第2477日目 〈新しい連作エッセイをはじめるよ、というお知らせ(勿論、不定期だけど)。〉 [日々の思い・独り言]

 生田耕作先生はかつて「昭和初期の異色読み物作家の初版本を一山」、「いちおう珍本・奇書に類する紙屑本の山」を東京から訪ねてきた新婚早々の古書店主に売り払ったそうである。但し、江戸川乱歩と夢野久作だけは「こっそりわきに取りのけて」。奢灞都館から先生没後の1999年3月に刊行された『鏡花本今昔』所収の表題作に載るエピソードである(P24)。
 先生も少年探偵団が活躍する物語に胸躍らせ、アップクチキリキアッパッパーな世界に陶然とし、怪奇と淫蕩の綺譚に傾倒したのかしらん、と想像すると微笑ましく、また、うれしい、の一言に尽きるのだけれど、タイトルをご覧いただければおわかりなように、本稿はそれにまつわるエトセトラを綴るようなところではない。
 古書店へ処分するにあたりこっそり脇へ取り除けた思い出のある本が、ジャンルこそ違えわたくしにもあるのだ、というお話をしたいのである。もうちょっと正しくいえば、今後そんな本について語る場を設けるべく、序文というか露払いのような文章を、今日は書き綴ってお披露目しておきたいのだ。
 本ブログでは殆ど話題に上らないけれど、わたくしだってこれまでに沢山のマンガを読んできた。マニア諸氏に較べれば平均的な作品ばかりで、しかも何度か読み返したらばさっさと古書店行きにしてきたものだから、わが書架に残っているマンガはそれ程多くない。が、別のいい方をすれば、残されたマンガはわたくしにとって<ベスト・オブ・ベスト>なものばかり、ということでもある。だがしかし、ここに昨年買ったものは含まれない。それらはまだまだ淘汰の途中であるからだ。
 昨年には長く書架にあって処分されることはなかろう、と思うてきた『バクマン。』全巻と『ONE PIECE』(LOG全巻)を段ボール箱に詰めて、集荷に来たトラックの去ってゆく様子を見送った。あれだけ読み耽ったのに、処分したことに幾許かの感傷の気持ちは、実はまったく湧き起こらなかった……。
 わたくしの場合マンガを購入する、とはイコール、遠からず処分されることを意味するのだけれど、前述の生田先生のように、こっそり脇へ取り除けて傍らに、大事に取っておきたい鍾愛の作品だってあるのだ。それらのマンガを指して、<みくらさんさんか的オールタイム・ベスト・コミック>というてよい。単純に「好き」の一言では片附けられぬ因果が、きっとその作品とわたくしの間に存在しているのだろうね。
 おそらく<オールタイム・ベスト>に選ばれるマンガであることの特徴の1つとして、処分しても遅かれ早かれ買い直す行為を繰り返し、何度目かに買い直した時点で「どれだけボロボロになっても、ずっと手放すことなく手許に置き続けるぞ」と誓いを立てさせるぐらいの魅力を宿した作品であること、が挙げられるのではないか。すくなくともわたくしには復刻版が出たのを機に買い直して、それからは処分の対象外となり続けている作品がある。否、この場合は特定の作品というのではなく、特定の漫画家の著作、という方がより正確だな。
 その漫画家の名を、小山田いく、という。小学生の頃、兄から『少年チャンピオン』誌を借りて、当時連載中であった氏の代表作『すくらっぷブック』に夢中になった。使い途の限られたお小遣いでコミックスを買い溜めゆき、やがて氏の他の作品へも手を出すようになった。その後いったい何度、全巻が揃った小山田いく作品のコミックスを売り飛ばすことになっただろうか──。
 さっき述べた復刻版がブッキングから発売されたのは今世紀になってからだが(<小山田いく選書>)、『すくらっぷブック』に留まらず『ぶるうぴーたー』や『ウッドノート』、『気まぐれ乗車券』、『衆楽苑』、『魑魅』、『五百羅漢』など買いこんで、お久しぶりな作品は懐かしく、初めての作品は新鮮な気持ちで読み耽ったっけ。このようにして手に入れた氏の滋味あふれる作品群を、わたくしはもう二度と手放したりしない。そう誓おう。
 ──既に申しあげたように、今後折に触れて<みくらさんさんか的オールタイム・ベスト・コミック>を本ブログにて取り挙げてゆく。昨年3月に第3回をお披露目して以来一度も公にされていない「YouTubeで懐かしの洋楽を試聴しよう!」同様、不定期掲載とはなるけれど、どうぞ読者諸兄にはご愛顧・ご愛読・ご支持いただければ、しあわせなのであります。◆

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