。希美は彼から目をそらすと、小高い丘の斜面に建ち並んだ家並みから洩れる明かりを、じっと見つめた。この人は私の希望を知って、いったいどんな反応をするだろう。怒り狂うかな、それとも、諦めたように頷くかな。
 いずれも海外ウエディングのパンフレットだった。タヒチ、ブーケット、バリ――南太平洋を舞台にしたパンフレットが三冊。溜め息が横から聞こえた。どうやら不快な気分にはなっていないようだった。
 白井がそれを持ったまま、希美を見て、
 「海外で式を挙げたいんだね?」と訊いてきた。希美が返事をする前に「でも、……どこで? あの、まさか――」
 希美はその先を読んだ。地名が口にのぼる前に、彼女は「うん」と諾った。「そうよ、バリ」
 「そうかあ……」と白井はいった。
 バリ。希美にとってそこは両親の記憶につながる場所だった。幼な馴染みで中学時代から恋仲だった両親が、大学に入って二回目の夏休みに出掛け、結婚を約束した地。そして、今年十月にあったアル・カーイダの爆弾テロで命を散らせた島。ディスコ前を爆心地として周囲の歓楽街――夜ともなると観光客が自然に群れてくる地域を、あらかた吹き飛ばしたテロ事件。現地時間十月十二日夜の犠牲者名簿の中に、希美の両親、深町徹と恵美夫妻も名前を連ねていた。夫婦は結婚二〇周年の記念に思い出のバリを訪れた。娘を誘ってみたが、だって学校あるもん、いいから二人で行ってきなよ、と固辞されて、成田空港で見送られた。それが今生の別れとなり、希美の両親は帰らぬ人となった。
 両親が将来を誓った島で自分も式を挙げたい、と希美が思い始めたのは、成田空港から帰ってくる途中だった。行ったことはなかったが、写真で見る限り、そこには息を呑むような青色に染められた海が広がっていた。海上に突き出したコテージで寝て、ふと目が覚めると波の音が聞こえる。それはどんなに素敵だろう、と希美は想像を逞しうした。いつか自分も行ってみたいな、できれば……うん、正樹さんと。
 そんなことを考えていると、突然白井が自分の肩を抱いて、引き寄せた。視界が一瞬ふさがれ、白井の匂いが鼻腔を刺激した。人目さえなかったら、と希美は考えた。もっと体をすり寄せているのだろうけれど――
 「ねえ、恥ずかしいよ」
 そう希美は訴えた。もぞもぞと体を動かしてみる。
 「ごめん。つい、ね。じゃあ、まわりに誰もいないところでするよ」
 そういって白井が電光掲示板を見た拍子に、希美は彼から離れた。誰かの視線を感じたが、大して気に留めなかった。同じように電車を待っている人が、たまたまこちらを見ていただけだ。
 誰かが一緒にいる生活、っていいな、と希美は白井を見やりながら考えた。好きな人と暮らすのって、平凡だけどいちばんの幸せよね。そりゃあさ、喧嘩もするだろうし、幻滅するところだってあるかもしれないけれど、でも、それでいいんだよね。だって一人っていうのは淋しすぎるもの。すべての感情を、すべての経験をたった一人で味わうのは、あまりに惨めすぎる。ねえ、といって誰かが答える生活が、なによりも幸せ。パパとママが死んじゃってから、私はそんな経験が一度もない。一人っていうのは淋しいよね。
 希美は白井の手を取って、握りしめた。頭を彼の胸に押しつける。ようやく耳に届くぐらいの小さな声で、希美はそっと呟いた。
 「……約束して。もう、私を独りぽっちにしない、って……」□

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第2463日目 〈『ザ・ライジング』第3章 20/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 やがて太陽が西に傾き始め、そろそろ人が少しずつ浜辺から消えてゆくころだった――白井の住む小田原のアパートに押しかけて告白してこい、と彩織が言葉やわらかにたきつけたのは。初めは渋っていたが、犬の散歩で遊歩道を歩いてきて合流した藤葉の一喝もあって、ようやく希美はその気になった。彼女は彩織を連れて(「なんでウチまで行かなアカンねん!?」「友だちでしょ!?」そう面と向かって希美と藤葉にいわれると、彩織は返す言葉をなくし、あたかも家臣の如くかしこまって親友にくっついていった。藤葉は、犬の散歩の途中だから、とそこで別れたが、そのときの笑顔が彩織にはなにやら陰謀めいたもののように感じた)、小田原へ向かった。
 駅前の不動産屋で訊ねたところでは、白井が住むアパートは小田原城の裏手、天神社のすぐそばにあるということだった。城址公園をぐるっと回って天神社まで来ると、果たしてそこに探し求めるアパートはあった。両隣は空き地と、十台ばかりが停められる駐車場だった。
 白井の部屋には電気が灯っている。白井先生、いるんだ、と希美は思った。でも、一人じゃなかったらどうしよう、どう取り繕えばいいんだろう。そう、たとえば女性が一緒だとか? 〈彩織ン報告書〉には彼女なし、とあったが、それは一ヶ月以上も前のデータだった。状況はいくらでも変わる。わずかの時間で世界は変転する。
 この期に及んで逃げ腰になっている希美を見て、彩織は、あちゃあ、と額をぴしゃりと叩き、脇腹に手をあてて、夕暮れの空を見あげた。そして、シャンとせいな、と希美の手首を摑んでアパートの外階段を昇り、白井の部屋を探し当てるとためらわずにチャイムを押した。中から忘れられようはずのない声が聞こえた。ドアが開いた。彩織は希美の背中をどんと押し、脱兎の如くその場を走り去って階段に隠れ、興味津々の眼差しで覗き見を決めこんだ。
 気がつけば希美は白井の腕の中にいた。感情が混乱していたせいもあって、希美はあまりにストレートな言葉で告白した。勢いに呑まれた白井も、その場でイエスと返事した。なによりも白井が驚いたのは、ドアを開けた瞬間に飛びこんできた希美ではなく、にやにや笑いながらドアの陰からひょっこり顔を出した彩織にだった。その後、彩織は自分に感謝しろ、といわんばかりに白井を説き伏せ、彼のアパートから二〇〇メートルほど離れた、国道一号線を渡ったところにあるガストで軽い夕食をおごらせた(この日、白井は宮木彩織の顔と名前を完全に一致させた)。
 希美はほほえんだ。あの日から私と彼は元・教育実習生とその当時の教え子という関係から、恋人同士にステップアップしたんだな。彩織に感謝だね。今日のことは日記に書くよりも先に、彩織に報告しなきゃね。
 希美は掌に置かれた小箱に視線を落とした。たぶん、この中には――
 白井が留め具をはずして、彼女に中を見せた。指輪があった。「結婚してほしい」という彼の言葉に、希美はためらいなく頷いた。その返事に安心したような白井の安堵する溜め息が聞こえた。
 左手の薬指に、指輪がはめられた。
 こぼれ落ちかけた涙を拭いながら、希美は白井を見つめた。
 「幸せにしてください……正樹さん」

 さんざっぱら引きずりまわされた池本玲子は、もういいや、と疲れた様子で溜め息をついた。これ以上一緒にいたって、なんの収穫もない。アクアミュージアムを出てからもこそこそ後をつけていたが、マリーナの岸壁に腰をおろして、ぼお、っとしている二人の背中を見ているうちに、これ以上の<尾行>は無益だ、と悟った。
 放っておいたって、白井正樹は小田原のアパートに帰ってくる。どれだけ時間が遅くなろうとも。少女と一夜を共にすることはあるまい、と本能が告げている。池本はふしぎな確信に頷いて、丘の上に行こうとしている白井と希美を見送った。楽しむがいいわ、もうすぐあなた達の幸福は音を立てて崩れ去るのだから。
 足がむくんだようで、ブーツの中でぱんぱんに膨れあがっている。どこかでブーツ、脱げないかなあ、と池本は思いながら周囲を見渡した。好都合なことに十メートルぐらい離れたところに、レストハウスが暗闇に紛れて建っている。池本はもはや二人を見ることもせずに、そちらへ歩を進めた。
 ――降ろした便座の蓋に坐りこみ、ブーツを脱ぎ捨てると池本は目蓋を閉じた。睦みあう恋人達の姿が浮かんだ。少女の嬌声と激しい息づかいが、やけに耳についた。白井の少女を呼ぶ声がこだました。薄い靄の彼方で互いを求める彼等の影がうごめいている。心の奥底から静かに嫉妬と殺意が鎌首をもたげてきた。
 深町希美よ、あんたに希望なんて与えやしない。愛しい彼を渡したりするものですか。彼は私にとっての救世主、あんたのじゃない。自分の年齢や置かれた境遇を考えてみなさいよ、どれだけ彼があんたにとって身分不相応な存在なのか、考えてみたことはあるの。彼はね、あんたの境遇に同情して近くにいるに過ぎない人なのよ。あんたみたいな小娘に私の大事な人を盗られてたまるものですか!
 池本は個室の扉を拳で力任せに叩いた。外で小さな悲鳴が聞こえ、足音が遠ざかっていった。それを聞きながら池本は口許をゆるめた。ひずんだ笑みがそこに広がった。彼が私のことを覚えていようが忘れていようが、もうそんなのどうだっていいことだ、と彼女は思った。なににもまして大切なのは――
 メメント・モリ。
 汝、死を覚悟せよ。□

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第2462日目2/2 〈『ザ・ライジング』第3章 19/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 抱擁から解放された希美は、ビロード地の小箱を手渡された。それを掌に置かれたとき、ふいに、白井に出逢った日のことを、告白したあの夜のことを思い出した。
 教育実習の初日、朝のホームルームの折、自己紹介のために教壇に立った白井を見ているうち、希美は気持ちが乱れるのを感じた。それが恋だと気づくのにそう時間は必要なかったが、これまで経験したことのない強い感情だったせいで、彼女はとまどいを覚えた。だが、気持ちを整理し、それを伝えようとした矢先、実習は終わり、白井は学園を去った。それからずっと心の奥にしまいこんでいた想いに決着をつけよう、と腰をあげて、前から考えていた計悪を実行に移したのは、八月もあと二週間で終わるというころだった。
 事の発端は宮木彩織だった。教育実習が始まって十日が過ぎた時分、白井の一挙手一投足が言動がニュースとなって学内をめぐっていたある日の放課後、部活を終えて教室に戻ってきた希美を、彩織は喜色満面の顔で迎えた。彼女は親友に一冊の冊子を差し出した。
 なあに、これ、と希美は訊いた。
 ま、ええから読んでみ、と彩織は答えた。
それは白井のポートレート付きプロフィールだった。希美の恋を誰よりも早く見抜いた彩織が(「えっへん、名探偵彩織ン様はなんでもお見通しなんや」)、その日一日を費やして休み時間のたびに白井につきまとい(六時間目が終わった後に、さすがに見かねた高村から雷が落ちた)、彼の略歴や現居の住所と電話番号――ファクス番号やメールアドレスまで――、読書傾向やスポーツ(特にこれといった運動はやっていないようだった)、よく聴く音楽、好きな料理、好きな女性のタイプ、先生になろうと思ったきっかけなどもらさず聞き出して、五階にあるコンピューター室のパソコンで冊子を拵えていたのである(製本は職員室横の印刷室に忍びこんでやった)。写真は合唱部の後輩が持ち歩いているチェキを借りた。……恐るべし、彩織ン! そうして希美は決意した。彼がここにいる間に必ず告白しよう、と。
 だがそれは果たされず、希美は教育実習の最終日に白井を、高村やクラスメイトらと一緒に正門まで見送ることもしなかった。けっきょくなにもいえないまま終わってしまったことに対する後悔と、彼への日増しに深まってゆく想いのギャップに苦しんで、午後から吐き気を覚えていた。とうてい白井を見送れる状態でもなく、放課後、彼女は滅多に誰も使わない六階のトイレでむせび泣き、迎えに来た彩織に促され、腕を引っ張られ、その階の正門を見られるベランダから、白井の背中に手を振った。もしかしたらこのまま忘れられるかも、と数日はなかば期待したが、一度心に宿った想いと幻影は成長を続けてゆくばかりだった。
 やがて初夏は過ぎて夏の盛りとなった。希美は彩織に誘われて、海へやって来た。照り返しのきつい駿河湾を眺めながら、なにを話すでもなく防波堤に坐りこんでいた。砂浜には海水浴客がひしめき、氷売りやジュース売りがその間をうろうろし、その夏限りの海の家で休んだり海に入って遊ぶ人々を見おろしながら。三度ばかりナンパされたが、無視し続けているうちにその男達もどこかへ行ってしまった。□

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第2462日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 18/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美を抱きながら、コートの内ポケットに入れた贈り物に指先が触れたとき、白井はふと彼女と出逢ったときのことを思い出した。
 六月第二週に始まった教育実習の初日から、希美は目立って気になる少女だった。高村千佳と教室に入った途端、生徒達のかまびすしいお喋りの声がやんだ。三十四人六十八の瞳が、一斉にこちらへ向けられた。来てはいけないところへ迷いこんでしまったような気がした。彼女達がまんじりともせずに、白井を見つめている。その静けさはあまりに不気味だった。やがてそれは一人の生徒の、はああ……、という納得したような溜め息によって破られ、思わず耳をふさぎたくなるほどの悲鳴じみた大歓声と拍手に取って代わられた。顔が真っ赤になるよりも先に、体中がこそばゆくなった。高村に促されて教壇に上がって自己紹介をした。ああ、ヌードモデルを引き受けた男性は鋭い視線で自分を見る、居並ぶ女性陣を前にすると、そうか、こんな気分に陥るんだな、と合点がいった。
 どうにかして自己紹介をすませたとき、白井は一人の生徒に引きつけられた。臙脂と黒の格子模様をしたベストとスカート、オフホワイトの半袖ブラウスに臙脂一色のリボンという装いは同じながら、他の誰よりもあどけなさとしとやかさが同居した容に、半開きになっている唇からこぼれるように見える八重歯が、妙に印象に残る、そして、嫌みにならない程度に醸し出された気品が漂っている少女だった。彼女は机の上で腕を交差させて上体を少し前屈みにし、クラスメイトと同じ好奇あふれる眼差しで白井を見つめている。前の席に坐ったお団子頭が記憶に残る生徒が少女に振り向いて、なにやらこそこそ囁いている。小さく頷いたり、笑みをこぼすたびに、八重歯の少女のツインテールにした髪が揺れた。思わず白井は心臓を鷲摑みにされたような気分を味わった。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの歌の一節が脳裏に字幕スーパー入りで浮かびあがり、いまこそ彼はその歌詞の意味を本当に理解したように思えた。わかるかい、ハンマーでやられた感じだよ/重い鉛で一発だよ。
 なにはともあれ、それが白井正樹と深町希美の出逢いだった。
白井は教育実習が終わるころには、朝夕のホームルームと週三回の日本史の授業を通じて、希美にすっかり心を奪われ、恋心を抱くようになっていた。やがてこの学校にさよならしなくてはならない日が近づいてくると、どうにか自分の気持ちを希美に伝えようと考えたが、そのたびに年齢差と、それ以上にかつて自分が被った恋の傷にためらって、なにもいい出せぬまま、彼は高村と三組の生徒達に見送られて、聖テンプル大学付属沼津女子学園を後にした。もう、これきり彼女と会うことはないのかな、と傷心の心を抱えたまま。
 初夏はすぐに夏の盛りを迎え、寝苦しい日々がやってきた。塾で教えるだけでは生活できないので、交通誘導や倉庫で仕分けや入出荷の作業に従事し、大学やアルバイトに行かない日は小田原のアパートで本を読んで過ごし、希美の顔を思い出してぼんやりとしていた。卒業論文も参考文献に目を通そうとしても、いつだって読みかけの小説と希美の笑顔が作業を邪魔だてした。一日一日がのどかに過ぎていった。そのときには、八月が終わろうとしていたある日の宵に人生を一変させる出来事が訪れるのを、白井はまだ知る由もなかったのである。
 そうか、とコートの内ポケットから、ビロード地の小さな紺色の箱を希美の掌に置きながら、彼は口の中で呟いた。出会ってもう半年、付き合い始めて四ヶ月になるんだな、と。あの頃はこんな日が未来に待っているなんて思わなかった。でも、僕はこうして自分の居場所と、ずっと求め続けてきた女性を見つけられた。煩悩の日々は今日で終わり、明日からは新しい日々が始まる。それはきっと素敵なことに違いない。
 「希美ちゃん……僕と、結婚してほしい」と白井はその小箱を開け、中を彼女に見せながら、いった。□

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第2461日目 〈『ザ・ライジング』第3章 17/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 夜空には星が瞬いていた。高山の頂で見るほどではないが、そこを星がきらめき彩っている。アクアミュージアムを後にすると、彼等はマリーナの岸壁でぼんやりと時間を過ごし、あたりをぶらつき、遊園地で遊んだ。そうして宵闇が太陽を押しのけてしばしあって立ち去り、それに変わって神秘的で不可思議な夜が足早に訪れ、あまねく世界をその腕に包みこんだ。
 白井はかねてより見当をつけていた場所に希美を誘った。顔には出さないけれど、希美も彼が連れてゆく場所でなにが始まるのか、おおよそ察していた。
 海を見おろす小高い公園に着いた。白井は周囲を見渡してみて、しまった、とばかりに溜め息をついた。あたりのベンチはカップルで埋まっていた。どこからこれだけ湧いて出たのか、と小首を傾げてしまうような数だった。
 こんなにカップルがこの島にいたのか?
そう彼は自問した。答える声があった。あたかも横浜市の観光ガイドのような答えだった。――そりゃそうさ、だってここは“恋する遊び島”だもん!
 ああ、そうですか、と白井はやや呆れたように呟いた。聞こえたかと思って隣に立つ希美を見てみたが、どうやら心配は無用だった。彼女はもはやうつむくことさえせず(いや、ただ呆気にとられただけなのかもしれない)、自分のまわりでどこまで真実かしれたものではない愛の言葉を囁きあい、相手の体を馴れた様子でまさぐり、また、緊張からかぎこちない仕草で相手の体に触れる者のいる周囲の叢やベンチを、好奇心と羞恥の入り混ざった目で控えめに観察していた。
 白井は彼女の手を取って、空いているベンチを見つけた。希美があたりを見回している間に、視線が吸い寄せられるようにして見つけた、おそらくこの時間唯一の空いたベンチだった。まるでスティーヴン・キングの小説に出てくる、雪に閉ざされた深山に孤立して建つ幽霊ホテルのようにも、ニューヨークの街角で人知れず咲いていた一輪のバラのようにも、白井には感じられた。
 そこは、何故これまで誰もここに坐っていなかったのか、訝しむよりないような場所だった。そこからの横浜の夜景は、けっして悪くなかった。東京湾を中心に置いて、左手には本牧や新山下、奥まって桜木町のみなとみらい地区が白と濃い青のライトに包まれて広がり、右手には新山下から海上を対岸の木更津まで海を横断する東京湾アクアラインが視界を横断し、その向こう側に羽田空港や大井埠頭のオレンジ色の明かりが見え隠れした。アクアラインを走る車のテールランプが筋を引いて、木更津と横浜の間を行ったり来たりしている。川崎からしばらくはトンネルが海中にあるため、よくよく目を凝らすと、いきなり橋が海の中から生えているように見えるが、もちろん、そうではない。海ほたるこそ見えなかったが、あの橋の上から海を眺めたらどう見えるのかしら、と希美がいったが、白井はそれを説明することができなかった(自分の見たことのない光景を見てきたように説明するのは、白井にはできるはずのない芸当だった。想像力が欠如しているわけではなかったが、嘘をつくことに馴れていない男だったのだ。小説家のように天下無敵の嘘つきと無縁の男が、この白井正樹という男だったのである)。
 希美が上を見あげた途端、あ、と小さな声で呟くのが聞こえた。つられて白井もそちらを見た。空の遙か上の方を、赤い光が二つ、北西へ流れてゆく。それが飛行機であるのは一目瞭然だったが、果たして国内線なのか国際線なのかまではわからなかった。彼女が唇を噛んだまま、そちらをじっと見つめている。東京湾沿岸の光景も、いまとなっては無用の書き割りに過ぎない。白井は後悔したが、してどうなるというわけでもなかった。希美の頬を涙が一筋、すーっ、とゆっくり伝ってゆく。白井は衝動的に希美を抱きしめ、その頬に口づけた。涙の味が喉の奥まで感じられる。しょっぱいというよりも水の味が最初にした。希美が一瞬、体を震わせるのがわかった。しかし、彼女を想いの束縛から解放するつもりはなかった。
 このままずっと抱きしめていたい、と思ったとき、彼はコートの内ポケットへ大事にしまっていた贈り物に気がついた。この日のために夜勤のアルバイトまでして買った、白井正樹から深町希美への贈り物。今日のクライマックスを飾るのにふさわしい場所を得て、それは遂に真の役割を果たすために姿を現そうとしている。
 「希美ちゃん」と白井はいった。声もなく彼女は目の前の恋人を見あげた。瞳は濡れて光彩をゆらめかせている。十七歳にしては落ち着いた色気を漂わせ、心をこそばゆくさせる表情だった。が、その表情の裏に二ヶ月前の悲劇がいまも息づいていると思うと、白井はとまどいとやるせなさを感じずにはいられなかった。
 希美の半開きになって八重歯を覗かせる唇がふいに閉じられた。少女の目蓋が閉じられている。そっと、口づけた。ややあって名残惜しげに唇が離れた。再び、白井は希美を抱き寄せた。その耳許で、囁いてみる――
 「愛してる」と。
 希美が小さく、しかしはっきりと頷いた。□

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第2460日目 〈『ザ・ライジング』第3章 16/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 池本玲子はずっと二人からつかず離れずの距離を取っていた。時たま見失いそうになったが、もともと閑散とした館内だったから、すぐに見つけだすことができた。おまけに館内はほの暗かった。はっきりと顔が見られない程度に適度な距離を置いて、彼等の会話に聞き耳を立てるのは容易だった。
 白井と少女がアクアチューブにさしかかった。池本も何気ない足取りでその後をつけた。あと数メートルでそこに至ろうとしたときだった。誰かに肩を摑まれた。瞬間、全身が固まった。足から根が生えたように、その場で棒立ちになる。呼吸が荒くなり、肩に置かれた手からいわれようのない恐怖が、体の中に雪崩れこんでくるようだった。少し前屈みになった背中に痛みが走る。池本は手の主に振り返った。見てはならない者がいるように感じた。でも視線は否応なく、そちらへ引き寄せられてゆく。
 漆黒のローブを頭から纏った男が一人、そこにいた。池本をじっと見つめている。表情はローブの陰に隠れて見えなかったものの、目と思しきあたりに白濁色の丸が二つ見えた。暗闇に浮かんでいるようにさえ見られた。その視線は氷のように冷たい。見つめる対象を永遠に凍らせてしまうだろう視線。男の眼球はじきに銀色に変わり、乳白色となって、やがて透明に移ろった。池本は体を震わせることもできず、色のない瞳に魂を吸いこまれてゆきそうな気がした。男が手を離した。途端に足から力が抜け、その場にくずおれた。男がかがんで彼女の腰に手を回した。内蔵まで凍えてしまいそうな冷たさだった。
 色のない瞳から視線をはずせなかった池本が我に返ったのは、男の皺だらけな掌が彼女の首筋を這ったときだった。耳許に男の声が響いた。腐臭がした。鼻を曲げてしまいたくなる匂いだった。その声は口いっぱいに泥をほおばったようにくぐもっている。
 「我々は利害の一致する者。池本玲子よ、あの男の運命の糸、そなたに委ねよう」
 そういうと男は池本に背を向けて、飄然とその場を立ち去った。すぐに館内の暗闇に紛れてしまい、どこへ行ったのか、いったい何者だったのか、果たしていまの邂逅は現実だったのか、そして、なぜ男が自分の名前を知り白井の存在を知っていたのか、池本は訝しんだ。あの男の運命の糸、そなたに委ねよう、という男の言葉が頭の中で堂々巡りをし始めた。が、その答えを見出すことは永遠になかった。もうそれ以来池本がこの男と出会うことも、永遠になかったのである。
 どれぐらいの時間、そこに突っ立っていたかは知らない。十秒のようにも感じられたし、それ以上の時間が流れている気もした。池本玲子は足をよろめかせながら、アクアチューブの手摺りにもたれ、上の方に目を走らせた。白井と少女の姿が重なっていた。彼女はそれをうつろな眼で見つめながら、沼津にいるはずの姪のことを考えた。あの男……理恵ちゃんが差し向けたのかな、あのガキを葬るために。そんなことはあり得ないことだと承知しながらも、そうだとしたらなかなか頼りになるのに、といましがた恐怖に震えていたのはすっかり棚にあげて、池本はにたりと笑みながらそう考えた。
 明日になれば、すべてが終わり、すべてが始まる。粛正の日だ。
 二人が視界から消えたのを見ると、池本は大股で一段置きにエスカレーターをのぼっていった。□

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第2459日目 〈『ザ・ライジング』第3章 15/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 アクアチューブと呼ばれるガラスでおおわれたパイプ型エスカレーターが、ZONE3とZONE4を隔てる巨大水槽を貫いていた。回遊する魚の群れに、人々は見惚れ、声をあげた。魚達がガラス壁の向こうで泳ぎ回り、ワルツを踊っている。
 分厚い水のカーテン越しに、連れだって水槽の中を見る人々の姿があった。希美はびくりと体を震わせた。彼等の姿がまるで亡霊のように思えたからだ。ゆらめき、ひずみ、ふとした拍子にいなくなる。この世に別れを告げたあとまでも未練を残し、煉獄に魂をさまよわせる。どこへ行くあてもないのに、いたずらに。
 希美はその中の一人がこちらを見ているのに気づいた。漆黒のローブを頭からかぶって足許まで垂らしている。裾は床に広がっていたが、ここから見る限り、そこには少しの汚れもないようだった。連れの姿はない。そもそもの最初から一人でいるようだ。目立つよねえ、逆に、と思った瞬間、鋭い視線に射られた。両足から急に力が抜けてゆくようだった。後ろに立つ白井が笑って背中を支えてくれた。大丈夫、といって希美は男(に違いない、というふしぎな確信があった)の方へ目をやった。いまの視線が男の向けたものであることは直感でわかった。それは底知れぬ恐ろしさを湛えた、如何なる暴力にも眉根一つ動かさぬような冷酷極まりない視線だった。顔は隠れてまったく見えないが、目と思しきあたりに地獄の業火を思わせるような、紅蓮の炎が燃えさかっている。するうち、男はまっすぐに左腕を伸ばして人差し指で希美を指さした。希美の顔が強張った。色を失ってゆくのさえわかる気がする。全身に鳥肌が立った。悪寒に体が震えている。希美は恐怖のあまり、目を背けた。よほど白井にすがりつこうと考えた。が、視線を少しでもずらせばあの男の姿が目に入ってくる。そんな気がすると怖くてたまらず、それもできなかった。しかし、人間は恐怖に出会うと、いったん目を背けてもまたすぐそれを見たくてたまらない救いようのない好奇心を、本能の中に組みこんでいる(でなければ、お化け屋敷が遊園地にある必要はない。肝試しや百物語にしても、連綿とそれが続いてきた理由はなくなってしまう)。希美もまた例外ではなかった。おそるおそるといった様子で、さっき男がいた方に視線を向けた。だが、そこに男はいなかった。新しい恐怖に囚われた。どこの誰かは知らないが、目をつけられたのかもしれない。理解しがたい理由で、簡単に命が奪われてゆく時代だ。そう、なにがあってもおかしくない。希美はエスカレーターの下を見た。白井の後ろには誰もいなかった。どこを見渡してみても、あの男の姿は見えない。安全ではないが、取り敢えず安心はした。強張りは少しほどけたが、不安げな表情は直らない。それを勘違いした白井が、同じ段に立って希美をそっと抱き寄せた。希美は固く目をつむって、アクアチューブが終わるまで白井の腕の中にいた。□

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第2458日目 〈『ザ・ライジング』第3章 14/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 手持ちぶさたに希美の横で見入る振りをしながら、白井は昨夜のことをつらつらと思い出していた。
 昨夜はほとんど眠れなかった。時計の針が、何時間も前に日付の変わったことを教えていた。小田原の古本屋をいつものように漁っていて偶然見つけた、風間暁雄が別名義で書いたロマンス小説を読み耽っている最中も、幾度となく眠気は襲ってきた。そのたびに電気を消してもそもそ布団へ潜りこむのだが、時間が経つにつれて目はどんどん冴えていった。頭の中を幾つもの光景が支配する。希美が駅に来るところ。プロポーズの返事が自分の期待するものであるところ。そして……エトセトラ、エトセトラ。熟睡どころではなくなった。
 暴走族の小さな集団が、二〇メートルばかり離れた街道を走ってゆく音が聞こえる。静寂の統べる部屋。時計の針が時間を刻む音だけが、やけに大きく響いて耳をついた。寝返りを打ってみた。もう少しでベッドから落ちそうになった。だめだ、と白井はなかば観念したように溜め息をついた。ひょっとして今日は、一睡もできないかなあ……。約一時間を布団の中で悶々と過ごした彼は、寝ることを諦めてコーヒーを作り、背の低い本棚に目をさまよわせた。暇つぶしにあれこれ引っ張り出しては頁を開き、閉じてはまた本棚に戻す作業が三〇分ばかり続いた。
 白井はマグカップに残った最後の一口を飲んだとき、ふと、そういえば希美ちゃんのコーヒー初体験はこの部屋でだったな、と思い出した。あのとき、僕は希美ちゃんを抱きしめ、そのまま彼女を求めようとした。十八の誕生日まで待って、と半泣きで訴える目に白井も怖じ気づき、その日はそのまま駅に送って終わった。十八の誕生日まで我慢できるのだろうか、と彼は自分に問いかけたが返ってくる答えはいつも同じ。我慢するしかないさ。彼女に嫌われたくないもんな。今日の終わりに希美ちゃんは結論を下す。それが吉なのか凶なのかはわからない。だが肝心なのは急かさないことだ。彼女がいうのを待ち続けよう。でも、もし彼女に振られでもしたら……僕はこれからどうなるんだろう。
 いや、まあ、それはさておいても――
 暇だった。
 白井は両手で口を隠して欠伸した。幸い、隣に立ってガラス壁の向こうを見つめている希美は、それに気がついていなかった。互いに海のある街で生まれ育ったといっても、海へ寄せる想いはまったく異なっている自分達を見比べて、白井は心の中で苦笑した。彼女にとって海は、いってみれば生活必需品。それなくして、生きてゆくことは困難を極めるのだろう。でも僕は……、と白井は思った。あんまり関わりなく育ってきたからな。子供のころに海で泳いだ覚えはないし、海釣りに行ったことがあるわけでもない。正直なところ、目の前にしているホッキョクグマを見ていても、さしたる感情の高揚があるわけではなかった。プレートの説明文と写真を見て、水槽の中に同じ魚を発見しても、皿の上に載った魚料理の場面しか思い浮かばず、姿と名前が一致したことに満足する程度だった。それに正直なところをいわせてもらえば、と白井は考えた。水槽の中を泳ぐ魚達、あるいはアザラシやシロクマを見ていても、その前にいられるのはせいぜい五分が限界だ。いや、でもそれが普通なのかな、と彼は疑問を抱いた。彼女の方が珍しいタイプなのかも。
 ようやく希美が顔を白井に向けた。彼等は並んで歩き始める。
 パノラマ式の巨大水槽があるZONE3に至る、人気のない通路の片隅で、カップルがぴったりと体をつけて唇を重ねていた。だいぶ光量を落とされた照明が、抱き合うカップルの輪郭を映し出す。耳をすますまでもなく、女の口から低い喘ぎ声がもれている。希美が体を強張らせた。興味津々の様子ながらその一方で、いつの日か自分が経験する破瓜の痛みを連想して、恐れに小刻みに体を震わせているのがわかった。
 白井は思わず彼女をかき抱こうとした。しかし、却って希美を混乱に陥れるかもしれない、と考えて手を引っこめた。別に善人ぶったわけではなかった。正直なところをいえば、彼も怖かったのだ。いまの関係が崩れることよりも、これまでこらえてきた欲情がここで解き放たれることを。そしてなによりも、初めて希美が自分の部屋へ来たとき流した涙を、いま再び目にするやもしれぬことに耐えられなかった。……肝心なのは彼女を急かさないことだ、我慢するしかないのさ。白井は小さく頷いた。いつか、彼女と好きなだけ寝ていられる日々が来る。それまでは、我慢、我慢。
 なにげなく希美に目をやると、正面から視線が合った。彼女は唇を横に引き結んで、トートバッグの縁を指でいじくっていた。乱れがちな呼吸音が聞こえる。あたりは静かだった。互いの心臓の鼓動さえ聞こえるのではないか、と疑われるほどだ。件のカップルはいつのまにか移動したようで、そちらを見ても姿は捉えられず、睦みあう声もいまはやんでいる。白井は言葉を絞り出そうとするものの、舌が口腔に貼りついて動かず、かすれた、声ともいえぬ声がもれるばかりだった。それでもなにをいわんとしたか察したように、希美がこくんと頷いた。白井は背伸びして耳許へ唇を寄せた少女に、激しい感情のうねりを覚えた。これまでの希美への感情が愛情の域で留まっていたのに対し、いまはそれが変質して血よりも濃い絆を確かに感じ取っているように思えた。彼女の囁きに彼は短い言葉を返し、歩調を同じうして歩き始めた。□

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第2457日目 〈『ザ・ライジング』第3章 13/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美はアザラシに会った。ガラス壁一枚隔てた向こう側で、アザラシは黒い眼をぐりぐりとめぐらせ、こちらを見物している連衆を眺めていた。プレートの説明には、北極海のどこだかの出身、性別はオスとある。
 その彼の目と希美の目がぶつかった。アザラシがじっとこちらを見ている。希美は額をガラスに近づけ、アザラシを見返した。タマちゃんもあんな感じなのかな。ねえ、君には私達って、いったいどう見えてるの? 
 君はだあれ? 彼の目がそんな風に語っているように、希美には感じられてならなかった。
 ここはいったいどこなの? 君みたいなのをたくさん見るけど、君達はいったい何者なんだい? 
無邪気な笑顔を浮かべていた希美の表情に影が射した。思わず真顔になった。背を伸ばし、そっと掌をガラスにかざして、顔をガラスに寄せた。水槽の天井から落とされた光が、ローズ・ピンクの口紅を塗った唇に艶めいた彩りを添えた。
 君だって好きでここにいるんじゃないもんね。勝手だよね、私達――人間って。
 アザラシがふいに視線を右に左に散らして、希美の両脇にいる見物人達に歓声をあげさせた。希美にはそれが、そんなの気にしなくたっていいよ、といっているように思えた。
 君にだって家族はいただろうに……心ない人達の手で引き裂かれちゃったんだね。なんだか私みたい。ねえ、私達ってもしかすると、同類なのかな。
 そんな希美の想いを感じてか、アザラシは再び彼女に視線を据えた。やわらかい毛並みに埋もれてわからないが、口許がもし見えたなら淋しげな笑みを浮かべているような気がした。アザラシはひれをばたばたさせた。
 家族はいたよ、確かに。故郷の海や親兄弟を想って、誰も僕を見ていない夜更けにこっそり涙を流すこともある。でもね、淋しがるのはいいけど、かといって僕を故郷に帰してくれるわけじゃない。もう二度と会えないんだ、そう思うと辛いけど、仕方ないよ。僕はポジティブ(これは僕の餌係のあずさお姉さんの口癖なんだ。たまに冗談半分に水をひっかけてやると、すぐにいじけて落ちこんじゃうんだけどね)に考えることにした。だって僕はここに来て新しい友だちに出会った。新しい家族ができたんだ。僕は一人じゃない。けど、それは君だって一緒だろう?
 ひゅっ、と音を立てて希美は息を吸いこんだ。傍らに立っている白井を、それと知られぬよう見あげる。まさかこのアザラシが本当にそんなことを考え、いっているとは思っていない。きっとあれは自分の内なる声。だってアザラシが私を知っているはずがない。今日まで面識はなかったし、それにアザラシだよ? けれど……一人じゃない。新しい家族。
 アザラシは鼻を振るわせ、そのままでんぐり返りした、希美を見つめたままで。やれやれ、もっとシンプルに考えようよ。君はいま、新しい家族といる。古い家族とはもう会えないけれど、いつも見守ってくれている。違うかい?
 希美は小さく頭を振った。ううん、そんなことない。だけど、なんでアザラシの君がそんなことを知ってるの?
 刹那、アザラシがにんまりと笑ったように見えた。それは内緒さ。僕等のいるこの世界は不思議なことで満ちているんだよ。ところで、君の名は?
 希美。のぞみ、っていうの。
 ん、ののみ?
 違うわよ、の・ぞ・み!
 ああ、ごめん、ごめん。ののみって聞こえたものだからね。
 ううん、いいよ、別に。もう馴れてるし。私、子供のころから滑舌が悪くてね、自分で自分の名前がちゃんといえなくて、幼稚園や小学校の時はよくいじめられてたの。でもね、そのたんびにお隣の五歳年上の真里ちゃんが助けてくれて、慰めてくれたの。あだ名の“のの”っていうのは真里ちゃんがつけてくれたんだよ。
 ふーん、そうか、いい話だね。僕にはよくわからない言葉もあったけど。
 ねえ、アザラシさん、君の名前はなんていうの?
 007(ゼロゼロセブン)。
 は? 007? 希美は口許を手で隠し、こみあげてくる笑いを必死になってこらえた。 ここに来たときの箱にそう書いてあったんだ。識別番号007、ってね。響きがなんだか気に入っちゃってね、名前にしたんだ。どう、かっこいいだろ?
 うん、そうだね。でも、ただの007じゃつまらないよ。いっそのこと、ジェイムス・ボンドってどうかしら?
 ボンド。ジェイムス・ボンド。うん、ダンディな名前だね、気に入ったよ。すてきな名前をありがとう、ののみちゃん。
 だーかーらー、と希美が抗議の声をあげる前にアザラシは――いや、007ことジェイムス・ボンドは水槽の向こうへ泳いでいった。瞬く間に姿は見えなくなった。
 去り際に「幸せにね、新しい家族と!」といっていたような気がする。
 希美は溜め息をつきながらほほえんだ。ありがとう、ジェイムス・ボンド君。
 肩に白井の手が置かれたことで、希美は現実に引き戻された。新しい家族。希美はてへてへと笑みをこぼしながら、彼の腕に額と頬をすりつけた。□

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第2456日目 〈『ザ・ライジング』第3章 12/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 アクアミュージアムの入場口からは少しの間、ほの暗いトンネルが続いた。そこを抜けると半円球のドームがあった。壁には深い青色が幾重にも重ね合わせて塗られており、海上から差し伸べられた光の筋が一条二条と斜めに走っている。あたかも肉眼で海底を眺められれば斯様な光景が目にされるのか、と入場者を思わしめる演出が施され、これから始まる彼等の、海への神秘的で不可思議な旅に誘っていた。希美と白井だけでなく誰もがドームの、巧妙に隠された天井のスポットライトが床にぼんやりと映し出す光のプールのそこかしこで立ち止まり、しばし目を馴らすのに余念がなかった。
 目が馴れてしまうとさっさと先へ進む者もいた。しかし多くはそこにたたずんで周囲を見やり、感嘆の言葉をもらした。そう、こういうときは「わあ……」の一言、ただそれだけでいい。感嘆と驚嘆の前に言葉はいらないのだ。いったいなにが始まろうとしているのか? SOMETHING WONDERFULL!! 他になにが?)。ホログラムで海の生物の姿が浮かびあがり、入念な調査を経て描かれた生態系が命なき生物に息吹を与えている。波が寄せては帰る岸辺に住まう小さな住人達が、深海の底にあってひっそり暮らす住人達が、模造物とはいえ入場者の前で己が生活の一断面をご披露に及んでいた。
 それに接して希美は慄然たる感動を胸の内奥に刻みつけ、崇高としかいいようのない次元にまで高められた恐怖に身を震わせた。幼い時分から遊び場以上の存在であった故郷の海に抱く郷愁は、けっしてノスタルジーが生み出したものではなかった。先祖代々の血が希美の中に遺したはるか昔の記憶、近き昔の記憶によって、自ずと継承されてきた郷愁であった。自分の前に生きて血を伝えた先祖達が海に抱いた畏怖と敬虔な想いは、さよう、確かに希美にも伝えられていた。誠、希美は海に愛され、育てられた娘であった。
 恍惚とした表情のまま、彼女は金縛りが解けたようにゆっくりと、まだ言葉にはしていないが心の底では既に生涯の伴侶と思い定めた白井にいった。「連れてきてくれてありがとう。待たせちゃってるね、私。行こうか」□

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第2455日目 〈『ザ・ライジング』第3章 11/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美に劣らず、池本も大船駅では白井を見失わないように必死になった。丹那トンネルの中ですっかり寝入ってしまい、気がついたときには大船駅に電車は着いていた。後ろに白井達がいる気配はなかった。あわてて立ちあがり、振り返ってみる。ボックス席は空だった。ふと見ると、窓の外にあの二人の後ろ姿があった。発車ベルが鳴り始めた。池本はバッグを摑んで車内を走り、ドアが閉まる数秒前に電車を降りた。息を落ち着かせる暇もなく彼女は階段を駆けのぼり、ホームをつなぐコンコースに出た。人の陰から目的の二人がかいま見える。よろめく足をなんとか操り(ヒールのブーツでなんか来るんじゃなかった、と激しく憤激したが、そんな後悔が果たしてなんの役に立とうか?)、京浜東北線に乗りこんだ。
 また睡魔が襲ってきたが、過ちは繰り返すまい。二人の様子がうかがえるいちばん端の席に身を沈めると、脚を組んでコートの胸元に顎を埋めた。これは立派なストーカー行為だよね、と池本は考えた。が、すぐにそれを否定した。ストーカーではない、毅然とした真実なる愛故の行為(凶行)だ。
 希美は外の世界に目をやり、白井は暇そうに吊り広告を眺めている。ときどき少女と会話し、楽しそうな笑い声をあげた。ここまで聞こえてくる。微妙に空いている車内に響いたが、けっしてうるさくはない。おい、そこのガキ、場所を取り替えろ。その人は私一人のものだ。誰にも渡しはしない。その笑い声を耳にしながら、池本は深町希美への憎悪をはっきりと意識した。明日にはお前と彼のおままごとな関係も崩壊するんだ。いまのうちだ、たっぷりと偽りの幸せを味わうがいいさ。憎悪と共にゆがんだ慈悲も、確かに。
 眠気が晴れると、最後の乗換駅になる新杉田駅で二人をつけるのも、心軽かった。明日になれば、明日になれば。池本玲子は勝利者になります、晴れて白井正樹の恋人になります。それで……淫靡で爛れた日々とは、さようなら。妄想はとめどなく広がっていった。それは遂に、白井との結婚式の場面にまでたどり着いた。蜘蛛の巣がそこかしこにかかり、毒蛇が床や祭壇を這う教会に彼等はいた。天井から鎖で吊りさげられているのは、深町希美の無惨な死体。繰り返された暴行の痕が、全裸の体のそこかしこに残されていた。自分の許を去っていった男を恨めしげに見つめている。池本は少女の死体に満足げに頷き、ドレスの上からもはっきりわかる自分の大きなお腹を、隣に立ってにっこりほほえむ夫と一緒に愛おしそうに撫でた。いつシーサイドラインの切符を買ったのか、姿を見られることなく列車に乗れたのか、それさえわからないぐらい、彼女は自らが生み出した妄想に浸って、恍惚とした表情を浮かべていた。子供が三、四人ばかり、それに恐れをなして逃げていったのも、彼女は知らない。
 八景島シーパラダイスの入場口に至って、ようやく池本は自分が今どこにいるのか、ここに立ってなにをしようとしているのかに気がついた。妄想の世界が消え去り、現実の世界が戻ってくる感覚は、あたかも『タンホイザー』に於けるヴェーヌスベルクの崩落と、それに続くヴァルトブルグ城郊外の牧歌的光景の出現を、池本に思わせて口許に笑みを浮かべさせた。彼女はそばにいた男性職員からおどおどした声をかけられて、入場ゲートをくぐって閑古鳥が鳴いている園内に足を踏み入れた。
 白井と少女はアクアミュージアムに向かっている。そちらへ一歩、足を踏み出そうとしたときだった。少女が年上の恋人に腕を絡めた。熱愛中のカップルにしか見えない二人を、池本玲子は目を細めて見つめていた。唇が引き結ばれ、片方の端から血が筋を引いて落ちてゆく。□

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第2454日目 〈『ザ・ライジング』第3章 10/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 八景島シーパラダイスは空いていた。というよりも、閑古鳥が鳴いていた。地方の裏寂れたテーマパークのようだった。家族連れやカップルの姿はちらほら見られるが、予想していたよりもぐっと少ない。
 今日は日曜日、プラス祝日プラス三連休の中日。てっきり賑わっているとばかり思っていた。なのにこの状況は……。白井は一声呻き、押し黙った。傍らで希美が不安そうな面持ちで、あたりを見渡している。
 「空いてるね……」
 希美の正直な発言に、白井はただ頷くよりなかった。
 目の前には人の乗っていないメリーゴーランドがある。塗り直して日が経っていないのか、やけに色彩が鮮やかで却ってそらぞらしく映った。インフォメーションセンターの中にいて外の世界を見ている職員が、人目もはばからずに欠伸をした。歯並びの一つ一つ、虫歯のあるなしさえわかるような気がする。
 白井は振り返った。希美がこちらへ背を向けている。海から時折吹きつけてくる風が、希美の黒髪をなびかせた。一瞬、潮の匂いと花の香りがした。白井は希美の傍らに立って、その視線を追った。冬枯れした芝生と、その向こうに海が広がっていた。
 短く咳払いをして白井は、
 「これだけ少なかったら、アクアミュージアムとベイマーケットの他も見られるんじゃないかな?」
 ややあって希美は振り向いた。口許にやわらかな笑みが湛えられている。彼女の母を知る者があったら、やっぱり母娘だね、といっていたことだろう。彼女はいった。「次のときでいいよ。哀しみは一度に、楽しみはちょっとずつ、ね?」と笑いながら。
 ――この子、本当に十七歳なんだろうか、と白井は訝しんだ。人生のコツ、「哀しみは一度に、楽しみはちょっとずつ」なんて、この年齢でいえるのは希美ちゃんぐらいじゃないだろうか。ああ、いや、いたな、もう一人。実在の人物じゃないけれど、“丸い頭の男の子”チャーリー・ブラウン氏が。「愛読書?(にっこり)スヌーピーの漫画」語尾にハートマークをつけて、かく曰うた希美の顔を思い出す。あれは教育実習で学園に通うようになって三日目の朝、偶然にバスで隣り合わせた希美と交わした会話だった。そのときから白井ははっきりと、希美を意識するようになった。この二日間、なんとなく気になる生徒から、なにをするにも意識してしまう存在となった最初の瞬間。
 「うん、わかった。希美ちゃんがそういうならね。じゃあ、行こうか?」
 白井は諾い、希美を促した。希美が腕を絡めてきた。□

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第2453日目 〈『ザ・ライジング』第3章 9/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 二人は大船駅で京浜東北線に乗り換えた。先を歩く白井が構う風もなく行き先表示にほとんど目もくれず足早に歩いてゆく。土地に馴れない希美は彼についてゆくのだけで精一杯だった。もちろん、白井が彼女のペースに構わず歩いていた、というのではない。ただ、一歩二歩程度先を歩いて、ときどき人が割って入ってくると、見失いそうになって心細くなるのは事実だった。そもそも歩幅が違う。ときどき立ち止まって後ろを振り向いて、ごめんね、という表情で待ってくれ、手を伸ばしてくれたりしなければ、とうにはぐれていたかもしれない。駅の構造は迷子になどなりようはずもないくらいシンプルだった。二ヶ月前に両親を成田で見送った帰り、寄り道してみた渋谷や原宿でたっぷり味わった人混みもなかった。なのに希美は、いわれがたい吐き気と眩暈を感じた。坐りこむほどではない。この程度ならしばらくすれば、そう、ここを離れれば治まるだろう。希美は新杉田駅に着くまでの間、学校での出来事を話して聞かせ、白井に懐かしがらせたが、いつの間にかさっきの気分の悪さは消えていた。
 新杉田駅から八景島まではシーサイドラインを使う。駅を出てしばらく列車はオフィスビルや企業の倉庫、社宅やショッピングセンターが建つ商業地域を蛇行して走り、時折海へ接近しながら分譲マンションや学校のある一帯を抜けた。八景島に近づくにつれて整備された公園が広がり、やがて海を眼下に二人を目的地へ運んでゆく。
 希美は窓の外の光景をじっと見据えていた。左手に東京湾が広がっている。たった一日、まだ数時間しか経っていないのに、沼津の海と波のさざめき、海に沿って広がる砂浜と松林が無性に懐かしくてたまらなくなってきた。
 私は異邦人だ、と希美は痛感した。ここにいるべき人間じゃない。でも、こっちで暮らすことになったら……白井さんと……きっとホームシックにかかってしまうに違いない。すっかり引きこもりになり、外出はお買い物程度、いつしか魂の抜け殻になってしまうだろう。高い塔に幽閉されたお姫様のように時間の流れを忘れ、毎日を無気力に過ごすことだろう。国語の宿題だった読書リポートで読んだ『嵐が丘』の作者のように、重度のホームシックにかかることは間違いない。好きな人と暮らしていても、土地になじめなかったら悲劇だよね、と希美は独りごちた。――人は生まれた場所から離れて生きるべきではない。どうせ暮らすなら故郷にいる方がいい。その方が(少なくとも自分は)幸せだ、と希美は思った。
 かといってせっかくのデートを自ら台無しにするつもりはなかった。少なくとも今年の、最後から二番目のイベントにはふさわしい舞台である。ましてや将来を決める日のデートの舞台には。海を眺めていれば、最前の気分の悪さも癒されよう。そう、海は命の源だから。命は海から生まれ、海に帰ってゆく。
 駿河湾よりもずっと澱んでいて、なんの感興も湧き起こさない東京湾ではあったが、まあ、これも海であることに変わりはない。この海が、私が赤ん坊のころから見てきた海のご近所さんならば、ん~、不満はいうまい。
 返事は今日が終わるまで待ってほしいの。さっき沼津駅で白井に向けた一言が、脳裏に甦ってくる。今日が終わるまで。だが、返事なんてもう決まっている。私が欲しいのはいいだすきっかけとほんの少しの勇気だけ。
シーサイドラインと海面から伸びる橋脚の影が、水面に落ちて上下する波へゆらめいていた。それを車窓越しに眺める希美の顔に、満面の笑みが浮かんだ。白井の口許がしまりなくゆるみ、鼻の下がすっかり伸びきっているのを希美は知らなかった(たぶん、白井自身も)。□

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第2452日目 〈『ザ・ライジング』第3章 8/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 やけにあっさりした調子での告白だったが、当時の白井にしてみれば全身全霊を傾けた、真剣な愛だったのだ、と希美は察した。真剣な愛などいまだその意味するところをうわべの綺麗な面でしかとらえられない希美だったが、そこにこめられたひたむきさと情熱のほとばしる様は理解できた。白井さんに出逢って告白するまでの自分と同じだったのかもしれない。目の前で舟を漕いでいる相手を見ながら、そう希美は考えた。体ばかりでなく、心にも傷を負った。過去にそんなことがあったなんて知らなかった。そうか、あなたも私と同じで、大切な人との別れを経験していたんだね、と希美は口の中で呟いた。私達は同類だ、互いに傷を抱えて、互いにそれを舐めあい、寄り添いあって存在している。
 白井さん、これからは私がずっと隣にいるから――
 「私があなたの傷を癒してゆくから……」
 いつのまにかだらりと垂れている白井の腕を膝の上に戻し、掌を握って、希美は呟いた。目を閉じ、白井の顔に自分の顔を近づける。唇が震えた。二度目のデートの時以来、逢うたびに必ず交わすようになった口づけ。彼の吐息が唇にかかる。あと、ほんの数ミリで互いの唇が重なる……白井が「ううむむ……」と呻いた。目蓋が動く。鼻をすする音もついでに。寝覚めはもうすぐ。
 希美は体を離して坐り直し、髪を撫でつけながら視線を外に向けた。
 白井が目をしばたたかせながら、背中を伸ばした。首をぐるぐる回すと、そのたびに骨がぼきぼき音を立てた。
 「いま、どのあたり?」と白井は起き抜けの声で聞いた。「藤沢は通り過ぎた?」
 「二分ぐらい前かな。そろそろ起こそうかと思ってたところ。……次よね?」希美は答え、訊ねた。「さっきね、えーと、さいか屋? そこのなんとかセンターが見えた」
 ああ、そう、と白井は頷いた。ところで――「希美ちゃんが行きたいのは八景島だけでいいの?」
 八重歯を覗かせた笑顔で希美は頷いた。「欲をいえばきりがないよ。昨夜ね、横浜のガイドブック見てたんだけど、行きたいところはあっても、とてもじゃないけど一日じゃ回れないな、ってわかった。さすが都会だね。そりゃあさ、横浜生まれの横浜育ちな白井さんがいるんだから、いろんなところに連れてってもらいたいけど、泊まりじゃないしね」希美はそこまでいうと、あ、と小さな声で呟き、うつむいた。「ま、また来ればいいんだし。今日が最初で最後、ってわけじゃないものね?」
 「もちろん。気に入ったところがあれば、いつでも二人で来られるよ。電車で一本なんだしね。――あ、タマちゃんのいる川だけは行けないかもしれないから、それだけご了承の程を」
 希美は頬をぶーっ、とふくらませて、唇を小さく“O”の形に開いて中の空気を、ぷしゅっ、と弾けさせた。白井が眉をつりあげ目を見開いた。いまにも笑い出しそうな顔だった。ボックス席が刹那、小さな幸せに包まれた。
 「あ、そうだ。八景島の他にね、どうしても行ってみたいところがあるの」
 「ん、どこ?」
 「横浜駅のまわりにいくつか、CDを売ってるお店あるでしょ。そこに行ってみたい」
 白井が笑って頷くのを見て、今日は絶対に、生涯最高の、けっして忘れられないデートになる、と希美は確信した。――それはある意味で正しかった。
 電車は間もなく大船に着く。車掌がそうアナウンスした。□

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第2451日目 〈『ザ・ライジング』第3章 7/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 「付き合い始めてもう四ヶ月になるのよね」と希美が呟いた。窓に映る自分達と車内の光景を、トンネルの壁に付けられていまは後ろへ過ぎてゆく電灯の明かりを見つめながら。「四ヶ月も経つのに白井さんの過去ってほとんど知らない」
 白井は驚いた面持ちで希美を見た。「過去?」
 「子供のころはどんなだったのか、どんな夢を持っていたのか、どんな友だちがいたのか、――どんな女性を好きになって、付き合ってたのか、とか、うん、まあ、そんなこと」
 「話したこと、なかったっけ? ――そうか、話さなかったかもしれないな」希美が頷くのを見て、白井はいった。「もっとも、あんまり話すようなこともないんだけどね」
 「それでも聞きたい」
 駄々をこねるような口調でほほえんだ希美を見て、白井は敗北した。ダメ押しは、「だめ?」といわんばかりに唇を突き出し、小首を傾げながら上目遣いで自分を見つめる仕草だった。彼は自分の鼻の下がだらんと伸び、口許がしまりなくほころぶのを感じた。お手あげだ、降参。ノックアウト。その瞬間、希美は勝利を確信したように、それまでのやや不安げな表情から満足げなそれに代わった。
 「ふうむ」白井は呻きながら顎を掌で撫でさすった。ちら、と希美を見やる。視線がぶつかり、慌てて二人してそらした。白井正樹は考えた、よし、では――
 「じゃあ、話そうか。……って、なにが知りたいの? 希美ちゃんがいまいちばん聞きたがっていることを、まずはお話ししましょう」
 訴えるような眼差しで希美を見た。いちばん知りたいことなんて、そんなの決まってるじゃない。そういいたげに唇をとがらせた。女が男の過去について不安を抱くことなんて、煎じ詰めればただ一つ――「そりゃあもちろん……女の人のこと」
 白井は頷くと、窓の外に目をやった。トンネルはまだ続いている。長いもんな、ここ。 女の人のこと、か。となれば、〈あの人〉のことしかないな、と彼は思った。知れば希美ちゃんは離れていってしまうかもしれない。それは最悪の事態という他ない。いずれにせよ、彼女を苦しませ悲しませることになるかもしれない。でも、本気で将来を共にするのならば、希美ちゃんは〈あの人〉のことを知っておいた方がいい。どうやったって隠しおおせはしないから。黙っていたって遅かれ早かれ知るだろうから。嘘が下手だからね、僕は。思ったことを口に出さずにはいられない。だから家族にも疎まれる。そういえば、と彼は思った。最後に家族と会ったのは、何年前のことだろう、と。まあ、そんなこと、どうでもいいや。もうあの人達と会うことはないだろうから……淋しいけれど。
 「わかったよ」と白井は希美を見つめ、頷いた。「じゃあ、話そうか」

 電車は藤沢駅を出た。少し経つと視界をふさぐ建物は消え果てた。周辺を建売住宅やアパートが埋めてところどころに畑や祠がある風景を、じっと希美は白井の告解を反芻しながら眺めていた。
 いままで好きになったり惚れたりした女性は、そりゃあね、いたよ。そう白井は話を切り出した。でも、希美ちゃんにどうしても知っておいてほしいのは、ただ一人だけだね。その女性は夫のいる身だった。もう四年近く前のことだよ。僕は銀行に勤めていて――これは話したことがあったよね?(希美は頷いた)――あの女性は上得意の後妻だった。年齢も二〇歳以上離れていたんじゃなかったかな。
 で、その上得意の担当が僕だったんだ。週に何度か、そのお客と彼女に会う機会があった。懇意になってゆくに従って、彼女個人とも親しく口を利くようになってね、金融のことだけじゃなくてプライベートな相談まで受けるようになったんだ。もっとも、僕等は年齢が近かったからね、彼女にしてみれば話しやすかったのかもしれない。それに相談っていうよりは彼女にしてみれば、退屈な毎日をどうにかやり過ごしてゆくための鬱憤晴らしだったんだけど。ある夜、彼女に呼び出されて中華街近くのバーに行った。そこもいまはなくなって、いつのまにか駐車場になってた。そのバーでまた上得意のグチが始まった。こっちは、ああ、またか、と思って半分聞き流してたんだけど、まあ、要するに、夜の生活に不満だったらしいのだな、彼女は。(希美はこの件で顔を――耳たぶまで真っ赤にしてうつむいた。このところずっと夜になると想像してしまう、やがてするであろう白井との愛の営みが脳裏にくっきりと浮かんできたからだ)で、酒が進むにつれ、彼女は僕を誘ってきた。こっちも初めて会ったときから魅せられていたから――結構、スタイルもよかったしね。(希美はここでちょっとむっとした)そして、僕等はホテルに雪崩れこんだ。
 でも、一夜限りの関係にはならなかった。一年半ばかり続いたかな。最初のうちは後ろめたさややましさがあったけれど、あの女性は僕に見返りをくれた。自分や亭主の知り合いを紹介してくれ、契約するように計らってくれたんだな。でも、そのうちに僕は、それとは無関係に彼女自身へ溺れ始めた。いけしゃあしゃあというようで申し訳ないけれど、いまの希美ちゃんに対するのとは違った意味で、僕は彼女を愛していたのかもしれない。けれども、当然のことながら、終わりは訪れた。僕等のことが彼女の亭主にバレ、銀行に知られたんだ。その上得意は僕の目の前で彼女を折檻し、僕も傷が残ったり体が壊れたりしない程度に痛めつけられた。客はいったね、女を取るか人生の再出発を取るか、と。あの女性を選べばお前の将来はないぞ、っていう警告だったんだ。
 天秤にかけるまでもなく、僕は人生をやり直す方を選んだ。ひどいよね。でも、あのときはそうするよりなかったから……。それきり、彼女とは会っていない。客は銀行に持っていた口座を、後日に解約したそうだよ。僕はもうそのときは銀行を辞めてたから、詳しくは知らないけれど、ずいぶんな損害を被ったんじゃないのかな。とにかく、僕は銀行を辞め、横浜の聖テンプル大学に入り直した。そうして教育実習で沼津へ行き、希美ちゃんと出逢った、というわけだね。……あれ、どうしたの、希美ちゃん、泣いてるの?
 ──希美の左右の頬に涙が一筋ずつ、跡を残して流れ落ちていった。陽光がわずかながらも和らいだ。右手の人差し指でそれを拭う。唇を噛み、すぐに離して半開きになり、そこから細く溜め息がもれた。□

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第2450日目 〈『ザ・ライジング』第3章 6/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 起きてぼんやりしていたら、無性に想い人に会いたくなった。池本は朝食もそこそこにすませて小田原に向かい、彼が住むアパートのそばにある天神社で車を停めた。待つことしばし。やがて白井正樹が足取り軽く姿を見せた。こちらにやってこようとしている。彼女は車から降りて神社の境内に姿を隠して、近づいてくる男を見つめた。歩きながら時計を何度か確認したところから察するに、どうやら人と会う約束をしているようだった。それが誰なのか、と考える間もなく、白井は池本の車の脇を過ぎ、彼女がいるすぐそばを通り過ぎて、駅の方へ向かっていった。木陰から道路へ歩を進めると池本は車の鍵をかけ、離れたところから白井の後をつけた。
 駅の改札をくぐった彼が、電光掲示板に目をやり静岡方面のホームへ降りてゆく。駅に来るなら普段はバスを使うのに、いったいなんで今日はずっと歩いたんだろう。頭の片隅にそんな疑問を残しながら、池本は彼の姿が階段の下にないのを確かめると、あまり派手な足音を立てないように一段一段踏みしめて降りた。目的の男は少し離れたベンチに腰掛けて、しばらく視点の定まらぬ様子で前を見つめ、おもむろにコートのポケットから文庫を取り出して読み耽った。
 ああ、やっぱりすてきだな、と池本は思った。この人こそ、私の救世主となる男だ、と勝手な確信を抱いて頷いた。あまり見つめていると視線を感じてしまうかも。そうなれば自分がいるのもばれるだろうから、仕方なく彼を視界からはずした。他人の風を装って彼の坐るベンチの後ろを歩き、数メートル先の柱に背中をもたれさせた。読むものも聴くものもない。これだけは失敗だったなあ、と池本は苦笑した。が、幸いというべきか、携帯電話を持っていた。深みにはまっているわけでないが、彼女にも何人かのメル友がいた。どれも六本木で働いていた頃の同僚か客だった。メールが二通、未開封であるのに気がついた。開くと月に一度のSMパーティーのお誘いと、出会い系サイトの勧誘メールだった。後者は開かずに速攻で削除、前者は暇なせいもあってじっくり読み、気がつくと返信していた。電車の中で、ふいに彼女は気がついた。あの子とデートなんだ、と。
 改札はくぐらず、精算機のそばからじっと彼を監視した。何十分も待った後、ようやく深町希美が姿を現した。途端、憎悪の炎が自分の中で燃え立つのを感じた。邪魔なんだよ!そう大声でいうだけでは物足りない。必ずお前を奈落の底にたたき落としてやるからな。改めて彼女は計画を練り始めた。本当ならもう少し穏便に、深町希美を彼の人生から排除しようと、あれから折々考えていた。改札を通るときに聞こえた二人の話し声で目的地が横浜と知ると、先にホームへ行って吹きつける風の中を電車が来るのを待った。階段を数段降りたところにいる二人を視界の端で見ているうち、もう少し穏健に、という池本の考えは霧消した。白井が希美を抱き寄せた。愛しの人が自分からあのガキを! はらわたが煮えくり返る思いだった。そこに電車が来た。池本は白井と背中合わせに坐った。そうすることで白井がとても近い存在になったような気がするからだ。それにここにいれば、あの二人がどんな会話をしているか、ある程度まではわかる。
 昨夜ほとんど眠っていなかったせいか、三島駅に着くころには早くも眠気が襲ってきた。それでもまわりの風景に視線を散らして、なんとか寝るのだけは我慢できたが、そろそろそれは限界に近づいてきていた。どこに行くのか、どこで降りるのか。まだ二人の会話から情報は得られていない。
 三人を乗せた東海道本線は山間を走り、函南を過ぎると丹那トンネルに入った。
 憎々しい深町希美の、か細い声が背後から聞こえた。「付き合い始めて四ヶ月になるのよね」と。□

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第2449日目 〈『ザ・ライジング』第3章 5/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 「あ、あの……白井さん」
 すぐそばで自分を呼ぶ声がした。
 来てくれた? 唾を呑みこむ音が耳に届いた。心臓の鼓動も聞こえる、早鐘のように脈打つその音までもが。本当に彼女なんだろうか。ポケットの中の手が握り拳を作っている。妄想でもなんでもなく、彼女がいま、僕のそばに立っている?
 白井はゆっくりと振り向いた。それが幻だったら、振り向く間に消えるだろう。上目遣いで自分を見つめる少女の姿が、徐々に視界へ映りこんでくる。だがな、目に見えるものがすべて真実というわけじゃないぞ、これまでの人生で散々思い知らされてきたはずじゃないか? さりとて、いま目の前にいる、生まれて初めて心の底から、自信を持って「愛している」と胸を張って世界にそう叫び得る女性が、自分の妄想の産物だとは思えなかった。そう、確かに彼女は自分の前にいる。幻ではない。妄想でもない。現実だ。
 「白井さん?」
 小首を傾げて希美はそう呼びかけた。ライト・ブラウンのハーフコートを着た希美は白井の顔を覗きこんだ。「遅くなってごめんなさい」とやや神妙そうな面持ちで。
 「い、いや。ぜんぜん待ってないよ」
 ちぐはぐな会話とすぐに気づいた白井は、気まずさを感じて希美を見やった。視線が合って思わず笑みがこぼれた。つられたように希美もほほえんだ。
 「行きましょう。ずっとここで立ち話をするんじゃないでしょう?」
 白井のコートの袖をつまんで促した。白井は「そうだね」と頷くとコートの内ポケットから財布を出した。着いてすぐに買った横浜フリー切符一人分を、希美に手渡す。それを見た希美は彼のいわんとすることを察して頭を振り、トートバッグの中の財布を探しかけた。それは白井に制された。
 「今日は僕が払うよ。負担する必要はない。それに見合う以上の決断を君はしてくれたんだから」
 「でも……」
 「いや、いいんだ。今日だけでもいいからこうさせてほしい。希美ちゃんのために、ね?」
 希美は頬を赤らめて頷いた。
 あたりの雑踏が再び聞こえ始め、時間は動き始めた。たたずむ二人に視線を投げかけ、人々は通り過ぎてゆく。
 「行こう」希美の肩に掌を置いて白井はいった。希美は普段の明るい声で返事した。そこには希望がこめられている、と白井は思った。
 二人は肩を並べて歩き出し、改札を通り抜けた。

 東海道本線の東京方面のホームには、北からの風が強く吹きつけていた。富士山を越えて愛鷹山を抜けてきた風だった。コートの襟を立てて首をすくめている若い女性が一人いた。タバコを吸おうとパックから出した一本が、風にさらわれて線路へ落ちた。彼女は苦い顔でそれを見送り、風に背を向けて新しいタバコに火をつけた。煙を吐き出すその顔は幸せそうだった。学生とおぼしきジーンズ姿の青年が、鞄からハードカバーの分厚い本を取り出した。本を開いてみたはいいものの風に頁があおられて、とてもではないが読める様子ではなさそうだった。おまけに、目にゴミが入ったらしい。本を小脇にはさんで眼鏡をはずし、しょぼつく目をこすっていた。
 希美は風に嬲られて、たたらを踏んで白井にぶつかった。「階段にいた方がよさそう」
 うん、と白井は答えた。希美の小さな手を取り、階段へ戻った。
 なかなか会話は進まない。なにかを喋ろうとしても、同時に口を開くため互いに遠慮してしまい、そのまま押し黙ってしまうばかりで。風の音が白井と希美の耳についた。
 「……ありがとう」と白井はいった。
 「え?」希美は隣に立つ白井を見あげた。「あ、う、うん。迷ったけど……」
 「期待して――いいのかな?」声のわずかな震えを、白井は自分で感じていた。落ち着かない気分が襲いかかってくる。彼は希美の返事を待った。
 「うん。ただ、ちゃんとした返事は今日が終わるまで待ってほしいの。――だめ?」
 ああ、そうか、と白井は納得した。彼女は軽はずみな気持ちでここへ来たわけじゃないぞ。いろいろと考え、悩んだんだ。不安もあったのに、それでも来てくれた。そう思うとたまらなく希美が愛おしくてたまらなくなった。そして、自分の選択は正しかった、とうぬぼれた。教育実習で連れてゆかれた教室で彼女と出逢ったのを運命と呼ぶならば、僕と彼女が結ばれるのもまた運命ではないだろうか? でも、まだ未来は決まったわけではない。いま彼女はなんといっただろう。今日一日を終えない限り、彼女の気持ちが定まりはしない。その事実に白井は少し打ちのめされた。しかしいま希美が抱えるのはプロポーズの返事だった。ならば、と彼は考えた。少しでも時間が欲しいと言外に求めてくるのは道理じゃないか? ちゃんとした返事は待ってほしい。
 「うん、わかった。いいよ。希美ちゃんがそれで諾否を出せるならね」
 だくひ? 教育実習中に何度か見た、口をすぼめて小首を傾げ、疑問の色を瞳に湛える希美の〈それ、なあに?〉という表情が顔に浮かんだ。く、くう、たまんねえ! 白井は気づかれぬよう、心の中で悶絶した。かわいいぜ! だが、そんなことはおくびにも出さない。その代わり、つとめて冷静に「イエスかノーか、ってことだよ」と教え、少女の理解を助けた。
 合点した様子で希美は頷き、「ありがとう」と答えた。
 その言葉が果たしてどちらの自分の発言に対するものだったのか、ひとしきり彼は悩んだが、希美を見ているとどちらでもいいような気がしてきた。自分でも意識しないまま、白井は希美を抱き寄せた。
 ホームに流れるアナウンスが、もうすぐ東京行きの電車が到着すると告げている。□

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第2448日目 〈『ザ・ライジング』第3章 4/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 母の気配はすぐそこまで近づいていた。手を伸ばせば触れるかもしれない。が、この前の夜、父に触れようとしたときのことを考えれば、母の場合とてそれは同じだろう。そう希美は考えた。わずかの逡巡の後、闇の中を手探りで歩くのにも似た感じで希美は左腕を伸ばし、あたりの虚空をまさぐってみた。が、結果は予想通り。手に触れるものはなにもない。
 涙がこぼれそうになった。力を失った左腕をだらりと降ろし、左脚の太腿に掌をおいた。
 「のんちゃん、ママはね、あなたがどれだけ白井さんを想っているか、よくわかっているつもり。そりゃあね、男と女だもの、将来がどうなるかなんてわからないわ。そんなの神様だって知りっこないと思うの。でもね、あなたの答えはもう決まっているはずよ。口に出して心を決めるのが怖いだけ。ねえ、のんちゃん。女の先輩として、ううん、母から娘に、っていった方がいいのかな。アドヴァイスできるとしたらこれだけ。――希美、行って想いを果たしなさい」
 そうして母の気配は消えた。
 下唇を噛みながら再び仰向けになり、掌を後頭部で組みながら、天井を見あげた。細く長い溜め息が、自然と唇を半開きにさせて、こぼれるように流れ出ていった。
 自分の想いを果たしなさい。
 目蓋を閉じて、じっと自分の声に耳を傾ける。はじめこそノイズや歌、知っている人達の話し声が渦巻いて混沌としていたが、しばらく耳をすませていると、なかなか言葉となって口から出てこなかった〈それ〉――自分の気持ち、自分の思いが呪文を唱えるような様々な低い呟きとなって聞こえてきた。十七歳の少女にはあまり似つかわしくない響きの言葉だった。しかしいまの希美はその本質がどういうものかわかり、それが原因となって生じる苦しみや喜び諸々の感情がはっきりと、我が身に引き寄せて理解できるようになった。〈それ〉は遂に彼女の中で、生きた言葉となったのだ。
 いつまでも一緒にいて。
 そして――
 愛しています。
 希美、行って自分の想いを果たしなさい。
 頷くと彼女はダブルベッドからはね起きて、裸のままで自分の部屋へと走っていった。

 もしも自分がタバコを吸うならば、と白井は考えた。きっといまごろは足許に吸い殻の山が築かれていただろう――来るかどうかもわからない少女を待ちながら。本は熱海駅を過ぎたあたりで読み終えた。することもなく待ち合わせ場所に突っ立っているのも、正直飽きてきた。読む本はなし、聴く音楽もなし、話し相手もなし。目の前を行き交う人もほとんどないとくれば、退屈はやむなきことであった。風が吹きつけないだけマシか。そう彼は独りごちて、くしゃみした。
 腕時計と改札口上の時計を交互に見やった。何度繰り返したかしれないささやかな行為だった。数秒の差はあっても大した違いとはいえまい。いずれにせよ、少女が約束の時間から十五分経ってもやって来ないのは事実だった。
 バスが遅れてるんだよ。
 そうだな、きっとそうだ。
 服を選んだりお化粧したりで時間がかかってるんだよ。
 そうさ、年頃の女の子だものな。身だしなみに人一倍時間をかけてたって仕方ないよ。それにバスは時刻表通りに動いてるわけじゃない。彼女の最寄りのバス停ってな、港と駅のほぼ真ん中にあるんだぜ。……いや、もう少し港寄りになるのかな。それはともかく、大丈夫だよ、正樹。彼女は来てくれる。そうそう、いつものように、てへてへ、と笑みながら。それに彼女が遅れてくるのなんて、今日が初めてじゃないだろう?
 ロータリーにバスが停まった。吸い寄せられるように視線が動いた。降りてくる乗客の中によく似た少女がいたがお目当ての相手ではなかった。乗せていた乗客をすべて降ろしたバスは、鈍いエンジン音を唸らせてロータリーを半周した。始発のバス停で停まったその様は、くたびれきって家に帰り着いた男が玄関に坐りこんで,溜まった疲労を吐き出しているようだった。列をなしていた十人ばかりの客が、待ちくたびれた様子で乗ってゆく。
 くたびれ半分、希望半分の表情でロータリーを眺めながら、観光案内のポスターが何枚も貼られた掲示板に背中をくっつけた。キオスクでコーヒーでも買ってこようかな。もう少しここにいた方がいいかな。そんなときだった――□

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第2447日目 〈『ザ・ライジング』第3章 3/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 ……白井さん
 湯上がりの体にバスタオルを巻きつけただけの姿で、希美は両親の寝室にいた。ダブルベッドに長々と寝そべって、うつろな眼差しで天井を眺めている。エアコンで暖められた部屋にいると、ここの主人夫婦が生きていたときの残り香が、はっきりと漂っているような気分にさせられた。残された情念も一緒に。
 タンポポの《BABY! 恋のやじろべえ》のフレーズが、さっきからずっと希美の心にまとわりついて離れようとしなかった。今夜は大好きが止まらない。執拗にからみついたそれはやがて、想う男へのメッセージに変化した。今夜は、どころではない。彼を想えばその想いは留まることがない。言葉以上の感情がこもった言葉を口にしてみる、「大好き」と。嘘や偽りではない。この言葉を何万語と書き連ねれば、沼津と小田原の距離もいつしか埋まるだろう。天下の険を越えるのだって困難ではあるまい。
 大好き。
 でも、それだけで結論を出してしまっていいの? そっと声に出してみる。反応する声はない。あれ以来、両親の姿は見かけていない。もしかしたら、という考えも空振りを続けた。
 (彼はいった、「答えがイエスなら今度の日曜日、沼津駅の改札で待ってる。もしノーなら……わざわざ足を運ぶ必要はないよ」と。
 「それまでに――あと数日しかないけど、イエス・ノーを出せるかどうか、私には約束できないよ。いってくれる気持ちはうれしいけど、それに応えられるかどうかはわからない。ごめんなさい」と希美はいった)
 四日前、水曜日の夜にかかってきた電話での会話が思い出された。以来今日まで、何度反芻したかしれない会話。
 就職先を迷うのって、長い一生から見ればほんのわずかな時間だろう、と希美は考えた。両親が心ならずも遺してくれたこの土地と家を、そして自分自身の生活を維持してゆくぐらいの収入があれば、会社を選り好みするつもりはなかった(家のローン返済はすでに今年の初めに終わっており、借金がもうないことだけが唯一の幸いだった)。が、だからといって、ここから離れて暮らすのだけはごめんだ……そう、いまとなっては。それに――と希美は思った。就職しても何年かしたら結婚して、家庭に収まるつもりでいたしね。まあ、二十三ぐらいで――パパとママがそうだったように――結婚したいな。
 でも、いまの私が抱えている悩みは、就職以上に自分の未来を左右する。女の子なら誰もが憧れるであろう夢。その夢がもう少しのところで実現しようとしている。彼の申し出を断るのなんて簡単だ。しかし必ずや後悔し、恨むであろう。他ならぬ自分自身を。彼は、両親を失って暗澹としていたときに、友人らと一緒に陰に陽に私を支えてくれた、大事な男性だ。彼の代わりを務められる人なんて、誰もいない。それだからこそ、迷いが生まれるのかもしれない。申し出を断ることは、イコール、私達の関係に終止符を打つこと。そう、簡単なことよね。たった一言、「ノー」といえばそれでもう済むのだから。だが、先方の受けるショックは如何ばかりのものだろうか。そして、私は心にぽっかり空いた穴を、この先どうやって埋めてゆけばいいのだろう。別れてしまえばそれっきりで、時間が経てば忘れてしまえる想いだったの? ねえ、希美、あんたってそんなに薄情な子だったっけ。
 目を閉じて右手を額にあてた。左の掌は無意識にバスタオルで隠された胸のふくらみを撫でている。
 「どうしたらいいんだろう……」
 ここまで彼を想うのに、結論を出すのになぜためらうの。おそらくもう答えは決まっている。その言葉も、喉元まで出かかっている。自分の気持ちを確かめる前から、その言葉はずっとそこに巣喰っていたような気がする。諾か否か。それでもなおためらうのは、いままで漠然としか考えていなかった未来が途端に現実のものとなり、陰影を伴って自分の前に立ち現れたからだろう。不意に現れた未来に、足がすくんだのかもしれなかった。
 (「愛してる、希美ちゃん」電話の向こうにいる彼の声が、はっきりとわかるほど震えていた。「僕と一緒になってほしい」
 「……約束はできないよ、ごめんなさい」うれしさととまどいに惑乱し、とっさに口をついて出た言葉が、彼女の頭の中で途切れることなく繰り返された)
 今日は返事の日。きっと彼はもう電車に乗って、湯河原あたりにいるだろうか。時間ばかりが過ぎてゆく。悩みはまったく以て解決しない。ケ・セラ・セラ――ああ、本当にそうならいいのにね。
 自分の気持ちなんて、考えれば考えるほどわからなくなるよ。付き合い始めて四ヶ月。それに私、まだ十七歳だよ。それなのにプロポーズなんて、白井さん、早過ぎやしませんか。そんなに慌てなくても、私は白井さんしか見ていないのに……。
 溜め息をついて寝返りを打った。その拍子にバスタオルの結び目がほどけ、胸や下腹部、背中や臀部が露わになった。それを隠すこともなく(いったい誰が見るっていうの。この家にいるのは私一人だけ)、希美は目蓋を閉じた。
 好きだけど、将来のことまで決められない。
 「そうだよね。まだ十七歳だもんね」
 耳許で母の声がした。希美は目を見開いて上半身を起こすと、バスタオルの端を掴んで乳房まで引きあげ、寝室の四囲を見渡した。母の姿はなかった。しかし、気配は感じられる。
 「……ママ、どこにいるの?」□

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第2446日目 〈『ザ・ライジング』第3章 2/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 白井は彼女が待ち合わせた時間に待ち合わせた場所へやって来、自分の前に姿を現してそっとほほえみ、願いを受け入れてくれるのを、心の片隅で期待していた。ともすれば否定的な考えに陥りがちな、茫漠と広がる悲嘆の砂漠に踏みこんで生還すら危うくなる魂の漂白をやめさせるために。いったい何度夢に描いては細部まではっきりと際だたせて強固にイメージを確立させたであろうその場面。来れば吉兆、来なくば凶兆。
 おい、ちょっと待てよ、と誰かが呼びかけた。音節の一つ一つがあまりにはっきりと聞き取れたため、本当に声をかけられたのか、と錯覚したほどだ。念のためあたりを見まわしたが、声をかけてくるようなのは誰もいなかった。四、五メートル離れた柱に背をつけて、携帯電話をいじくっている女性がいただけだった。
 さあ、いいか、白井正樹、よく考えるんだ。ポイントは二つ。その一。それは年齢だ。お前さ、今年で何歳になった? 来年になれば三十一だよな。それにくらべて彼女はどうだ、ようやっと十七歳だぜ。これからの未来はまったく白紙、思い切り夢を描ける年齢だ。彼女が生まれたとき、お前は小学校の最終学年だ。干支だって一回りしている。いったいジェネレーション・ギャップに耐えられるのか。お前だけじゃない、彼女もさ。一緒になることで、彼女を苦しめることになりはしないか? ポイント、その二。いってみれば、猜疑だな。彼女はお前の発言を一から十まで信じてるわけじゃないぞ。まあ、あんなことをいわれて喜ばない女はいないと思うよ、たぶん。でもな、彼女がお前の申し出を疑っている理由は、お前をしてそういわしめた原因と過程さ。ああいってくれたのはうれしいが、本心から出たとばかりは思えない言葉。つまりな、彼女はこう思っているわけさ、自分の境遇への同情と哀れみも含まれてるんじゃないか、とな。「約束はできない、ごめんなさい」って彼女、そういったんだよな。それに――
 「同情なんかじゃないさ」
 そうはっきりと口にした。「あの子といる平和をこの手で守ってゆきたい。そう思っただけだ」
 間もなく四番線に静岡行きの電車が参ります。白線の内側までさがってお待ちください。──男声のアナウンスがホームに響いた。視線を東に走らせる。黒い影がこちらに向かって、徐々に輪郭と色をはっきりさせてくる。
 白井はベンチから腰をあげた。手にしていた文庫をポケットにしまうと、白線のそばまで歩を進めた。ふいに西に鎮座する箱根の峰を見やった。まだ一日が始まって折り返し点を過ぎていない時刻なのに、彼の目にはその景観が早くも暮れなずんで、あとは夜の帳が降りてくるのを待つばかりの刻限を迎えたそれに思われてならなかった。こんなにも晴れ渡った心地よい一日なのに、なぜ僕の目には箱根がああも黄昏れて見え、不安な気持ちを抱かせるのだろう。もうすぐやってくる審判の予兆なのか、それとも、まったく別のなにかなのか――。
 希美ちゃん……□

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第2445日目 〈『ザ・ライジング』第3章 1/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 階段を降りてホームへ着くと、白井正樹はあたりを見まわした。誰も坐っていないベンチを見つけ、腰をおろした。両手をこすり合わせて、息を吹きかける。ほんのわずかだったが息のあたった箇所がぬくんだ。彼女の息で暖めてほしいんだけどな、と独りごちて思わず苦笑した。間もなく審判が下されようとしているのに、おめでたい奴だな、俺って。あと九〇分、まあ、二時間としないうちに生涯最大の審判が下るだろう。四日前の電話を思い出すと、わずかの期待と少しの後悔を抱いてしまう。えい、くそ、と呟き、頭を振った。
 ホームの天井から吊りさげられた電光板に、ついで左腕の時計に視線を投げた。ここ小田原駅に西行きの東海道本線が入ってくるまで、あと五分ほどあった。十二月も終わりに近い今日、気温は十五度を超えていた。あたたかい空気を海から運んできた風が、白井の頬を撫でて山間に流れてゆく。
 眼下に広がる小田原城下町の街並みと、その向こうに広がる相模湾と真鶴半島を眺めながら、白井はコートのポケットから読みかけの文庫を出し、目的の頁をぱらぱらとめくった。スティーヴン・キングの『ガンスリンガー』だった。高校入試の終わった翌日に観た『クリープ・ショー』でキングの名前を初めて知り、その足で向かった本屋にてキングの小説を見つけ何冊か買った(持っていた小遣いだけでは足りず、電車賃も使ってしまったので、帰りは自宅まで約三キロの距離を歩いて帰った)。『ファイアスターター』を読み『キャリー』を読んで『クージョ』を読んだ。どれもそれなりに面白かったが、映画で味わったキングの持ち味とは再会できなかった。その年の晩秋に、文春文庫から『シャイニング』が復刊された。評判の高さは承知していたし、自分の好きな怪談でもあったので、もらったばかりの小遣いを叩いて上下巻を本屋のレジに出した。そうして読んだ……白井はキングの虜になった。かくしてここに一人の年若いキング・フリークが誕生し、日本語で読める作品はアルバイトで資金を稼いで買いあさり、古本屋を回って初期三作のハードカバーを丹念に探し、雑誌に掲載されて埋もれたままの短編を求めてさまよい歩いた。そんなキング熱が頂点に近づいていたある日、本邦初のキング研究書『COMPLETE STEPHEN KING』が発売された。そこには、白井を心の底から驚かせる作品のアウトラインが語られていた。限定出版されてまだ日本語になっていなかった(なるとは到底考えられなかった)〈暗黒の塔〉シリーズだ。そのときの興奮と憧憬はいま以て言葉にすることができない。ただ、このシリーズをいつの日か、心ゆくまで読み耽りたいな、と思うばかりで。キングみたいなすごい作家になろうと夢見た時期もあったが、銀行を辞めてからはそんな小さな夢さえどこかに置いてきてしまった。深町希美との出逢いは、それに代わる夢を白井に与えてくれた。
 約束はできない、ごめんなさい。そう小さく呟く少女の声が、耳の奥で聞こえる。その前には、無限と感じた沈黙があった。軽々しく決断すべきではない。そうした迷いの末の、彼女の一時的な結論――「約束はできない、ごめんなさい」――だったのだろう。そう肯定的に考えようとした。しかし、 電話を切って布団へ潜ると途端に不安が頭をもたげた。不安は際限なく大きくなり、明け方まで白井を眠らせなかった。だが、それも今日まで。なんといっても今日は審判の日。今夜からは、これまでとは違う意味で眠れぬ夜を過ごすことになるのかもしれない。□

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第2441日目 〈『ザ・ライジング』第2章 38/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 それでも食事とその後の団欒はなごやかに進められた。言葉は優しくいたわっているようでも、本心はまったく別のところにあった。
 トイレで聞いてしまった生徒達の声が甦り、クラスメイト達が今日一日ずっと影で囁いている声が聞こえてくるような気がした。きっとみんな、いっているに違いない……。
 赤塚さんてさあ、お高くとまってるのは別にいいんだけど、なんだか勘違いしているよねえ。あの勘違いっぷりっていうのはどこから来るんだろう。まるで女王様気取りじゃない、それがなんだかあの人をみずぼらしくしてるよね。うんうん、眉間にいつもしわ寄せたようなあの顔で女王様はやめてくれよ、っていいたいよね。まるで、なんていうかな、板についてないっていうか、そんな感じ。でもあの人さ、卒業してからもあの調子なのかな? ここならお祖父さんが理事長だから我が物顔で振る舞っていられるけど、大学に行ったり就職したら赤塚さんからは権力なんてなくなるんだよ。そんなのに耐えられるのかな。ね、それはそうとさ、ハーモニーエンジェルスの三期メンの募集ってやってたじゃない。それにね、赤塚さん、応募してたんだよ。えー、マジで? 三期メンの、って確か三組の深町さんと宮木さんも応募してたよね。そうそう、あの二人はね、昨日の発表で上位十人に入ってたんだけど、赤塚さんなんて影も形もなかったよ。くすくす。ん、どうしたっていうのよ。あのさあ、赤塚さんね、国民投票で何票だったと思う? ずうっと下の方に五十何票かしか入ってなかったんだよ。なに、その数字。笑っちゃうなあ……まあね、赤塚さんならねえ。それぐらいなのは仕方ないかな。でもさ、逆にかわいそうになってこない。うん、そりゃあね、でも、これまでの仕打ちを考えたら同情する気にもなれない。あんた、いじめられたもんねえ、一年の時。赤塚さんと深町さんって同じ吹奏楽部なんだよね、そういえば。ああ、らしいね。でも、赤塚さんはお荷物だって聞いたことある。どうやらそれって本当らしいよ。深町さんはプロとしてやっていけるらしいけど。なるほど、赤塚さんは楽器持ってもダメダメさん、ってことか。あ、ちょ、ちょっと、赤塚さん来たよ。
 彼女らは赤塚に、冬休みはどこで過ごすの、と訊いた。彼女の口から出る地名に驚く準備はできている。そして羨望の言葉も、立て板に水の如く次々と流れ出す。赤塚の心はずたずたに引き裂かれた。
 気がつくと、机には小さな小さな水溜まりができていた。
 ――深町さん。
 窓ガラスを雨粒の叩く音がし、やがてそれは激しくなった。昼間は近畿地方にあった低気圧が夕方には名古屋や岡崎の空を支配し、風と共にゆっくり東へ流れて今夜、遂に静岡県の東部地方へ至ったのだ。
 その雨音を耳にしながら、赤塚はひどく緩慢に顔をあげた。
 ――なにからなにまで私より優れている。誰も私を傷つけてはならないのよ。
 宵の入りに電話で池本玲子と話した内容に、赤塚理恵はひどく心が躍った。傷ついた自尊心を修復するにはもってこいの方法のように感じられたのだ。
 ――深町さん、破滅させてやる。
 そう呟いた赤塚理恵の目はうつろで濁り、まるで腐った魚のようだった。口にはにたりとした薄気味悪い笑みが張りつき、唇の端は奇妙なまでにせりあがっていた。◆

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第2440日目 〈『ザ・ライジング』第2章 37/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 ハーモニーエンジェルスに入れるかどうかは別としても、それなりの票は入るのではないか。国民投票の始まる前はそんなことを考えていた。しかし、彼女の予想に反して、自分への投票はなかなかされず、インターネットへつなぐたびに見ても以前と同じ数字が表示されていることは、ままあった。そして、投票そのものが締め切られてすでに上位十人の発表が済んだいまとなっては、画面をどれだけ凝視しても、新たな評が加わることはあり得なかった。
 赤塚理恵に最後の一票が投じられたのは三日前の深夜だった。しかも自らそれを行った。自分に票が入れられることを初めて知ると、あと何回投票ボタンをクリックすれば、いまの惨めな状況から脱出できるかを、すばやく皮算用した。あと何万回クリックしなくてはならなかったとしても、赤塚は下から数えた方がはるかに早い得票を少しでも上の方へすることに執念を燃やした。勇んで挑戦した二回目の自己投票のときだった。サーバーは彼女のアクセスを、冷酷に拒否した。何度も自分へ投票を行おうと躍起になったが、結果はすべて同じ。挙げ句に不正なアクセスをしたとして、ネット環境を強制的に終了させられた。
 いまこの瞬間にも、あの二人の票はどんどん伸びていっている。なのに私は……。
 そう思うと両の目から涙がしとどにあふれた。自棄になって電源ボタンを押してパソコンを強制終了させると、キーボードを脇へ押しのけ、突っ伏して声を殺して泣いた。
 今夜、学園の理事長である祖父の自宅で催された恒例の夕食会も、とかく理由はつけられていたけれど、結局は残念パーティーでしかなかった。日頃は疎遠で自分の存在を疎ましく思っている親戚達が、一人を除いて食堂のテーブルに顔をそろえているのを見たときは、赤塚は思わず意識が遠くなりかかった。せめて……玲子おばさまがいてくれたら心強いのに。午前中に会ったときの台詞は本当だったようだ。心のどこかで、もしかしたら、と考えていたのはやはり無駄だったらしい。
 みんなが私を見て笑っている、と思った。それは被害妄想でもなんでもない。否定しがたい現実だった。彼等はいっているに違いない。
 理恵、君みたいに飢えたハイエナのような顔をしたやつが、アイドルになんかなれっこないだろう。せめてな、自分の身の丈にあった行動をするべきじゃないかね。君はまがりなりにもお祖父様の養子になっているわけで、一族の本家の人間なんだからさ。世間様に顔向けできなくなるような馬鹿げたことをするのはやめてくれよな。第一ね、お前は赤塚家の恥さらしなんだよ。子供のないのをいいことに兄さん夫婦に割って入ってきた妾の娘の分際で……。事故で兄さん夫婦も妾も死んでしまったのを、お祖父様のお情けで養子にしてもらったんだろう、その恩をどうして仇で返すような真似をするのかな。なあ、理恵、本当のことを教えてくれないか、兄さん夫婦とお前の母親が一緒に旅行へ行った理由と、それになんでお前がついていかなかったのか、を。もしかするとお前がその事故を仕組んだんじゃないのか? あの車がその日に限って調子が悪いのに、兄さん達がなぜそれに乗ったのか、なんでお前が見送ったのか。やっぱりお前があの三人を殺したのか!? ふん、お前ならやりかねないよな。莫大な遺産が転がりこんで、さぞかしうれしいだろう。気に喰わない相手でも、金の力で自分に跪かせることができるもんな。恥曝しッ! 人殺しッ!理恵、そんなお前が芸能人だって? へへへ、笑わせないでくれよ。まったく世も末だねえ。□

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