第2497日目 〈『ザ・ライジング』第4章 17/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――かなえ!
 上野は少女の顔が一瞬ゆがんで、代わってそこに恋人の顔が重なったのを認め、名前を叫んだ。それが聞こえたかのように大河内が口を開いた。が、なんといっているのかまでは聞こえない。ただ、表情や口の開き方から察して、快活な気分でいるときの彼女ではない、とわかった。割と顔に出るタイプだからな、あいつは。そう上野は口の中で呟いた。これに近い顔を見たことはある。付き合い始めて一ヶ月半が経ったころ、彼女の誕生日を祝おうとしたときだった。たまたま生理だったのを知らずに、酔った勢いも手伝って彼は嫌がる恋人を、有無をいわせずホテルに連れこんで、一方的な快楽に耽ったことがある。
 いま、目の前で大河内が見せる表情は、その後で泣くのをこらえながら言葉少なになじったときのそれに、よく似ていた。おそらくそのときの罪悪感がいま甦って、状況の酷似したいまこのとき、深町の顔にだぶって見えているんだろう、と上野は意識の片隅で考えた。深町もその気力さえあったなら、思いっきり俺に罵声を浴びせたいんだろうな。
 つむっていた目を開くと、希美と視線が合った。相変わらず無表情で、唇を横一文字に固く引き結び、感情の読み取れない眼差しで、上野を見つめている。ずっと見ていると、魂が吸いこまれてしまうような気がした。
 下唇を噛んで、小さく頭を振った。違うよ、深町。俺は好きでやってるんじゃない。かなえとの未来を守りたいだけなんだ。そう口に出せればどれだけいいだろうか、と彼は思ったが、実行に移すだけの、ほんのわずかの勇気はなかった。
 顔をあげれば、赤塚がいる。その存在自体はまったく驚異でない。彼女が手にするヴィデオ・カメラだって、いまの上野には脅迫の材料となりはしない。にもかかわらず彼が恐れたのは、赤塚がこの暴行が終わったあとで希美にどんな屈辱を与えるかわからない点だった。
 そのときだ、上野の頭に、たった一つの冴えた(と思える)やり方が浮かんだのは。罪滅ぼしのように映るかもしれないが、いま自分が犯している少女を救うためには、もうこれしかない、と上野は心の中で頷いた。今日は、もう学内にはほとんど人は残っていないはずだ。少なくとも、こいつの身を心配する奴は。池本もいまごろは東名高速で車を走らせていることだろう。
 上野の心を透かし見たような顔で、希美が(いや、大河内かなえの顔だったろうか)細く唇を開いた。そんなこと、しちゃ駄目だよ。
 上野は再び頭を振った。もう決めたんだ。深町、お前だけでも守りたい。それに――。上野はそれ以上続けられなかった。やがて希美の婚約者の身に降りかかるであろう災難を、自分の口から知らせるのは抵抗があった。それは警告にもならないだろう。それに、どのみち、いま彼女がそれを知ったからとて防ぐことはできやしない。□

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