第0753日目 〈詩編第061篇:〈神よ、わたしの叫びを聞き〉〉 [詩編]

 詩編第61篇です。

 詩61:1-9〈神よ、わたしの叫びを聞き〉
 題詞は「指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。」

 お馴染みとなった主に依り頼む詩である。むろん、茶化しているのではない。ダビデがなんらかの事情で苦況に追いこまれた際の祈りとしては、最も緊密な空気を湛えた詩の一つというてよいだろう。
 予期せぬ出来事にあって崖っぷちに立たされるとき。四面楚歌に等しい状況に追いこまれ、心根が挫けそうになるとき。そういうときが、人生には何度もある。詩61はそんな経験を土台にして詠まれた作物だ。

 「神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り/御名を畏れる人に/継ぐべきものをお与えになります。/王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。/王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。/わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い/日ごとに満願の献げ物をささげます。」(詩61:6-9)



 今日はやけに短いですね、と或る人はいうかもしれません。そうですね、本当にその通りだと思います。ご勘弁ください。頭痛に激しく悩んでいるのです。眠いのか、単に?
 でも、それを補うように今日(昨日ですか)は素晴らしい時間を体験した。新宿バルト9へ『シネ響 マエストロ6』を観に行ったのです。11時開始の回のみのため、ずいぶん久しぶりにラッシュ(も終わりかけた時間)の電車へ乗りました。今回はリッカルド・ムーティ=BPOの2009年ヨーロッパ・コンサート。舞台はイタリアのナポリ、ムーティの出身地。曲目はヴェルディの歌劇《運命の力》序曲、マルトゥッチの歌曲集《追憶の歌》(ヴィオレータ・ウルマナ:S)、シューベルトの交響曲第8番《ザ・グレート》の3曲。
 目当ては当然シューベルトだったのですが、ここで意外な掘り出し物が。おわかりでしょうが、マルトゥッチです。どれだけ意外だったかというと、帰りにタワーレコードで《追憶の歌》が収められたCD(NAXOS)を買ってしまったほど。感想の下書きは出来ているので、前回のアバド同様に「詩編」が終わったあと、完成稿を公開する予定でおります。
 いや、それにしても今回のノートには悩まされた。書いても書いても形にならず、濡れたティッシュが指のすき間からぼろぼろになってこぼれ落ちてゆくような感じ。これ、尊敬する殆ど唯一の存命作家スティーヴン・キングがライターズ・ブロックに陥っていた時を回想して述べた言葉の流用ですが、まさしく今回がこれだった。細かい字でびっしり書きつけたA5サイズのメモがPCのそばにありますが、同じ箇所を堂々巡りしている。文章や表現がまとまらぬだけでなく、話の筋道を立てようとするのに精一杯、という感じが、露骨に見て取れる。こんなことが続かないことを、切に願うばかりであります。
 ドストエフスキー『白痴』は未だ上巻ながら、じっくり呑気に読進中。いまP564。◆

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第0752日目 〈詩編第060篇:〈神よ、あなたは我らを突き放し〉&映画『渚にて』を観ました。〉 [詩編]

 詩編第60篇です。

 詩60:1-14〈神よ、あなたは我らを突き放し〉
 題詞は「指揮者によって。『ゆり』に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教え。ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。」

 サム下8:3-14,代上18-19を背景とする、前途を見失った失意の詩。付言すれば打ち倒されたエドム人は、サム下8:13では「一万八千人」と記される。
 わたくしにとってこの詩は謎であった。題詞と詩の内容がどうにも重ならなかったのだ、上述の並行箇所を何度読んでも。
 その内に、である━━アラムとエドムの側にしてみれば存亡がかかった戦であるから、死に物狂いでイスラエルに抵抗するのは当然だ。それゆえにイスラエルにとっては苦戦を強いられる局面もあったろう。━━視座を逆にしてみて、ようやく「そうか!」と膝を叩いたのだ。詩60がわかったのだ。斯くして謎は解明された。
 文字で書かれて伝えられる作物には、良くも悪くも限界がある。それはすべてを語るわけではない。むしろ、なにが書かれなかったのかを考えるべきだ。なにを残し(語り)、なにを捨てたか(語らなかった)か━━それを見極めるためには、よく読み、よく読みよく調べ、とく考えるのが必要なのだ、と(改めて)教えてくれる詩といえましょう。
 題詞から切り離して一個の詩作品として読めば、切々とした思いが伝わってくる、非常に良い作物である。「あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ/よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた」(詩60:5)なんて、なんだか、ぐっ、と来るではありませんか。
 これはぜひ、読者諸兄に全文をご賞味いただきたい、と思うておる。
 なお、詩60:8-10は聖所に坐す神なる主による宣言である、わたしはイスラエルを守り諸国を倒す、という宣言。

 「あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。/どうか砕かれたところを癒してください/大地は動揺しています。」(詩60:4)



 映画『渚にて』On the Beach(1959 米)を観ました。第3次世界大戦があって人類は死滅し、もはや生存可能な場所は南半球のみとなった。が、そこにも確実に死の灰は近づきつつあった。これは限られた時間を如何に生きるか、限られた時間で出来ることはなにか、を追求した映画です。この辺りが凡百の“世界の終末”物と一線を画す点でしょう。古典の地位を築くのも道理といえる秀逸な作品です。
 映画のクライマックスはモールス信号の出所が判明した場面だと思いますが、実はそこから続く深い絶望と僅かな希望の狭間にあって、最後の瞬間(とき)まで精一杯生き続けることを諦めない人々の姿こそ、この映画の真骨頂でありましょう。全盛期のハリウッドの片隅でこんな地味で、しかしいつまでも語り継がれる真摯な作品が作られていたとは信じ難いけれど、逆にいえば、あの時代のハリウッドだからこそ丁寧に、かつ良心的に作られた作品である、といえます。むろん、原作から隔たった部分があることは否定しない。
 『戦艦ポチョムキン』同様、「映画が好き」と曰うならば二度三度と観ておいてほしい映画。こういう映画をこそ<名画>と呼ぶのではないでしょうか。
 監督:スタンリー・クレイマー
 原作:ネヴィル・シュート(『渚にて』佐藤龍雄・訳 創元SF文庫)
 脚色:ジョン・バクストン
 音楽:アーネスト・ゴール
 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
 出演:グレゴリー・ペック/エヴァ・ガードナー/アンソニー・パーキンス/フレッド・アステア他◆

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第0751日目 〈詩編第059篇:〈わたしの神よ、わたしを敵から助け出し〉〉 [詩編]

 詩編第59篇です。

 詩59:1-18〈わたしの神よ、わたしを敵から助け出し〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。」

 周知の如くサウルとダビデは或る時を境に対立する関係になった。詩59はその初期の出来事を詠った詩である。背景となった挿話には初めて登場する人物もいるので、改めて該当するサム上19:11-17を繙くとしよう。
 ━━サウルに主の悪霊が降ったのである。イスラエルの王はダビデを討たんと行動し、或る晩、彼の家を見張らせた。機に乗じてダビデを亡き者にしようと企てたからだ。それをダビデの妻ミカルが察して夜陰に紛れて夫を逃がした。入れ替わるようにしてサウルの家来たちが見舞いと称してダビデの家に踏みこんだが、そのとき既に彼の姿はどこにもなかった。ダビデはラマの地にいるサムエルの許へ行った。サウルはミカルを詰問したが、彼女はただ、夫に脅されたから逃がしたのだ、と答えるだけだった。━━
 これが詩59の背景である。おそらくこの詩はサムエルのところへ行く途中で詠まれたのではないか。内容はこれまで読んできた詩と大差ない。身も蓋もない言い方だが、事実そうなのだ。敵の手からわたしを救い出し、あなたの御力で敵を倒してください、わたしたち主に従う正しい者はあなたを讃えます。そういう内容である。だが、言葉はなんだかささくれている。“やさぐれている”というた方が相応しいか。やや激烈なのだ。そんな風に感じる。
 顧みれば、詩59はサウルがダビデに対して敵意を抱き、直接的な行動を起こすようになった始めの頃に詠まれた詩である。ダビデにしてみると、主君のなかに潜んだ敵意が実際に目に見える形で己の身に降りかかった、最初の大きな仕打ちである。これは流石に心が痛んだであろう。と同時に、それゆえにこそダビデを襲った悲しみと怒りは、後に覚えたそれらよりも大きかったのであるまいか。裏切られた側の痛みは、わたくしにはよく理解できる。
 この詩の激しさの裏には、信じて疑わなかった者に裏切られた哀しみが隠れていることを、われらは忘れてはならない。

 「目覚めてわたしに向かい、御覧ください。/あなたは主、万軍の主、イスラエルの神。/目を覚まし、国々を罰してください。/悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。/夕べになると彼らは戻ってきて/犬のようにほえ、町を巡ります。/御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。/その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」(詩59:5-8)

 「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に/彼らが捕らえられますように。/御怒りによって彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さないでください。」(詩59:13-14)



 充実感と疲労が渾然一体となって、わが身を容赦なく嬲る。嗚呼、書きたいことは多くあるが、明日はせっかくの休みだ。アファナシエフのブラームスを聴きながら、このまま床に入ってぐっすり眠ろう。おぐゆーさん、大好き。雨の音を聞くのも大好き。アレックスに倣って、「♪すっきー、すっきー♪」と歌おう。
 では、また明日。辛い時間があろうとも挫けるな。人の一生は重荷を背負うて遠い道を行くが如し、と家康もいっているではないか。だいじょうぶだ、われらはこの時間、この大地で生きている。◆

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第0750日目 〈詩編第058篇:〈しかし、お前たちは正しく語り〉〉 [詩編]

 詩編第58篇です。

 詩58:1-12〈しかし、お前たちは正しく語り〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。」

 これは、主の道から外れて不当な法の裁きを行う者たちへの警告の詩である。後半では彼らが主の制裁を受けることへの期待が描かれる。
 一寸面白いな、と思うのは、神に逆らう者とはこんな風だ、と説明する際の表現、比喩だ。わたくしが念頭に置いているのは第4-6節なのだが、普段使っている新共同訳ではこうなっている。曰く、━━
 「神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。/蛇の毒にも似た毒を持ち/耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで/蛇使いの声にも/巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。」(詩58:4-6)
 他の訳の聖書でこの箇所を読み比べるのも楽しかろうが、それにしても、蛇である。
 蛇。考えてみれば、われらは久しくこの単語を目にしてこなかったように思う。旧新訳併せてみても、蛇は堕落の代名詞である。聖書で蛇と来れば、創世記だろう。そう、アダムとエバがエデンの園から追放される要因を作った、あの蛇である。かつて蛇は、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」(創3:1)とされたが、アダムとエバを罪に汚してからは、「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。/お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」(創3:14)生き物にまで貶められた蛇。
 その蛇が詩58で比喩として持ち出されたのは、それだけ不当な法の裁き人が悪に染まった存在であることを語っている。逆にいえば、こう比喩しなければならぬ程、詩58で詠われる法の裁き人の不当なる行為は許され難いものであったのであろう。
 ……些末な部分にこだわってしまった。が、小さな作物ながら斯様な表現、比喩を引き合いに出して、不当なる法の裁き人を弾劾している点に於いて、この詩58は特色ある詩と申せるのではないか。神なる主の正義が悪を駆逐するだろう、という構図は最早見馴れて珍しいものでも何でもないけれど。

 「鍋が柴の炎に焼けるよりも速く/生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。/神に従う人はこの報復を見て喜び/神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」(詩58:10-11)



 ロシア音楽つながりで。ムソルグスキーの《展覧会の絵》は初めて聴いたときから好きになってしまいました。
 学生時分にアバド=ロンドン響のDG盤を中古で買い、十年近くは誰の指揮で聴いても結局これに立ち帰ったのですが、それを駆逐する一枚と遭遇した。チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルのEMI盤がそれ。これを上回る演奏はあるまい、と思っていたのですが、やはり十年近く経って更にそれを退ける一枚と出会いました。以前もここで書いた記憶のあるジュリーニ=BPOのSONY盤です。お目当ては併収の歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》のハイライトだったのですが、まるで瓢箪から駒のようにジュリーニの指揮する《展覧会の絵》にはまってしまいました。
 これについては改めて音楽専用ブログでレヴューする予定ですが、顧みれば《展覧会の絵》のお気に入りの演奏をもたらしてくれる指揮者は、みんなBPOに深き縁ある人々ですね。ふしぎです。ラトル? ぼくには駄目。まったく趣味に合わない。
 序にいえば、ムソルグスキーの歌劇に前述の《ボリス・ゴドゥノフ》と《ホヴァンシチナ》があります。これもお気に入りの演奏は━━いちばん頻繁に聴いていたのはカラヤンとアバドという、BPO常任指揮者を経験した2人の指揮した盤でしたね。
 アバドはかつて“ムソルグスキー・パラノイア”とまで揶揄された人ですから、彼のムソルグスキーはどの作品を聴いても聴き応えがあり、思わずその熱に中(あ)てられる程むせ返るような熱気にあふれていましたが、カラヤンの場合《ボリス・ゴドゥノフ》は別格として、生前に何度か(ライヴも含めて)録音し、映像も残した《展覧会の絵》については、アバド盤愛聴時代は並行して時折聴いていたものの、チェリビダッケ盤を聴くようになってからはすっかりプレーヤーに架けることもなくなりました。テンポが速すぎて、どうにも急き立てられている感が否めなかった。DGから発売された最後の来日公演の録音は、稀有なる例外として、最近は再(ま)たよく聴いていますが。
 ロシア音楽の<雪解け>が始まって以来、それまで聴いていたチャイコフスキーと今回ネタにしたムソルグスキーの他にも、多くの作曲家を聴くことができるようになりました。と同時に、なぜかは説明できぬけれど、ムソルグスキーの他の作品も探して聴くようになりました。先日も《展覧会の絵》オリジナルを含めたピアノ曲のCDを友人から借りてきましたが、こちらもなかなか一聴に値する作品が揃っていた。でも、それ以上にまとまった形で聴きたいのは、歌曲なのです。が、こちらは縁がないせいか、どう手を尽くしても買えないでいる。お金のあるときに物はなく、物のあるときにお金はない、というパターンです。
 一部作品にしか陽の目があたらず他はないものにされている感じの否定できない作曲家ムソルグスキーですが、逆にぼくはジュリーニのムソルグスキーに出会ったことで、この作曲家についてもっともっと多くを知り、他の作品も片っ端から貪欲に聴き倒してみたい、と願うようになりました。この野心がいつの日か達成されたら、きちんとしたムソルグスキーについてのエッセイを書いてみたいものだ、と思うておるところであります。◆

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第0749日目 〈詩編第057篇:〈憐れんでください〉〉 [詩編]

 詩編第57篇です。

 詩57:1-12〈憐れんでください〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。」

 ダビデはサウルの恨みを買い、その手を逃れて遠近(をちこち)を彷徨うた。折に触れてダビデは救いを求め、逃亡を感謝する詩を詠んだ。詩57もその一つ。
 詩57はダビデがアドラムの洞窟に潜んでいた際の作物、とされる。該当する箇所はサム上22:1。即ち時系列に直せば、詩56→詩34→詩57となる。連続した記述のなかでこれだけの詩が詠まれたのは、そこがダビデの最も危難に陥ったとき、ということであり、同時に、逃亡劇のいちばんのヤマ場であった、ということだ。
 「わたしの魂は屈み込んでいました。/彼らはわたしの足もとに網を仕掛け/わたしの前に落とし穴を掘りましたが/その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。」(詩57:7)
 如何に苛酷な状況にあろうと信仰は揺るがない。主に依り頼み、主を讃美する歌をうたおう。いつか誉れは目覚め、曙を呼び戻すこともできるだろうから。斯様にダビデの、イスラエルの、神なる主を信じる心には何の迷いもない。一点の曇りもない。強くて確かな信じる心━━彼らを支えるのは、それだ。
 なお、アドラムはユダ族の領内の丘陵地帯にあり、ベツレヘムとガトを結ぶ線のほぼ真ん中に位置する町。ヨシュアらイスラエルによるカナン入植以前から栄えていた町でもあった(アドラムの王が倒された報告は、ヨシュ12:15にあり)。後、南王国ユダの初代王レハブアムが北王国イスラエルの脅威に備えて強化した15の砦の町の一つで(代下11:7。並行箇所の王上14:21-31には既述なし)、捕囚を解放されたバビロンからの帰還団の一部がこの町に住んだ(ネヘ11:30)。

 「いと高き神を呼びます/わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。/天から遣わしてください/神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。」(詩57:3-4)

 「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」(詩57:6,12)



 “一日一針”ならぬ“一日一枚”。確かにこれはよい方法だ、いままでも意識しないでやって来たけれどね。直近の事例では昨日書いたリヒテルだが(「買って1週間経ってないじゃん!」というツッコミは受け入れない)、クラシックで他に当てはまる作曲家にプロコフィエフがいた。
 中古CDで小澤征爾=BPOの交響曲第3&4番、第5番&組曲《キージェ中尉》を買い、同日に他店でアバド=ロンドン響の《アレクサンドル・ネフスキー》他を買った。以前から興味はあって図書館で借りたCDをダビングして聴いていたけれど、どうにも駄目だったんだね(DG;Panoramaシリーズのプロコフィエフ作品集です)。なんだか、ピン、と来なかったんだ。チャイコフスキーやムソルグスキーのように聴いて誰でもわかる曲、感動できる曲、というわけでなかったせいかもしれない。加えて、20世紀の作曲家という最強の拒絶反応も(心のどこかに)あった。
 それでもほぼ毎日耳を傾けていた或る日、晴れた空に突然雷鳴が轟くような感じで、「プロコフィエフ、カッコイイ!」と内心叫んだのである。そのとき聴いていたのって、確かA.シュミット独唱の組曲《キージェ中尉》でなかったかしら。第5曲<キージェの葬式>が静かに終わってCDが止まるまでの数瞬、まさしく脳天をハンマーで叩かれたような衝撃を味わったのだ。慌てて同じCDに入っている交響曲第5番を最初から聴き直したのを覚えています(第4楽章はタコ10と並ぶアドレナリン全開の音楽ですよね)。
 以来、プロコフェエフのCDをどっちゃり買いこんできて聴き耽る日々を送っている……というわけではない。いや、正直どんな風に聴き倒してゆけばよいのか、わかっていないんですよね。もっとはっきりいえば、プロコ以上に“いま”聴きたい作曲家・演奏家がいて、プロコフィエフにまでは手が回らない、という方が正解か。取り敢えずいまは架蔵するなかにある彼の音盤を合間合間に聴いて、その格好良さに痺れまくっています(死後?)。ピアノ協奏曲第3番や《束の間の幻影》、歌劇《3つのオレンジへの恋》とか良い作品が揃っているよね。
 文筆にも才を奮ったプロコフィエフ、自伝(音楽之友社)の他に小説もオススメです。ちょっとシュールな作品は、村上春樹が好きなら気に入る人もいると思うけれどなぁ(『プロコフィエフ短編集』豊田菜穂子・訳 群像社 2009)。◆

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第0748日目 〈詩編第056篇:〈神よ、わたしを憐れんでください。〉withリヒテルのレコード。〉 [詩編]

 詩編第56篇です。

 詩56:1-14〈神よ、わたしを憐れんでください。〉
 題詞は「指揮者によって。『はるかな沈黙の鳩』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕らえられたとき。」

 詩34と一対になる詩である。既にそこで述べたように、ダビデは気狂いの風を装って、ペリシテの捕虜となるのを免れたのであった。詩34はペリシテ人から逃れたことを感謝する詩、対して詩56は、捕らえられている最中に、焦燥を抑えつつ詠まれた詩である。道化を演じて一座の喝采を浴びつつも内心は悲喜交々、忸怩たる思いを覚えている。そんなピエロ的な哀しさも伝わってくる詩だ。
 勿論、救いの祈りを捧げるダビデには、まさしく生か死かを賭した状況だ。それでいて、救いは求めても結果を神に委ねている姿勢に、嗣業の民としての潔さを感じる。「神に依り頼めば恐れはありません。/人間がわたしに何をしえましょう。」(詩56:12)━━この二句にダビデの、或いは作者の誠の想いが凝縮されている、と思うのである。

 「恐れをいだくとき/わたしはあなたに依り頼みます。/神の御言葉を賛美します。/神に依り頼めば恐れはありません。/肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」(詩56:4-5)

 「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。/あなたの記録に/それが載っているではありませんか。/あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」(詩56:9)



 リヒテルのイタリア初楽旅のCDを買ってきた、と先日書きました。それまでリヒテルを積極的に聴く気になれなかった。村上春樹のエッセイに触発されて手を出したわけだが、朝な夕な聴くにつれ、なぜこうも激しく避け続けてきたのか、とつくづく反省している。
 探してみると、幾枚かリヒテルのCDとLPは架蔵していた。カラヤンとBPOがサポートしたチャイコフスキーは(そういえば)一時期よく聴いたっけな、そうそう、悪名高いベートーヴェンの三重協奏曲も。誰かの独奏曲をリヒテルが弾いた音盤は、こちらは持っていたかどうか、記憶が定かでない。
 いま聴いているのはショパンの《バラード》第4番。本盤には全部で4曲のショパンが収められていますが、こうも緻密で雄大なショパンを聴かせてくれる人だと知っていたら、もっと早くからちゃんと聴いておけばよかったな。誠、好き嫌いも度が過ぎると考え物であります。他の作曲家では、スクリャービンとラフマニノフが気に入りました。
 彼の現役盤の一つにEMIのシューマンがある。買うか迷って結局やめたが、こちらも実はイタリア初楽旅の記録なのだ。メロディアのショパンやラフマニノフと一緒に来月買おう。……そういえば、L.ベルマンの西側初楽旅と録音もイタリアではなかったかな?◆

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第0747日目 〈詩編第055篇:〈神よ、わたしの祈りに耳を傾けてください。〉〉 [詩編]

 詩編第55篇です。

 詩55:1-24〈神よ、わたしの祈りに耳を傾けてください。〉
 題詞は「指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。」

 敵は身内にこそあり。詩55最大の特徴はここにあろう。これまで読んできた「詩編」各詩は、諸国を<敵>と称して様々に歌ってきた。が、神なる主に逆らって、正しい者を倒そうとする<敵>は、イスラエルの内部にも数を増してきていた。作者は死の恐怖に襲われ、もしも自分に翼があったなら町を逃れて荒れ野へ身を隠すであろうに……とまで嘆く。
 だがそれでも作者は斯く決断するのだ、主よ、彼らを絶やしてくれ、と。同胞と雖も容赦はない。神なる主に背き、悪を貯え誇る輩は死に襲われ、生きながら陰府に落とされればよい、と。外国人であろうとイスラエルの民であろうと、主へ逆らうことに代わりないのだ。
 《第一ダビデ詩集》ならびに「詩編」第一巻の掉尾を飾った詩41に関連ある詩、とされる。この詩55はアブサロム反逆にあたり、アヒトフェルが寝返ったことを詠んでいる、という。“敵は身内にあり”━━詩55:14-15はそう伝え、王の顧問であったアヒトフェルの寝返りを嘆く。そうして神なる主に裏切りを報告し、制裁を求めているのである。
 ……わたくし自身も信用していた人物に裏切られた経験があるけれど、まず最初に心へ浮かんだのは「うそ!」と「なぜ?」であり、やがて激しい哀しみが全身を打った。それからじわじわと、核爆発も斯くやと思わせる程の怒りが襲ってきた。なんともやりきれぬことに、その類の怒りは、純度100%のまま持続するのだ。むろん個人差はあるだろう、あくまでわたくし自身の場合は、ということだ。
 人間不信にさせられたときに読むといちばん心に響くかもしれないが、却って逆効果も否めない。まあ、読むときは自分の感情をコントロールするよう心掛けて。本当はそんなことないまま、波風立たずおだやかに関係の続くことが理想であるが、……でも、……。
 『新聖書ハンドブック』(いのちのことば社)に於いてヘンリー・H・ハーレイは、友の裏切り、という点から、新約聖書で語られるユダの裏切りも予告している、とする。ユダ? 然り、イエスを売った弟子の一人の、あのユダ。われらにはむしろ、太宰治「駈け込み訴え」の語り手、というた方がお馴染みか。

 「わたしは神を呼ぶ。/主はわたしを救ってくださる。/夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。/神はわたしの声を聞いてくださる。/闘いを挑む多くの者のただ中から/わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。/神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。/神はいにしえからいまし/変わることはない。/その神を畏れることなく/彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。」(詩55:17-21)



 今回のノート程悩みあぐねて書いたものはありませんでしたよ。心と背中が痛いっす。◆

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第0746日目 〈詩編第054篇:〈神よ、御名によってわたしを救い〉〉 [詩編]

 詩編第54篇です。

 詩54:1-9〈神よ、御名によってわたしを救い〉
 題詞は「指揮者によって。伴奏つき。マスキール。ダビデの詩。ジフ人が来てサウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき。」

 これも詩52と同じく密告にまつわる詩。サウル絡みの背景を持つ詩が目立つのも《第二ダビデ詩集》の特徴といえようか。
 ジフ人はイスラエルの神を信じぬ。ゆえ彼らにダビデをかくまう理由はない。ジフ人にとって将来の王よりも現在権力の座に在る者へなびくのは、至極当然である。「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています」(詩54:5)と、ダビデが叫ぶのも宜なるかな、というところであろう。
 では、例によって詩の背景を繙こう。該当するのはサム上23:14-23である。
 ━━ケイラの町をペリシテ人から解放したダビデは荒れ野を彷徨い、ジフの荒れ野のホレシャに身を隠した。が、サウルのダビデ追跡の手はゆるまなかった。そんな折、潜伏中のダビデをヨナタンが訪ねた。恐れるな、と親友が逃亡者を励ます。「父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている。」(サム上23:17)
 その頃、ジフ人はサウル王の許へ出向いて、自分たちの土地にダビデが隠れている、と密告した。「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」(サム上23:20)サウルは彼らを祝福し、詳しい情報の提供を求めた。ジフ人はその命令を実行するため、サウル軍に先立って自分たちの土地へ帰っていった。━━
 ダビデ潜伏の正確な位置情報を摑むため、ジフ人がホレシャ一帯の捜索を開始。己に迫る危機をダビデは感じた。そんな切迫した状況でこの詩は詠まれたのか。二連全9節というやや短めな作物であるのは、状況がなさしめた結果であろう。
 表現の単純さと言葉の簡素さ、畳みかけるような勢い━━読んでいて、思わず胸が圧される程だ。異様な緊張感と緊迫感を孕んだ詩54を《第二ダビデ詩集》の、否、「詩編」第二巻の白眉と呼ぶことに、わたくしはなんの躊躇いもない。

 「見よ、神はわたしを助けてくださる。/主はわたしの魂を支えてくださる。/わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。」(詩54:6-7)



 月末はCDと本を慎重に選ぶ。今日(昨日ですか)は、ポイントを使って差額700円弱でCD3枚を購入した。内一枚はリヒテル;イタリア初楽旅のDG/TOWER企画盤。村上春樹がエッセイで触れたLPのCD化と思われたが、肝心の拍手が入っていない(ex;『村上ラジオ』P102-5 新潮文庫)。誤記? 或いはカット? いずれにせよ、ライヴ音源は拍手まですっきり入れてほしい。◆

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第0745日目 〈詩編第053篇:〈神を知らぬ者は心に言う〉〉 [詩編]

 詩編第53篇です。

 詩53:1-7〈神を知らぬ者は心に言う〉
 題詞は「指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。」

 神を否定し、求めぬ衆が告発され、彼らはやがて主の前に倒れる。イスラエルの希望がシオンから起こって捕らわれ人の帰還が果たされることを期待する。そんな内容の詩だ。
 おそらく(と思うのだが)作者はダビデであるまい。そうでなくもう少しあとの時代の人、という風に感ずるのだ。例えば、王国が北と南に分裂していた時代の誰か━━王や祭司、或いは才ある文官といった人々の誰か、である。
 詩の表現に拘泥するなら、「神が御自分の民、捕らわれ人を連れ帰られるとき」(詩53:7)はバビロン捕囚、或いはそれに先立つ列強国に囚われ引かれていった民の解放を指すか。となれば、詩53の書かれた年代は、国教を異にした北王国イスラエルと昔ながらのイスラエルの神なる主を信仰する南王国ユダ、いずれかの王国の末期ということになるだろう。
 作品を読みながらこんなことをつらつら考えたり創造したりするのも、面白いものだ。なお、詩53は一ト月程前に読んだ詩14とほぼ同じ内容を語っている。宜しければ、復習も兼ねてご参照いただければ幸甚、幸甚。わたくしもちと、読み直してみる。
 いつの時代にも神に背いて悪事を誇るアウトローはいた。アウトローを諫めようとする者も同じ時代にいた。そんな双方あってこその「詩編」所収各詩であり、旧新約聖書である。聖書とは即ち対立の歴史と物語をまとめた書物といえようか。

 「神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。/誰も彼も背き去った。/皆ともに、汚れている。/善を行う者はいない。一人もいない。」(詩53:3-4)

 「あなたに対して陣を敷いた者の骨を/神はまき散らされた。/神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」(詩53:6)



 『LOST』ファイナル・シーズンがいよいよ佳境に至りました。今日(昨日ですか)は第14話「候補者」。第1話からの登場人物もだんだん姿を消してゆき、フラッシュサイドウェイズも含めて怒濤の、先がまったく読めない展開が続いている。興奮しっぱなしです。
 このドラマをシーズン1,せいぜいシーズン2まで観て、あまりの不可解さに見切りを付けた人々が、さんさんかのまわりにずいぶんといます。なんと勿体ないことだろう。これ程次を楽しみにさせられるドラマが、今世紀に入って国内外のどこにあったというのか? でも、始まった当初は斯くも本格的にSFのジャンルへ移行するとは思わなかったな。
 『LOST:THE FINAL SEASON』はAXNにて独占放送中(回し者じゃないですよ?)。◆

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第0744日目 〈詩編第052篇:〈力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。〉〉 [詩編]

 詩編第52篇です。

 詩52:1-11〈力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。〉
 題詞は「指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」

 《第二ダビデ詩集》では、作品の背景が示される詩が目立つ。なぜか、という問いに、わたくしは答ることができぬ。欠片程の知識もないからだ。回答を与えてくれそうな書籍に出会うたことも、残念ながら、ない。
 では、本題。
 詩52は、イスラエル王国初代王サウル(諸兄よ、覚えておいでか?)に重用されたエドム人ドエグの密告を知った際、ダビデが詠った(とされる)詩である。昨日同様、背景となる、サム上21-22の物語を提示しよう。
 ━━ダビデは親友であるサウルの息子ヨナタンと別れた後、エルサレム北北東の街ノブの祭司アヒメレクを訪ねた。ダビデはそこで僅かの食糧と、かつて彼が討ったペリシテ人ゴリアトの剣を受け取り、街を去った。実はノブにはそのとき、サウルに仕えていたドエグがいて、ダビデとアヒメレクのやり取りをよく見ていた。その後、サウル王はドエグにノブ殲滅を命じた。祭司は勿論、住民、家畜までが討たれて大地に倒れ、血を流した。……モアブのミツパにいたダビデのところへ、一人難を逃れたアヒメレクの息子アビアタルがやってきて、ノブの惨劇を伝えた。━━
 アビアタルにダビデはこういっている、ノブの街にドエグがいたのは知っていた、彼がサウルにそれを伝えるであろうこともわかっていた、と。詩52はその折に詠まれたものであったろうか。
 「力ある者」(詩52:3)はサウルを指す。ダビデはサウル、かつての主人に、なぜ悪事を誇り、自ら主の教えに背くことを行うのか、と訴える。あなたの行為は破滅をもたらす、そうして天幕より引き抜かれてこの地から根刮(ねこそ)ぎにされる、と。ここで読み逃してはならぬポイントがあるとすれば、斯く訴えていようとも、ダビデがサウル王への真心を失っていない点ではあるまいか。サウルを非難し、自らは神の慈愛に守られた正しい者、としながらも、かつての主人が神の正しい道へ立ち帰ることを望んでいる、と読めるのだ。
 逸脱した読みかもしれぬ。が、韻文の鑑賞とは、まず背景にじゅうぶんな理解を行き届かせ、行間をしっかりと読みこむことから始まる。そうした作業を経たならば、上述の如きわたくしの感想にも首肯していただける向き、あるのではあるまいか━━と思うておるのだが?

 「神の慈しみの絶えることはないが/お前の考えることは破滅をもたらす。/(中略)お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」(詩52:3-4,7)

 「(わたしは)御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。」(詩52:11)



 一時の豪雨を逃れてTSUTAYAでレンタルDVDを物色しつつ雨宿りをしていたさんさんかです。2枚までレンタルDVD無料券があったので、慎重に吟味を重ねた結果、『殺人パーティーにようこそ』と『渚にて』を借りました。後者は原作を読み、赤川次郎のエッセイで読んだ記憶もあったので、ちょっと借りてきた……のだが、つい録画しておいた『ナルニア国物語 第2章:カスピアン王子の角笛』を観てしまい、鑑賞は後日になりそう。明日は休みだから、夜を徹して観るつもりでいたのですけれど……いや、なかなか物事は予定通りには行かないものですね。
 まぁ、それはともかく。そろそろ「創世記」と「出エジプト記」前半部分のノートを、「詩編」と並行して作成してゆこうかな、と考えております。公開は旧約聖書最後の書物「マラキ書」のあと、再来年をと考えていましたが、いまでは区切りのよいところ━━「哀歌」を以て<文学>の終わる来年夏を検討しています。そのときが来たら、またご連絡します。◆

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第0743日目 〈詩編第051篇:〈神よ、わたしを憐れんでください〉〉 [詩編]

 詩編第51篇です。

 詩51:1-21〈神よ、わたしを憐れんでください〉
 題詞は「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」
 《第二ダビデ詩集》の始まり(第71篇まで)。

 ダビデは生涯最大の罪を犯した。詩51はそれについての、彼の悔い改めの祈りである。サム下11,12で語られた物語を、再び繙こう。
 ━━或る年の或る日、ダビデは懸想した。沐浴する女の裸に鼓動を高うしたのだ。ヘト人ウリヤの妻バト・シェバ。それが、彼女の名前だった。十戒が定めた訓えを破り、2人は通じた。彼女は妊娠した。謀り事によって未亡人となったバト・シェバを、ダビデは妻に迎えた。すると預言者ナタンが主により遣わされ、過ちを犯した王を叱責した。「ダビデはナタンに言った。『わたしは罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。』」(サム下12:13-14)果たしてバト・シェバの子は生後七日でみまかった。━━
 詩51が、サム下12のどのタイミングで祈られた詩かはわからぬ。題詞に「ナタンがダビデのもとに来たとき」とあると雖も、まぁナタンの叱責からバト・シェバ出産の間かな、という風に思う。
 ともあれ、この詩は読み手によって印象を著しく異にする作物であるまいか。詩を聖書の枠内で読めば詩51はダビデ王の悔い改めの詩以外の何物でもないが、わたくしのように過去に棘ある身にはもう少し普遍的な意味を持ってくる。詳しい心情吐露は流石に省くが、一言一句が━━というわけではないものの特定の詩句は、未だ罪の意識を拭うことかなわず悪夢にうなされるわが身、わが心に突き刺さる。あたかも「忘れるな」、「罪を贖え、生涯を費やしてでも」といわれているような気がするのだ。
 おこがましい言い方ではあるけれど、ダビデ王の犯した罪、ダビデ王の悔い改めの告白が、まるでわたくし自身の告白を代弁しているように思えてならぬのである。そんな弱々しい本音を最後に記して、本稿の筆を擱く。読者諸兄の御寛容を乞う次第だ。

 「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。/御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。/御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。/恵みの御業をこの舌は喜び歌います。/主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。」(詩51:12-17)



 いよいよシネ響の第三弾、ムーティ=BPOによる<ヨーロッパ・コンサート・イン・ナポリ>の上映が始まりましたね。さんさんかは勿論さっそく観に行く予定ですが、やはり来週月曜日は避けるのが無難だろうか(たいていの企業が給料日でありますから)。いずれにせよ、第一弾のラトルのときみたいな失態は演じないつもり(嗚呼!)。来月から始まるMETのオペラ映画も早くチケット取らないとなぁ……。
 ふっ、<芸術の秋>、か。海外オケやオペラハウス、室内楽、ソリストらの公演以外にクラシック関係でお金が飛んでゆくなんて、昨年までは夢にも思わなかったぜ。散財の季節だ。でも、うれしいな。映画館でオペラやベルリン・フィル他が見られる(聴ける)なんて。もっともっとこんな機会が増えて、日常茶飯事になれば素晴らしいのに。◆

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第0742日目 〈詩編第050篇:〈神々の神、主は、御言葉を発し〉〉 [詩編]

 詩編第50篇です。

 詩50:1-23〈神々の神、主は、御言葉を発し〉
 題詞は「賛歌。アサフの詩。」
 「詩編」第二巻、《アサフ詩集》(第三巻;詩73-83を含む)。

 (旧訳)聖書の神は言葉で行動する神である、と、新共同訳聖書の付録「聖書について」に書かれている。本作はそれを裏附ける内容の詩。神は従う民、逆らう者へそれぞれ述べたあと、斯く宣り給ふ。曰く、━━
 「告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。/道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」(詩50:23)
━━ここに、神の意志が集約されている、というても過ぎはしないだろう。
 《第一コラ詩集》掉尾を飾った詩49とは、内容・思想共に同じ傾向にあるが、神の言葉を引いているせいか、こちらの方が堂々としていて説得力に富み、はるかに強いメッセージ性を持っているように、わたくしは感じた。
 神は、きちんといけにえを献げて道を過(あやま)たず歩む者を自ら裁き、かつ救いを与える。なんとなれば、正しいがゆえに神の栄光を輝かすからである。一方で神は、神の諭しを憎んで神の言葉を顧みず、それがために神を忘れる輩に対して、自らの力で以て裂き、救わない。神は朗々たる調子で、天の下に群れなすイスラエルの民へ斯く宣り給ふのだ。
 アサフはレビ人、ゲルショム族のベレクヤを父とする詠唱者。神の箱をエルサレムへ運ぶ際、ダビデ王によってその任を与えられた(代上15:19)。その子孫は第一次エルサレム帰還団に128人が登録。第二神殿建設の際、主を賛美する詠唱者として役割を果たした(エズ2:41,3:10)。
 詩50に曲を付けた音楽家にアレグリやラッススがいる。

 「麗しさの極みシオンから、神は顕現される。/わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。」(詩50:2-3)

 「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。/それから、わたしを呼ぶがよい。/苦難の日、わたしはお前を救おう。/そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩50:14-15)

 「神を忘れる者よ、わきまえよ。/さもなくば、わたしはお前を裂く。/お前を救える者はいない。」(詩50:22)



 パブでエールを飲みながら、ぼんやり大好きな人(いつまでも想い尽きないおぐゆーさん)のことを考える。あの蕩ける笑顔と妖艶な嘲笑を思い出すと、なぜか唇(くち)から《トリスタンとイゾルデ》の台詞が出て来るんだ。◆

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第0741日目 〈詩篇第049篇:〈諸国の民よ、これを聞け〉〉 [詩編]

 詩篇第49篇です。

 詩49:1-21〈諸国の民よ、これを聞け〉
 題詞は「指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。」

 《第一コラ詩集》掉尾を飾る。栄華繁栄、富裕のむなしさを説く詩で、「箴言」まであと数歩、というような内容である。
 この世でどれだけ栄華を極め、力を揮い、材を貯えようとも、いずれは誰も彼もみまかって父祖の列に帰るのだぞ? 斯く諭して、「人間は栄華のうちにとどまることはできない。(「栄華のうちに悟りを得ることはない。」)/屠られる獣に等しい」(詩49:13,21)と繰り返し、民の、ともすると驕りがちな欲望に釘を刺す。
 内容的には詩39に似、また、同様に栄華に浴した者への警告が発せられたことも、これまでに何度もあった(と記憶する)。「詩編」は旧約聖書に属して即ちユダヤ、キリスト教の重要な養分となっているが、そこで語られる/歌われる各詩については、全人類的に共鳴できる部分が多く含まれている。一例がこの詩49だ。どれだけ権勢を極めて財を成しても死んでしまえばただの人。まったくこの通りである。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の……」なんて俗な短歌とはまさしく対極に位置するというてよいのが、この詩49なのである。
 わたくしはこの詩を読んで、淡々とした調子に魂を寒くさせられた。「その土の底だけが彼らのとこしえの家/代々に、彼らが住まう所」(詩49:12)とは、思わず身震いさせられる句である。邪念を抑え、鎮めて平らかにあれ。
 嗚呼、でもこの詩から一体どこを引用すればいい? いっそ、丸々引きたい気分である。

 「わたしの口は知恵を語り/わたしの心は英知を思う。/わたしは格言に耳を傾け/竪琴を奏でて謎を解く。」(詩49:4-5)

 「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。/命のある間に、その魂が祝福され/幸福を人がたたえても/彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない。」(詩49:18-20)



 奄美の集中豪雨とそれに伴う被害が気になります。実は本ブログの読者に、奄美の方がお一人、いらっしゃいます。その方の安否は不明。「連絡ください」とはいいません。せめて、貴方がご家族やご近所の方々と一緒に無事であることを、さんさんかは切にお祈り申し上げる次第です。
 関東地方でも先程、10月22日00時24分から雨が降り始めた様子。天窓に打ちつける雨粒の音が、ふだんよりも大きく聞こえる。気のせいか、ちょっと寒くない。
 ○覚え書き;『白痴』少々ペース落ちる、自律せよ。◆

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第0740日目 〈詩篇第048篇:〈大いなる主よ、限りなく賛美される主。〉〉 [詩編]

 詩篇第48篇です。

 詩48:1-15〈大いなる主よ、限りなく賛美される主。〉
 題詞は「歌。賛歌。コラの子の詩。」

 詩48で作者は神そのもののみならずシオン、神なる主の坐すエルサレムを讃える。エルサレム目指して進んできた諸国の王は、エルサレムに自らの存在を示す神におののき、恐怖して逃れ去る(実際はそうではなかったが)。われらは、神殿に礼拝しては神が示した御業と慈しみを想い、讃美する。
 この詩のポイントは、地理的要素がプラスしていることかもしれない。プラス、というても、地名が具体的に入りこんでいるに過ぎぬ話だが。ここでシオン、即ちエルサレムは万軍の王、主の力の顕現する場所と同義とされ、畏怖される。日本のように八百万の神を戴く国には理解しづらい部分もないではないが、イスラム教やユダヤ、キリスト教のように一つの神のみを信じる一神教に於いては、神と信仰の中心はイコールで結ばれるのだ。この場合はむろん、神なる主とエルサレムがイコールで結び付けられる。
 シオン、エルサレムは神の都、神はこの都に坐してわれらを導く。民よ、語り伝え、喜び祝い、かつ躍れ。━━詩48が説くのは、だいたいそういうことだ。

 「大いなる主、限りなく賛美される主。/わたしたちの神の都にある聖なる山は/高く美しく、全地の喜び。/北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。/その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」(詩48:2-4)

 「後の世に語り伝えよ/この神は代々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」(死48:14-15)



 第0735日目に「太宰治・読書の第一期を終えて」という文章を書きました。それを読んだ20年以上の付き合いになる友人が、手紙を寄越してくれました。ぼくの太宰読破計画を直接知る数少ない人で、駄弁の受け手になってくれた友。その手紙に曰く、━━
 なぜ、あの14作なのか。「懶惰の歌留多」や「正義と微笑」、「禁酒の心」その他余す11作はどこへ姿を消したのか、と。
 なぜ? 申し訳ない、「誌面の都合でネ」としか弁明しようがない。が、自分なりに精選を重ねた結果でもあるのだ、とも、強く申し上げておく。第0735日目に挙げたのは、謂わば“ランクA”の作品群。選から零れた11作品はさしずめ“ランクB”であるが、誤解するな、実質は“ランクA”に等しいのであるから。やんごとなき理由により選を零れた、というだけのことなのだ。『津軽』や「東京八景」、「八十八夜」他がそこに含まれる。
 いつか、これら25作品を骨格に据えたエッセイを書きたいです。━━ん、あ、しまった。まだ太宰を全部読んだのではなかったんだ。いや、これは失敗、失敬した。許せ。◆

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第0739日目 〈詩編第047篇:〈すべての民よ、手を打ち鳴らせ。〉with『グレート・ギャツビー』から、最強のこの一節を。〉 [詩編]

 詩編第47篇です。

 詩47:1-10〈すべての民よ、手を打ち鳴らせ。〉
 題詞は「指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。」

 <ハレルヤ・コーラス>をご存知だろうか。メロディぐらいは耳にされていよう。ヘンデルの代表作、オラトリオ《メサイア》HWV.56の第二部の終曲である、おそらくベートーヴェンの《第九》に於ける<歓喜の歌>や、ヴェルディの歌劇《椿姫》第一幕で歌われる<乾杯の歌>と同じぐらいに有名な合唱曲だが、1743年ロンドン初演の際、臨席していたジョージ2世が感動のあまり右手を胸にあてて思わず立ちあがった、という故事を持って以来、<ハレルヤ・コーラス>になると聴衆みなが席から立つ風習を生むに至った(世界初演は1742年、アイルランドのダブリンで行われた)。余談だがわたくしは、アンドルー・デイヴィスがトロント交響楽団を振り、キャスリーン・バトルやサミュエル・レイミーらを独唱に迎えた盤を愛聴している(EMI imp)。これが最初に聴いた《メサイア》なのだ!!
 こんなことを長々と綴ったのは、詩47を読んでいて以来、ずっと頭のなかでこの<ハレルヤ・コーラス>が鳴り響いて仕方がないからで、一種の削ぎ落としの効果も狙ってのことだ。こう書けばおわかりいただけようが、詩47はイスラエルの神なる主、万軍の王たる主を讃えて讃えて讃えまくる、歓喜と親愛と崇敬の想いがあふれた詩である。ここまで手放しで讃美されると却って赤面しかねないが、そんな羞恥さえ圧倒的な、ほとばしる感情の前に色を失い呑みこまれてしまい、ふと気附けば深い懐に抱かれてみなと同じように主を讃えている。とは雖も、それは決して洗脳なんかではない。当たり前である。心の底にあって潜んでいた思いを解放しただけのことだ。が、むろん、これは嗣業の民にとっての話であり、立場を異にするわれらにまで適用されるケースというわけでは、断じてない。
 でもこの詩、問答無用で良い詩ですよね。

 「神は歓呼の中を上られる。/主は角笛の響きと共に上られる。/歌え、神に向かって歌え。/歌え、我らの王に向かって歌え。/神は全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。」(詩47:6-8)



 昨日は『グレート・ギャツビー』を再読した旨、書きましたね。再読するたび、ぼくは或る文章に魅惑され、はかなさを味わいます。長いけれど、引用します。
 「デイジーの色白の顔が彼の顔に近づくと、ギャツビーの胸の鼓動はますます速まった。もしこの娘にキスをして、この言葉にならぬ幻影を、彼女の限りある息づかいに永遠に合体させてしまったら、心はもう二度と軽やかに飛び跳ねることはないだろう。神の心のごとく。それが彼にはわかった。だから待った。星に打たれた音叉に、今一刻耳を澄ませた。それから彼女に口づけをした。唇と唇が触れた瞬間、彼女は花となり、彼のために鮮やかな蕾を開いた。そのように化身は完結した。」(P203-4 村上春樹・訳)◆

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第0738日目 〈詩編第046篇:〈神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。〉&フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』再読。〉 [詩編]

 詩編第46篇です。

 詩46:1-12〈神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。〉
 題詞は「指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。」

 われらにとって神は如何なる存在か、それは避け所であり砦である。われらを守ってくれる存在である。━━イスラエルの民にとって、神なる主がどれだけ心強い存在であるか、どれだけ太い精神的支柱であるかを語り、讃える詩が、この詩46である。
 コラの子の詩は、やはり(文字通り)歌われることを意識したものであろうか。《第一ダビデ詩集》と較べて普遍的な内容が語られている。集会の場で会衆が合唱するなら、或る程度まで単一の効果を狙うのは必然のことであろう。その方が魂の奥まで響くものだ。
 民の心を一つに束ね、信じる想いを刷りこませるには━━ゆらぐことなき、よろめくことなき信心を民に持たせ、常に主を意識して生活を律するようにさせるには、<歌>程有効な促進ツールはない、と思う。
 それが証拠に(?)、詩46はルター作曲の讃美歌「神はわがやぐら」(「讃美歌」第267番)の典拠となっており、「宗教改革の戦いの讃美歌」と称されて宗教改革者たちの支えとなった歌、であるそう。1546年、ヴィッテンベルグに於けるルターの埋葬式でも歌われた讃美歌である(バッハのカンタータ第80番《われらが神は堅き砦》BWV.80はこの讃美歌をベースに作曲された)。「神はわがやぐら」の歌詞については、発売されている『讃美歌集』を参照願う。また、多くの讃美歌のCDでもこれを聴くことはできる筈だ。



 鬱屈とした<もの>を抱えこむ羽目になった今日、どうトライしてみても『白痴』に心遊ばせることはできなかった。ラム姉弟『シェイクスピア物語』を開いてみても、うきうきするような気分は訪れず、ふと入った書店でフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を購入した。既に持っている本を新たに買った形だが、この小説をどうしてもいまこの瞬間に読みたい気分と衝動に襲われたのだ。とはいえ、架蔵するのは昨年も報告したとおり村上春樹の翻訳で、今日買ったのは『ライ麦畑』を翻訳した野崎孝による新潮文庫版。
 仕事帰りの新宿の喫茶店(スタバではない)にて、幾分か速いペースで読み進めた。コーヒー一杯でずいぶん長い時間居坐ってしまったらしい。でも、それを放っておいてくれる地下の喫茶店だから、意識が妨げられることなく『グレート・ギャツビー』の世界に集中できたようです(ぷっくらほっぺの可愛いメイドさんに感謝! むろん、そこはメイド喫茶ではない。あるわけがない)。
 ほろ苦い哀しみと崩れる夢の残滓をブレンドした、まさしくビター風味の名作を、今日こんな状態の自分が求めた理由がちょっとわかった。ぼくは、ギャツビーの抱える小さくて確かな希望に共感し、しかしそれが己の一途な想いでだけ辛うじて灯り続けていることを自覚しているわびしさに共鳴したのだ。“I am Gatsby”と宣言するには足りませんが、ギャツビーの心中(しんちゅう)が、昨年よりもはっきりとわかるような気がしているのです。◆

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第0737日目 〈詩編第045篇:〈心に湧き出る美しい言葉〉〉 [詩編]

 詩編第45篇です。

 詩45:1-18〈心に湧き出る美しい言葉〉
 題詞は「指揮者によって。『ゆり』に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。」

 婚礼の席に臨む王と王妃を讃える詩。凛とした品格にあふれた、心が洗われる詩である。
 この詩を読んでなにも感じぬ輩があろうか。そんな者、一人もいないと信じたいのだが……。
 特にコメントを付ける必要は感じないが、ちょっとだけ、要らぬ発言を加えてみよう。
 文脈をたどればこの詩、ダビデ乃至はソロモンの婚礼歌のように思える。そういう前提で読んでも価値を損なうものではないが、ただ、この2人の王にはあてはまらぬ記述もある。また、他の王についてもいえることではない。こんなことからハーレイは「ヨハネの黙示録」19:7を想起させる、「小羊の婚宴を前祝いしてのメシヤについての歌に相違ない」と述べている(『新聖書ハンドブック』P334)。
 そうなのかもしれぬが、われらの立場はあくまで非キリスト者、信仰を持つことなき者にして聖書を一個の物語集として鑑賞する者である。重層的な読書と理解は必要不可欠だが、キリスト者、或いは学者衆の意見に、見識なしにに引きずられるのは避けるべきだ。
 この詩、本音を申せば全文を引いて読者諸兄にご賞味いただきたいのだけれど、それは好奇心と興味と関心を削ぐ結果となりかねないので(己に呵々)やはりいつも同様さんさんかが個人的に気に入った箇所を引くに留めよう。とは雖も、みなさまにはぜひ直接、聖書の当該箇所を立ち読みでもいいから繙いて読んでみてほしいのである。希望は変わらぬ。
 ああ、でもこの婚礼の歌、良いなぁ……羨ましい。憧れます。

 「あなたは人の子らの誰よりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。/あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。」(詩45:3)

 「王妃は栄光に輝き、進み入る。/晴れ着は金糸の織り/色糸の縫い取り。/彼女は王のもとに導かれて行く/おとめらを伴い、多くの侍女を従えて。
 彼女らは喜び躍りながら導かれて行き/王の宮殿に進み入る。/あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ/あなたは彼らを立ててこの地の君とする。」(詩45:14-17)



 打ちのめされた、という気がする。信じて疑わなかった人々の、陰で誹謗中傷を囁く声がする。それは、悪意の衣を纏わぬ悪意。わたくしを取り巻く変わらぬ親愛、真綿にくるまれた鋭い刃。友情に包まれた底なしの闇。
 知らぬ間に変質して自分に向かって突き出される匕首。見えぬ刃が胸を抉り、いつまでも流れ続ける血が絶えることなく足許に流れて溜まりを作る。そこに、影が現れる。わたくしの後ろに立って、肩越しに溜まりのなかのわたくしを見詰めている。待っていた。◆

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第0736日目 〈詩編第044篇:〈神よ、われらはこの耳で聞いています〉〉 [詩編]

 詩編第44篇です。

 詩44:1-27〈神よ、われらはこの耳で聞いています〉
 題詞は「指揮者によって。コラの子の詩。マスキール。」

 バビロン捕囚の時代、かの地でユダヤ人が諸国民の間で侮辱されていた折の詩、であろうか。作者は神の栄光と御業によってイスラエル(ヤコブ)が守られていた時代を回想し(詩44:2-9)、異国の民のなかにあって捕囚として過ごす日々━━即ち、現在を語る後半とのコントラストをつける。
 こんな状況でも、連れて来られた嗣業の民は一途に想い慕う、先祖を導き民を慈しんだ神なる主を。たとえどれだけの屈辱を浴びせかけられようとも。かの地の民が信仰する神を信じることもなく。
 そうして作者はさらに願うのだ、主よ、立ちあがってわれらを助けてください、と。周知の如く、やがてそれは実現した。バビロニアが滅んでペルシアが覇権を握り、キュロス王が捕囚解放を宣言したことで。但し、作者がそれを経験したか、定かではない。

 「これらのことがすべてふりかかっても/なお、我らは決してあなたを忘れることなく/あなたとの契約をむなしいものとせず/我らの心はあなたを裏切らず/あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。」(詩44:18-19)

 「主よ、奮い立ってください。/なぜ、眠っておられるのですか。/永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください。/なぜ、御顔を隠しておられるのですか。/我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。」(詩44:24-25)



 今日のブログ原稿を仕上げながら、ペーター・マークが指揮したモーツァルトの交響曲第40番と第41番を聴いています。マークは、それまでどうあってもモーツァルトの懐に入れぬ者であったわたくしを導き、その世界へ誘ってくれた恩人である。
 それまでもワルターとベームのLPを聴いてきたけれど、彼らの指揮するすばらしいモーツァルトを聴いても、さっぱり感銘もなにも受けず、むしろ、疎外感ばかり味わってきたのだ。あの天国のように無垢な音楽に魂を奪われるような、或いは幸福感や、どんな些細な感動でもいい、それすら、微塵も与えられることはなかった。
 折しも来日公演が中止され程なく逝ったマークであったが、前後して晩年の彼がイタリアの地方オケを振ったモーツァルトが廉価盤で並ぶようになった。これを、一枚一枚慈しむように買って、毎日毎日倦かずに聴き耽り、夜はこれを聴いて眠り朝はこれを聴いて起きる、という程のファナティックぶりであった。
 爾来様々な指揮者のモーツァルトを聴いてきたが、いまやわたくしの座右からマーク指揮するモーツァルトは欠かせぬようになった。最近はもし己が空しうなってあの世の住人となった際、天国を垣間見ることが僅かでも許されるなら、ペーター・マーク指揮するモーツァルトをただ1回でいい、聴くことができたらもうそれで本望だな、なにも思い残すことなく課せられた罪を贖うことに従事できるな、とすら思うているのである。━━再会のために。◆

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第0735日目 〈詩編第043篇:〈神よ、あなたの裁きを望みます。〉&「太宰治・読書の第一期を終えて」〉 [詩編]

 詩編第43篇です。

 詩43:1-5〈神よ、あなたの裁きを望みます。〉
 題詞はなし。詩42と一ト続きの詩であったから、という理由からか。

 作者は敵陣のなかにいるが、その環境にあっても神なる主への信心を失うことがない。虐げられれば虐げられる程、人間は信じる<なにか>への想いをますます強うし、その想いはいや増しに増して揺らぐことなきものへと変わってゆく。この点、信仰も恋愛も同じではないか。
 最後の連、詩43:5は詩42:12と同じ。うなだれる魂を慰撫して鼓舞するポジティヴな言葉━━祈りで以て、これらの詩は輝かしく結ばれる。

 「あなたの光とまことを遣わしてください。/彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。」(詩43:3)
 ※「聖なる山」はヘルモン山。パレスティナを擁す山岳地帯では最高峰、標高2,800m超。



 これから先、しばらくはある程度まとまった字数で太宰治について書くこともないだろう。だから、というわけでないが、『白痴』に切り替えるまで読んできた9冊の文庫から、好きな作品、後日再び読むであろう小説を、心覚えも兼ねて、読んだ順番に挙げてみる。
 「ヴィヨンの妻」              「駈け込み訴え」
 「トカトントン」               「走れメロス」
 「桜桃」                   「令嬢アユ」
 『人間失格』                「散華」
 『右大臣実朝』               「葉桜と魔笛」
 「満願」                   「美少女」
 「富嶽百景」                「兄たち」
以上、14作。順位、ランクはない。ほぼ互角とだけいうておく。
 一般に太宰といえば、『人間失格』や『斜陽』に代表される<破壊と崩壊の作家>とレッテルを貼られること多いが、これを否定する気は毛頭ない。事実の一側面を確かに言い表しているからだ。が、そんな一面で括られるような、単純な作家でもないのだ。
 思うに太宰は針の振幅の激しい人だったのだろう。だから、同じ筆から「富嶽百景」のように叙情味ある作品、物語としては完璧極まりない「駈け込み訴え」、或いは「走れメロス」や「ヴィヨンの妻」のような名作中の名作までもが誕生したのであった。
 太宰治は、良くも悪くも小説家。骨の髄まで、枯れても腐っても小説家なのです。
 読み手の年齢や感性次第で、印象が千変万化する作家。これは、真に才能ある作家にのみ可能な芸当だ。太宰には、それがあった。世代と時代を超えて読まれ続けるのは、読者がそんな太宰の卓抜した芸当にすっかりやられてしまっているからだ。一旦離れてもまた時間をあけて戻ってくるのは、おそらくそんな理由からではないか。
 わたくし? そうね、前述の14作も含めて、近い未来に太宰再読、再度の熱中をするだろう。これが、所謂<ダザイ・ウィルス>の底力である(このウィルスの凄いところは、ノスタルジーゆえの再発ではない、という点だ)。
 太宰・第二期がいつから始まるかはわからない。しかし、そのとき、最初の本となるのは『晩年』と『二十世紀旗手』で、最後は『グッド・バイ』にする、とだけは決めてある。
 そろそろ擱筆か。では、結びの言葉はやはり太宰作品から引くとしよう。おわかりだろうか? 曰く、━━
 「以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」(『津軽』P211 新潮文庫)◆

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第0734日目 〈詩編第042篇:〈涸れた谷に鹿が水を求めるように〉〉 [詩編]

 詩編第42篇です。

 詩42:1-12〈涸れた谷に鹿が水を求めるように〉
 題詞は「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。」

 「詩編」第二巻、並びに《第一コラ詩集》(第49篇まで)と《エロヒーム詩集》(第83篇まで。「エロヒーム」とは「神」の意)の始まりである。
 「マスキール」は「教訓詩」と訳されるが諸説あり、つまるところ語意は不明だ。一部で「聡明な」とか「洞察する」などの訳例を見るが、個人的には「教導詩」という訳語を充てたい。
 また、「コラ」は代上6:22にて詠唱者の一人として名を連ねるレビ人である。子孫も代下22:19にて詠唱者の役を担っている記述が残る。但し、捕囚解放後のエルサレム帰還団のなかに一族の記録はない。

 新共同訳に“42(-43)”とあるのは、詩42と詩43が元は一ト続きの作品であった可能性を踏まえてのことだ。
 詩の作者は敵陣のなかにいた。いつの時代かはわからぬ。捕囚期であるかもしれない。とにかく、作者はイスラエルの嗣業の民とは信じる神を異にする衆のなかにいた。
 彼らは作者を虐げ、嘲りながら、執拗に、お前の神はどこにいる、と嬲られる。本当にお前が神と契約を交わした民の一人なら、お前をこの逆境から簡単に救い出してくれるはずであろうな、と嘲笑されているのだ。
 いわば四面楚歌の状況にあって、作者は自分の神に祈り、待ち望む。確固とした信心がなければできぬことだ。或る意味に於いて、祭儀を司るレビ人だからこそ詠み得た詩、といえるのではあるまいか。ゆらぐことなく、よろめくことなく正しい神の道を歩んだがゆえの心の強さ。われらはまずそれに感嘆し、その言わんとするところを虚心に尋ね求めるべきかもしれない。

 「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある。/わたしの命の神への祈りが。」(詩42:9)

 「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻(うめ)くのか。/神を待ち望め。/わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。/わたしの神よ。」(詩42:12)



 『白痴』ってユーモア小説なんだ、と膝を叩いた。公爵を中心に据えた<群衆喜劇>。アクの強い人物が雁首揃えて物語を愉快にさせ、膨らませ、かつ混迷させてゆく。それでも読ませる馬力には「さすが」と感嘆する他ない。いちばん親しみやすい長編で作者が最も愛した作品、ユーモアと恋愛が程よく調和した『白痴』を、腹据えてじっくり読もう。◆

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第0732日目 〈詩編第041篇:〈いかに幸いなことでしょう〉〉 [詩編]

 詩編第41篇です。

 詩41:1-14〈いかに幸いなことでしょう〉
 題詞は「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」

 病に臥している人が失地回復を期して、主に再起を願う詩。床に在るときは敵や二心ある者も見舞いに来て、口々にいたわりとやさしい言葉をかけてゆくが、一歩外に出ればその口からは、中傷と悪口雑言が代わって吐き出される。そんな連衆に対して、いま一度主よ、わたしを憐れみ再起させてほしい、と「無垢なわたし」(詩41:13)は不乱に願うのだ。
 これをアブサロム反逆の折の詩と見る向きがあるそうだ。背景を成すのはサム下15。この時分、ダビデは病床に在り、それゆえ実子アブサロムに反逆計画を整わせる猶予を与えてしまった、というのだ。その場合、「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者」(詩41:10)はダビデ王の顧問であり、やがてアブサロム側に寝返ったアヒトフェルを示す。
 顧みれば「詩編」第一巻、即ち《第一ダビデ詩集》は、ダビデ王が王都エルサレムへ肉迫するアブサロムの手を逃れた際の第3篇から、実質的に始まった。その第一巻が同じアブサロムにまつわる詩で終わる、というのもなんだか面白い。これは「詩編」の編纂作業が極めて作為的に行われたことの証左であろう。

 「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。/災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。/主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。/貪欲な敵に引き渡さないでください。/主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」(詩41:2-4)

 「主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。/アーメン、アーメン。」(詩41:14)



 『気分はいつもシェイクスピア』(小田島雄志 白水社)は、個人全訳を果たした著者が、テーマごとに全作品から名台詞を編んだ一冊。
 例えば<悲喜を語るシェイクスピア>。『ヴェニスの商人』から「どうせ年をとるなら陽気な笑いでこの顔に皺をつけたい」というアントーニオの台詞を引いて、独身時代はこの言葉に共鳴できなかったが、結婚した夫人のお陰もあって、新婚早々から友人たちが家に来るようになり、この台詞に心から共感できるようになった。シェイクスピアの台詞にはわれらが共感できる側面もある、実は生きている言葉/台詞なのだ、と教えてくれるのだ。
 シェイクスピアは人生を書き、哲学を書き、運命を書き、心理を書き、恋愛を書いた。その数、全37作。本書はそのエッセンスである。シェイクスピアは人生を豊かにしてくれる糧だ。まずは本書から、あなたのシェイクスピア体験を始めよう。◆

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第0731日目 〈詩編第040篇:〈主にのみ、わたしは望みをおいていた。〉〉 [詩編]

 詩編第40篇です。

 詩40:1-18〈主にのみ、わたしは望みをおいていた。〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌」

 イスラエルの嗣業の民、即ち主にのみ信頼を置く人の喜びと誇りを歌う。主を尋ね求める人が主により喜び祝い、主を崇めることをいつも歌うように、とも。
 意志のはっきりした、明快な詩だ。<賛歌>と称すにふさわしいだろう。こういう作を、清らかな心を持った詩、というのではないか。異民が信じる神の名を出す点を考えると、改宗者を不特定多数含んだ集会などの折に歌われた詩かもしれない(ex;詩40:3-5)。
 でも、と思う。これまで読んできた箇所に、確かこんな文言があったのではなかったか、と。即ち、━━「混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。/アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることができない。(中略)かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。あなたの神、主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、主があなたのために呪いを祝福に代えられた。(中略)あなたは生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない。」(申23:3-7)
 申命記と詩編の記述が生み出す矛盾。これは、バビロン捕囚とエルサレム帰還を経て、<会衆>という概念に変化が生じた、ということでしょうか。信仰はもはや限定されるものではなくなり、異民であろうと求める者があるならば改宗を認めた。それは共同体への加入を許可し、集会への参加も許す、という、寛容かつ普遍的なものへと変化しつつあるのを端的に伝えるのかもしれません。

 「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み/大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。/主よ、あなたはそれをご存知です。/恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。/主よ、あなたも慈しみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。」(詩40:9-12)



 これまで避けていた作家、何作かで離れた作家を改めて読み直す機会として、ドラマや映画の原作になることが挙げられよう。わたくしの場合は東野圭吾と高村薫で、WOWOWにてそれぞれの代表作が映像化される。東野圭吾は『白夜行』と『幻夜』(集英社文庫)、高村薫は『マークスの山』(講談社文庫)。これを契機にもう一度……、と考えた。幸い未読な作品でもある。が、未だ読むことかなわぬ。仕事以外の時間は聖書とドストエフスキーに費やされてしまう。なんとか時間を捻り出さねば━━。休みの日は時間を分割してまずは東野から。おぐゆーさんを想い、時間管理をきちんとして、消化してゆこう。◆

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第0730日目 〈詩編第039篇:〈わたしは言いました。〉〉 [詩編]

 詩編第39篇です。

 詩39:1-14〈わたしは言いました。〉
 題詞は「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。」

 新共同訳旧約聖書では「コヘレトの言葉」、一般には「伝道者の書」という書名で知られる書物のなかにあっても浮いたものを感じない、人間存在のはかなさ・むなしさ・人生の短さを語る詩。きっとこういう感慨って、ふとした折に誰もが思いをめぐらせる類のものであろう。この詩や「コヘレトの言葉」だけではない。わが国にも既に吉田兼好や鴨長明、夏目漱石という得難き先達がいる。
 エドトンはダビデ王が詠唱者を決める際、アサフとヘマンと並んでその任に就いた者(代上25:11)。また、彼らはダビデ王附きの先見者でもあった(代下35:15)。この記述を基にすれば、ダビデが作った詩を詠唱者(歌手)エドトンが歌った、ということになるだろう。
 詠み人は、目の前で起こる数々の負の行為に慨嘆し、口を閉ざして沈黙を守った。やがて許容量を超えてしまったために心のバランスを崩した。それを主に訴え、助けを求めている(四字熟語をアレンジすれば、「外愁内患」となろうか)。それが高じて、人生のむなしさを語る詩となったのだ。

 「ああ、人は影のように移ろうもの。/ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡ることも知らずに積み上げる。」(詩39:7)

 「わたしをさいなむその御手を放してください。/御手に撃たれてわたしは衰え果てました。/あなたに罪を責められ、懲らしめられて/人の欲望など虫けらのようについえます。/ああ、人は皆、空しい。」(詩39:11-12)

 「あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。」(詩39:14)



 ノイローゼになりそうだ。呆れてしまう話かもしれないが、未だに彼の人を想うておる。その濃度、まったく薄まることはなく、しかしながら微量と雖も濃さは増している模様だ。
 いまでもあの人と交わした僅かの会話を思い出すことができる。その状況も、そのときのあの人の表情や口調も、なにもかも、すべて。時が経てば少しは記憶もぼやけてゆくのだろう、と最初の間は思っていた。悲しいが、どこかでそれに期待していた節もないではない。が! それは儚い望みとなった。いまでも変わらず、というのがなによりの証し。
 最近になって特に頻発しているのだが━━あの人の容姿を明瞭に記憶しているからか、街中ですれ違う人、遠目に見た人、特徴のよく似た人を見れば、あの人か、と惑い息を詰め、声をかけそうになる自分を必死で思い留めたり、思わず知らず見詰めてしまいがちなのをなんとか抑えようと努めること、度々である。殊にそれが夜で、誰か異性と親しげにしていたりする人だったりすると、もう……(以下、自粛;でも、だいじょうぶ)。似た人なんて幾らでもいる。この世に瓜二つの人が3人はいる。はいはい、それは承知だ。でも、そんな冷静な言葉は、恋の炎を胸奥で燻らせているわたくしには、到底できぬ届くはずのない言葉でもある。
 あれから2年が経とうとしている。変わっていないのは自分だけかもしれない。でも、あの人より16歳も上ならば、今更なにが劇的に変化しようか(変化なんて、結婚しましたとか子供ができました、とかその程度だろうに。でもそれさえ、いまのわたくしには縁なき幸なのだ)。
 一方であの人の場合、自分を取り巻く環境はこの2年で大きく変化した。新社会人になったのだから、当然だろう。新しい環境にも馴れ、仕事も面白くなってき、恋人だってできたかもしれない。そんな可能性の高いあの人の現在を想像しても、納得したくない自分がいるのを否定できないのだ。嗚呼。
 ただ希望は、溝を埋め距離を約め、互いに目線を同じうして、歩調も合わせて、話したいだけなのだ。それがはじまり。一緒に歩いて話をしよう、まずは一歩を踏み出そう。それが現実となることが希望。
 われらはまだ変わることができる。過去の行き違いと誤解はまだ正される。
 このままだと、本当にノイローゼになりそうだ。
 おぐゆーさんへのこの想いの表白は、即ちわたくしことさんさんかの信仰告白に他ならない。わたくしはあなたを尊敬し、敬います。あなたから心を離すことはなく、あなたを裏切りません。◆

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第0729日目 〈詩編第038篇:〈主よ、怒ってわたしを責めないでください。〉〉 [詩編]

 詩編第38篇です。

 詩38:1-23〈主よ、怒ってわたしを責めないでください。〉
 題詞は「賛歌。ダビデの詩。記念。」

 犯した過ちが重荷となってのしかかる。骨にやすらぎはなく、肉にまともな部位はない。心は嘆き喚くばかり。疫病にかかったわたしを、みなが遠ざける━━親しい人も、愛しい人までも。わが心は弱り、敵は増長してわたしの破滅を目論む。
 私はあなたを待ち望みます、主よ。「わたしは今や、倒れそうになっています。/苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり/私は自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。」(詩38:18-19)私は彼らの幸いを願っているのに、なぜこんな目に遭わなくてはならないのか。どうかわたしを救ってください、主よ。
 ━━抵抗する体力も抗議する気力も失くし、支え励ましてくれる人も周りからはいなくなってしまった。いまや謂われなき誹謗と敵意がわたしを襲い、失意に堕とす。<絶望>と<孤独>が彼の心を蝕んでゆく。その状況下にあって、神へ救いの手を差し伸べてほしい、と願う気持ち、よくわかる。
 が、どれだけ濃い闇のなかにあろうとも、あなたを見てくれている人はいる。如何に絶望しようとも、希望はある。未来を諦めては駄目だ、悠久の希望は目の前の闇のすぐ向こう側にあり、あなたが再び立ちあがって歩み出すのを待っている。



 ・中川翔子主演『恋の正しい方法は本にも設計図にも載っていない』を観た。
 ・ドストエフスキー『白痴』上巻を再度、読み始めた。登場人物の整理をしよう。
 ・三連休にカップルでお泊まり予定されている方々、ご愁傷様。
 ・眠くてたまらぬ。残り600字前後を埋めるつもりでいたが、起きていられる体力はもう限界かも。明日以後、ここには手を加えると約束しよう。
 では。◆

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第0728日目 〈詩編第037篇:〈悪事を謀る者のことでいら立つな。〉&映画『オカンの嫁入り』を観てきました。〉 [詩編]

 詩編第37篇です。

 詩37:1-40〈悪事を謀る者のことでいら立つな。〉
 (アルファベットによる詩)
 題詞は「ダビデの詩。」

 ハーレイによれば「最も愛好される詩篇の一つ」(P330)。少々長いが、わたくしも好きだ。
 自らが置かれた状況を愚痴らず、「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(詩37:7)。悪事を謀る者、主に逆らう者には神の報いが降る。彼らは必ず滅びるのだ。小羊が焼かれて煙となるように。
 「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。/神の呪いを受けた者は断たれる。」(詩37:22)
 嗣業の民よ、正しくあれ、主の慈しみに生きよ。神の教えを心に留めて、神の道をよろめくことなく歩め。大切なのは、無垢であろうと努めること(悪に染まらぬよう意識しておくこと)と、まっすぐに見ること(どんなときでも神なる主を仰ぐこと)である。君よ、わたしよ、正しくあれ。
 「主に従う人の救いは主のもとから来る。/災いが降りかかるとき/砦となってくださる方のもとから。/主は彼を助け、逃れさせてくださる。/主に逆らう者から逃れさせてくださる。/主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩37:39-40)
 ━━この詩をわたくしが好むのは、語り、伝え、訴えんとすることが実感としてわかるからだ。翻訳を通しての鑑賞しかわたくしにはできないが、それでも時空と言語の彼方から魂を揺さぶられるのを感じる。優れた詩にのみ可能な<技>であろう。
 ぜひみなさん、聖書を手にして読んでみてください。騙しはしません、真実すばらしい詩と出会えます。

 「あなたの道を主にまかせよ。」(詩37:5)
 「主に望みをおき、主の道を守れ。」(詩37:34)



 映画『オカンの嫁入り』を観てきました。家族と、観に行った。
 「観てよかったな」と思える映画に、実は今年は殆ど出会えていない。が、これはアタリだった。じん、と来た。心があったかくなった。
 <家族>って、自分たちだけで機能しているわけじゃない。その<家族>にかかわる周囲の人たちがいてこそ、しあわせも悩みも悲しみも喜びも、みんな生まれて育まれてゆくんだ。
 観終えたあとはしあわせな気分だった。家族に対して優しくなれた。生んでもらえたこと、育ててもらえたことに、素直にいえた、「ありがとう」と。それだけでじゅうぶん。だって、こんな良い映画に駄弁を費やす必要なんて、あるのかな? 
 この映画については、以上で終わり。そっと、胸の奥にしまっておきたいのです。◆

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第0727日目 〈詩篇第036篇:〈神に逆らう者に罪が語りかけるのが〉〉 [詩編]

 詩編第36篇です。

 詩36:1-13〈神に逆らう者に罪が語りかけるのが〉
 題詞は「指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。」

 神に背いて罪を犯す者の愚かさが、神を信じて畏れる人の正しさに対比される。
 この詩の第一連は、神に逆らう者の心へ罪が囁きかける様を詠み人が報告する、という内容。そのあとに、主の慈しみの貴さを語り、主を知る者の上に慈しみが与えられますように、と祈る二連が続く。……ここに小さな疑問が生じた。第一連と第二、三連の内容は噛み合っていないのではないか、という疑問。
 第一連で神に逆らう人とは如何なる者かを読者に教えたなら、第二連以下には背いて倒れることを定められた者の改心を願い、「主よ、どうかそのような者にも慈しみを与えてあげてください」という祈りが続くことを━━すくなくともわたくしは━━期待し、また当然だと思うてしまう。
 「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。/彼の前に、神への恐れはない。/自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。/彼の口が語ることは悪事、欺き。/決して目覚めようとも、善を行おうともしない。」(詩36:2-4)
 だのに詩36はこう〆括られるのである。曰く、━━「悪事を働く者は必ず倒れる。/彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。」(詩36:13)
 結局はそこへ落ち着くのか! と要らぬツッコミを入れたくなってしまう。成程、改心した者も改宗した者も、すべからくそうした<異類>を共同体は認めない、ということか。専横主義ここに極まれり、だな。
 わたくしは信者ではないし学者でもない。ゆえに信仰と思想に束縛される立場でないが、斯様な者であっても、<聖書を読むという行為>には書かれていること・伝えられていることを丸ごかしに呑みこんで、内容を咀嚼しなければならぬものなのか。ならば一体どこに、鑑賞と思考の入りこむ余地があるのだろう。こう申し上げて、以下は自制するとしよう。
 でもまあ、読み直すにつれてちょっとずつだが良さのわかってくる類の詩ではありますよね。

 「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。/心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。/神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。」(詩36:11-12)



 聖書を読むに際してお世話になっている本は、岩波版聖書とティンデル註解書など様々あります。が、いずれも図書館から借りればじゅうぶんで所有する程ではない、と思う。では架蔵する本は、と来ればヘルマン&クライバー著『聖書ガイドブック』(教文社)になるわけで、いままでもそれなりに恩恵を受けてきたのですが、そこに今日(昨日ですか)、新しい一冊を加えることができました。
 発売以来、ずっと欲しくて欲しくて溜まらず、でもいざ買おうとするとそのたび躊躇し、後回しになってきた本を。ヘンリー・H・ハーレイ著『新聖書ハンドブック』(いのちのことば社)です。発行は2009年5月。一年半近く購入を悩んできた寸法になりますね。
 これのどこが優れているかといえば、各書物が懇切に紹介されている点以上に、聖書を読むときのヒントと知識がまとめられている点と図版の充実している点の2つが挙げられます。「聖書の中心的メッセージ」や「聖書の背景」という有益な情報と知識をまとめた記事、新約聖書の時代以後の教会の歴史や聖書考古学、聖書本文についてなどの記事があるのは、大変重宝します。また、読んでいて倦くんだときなど気分転換にもなる。なによりもこの本ならでといえるのは、原著者ヘンリー・H・ハーレイがなぜこのようなハンドブックを作るに至ったかを語る「ヘンリー・H・ハーレイの思い出」でありましょう。書いたのは、著者のひ孫パトリシア・ウィッカー。
 聖書を繙く際は座右に置いておきたい。道に迷ったら、きっとこのハーレイの本が遠くから明かりを灯してくれる。そんな風に、この本あることを心強く思うのであります。
 クライバーといえば余談だが、クライバー伝の下巻が出ましたね。待ちくたびれた。◆

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第0726日目 〈詩編第035篇:〈主よ、わたしと争う者と争い〉〉 [詩編]

 詩編第35篇です。

 詩35:1-28〈主よ、わたしと争う者と争い〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 常より世人のためを思うて奔走する者がいた。なのにその人は、事あれば後ろ指をさされる。おまけに身に覚えのないことで執拗に責められ、かつ打たれる羽目に陥る(やることなすこと、すべて裏目に出ちゃう人っていますよね)。どうか主よ、正しい者を救い、そうでない者に相応の裁きを与えてください。
 謂(いわれ)なき迫害に苦しむ者が、心の底から偽りなき気持ちを吐き出した詩である。古今東西、こんな人物を見舞う災難は共通している。災難をもたらす者も、概ねパターン化している。いじめにあった経験のある人が読めば、深く首肯する箇所もあるのではないか。集団のなかにあって自然と孤立してしまうタイプの人も、はた、と膝を叩く部分があるのではないか。さんさんかはありました、はい。
 われらはいま、ユダヤ教・キリスト教の教典である聖書を読んでいる。とはいえ、日本人の圧倒的多数はその信者ではない。文学や芸術━━特に絵画とクラシック音楽(概ね大バッハの時代、或いはそれ以前の音楽。もしくは賛美歌である)を通して、専らそれに親しんでいるだけである。
 が、人間の<思い>とは普遍的なものだ。聖書や「詩編」を読んでいて、ああこれはわかるな、とすんなり感じられることがある(胸にすとんと落ちるところがある、と村上春樹ならいうだろうか)のは、そこで語られる事柄、文章の一節に共鳴できる<思い>を抱いているからに他ならない。国や言語、文化といった育った環境に関係なく。……ねぇ、それって凄いことじゃない?

 「無実なわたしを憎む者が/侮りの目で見ることがありませんように。」(詩35:19)

 「苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が/共に恥と嘲りを受け/わたしに対して尊大にふるまう者が/恥と辱めを衣としますように。」(詩35:26)



 以前に書いた記憶があるが、昼はスタバに行って、コーヒーとシュガードーナツで済ませている。貧乏なのではない、それでじゅうぶん足りてしまうのだ。経済的にも、こちらの方が支出は少なくて済むのだ。
 コーヒーも好きで、ドーナツも好き。と来れば、スタバでしょう。が、実はもう一つの選択肢がある。そう、ミスドだ。会社のそばにはないが、自宅のそばにはある。休みの日にはたいてい寄る。そこで、コーヒーとドーナツ各種あれこれを頼む。窓際の席に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めながら、ああ、今日もドーナツが美味しいや、おいらしあわせだなぁ、と胸をポカポカさせて過ごすのだ。
 帰り際、またもやドーナツをあれこれ買いこんで持ち帰り、ミスドの袋をぶら下げてスタバに寄って、またもやコーヒーとドーナツを頼んで席へ坐って小説を読んで、駅に行く途中にある珈琲屋さんでコーヒー豆買って帰るなんて、なんだかもう常軌を逸しちゃっていますよね。でも、ときどきですよ?
 だけど、しあわせ。下手なグルメ三昧よりよっぽど贅沢で豊かじゃん。ほほほ。まぁ、心のどこかに欠落した部分があるのを認めるに吝かではないけれど。
 いやぁ、でも、ドーナツ食べながら読む村上春樹って超絶ハマリすぎてて、いやはやなんとも、な世界ですよね。これで羊男シリーズ(『羊男のクリスマス』とか)なんて来た日にゃあ……。ああ、なんだかドーナツ食べたくなってきたぞ、夜中なのにね。ん、コーヒー? 心配するな、いまPCの脇にある。◆

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第0725日目 〈詩編第034篇:〈どのようなときも、わたしは主をたたえ〉〉 [詩編]

 詩編第34篇です。

 詩34:1-23〈どのようなときも、わたしは主をたたえ〉
 題詞は「ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。」

 苦難のさなかにあった者が救われた。主を畏れ敬ったからだ。彼もしくは彼女は「ありがとう」と主に感謝し、讃えた。それから、他の人々へも、主を畏れその道を歩むことの意味を訓(おし)え、導かんとする。いわば教訓の詩だ。
 語られることはここでも余り変化はないが、救われた者が自ら身を以て経験した主の恵みを第三者へ語り、君たちもわたしと同じように主を敬えば必ず加護があるのだ、と説く構造は、この詩34で初めて登場するのではないか。怪しい記憶を手繰って、そんな風に思うたのである。
 題詞について。詞と詩の間に関連はない。ダビデが「狂気の人を装い、追放された」のは、ノブの祭司アヒメレクでなくガトの王アキシュの御前に於いてである(サム上21:13-16)。その錯誤ゆえに拘泥する理由はない。
 むしろ、敢えてこの詩の収まり所を考えるならば、「ヨブ記」の終幕でないか。最後、信仰を取り戻したヨブが、主への絶対の信仰とその道を外れることなく歩む正しさを教える言葉━━。そんな視点から詩34を洗い直すと、外から見ても内から見ても、寸分の隙もなく収まるのである。
 詠み人はいう、「子らよ、わたしに聞き従え。/主を畏れることを教えよう。」(詩34:12)と。そうして斯く説く、━━
 「主は従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。/主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から断たれる。/主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。/主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。/主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。/主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。/主はその僕の魂を贖ってくださる。/主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。」(詩34:16-23)



 “Always remember,others may hate you,but those who hate you don't win unless you hate them.”「このことをよく覚えておきたまえ。もし他人が君を憎んだとしても、君が相手を憎み返さないかぎり、彼らが君に打ち勝つことはないんだよ」(村上春樹『うずまき猫のみつけかた』P30 新潮文庫)
 ニクソン死去を伝える新聞で紹介されていた、彼が日頃口にしていた台詞である、そうだ。強い。ブレがない。芯がしっかりしている。もっと早く出会いたかった。
 『グレート・ギャツビー』でニックが紹介する父の台詞と共に、<言葉の花束>に載せて伝えたいなぁ、この台詞。心が弱っているときは、こんな言葉を胸に響かせておこう。◆

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第0724日目 〈詩編第033篇:〈主に従う人よ、主によって喜び歌え。〉〉 [詩編]

 詩編第33篇です。

 詩33:1-22〈主に従う人よ、主によって喜び歌え。〉
 題詞なし。

 「詩編」所収の各詩は、むろん、イスラエルの人々の誰彼によって詠まれ作られ、その共同体で歌われてきたのである。詩33はそれを顕著に著した作品だ。
 その内容はといえば、━━
 いかに幸いなことか。われらイスラエルの神は天地を創造して嗣業の民を慈しみ、諸国の企みを退けてきた。神なる主は、その慈しみを求め主を畏れる人を愛す。
 「主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり/御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。/人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩33:13-15)そのいかに幸いなことか。━━。
 彼らにとって神、主は信じて奉る唯一の存在。その主によって命を与えられ、今日に至るまで血脈を保ち繁栄してきたイスラエルの嗣業の民であることは、他のなによりも自らのアイデンティティを確かめ、守るための誇りである。そんな点から申せば、散文に於ける「歴代誌」の役割を、韻文という形ではこの詩がその役を担っている、と考えるのは過ぎた考えだろうか?
 詩33は捕囚から解放されてエルサレムへ帰還して、第二神殿の建立・完成からさして経たぬ頃に詠まれたものか。それにしても、ストレートな作物である。

 「我らの魂は主を待つ。/主は我らの助け、我らの盾。/我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。/主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。」(詩33:20-22)



 どうにも自分にゃ縁のない世界、というものがある。わたくしの場合、それは特にミステリ小説の執筆である。好きだが書けない。頭の構造が向いていないようだ。何作か書いたことはある。出来は未熟で結末は取って付けたような、箸にも棒にも引っかからぬ代物。自分で認めるのは癪だが、認めるより他ないのだ。まぁ、救いはそれでも完結させたこと。ショート・ショートぐらいの分量だから、完結も当然といわれれば黙って頭を垂らすよりないのだが(でもな、「未完の傑作よりも完結した凡作」というではないか)。
 悪戦苦闘を繰り返すうちに、このジャンルの小説は読んで楽しむもので、自分が書く分野ではない、とはっきり認識した。自分にはホーム・ドラマとダーク・ファンタジーの方がお似合いだ。書いていて、楽しい。S.キングと向田邦子の影響を考えれば当然か。というわけで、もしかすると江戸川乱歩賞とかこのミス大賞とかを受賞して華々しい活躍を繰り広げていたかもしれぬ我が輩のキャリアは、現役作家に舞台を提供して活躍ぶりを好々爺の如き眼差しで見守ろうという誇り高き決意により、<幻>となったのである。呵々。◆

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第0723日目 〈詩編第032篇:〈いかに幸いなことでしょう〉〉 [詩編]

 詩編第32篇です。

 詩32:1-11〈いかに幸いなことでしょう〉
 題詞は「ダビデの詩。マスキール。」

 冒頭でびっくりさせられる。これは罪を犯して━━というか、主に背いて悔悛したイスラエルの民人の歌なのだ(この詩に関しては、“詩”というよりも“歌”というた方がぴったり来る)。しかも最後の二段落(32:8-9,10-11)は詠み人から離れて、主の言葉と会衆の詠唱となる。これを「ダビデの詩」と称すのはやや無理があるように思うのだが……。
 これまで主への信仰を詠い、背いたことへの赦しを求める場面は「詩編」に限らず、これまでの書物でたびたびお目に掛かってきた。そういったものと比較しても、この詩32は一頭地を抜く存在であるように思う。斯く思わしむるだけの、詠み手の心を揺さぶる力をこの詩は内包している。朗唱・朗読するにふさわしい詩である。

 「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。/いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのないひとは。」(詩32:1-2)

 「あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。/大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。/あなたはわたしの隠れが。/苦難から守ってくださる方。/救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。」(詩32:6-7)

 「神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。/神に従う人よ、主によって喜び躍れ。/すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」(詩32:10-11)



 「詩編」に入ってからこの方、太宰治(やがてドストエフスキーになる)を除けば詩集ばかりを多く読み、枕辺、机上、床上へ積み重なっている。新しく購入した本は殆どない。多感なる美しき惑いの年頃に買い集め、今日へ至るまで大事に読み続けてきた、火事をくぐり抜けて手許に残った幾冊もの詩集。
 今日(昨日ですか)、改装したTSUTAYAの中古本売り場にて、手放してしまった詩集を買った。岩波文庫から出ている『フランス名詩選』である。14世紀のド・ピザンから20世のプレヴェール、レーモン・クノーまで選ばれた詩人60人、詩は99編。対訳である。何度か読むうちに、好む詩人ができた。シュルレアリズムの文学者たちの詩にツマラヌものを感じた。ネルヴァルやヴァレリー、ジャムの詩の美しさを改めて認識し、ボードレールにはこれまで以上に惚れこんだ。
 「詩編」に格闘するなかで幸あったことは、離れていた韻文学への再びの親炙である。その過程で『フランス名詩選』と再会できた幸運に感謝。……やっぱり詩っていいな。◆

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