第0789日目 〈詩編第091篇:〈いと高き神のもとに身を寄せて隠れ〉&映画『SPACE BATTLE SHIP ヤマト』を観てきました。〉 [詩編]

 詩編第91篇です。

 詩91:1-16〈いと高き神のもとに身を寄せて隠れ〉
 題詞なし。

 勅撰和歌集の場合、詞書や詠み人の記載を欠くと前の歌に付せられたそれらを承ける。では「詩編」の場合、題詞を欠く詩は前の詩の題詞を承けることができるか? 否、と断ずることが出来ぬのが、いちばん頭を悩ませる。「モーセの詩」というて、モーセ作なのかモーセにまつわる詩なのか、実際読むまではわからないからだ。
 今回の詩91は、あきらかにモーセにまつわる詩である。モーセを指して「あなた」と二人称を採用しているところから既に確かだが、最後に引かれた主の言葉でもモーセは「彼」と呼ばれているあたりでこれ以外の論を待つ必要はないだろう。
 これは、神の人モーセを顕彰する、おそらくはレビ人がかかわって作られた詩。神の山ホレブにて燃える柴から現れた神に召命され、苦しむイスラエルをエジプトから救いカナンへ導くよう定められたモーセを讃える詩。神に庇護されたモーセを讃仰する詩である。
 「詩編」のみならず聖書全体を通しても、メシアたるイエスの登場を予告する詩篇を除けば、斯様に個人を讃える詩や歌が存在するのは珍しいのではないか。稀少であるがゆえか、こうしたメシア詩篇やモーセ詩篇を読むのはとても心地よい気分にさせてくれる。このやすらかさにいつまでも身も心も浸していたいのだ。

 「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」(詩91:11)



 終業後、レイトショーで『SPACE BATTLE SHIP ヤマト』を観てきました。子供時代に洗礼を受けたなら、観に行きますよね!? いやぁ、この日が待ちきれなかった。同僚には「キムタク好きなの?」と訊かれたが、敢えて否定はしない、とだけ申しあげておこう。
 やや大味だったが感嘆した、というのが全体的な感想。確かに世界レベルで通用するSF映画の誕生ですね。それが『ヤマト』という国民的作品で果たされた、というのが、いちばんうれしいのだ。「敢えて語らず見せず」な演出もなかなか良かったですよ。未公開シーンを復元した完全版があるなら、是非にでもそれを鑑賞したい。DVD化されたとき、そんな希望がかなえば嬉しいな。
 ちょっと恥ずかしいけれど本当のことをいえば、思わず涙流れちゃいましたよっ! ガミラス上陸作戦に先駆けて古代が演説するシーンと、ラストのガミラス艦への特攻シーンでは、唇を噛んで、じっ、とスクリーンへ釘付けになっていました。こんなに胸震わせられる映画と今年最後に出会えたのを感謝します。正直、ここまでミス・キャストなしの映画に仕上がるとは思っていなかった。SFXも良いが、やっぱり最後は人なのですね。
 この映画、ぎりぎりセーフで今年観た邦画ベスト4に認定!◆

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第0788日目 〈詩編第090篇:〈主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。〉〉 [詩編]

 詩編第90篇です。

 詩90:1-17〈主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。〉
 題詞は「祈り。神の人モーセの詩。」

 「詩編」第四巻が始まる。詩90-100,104-105は《モーセ詩集》、第四巻の中心を成すグループであり、途中で《第三ダビデ詩集》などが入る。
 この詩90は「詩編」の中でも最古の作か、とされる。なお、モーセの詩/歌は他に出15と申32にあった。
 神にとって千年の時間の流れは昨日から今日へ移ろう一時のものでしかなく、人間の七〇年程度の生涯は溜め息に過ぎない。永遠なる神の御前に在っては有限の命を持つ人間は畏れ敬うよりなく、それによってあなたの御怒りを知るようになる。
 「主よ、帰ってきてください。/いつまで捨てておかれるのですか。/あなたの僕らを力づけてください。/朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。/あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。」(詩90:13-15)
 単純に神の永遠性を讃える詩とはいい切れぬものを、わたくしは感じる。永遠と有限の対比に於いて脳裏へ浮かぶのは、中世文学の神髄ともいうべき<無常>だ。この詩を読むたび、わたくしは『徒然草』を思い出す。嗚呼、そこに描かれた儚さよッ!

 「生涯の日を正しく数えるように教えてください。/知恵ある心を得ることが出来ますように。」(詩90:12)



 飽きもせずにラトルとBPOの《くるみ割り人形》のCDを聴いています。この興奮、未だ収まらぬ謂われはなにぞ? 聴くたび胸奥でよみがえるしあわせは、至上の法悦(エクスタシー)。
 この約二週間、合間を縫ってラム姉弟の『シェイクスピア物語』(新潮文庫)を読んできました。もうすぐ終わります。今日は「ロミオとジュリエット」を読了。楽しみに味わってきたのに、残念でなりません。残すは「ハムレット」と「オセロ」(個人的には「オテロ」というた方がしっくり来ますが)、そうして、あとに回した「マクベス」の三作。
 ラムの筆にかかると要所がすっきり整理され、却って原作以上のパンチを生み出している箇所もあり、これを読んだあとで原作へ触れた人は、ちょっと物足りなく思ってしまうのではないのかな? 英語圏の国であればね、シェイクスピアの表現を取りこんでいることで原典へ向かうことは比較的容易かもしれないけれど、誰の訳であれ翻訳で『シェイクスピア物語』を読んでしまうと、そこから先にはなかなか進まないんじゃないかしら。少年少女向けに複数の訳が存在することも考えると、余計にそう思うのであります。
 ここまで完成度の高いリライトを読んだあとでは、そんな疑念を覚えるのも事実なのである。◆

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第0782日目 〈詩編第089篇:〈主の慈しみをとこしえに歌います。〉〉 [詩編]

 詩編第89篇です。

 詩89:1-53〈主の慈しみをとこしえに歌います。〉
 題詞は「マスキール。エズラ人エタンの詩。」

 主が油注がれた者の家、即ちダビデ王家の血が絶えることなく悠久に続くことを謳うパートが中心を占めるが、それはどうやら枠物語の本体を担うようで、では額縁はなにかといえば、敵が襲い来たって主の民、主の油注がれた者(の子孫)が辱められています、という告白/訴えである。
 割に長めの詩なので気が重い、或いは滅入っちゃうかもしれないが、コーヒーでも飲みながら気軽に読んでほしいものです。Let's try.「詩編」に納められる長い詩の殆どは読み流すに相応しくないものだから、腰を据えて構えて読むよりも、あわてず騒がずじっくりちょっとずつ読んでゆけば、うーむ、なるほど、と深く首肯し、内蔵を鷲摑みにされること間違いなしな読み応えある詩━━それだけきちんと咀嚼したなら必ずや己の糧となること請け合いの詩が揃っている。この詩89はその好例といえよう。
 本詩を以て「詩編」第三巻は終わるけれども、その第三巻が、ダビデ王家に主が与えた永劫の約束とそれに背いた結果が効果的に述べられた詩篇で幕を閉じるのは、なんだか意味深長である。━━いや、別に深い意味なんかないのかもしれないけれども、そんな風なことをつい考えさせてしまう(無用な)誘惑を内に秘めた詩である……とは余計な発言であったか。まあ、詩89:29-33,39-46を読んで、斯く思うたのだ。
 くだらぬ読み方講座めいた話をした。相済まぬ。インターヴァルを置いて第四巻に入る。

 「主よ、あなたの真実は/あなたを取り囲んでいます。」(詩89:9)

 「あなたは力強い業を成し遂げる腕を具え/御手の力を振るい/右の御手を高く上げられます。/正しい裁きは御座の基/慈しみとまことは御前に進みます。」(詩89:14-15)

 「命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。/陰府(よみ)の手から魂を救い出せるものが/ひとりでもあるでしょうか。」(詩89:49)



 完全復帰の初日をどうにか無事に過ごせたのは、やはり仲間のお陰か。これからどうなるかわからぬが(ポケポケプウもいなくなってしまった)、かつてのとき同様に頑張りすぎないように頑張ろう。この3ヶ月間、何だ彼だとあったのはこれからの長い道程を息切れさせないように、という配慮であったのだろうか。まぁ、そう思おう。感謝。
 横浜ブルク9にて『シネ響 マエストロ6;サイモン・ラトル=BPO=ラン・ラン』上映中。やった! 他の指揮者の映像も上映されたらいいけれど、今月は観たい映画が重なります。さすが年末。METはどうする? 来月はアリス=紗良・オットのリサイタルだ。◆

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第0781日目 〈詩編第088篇:〈主よ、わたしを救ってくださる主よ〉〉 [詩編]

 詩編第88篇です。

 詩88:1-19〈主よ、わたしを救ってくださる主よ〉
 題詞は「歌。賛歌。コラの子の詩。指揮者によって。マハラトに合わせて。レアノト。マスキール。エズラ人ヘマンの詩。」

 久々の長ったらしい題詞に一つ補足したい。「エズラ人」は新改訳では「エズラフ人」、ヘマンと、次の詩89に現れるエタンがこのエズラ人とされる。2人は王上4:31と代上2:6にあるヘマンとエタンとは同一人物とされ、仮にそうならエズラ人はユダ族と関わりを持っている。
 詩88は悲痛な叫びが充満した詩である。これまでの生涯、苦しみに虐げられた人が、それでも闇のなかで祈っている。死に汚れた魂を救ってください、なぜあなたはわたしを苦しめられるのですか? みな、わたしを遠ざけ、わたしは独りぽっち、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(詩88:19)
 「ヨブ記」にあっても不自然を覚えぬが、実はわたくしにとってはなるべくなら避けて通りたい詩篇でもあった。なぜなら亡き婚約者の遺したノートの一頁にこれが全文書き写されていたからだ。━━「主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」(詩88:15) これが彼女の涙ながらの訴えのように、わたくしには聞こえるのだ。「わたしは若いときから苦しんできました。/今は、死を待ちます」(詩88:16)なんて、君よ、ゆめ言ふてくれ給ふな。

 「苦悩に目は衰え/来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び/あなたに向かって手を広げています。」(詩88:10)



 いろいろ書こうと思ったけれど、今日は、このあたりでやめておきます。なんだか、哀しくなってきたので、ね……お許しください。
 銀行で用事を済ませたあと、山川直人『澄江堂主人・前編』(エンターブレイン)を買いました。単行本になるのを、ずっと待っていたんだ。じっくり読もう。村上春樹『ねむり』(文藝春秋)かホイットマンの詩集かで悩んだのですが、結局、これにしました。◆

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第0780日目 〈詩編第087篇:〈聖なる山に基を置き〉&蔵書の整理について。〉 [詩編]

 詩編第87篇です。

 詩87:1-7〈聖なる山に基を置き〉
 題詞は「コラの子の詩。賛歌。歌。」

 シオンを讃え、シオンより広がる神の栄光を讃える。
 諸国はこの地より生まれ出で、エジプトを指すラハブとバビロンというイスラエル史に欠くべからざる強国の名をイスラエルと共に挙げよう、と神は語る。なべては神なる主の許に生まれて従う者と記される。
 それを濃密に集約するのが最後の詩句である。曰く、━━
 「歌う者も踊る物も共に言う/『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」(詩87:7)
 関係ない話だが、ヨシュアのエリコ攻略を助けた女性も名をラハブといった(ヨシュ2:11)。この人は新約聖書「マタイによる福音書」1:5にてサルモンの妻、ボアズの母と記されてルツの姑にあたる。ここよりダビデとソロモンが出て、ヨセフが現れマリアを娶ってイエスが誕生する(マタ1:18-25,ルカ1:26-38,2:1-7)。



 お知らせです。昨日のブログの後半部分を全面改稿して、新たに掲載しています。時間が経つにつれ、その非道さに目を背けるわけにいかなくなったためです。どうぞ、ご了承ください。
 飽和状態になりつつあるわが書架を整理しようと考えているのだが、どこから手を着けてよいのかわからずにいる。いざ実行しようとすると、途端に目的意識も決意もうやむやになってしまうのだ。処分する本の山を想像すると、ゲンナリしてしまう……手を着ける前からこの体たらくか! これに較べれば数年前、何度かに分けて行ったCD約2,000枚の処分は割と簡単だったな。結構あれは思い切りのよい処分であった。その潔さを、本に関しては求められそうもない。未練や執着がCD以上にあるからだ。
 とはいえ、溜まったモノを捨てる基準は過去一年以内に必要としたか否か、であるらしい。でも、本の場合それは当てはまらない。いつ必要になるかわからないからだ。そんなことを思い思いしている内に、どんどん本は溜めこまれてゆき、限りある空間を圧迫してゆくことになる。いちばん馬鹿馬鹿しいのは、必要になった本を探そうとして見附けられず、途方に暮れて嫌気が差し、その本を使って書くエッセイなりを放棄することだ━━いや、流石にそこまで愚かな真似はしないけれどさ。
 誰がいうたか忘れたけれど、本の場合、処分するコツ、というか、残すか否かの判断基準は、過去に一度でも読んだかどうか、であるそうだ。一度読んだ本は手と目と記憶が覚えている。そのとき読んだ本は既に自分にとって唯一のものであり、例え同じ本であっても同じ本ではないのだ、ということである。ずっと以前、自分も同様の経験をしたからよくわかる。新たに買い直した本では駄目なのだ。それを読んでいた当時の自分とその延長線上にいる自分にとって、その本はまったく馴染みのない別種の印刷物でしかないのだ。そんな苦い思い出があるから、これまで本を売れずに来た。
 が、最早そんなことをいうてはおれぬ状態になろうとしている。そう、わが書架に収まる何割かは処分されねばならぬ。でもそれは、比較的富裕な時期に、或る種の衝動と好奇心に駆られてその場で買って結局は未だにページを開いていない、自分自身を形成する読書と関心のカテゴリーから外れる本でなくてはならぬ。しかも、それは概ね火事以後に買ったものでなくてはならぬのだ。
 そんな条件に都合よく合致する本は全体の本の一、二割であろうが、併せて雑誌やパンフレット類を処分すれば、この部屋もそれなりに片附くのではないか。十代の頃から馴染んできた神話や伝説を含めた広義の幻想文学やミステリ、東西の古典文学や音楽書、児童文学や、なにより肝心なレファレンス・ブックを核にして、あとは幾人かの好きな現代作家の著作を残せば、あとはそれ程多くを置いておく必要はないのかも知れない。それだけを書架に詰めて折に触れて読むことが出来れば、それだけで案外しあわせで身軽になれそうな気がしている。
 久しぶりに引っ張り出したビル・エヴァンス・トリオの『ワルツ・フォー・デビイ』を部屋に流して、うーむ、と両腕を組んで周囲に積みあげられた書籍の山、書架へ詰めに詰めこまれた本を睨みながらプロジェクト決行の決意が訪れる瞬間を、待ち侘びているような、来てほしくないような、そんな微妙な心のブレに悩まされているのであります。やンなっちゃうよね、なんか。◆

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第0779日目 〈詩編第086篇:〈主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。〉withジャズ再入門。〉 [詩編]

 詩編第86篇です。

 詩86:1-17〈主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。〉
 題詞は「祈り。ダビデの詩。」

 変則的に挿入されたダビデ詩篇である。なぜここに置かれたのか、事情は知らない。
 奈落へ落としこまれた神の徒が希望を望み、正義が果たされることを願っている。静かで切々とした調子(トーン)が胸の内奥にまで響いてくる詩なのだけれども、根底にあるのは今日のわれらが想像するよりもはるかに強靱な神なる主への信頼だ。
 神に依り頼むまことの心を持つ者のみが主の憐れみと救いを得ることが出来る、そんな考え方は普通の日本人━━というのは、神道の国に住む仏教徒で、生活や思考が宗教なるものと直結しない極めて平均的な日本人(例えばわたくしさんさんかである)のことをいうているのだが━━にはちょっと意外で俄に信じ難く受け容れ難いのであるが、却ってそんな信じる神を自分の内に持ち、依り頼む杖があるのは、なんだか新鮮で、幾許かの羨望を感じるのも事実なのだ。
 ━━大雑把ながら、詩86を読んでわたくしが思うのは、そんなことなのである。

 「主よ、あなたの道をお教えください。/わたしはあなたのまことの中を歩みます。/御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。」(詩86:11)



 倉庫で一人、残業している夜に聴いたヘレン・メリルやメル・トーメの歌声は忘れられそうにない。天井が異様に高かったせいもあるが、その声の浮遊感をどう喩えればよいか、よくわからぬ。その当時買って聴いていたのはデイヴ・ブルーベック、ウェイン・ショーターとアール・クルー、前世紀から引き続いてビル・エヴァンスであった。どんな嗜好か、と訊かれても困る。聴きたいものを乱脈に聴いていただけだ。出逢いよりも前のことだ
 数年に一度、割と定期的な感覚で無性にジャズを聴きたくなるときがある(ときどき思い切りベタなアイドルJ-POPに浸かりたくなるのと同じだ)。周囲はジャズにあふれている。生まれ育ったこの小さな港町ではジャズは別格の音楽だ。単なるBGMとかメイク・ミュージックなんかでない、誇りと矜持に裏打ちされた<われらの音楽>的な意識が、この町には息吹いていたように思う━━とは流石に言い過ぎか。ともあれ、周囲には様々な種類のジャズが流れ、結び得た大切な人間関係にもジャズはキー・ワードのように見え隠れしていた。だのにわたくしがジャズへ親近することはなかなかなかった。巷間よくいわれる敷居の高さ、入り口の不明、どうしようもない偏見に邪魔されたのだ(でも、それをいうならクラシック音楽だって同様ですよね)。それでいて数年に一度ながら無性にジャズを聴きたくなるのは、長く耳に馴染んでいたり小説や映画の中でひどく心惹かれる曲があるからで、また、いまはもう閉店したジャズ喫茶で聴いた曲、そこのカウンターに置かれたジャケットだけが記憶に残る盤を聴き直したいからだ。
 ━━と書いているいま、BOSEのスピーカーから流れているのはマイルス・デイヴィスの「ソー・ホワット」である。昨夜某大手レンタル店で借りたCDの一枚だが、これを聴いてみようと思うたのは、村上春樹と和田誠の『ポートレート・イン・ジャズ』(新潮文庫)がきっかけだった。或る晩入ったバーでリクエストを訊かれた村上春樹が何気なく求めたアルバム『フォア&モア』(SONY SICP823)の2曲目、「ウォーキン」に感じ入った、という内容であった、と記憶するが、妙にそれが一つの情景として完璧に脳裏へ描かれ、頭から離れることがなかった。数日後に件の店でこのアルバムを借りたのは、そんな由来からである。併せて借りてきたのは、同じマイルスの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』(SONY SICP822)とサラ・ヴォーンの『ラヴァーズ・コンチェルト/ポップス・オン・サラ・ヴォーン』(MERCURY PHCY-3013)だ。━━ん、いまその「ウォーキン」になった。そうか、このアグレッシヴな演奏に若かりしハルキ・ムラカミ氏は感じ入ったのか……。
 さて、話を元に戻すが、ジャズは実はすぐそばで門外漢を迎え入れる準備をしてくれていた。ただこちらがそれに気附いていなかっただけらしい。きっかけは一冊の本、一本の映画、一つの楽器、茫漠とした記憶の残滓、自分を誘う一人の人物。あとはそこから一歩を踏み出す勇気と好奇心だ。好みのままに聴き進めてゆくのも思わぬ楽しみがあってスリリングかもしれぬが、わたくしの場合を申せばちょっとばかりそれは失敗だった。だから、ジャズ好きの作家と友人を再び頼ることにした。いわば、ジャズ再入門のとば口にいま三度(みたび)立ったところである。なんだか今度は失敗しないような気がする。この再入門を果たしてこれから様々なアーティストの音楽を聴いてゆくことになるだろう━━とても気が遠くなるようなスロー・ペースで。
 これから先、ここや、ここ以外の場所でジャズの話題も出るだろう。そのときは「お、相変わらず聴いておるな」と微笑してお付き合い願いたい。頼む、読者諸兄よ、あなたが頼みだ。ありがとう。◆

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第0778日目 〈詩編第085篇:〈主よ、あなたは御自分の地をお望みになり〉〉 [詩編]

 詩編第85篇です。

 詩85:1-14〈主よ、あなたは御自分の地をお望みになり〉
 題詞は「指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。」

 <ヤコブの捕われ人>がバビロンに、ペルシアに住まっていた間、イスラエルの大地は自ら治癒して民の帰還を待ち、イスラエルの神は自分の民の犯した過ちの数々を赦した。そうして主の霊がペルシア王キュロス2世に臨んで捕囚は解放されたのである。捕囚解放を機に嗣業の民は帰り至った父祖の地で、真に主を畏れ敬う民となることを約束した。それに伴って主は自分の民に正義と平和を宣言してくださる━━。詩85は国家の再建と信仰の再生を、力強く謳いあげた詩である。
 何事につけても自らの再生・再出発を期す際、依って立つべき信じてやまぬ存在━━精神的支えとなり拠り所となる<なにものか>があれば、周囲の冷淡な眼差し、薄情な心、邪意を含んだ言葉に打ちのめされ、下を向いて唇を噛む事があろうとも、取り敢えずは立ち続けられるものだ。逆風のなかを歩むのは困難だとしても、屈んで頭上を風が通り過ぎるのを待つだけの忍耐と知恵は会得できる。
 詩85は捕囚から解放へ、苦悩から歓喜へ至る民の喜びを詠うが、その間のイスラエルを支えたのは、神なる主に依って立つ心、固い決意に満ちた心に他ならぬ。そうしてもっと素晴らしいのは、未来へ向けた健全で清冽な第一歩が刻まれたことだ。これこそが<歓び(ジヨイ)>であり<法悦(エクスタシー)>である。

 「主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。/正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。」(詩85:13-14)



 出来もしないのに企む野望がある。わたくしの場合は翻訳である。以前にエミリ・ブロンテの『嵐が丘』についてはその希望あることを告白したが、他に「これだけは」と思う作品を挙げるなら、シャーロック・ホームズ譚から好きな作品だけを集めたマイ・ベスト・ストーリーズの編纂と、チャールズ&メアリ・ラム姉弟の『シェイクスピア物語』である。後者については全訳かはちょっと決めかねているが、半分ぐらいは自分の文章に訳してみたいな、と思うているのだ。
 その『シェイクスピア物語』を日々の合間合間に少しずつ読み進めているが(ようやく半分!)、今日読んだ《リア王》には参ってしまった。これはチャールズの筆になるというが、物語の引力がそれまでの喜劇に較べて途轍もなく強く、ページを繰る手も休むことを知らない。お陰で、昼休みの僅かな読書時間を有意義に、濃密に過ごすことが出来た。改めてこうして読むと、《リア王》って本当に救いのない作品なんですね。四大悲劇の頂点を極めている、とわたくしは思う。むろん、《マクベス》と《ハムレット》を貶める発言ではない。はあ、自分の文章でどこまで原作のエッセンスを伝えられのるかなぁ……。◆

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第0777日目 〈詩編第084篇:〈万軍の主よ、あなたのいますところは〉&SMAP「グラマラス」〉 [詩編]

 詩編第84篇です。

 詩84:1-13〈万軍の主よ、あなたのいますところは〉
 題詞は「指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。」

 本詩から詩88まで〈第二コラ詩集〉を読んでゆく。但し、第86篇を除く。
 コラ詩集の美点は各篇いずれも清らかな調子にあふれていることだ。〈アサフ詩集〉の不毛と単調の支配する詩群を、それこそ砂を噛むような思いで読んできたあとでは、強くそれを思う。
 さて。詩84は神なる主のそばに身を置くことの幸いを詠う。この敬虔さ、素直さ。真に主を信じて教えを守り従う正しい者の歓喜の表白に他ならぬ。手放しで絶賛したくなる━━とまでは(敢えて)いわぬまでも、ゆっくり読んで心やすらう詩だ。

 「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。」(詩84:6)

 「(あなたの家に住み)あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」(詩84:11)
 ※これは最強のラヴ・メッセージですね。あの子にもそう伝えたい。



 ♪君に会えた事が/奇跡のように感じた/ついこの前の笑顔/また見せて欲しい♪
 (SMAP「グラマラス」より;http://www.youtube.com/watch?v=Ar0-XjMTAQc&feature=related
 あなたが頼み。わが支え、わが潤い。◆

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第0776日目 〈詩編第083篇:〈神よ、沈黙しないでください。〉〉 [詩編]

 詩編第83篇です。

 詩83:1-19〈神よ、沈黙しないでください。〉
 題詞は「歌。賛歌。アサフの詩。」

 例によってイスラエルを脅かす敵の滅びることを主に願い奉る詩である。「またか」とぐったりしないでほしい。わたくしも同じ、いや、それ以上に「いい加減にしてくれよな。ただでさえ技巧も修辞もないストレートっぷりにうんざりしているんだからさ」と思っているのだから。
 ただ、読者諸兄に興味を持ってもらえそうなのは、具体的にイスラエルを脅かす敵の名や主が敵を滅ぼした地名の挙げられている点か。
 そこに登場するのは、例えばエドム人、モアブ、アンモンとアマレク、ペリシテの住人、ミディアンやエン・ドル、キション川などだ。懐かしい限りである(わがPCも彼らを覚えていたようで、一発で変換完了した)。もはや彼らの登場箇所を挙げたり、註を付けるようなことは━━今回は━━しない。そろそろ聖書にも馴れてきた頃であろうから、復習と記憶を鮮明にするためにも、ぜひ、ご自分でお探しいただきたい。そんな彼らが「心を一つにして/あなたに逆らって、同盟を結んでいます」(詩83:6)というのだ。
 なお、これの創作年代を特定する鍵は、第9節の「アッシリアもそれに加わり」なる文言か。イスラエル包囲網ともいうべき諸国同盟にアッシリアが参加したとなれば、アッシリアの勢力が広範囲に及んだティグラト・ピレセル1世か、(詩80と同様)南北両王国に触手を伸ばしたティグラト・ピレセル3世の時代であろうか、と考える。古代オリエント史に興味のある方は、このあたりを趣味的にでも研究されてみては如何であろうか?
 さて、この段落は余談である。こんな風に書いてきて改めて思うたのだが、どうもわたくしは聖書を読むにあたってはこれまでのところ、いわゆる<文学>に分類される書物よりも<歴史書>にカテゴライズされる書物の方が性に合っているようである。理由についてはわかってもいるが、ただ斯く判断を下すにはチト時期尚早であるようには倩考えておる。おそらく「詩編」については(ほぼ)休みなしでこなしてきて、おまけにノートを作成次第すぐさまwebへ公開するという、まさしく自転車操業を行う余裕のなさにも起因するのであろう。自分の性格を様々考慮して、そんな風に取り敢えずは結論している。
 ━━詩83を以て〈アサフ詩集〉は終わる。が、まだ第三巻は続く。

 「わたしの神よ、彼らを車の輪のように/風に巻かれる藁のようにしてください。/火の手が林を焼くように/炎が山々をなめるように/あなたの嵐によって彼らを追い/あなたのつむじ風によって恐れさせてください。/彼らの顔が侮りで覆われるなら/彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。」(詩83:14-17)



 『LOST』最終話を視聴。衝撃と喪失感に囚われて、まるで言葉が思い浮かばぬ……。◆

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第0775日目 〈詩編第082篇:〈神は神聖な会議の中に立ち〉〉 [詩編]

 詩編第82篇です。

 詩82:1-8〈神は神聖な会議の中に立ち〉
 題詞は「賛歌。アサフの詩。」

 「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」(詩82:1)
 イスラエルの神は一人である、というのが、聖書を読むに際して最大の前提であった。なのに、唯一の存在である<神>が<神々>の間で裁きを行う━━<神々>? それは、カナンの先住民や周辺諸国の人々が崇めていた神々を指す。バアルやダゴンやアシェラなど、列王記や歴代誌その他でもよく目にしてきた、あの神々だ。つまり、イスラエルにとっては排除すべき異教の神々である。
 唯一の神はそれら神々のなかに在って、彼らを激しく叱咤し、要求する━━わたしに逆らう民の味方をするな、イスラエルの民の正しさを認め、わが嗣業の民を汝らの民の手から救い出せ、と。が、彼ら神々はそれに基づいて自分の民を扱おうとしないのだ。ゆえに彼らは人間として死に、没落する、と告げられる。彼らの世界に於けるラグナロク(神々の黄昏)というてよかろう。
 謂わばこの詩はイスラエルの神なる主、万軍の王たる神の主催する<宇宙会議>の模様を述べた作物であり、解説する本に拠ればこうしたシチュエーションが設定されているのは、詩編全150編中この詩82のみである、という。
 古代中近東に住まった諸民族の習俗や宗教生活を、イスラエルの民が知っている、という認識の下で詠まれた詩であろう。

 「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(詩82:8)



 この時期になって本来書くべき賀状小説の想を得た、とは、なにやら恥ずかしく、焦らされることであります。
 代替案がかなり本格的に仕上がりつつあった矢先なので、このままノートに書き留めずに葬ろうか、と企んだ。不可能だった。きちんと書き留(とど)めなくてはならない。そんな、使命とも本能とも習慣とも知れぬ思いに駆られたのです。ブログのノートを取ってからプロットを走り書きし、いつものスタバで第一稿を書いてみた。分量の調節や推敲は行う必要が勿論あるけれど、内容は概ねこのままで大丈夫かな、と考えています。
 今回ようやく想を得た小説は、昨年の作品にチョイ役で登場したオレンジ色の体毛をした小犬にまつわる、過去2年分同様に創作神話の流れへ属するお話である。もはやライフワークと化しつつある神話の時代に起源を持つ家族小説へ連なるエピソードなので、書いていて楽しいけれど、正直これらが受け容れられるか(られたか)不安です。
 本音をいえば、一日も早く聖書のブログを終わらせて、小説執筆に戻りたいのです。◆

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第0774日目 〈詩編第081篇:〈わたしたちの力の神に向かって喜び祝い〉&シルヴァン・カンブルラン=読売日響のハイドンとストラヴィンスキーを聴いてきました。〉 [詩編]

 詩編第81篇です。

 詩81:1-17〈わたしたちの力の神に向かって喜び祝い〉
 題詞は「指揮者によって。ギティトに合わせて。アサフの詩。」

 主の台詞をメインに据えた、神なる主の言葉、教えに背いたイスラエルの末路を詠う。これは詩編全体のなかでも、出来映えも質も劣る作物に思えて仕方ない。個人的なことをいえば、今日のこの詩篇は、今後どんなきっかけがあっても好きになれそうにない。
 主は、偶像崇拝ゆえにイスラエルを見放した。その経緯と顛末は、過去に読んだ各書物を読み返せば一目瞭然であろう。見放されたイスラエルは敵の手に渡され、主の心のまにまに翻弄された。イスラエルが主の言葉に従ったのなら、このようなことは起こらなかった。純粋に国家間の軍事力・政治力の均衡が崩れたなら大なり小なりの戦争はあったろうけれど、それはおそらくイスラエルの民が信じる神なる主の<思し召し>ではない。政府の無為無策に起因するところ大であろう。
 加えてわたくしには、詩81:16「主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。」という詩句が、不正の隠蔽や責任転嫁の答弁としか思えないのである。それゆえに、詩詩81:2-4がオタメゴカシのように読めてならぬのですな。
 むろん、これが過去に学んで未来の糧にする類の詩である、とは承知の上で申しておる。



 カンブルランと読売日響の演奏家に行ってきました。至福の時間! もう大満足の演奏会でした。あんなに素晴らしくて親愛の情に満ちたハイドンが聴けたし、大興奮してアドレナリン全開にさせられたストラヴィンスキーも聴くことができた。席の良し悪しなんて、もうこの際だから不問にしましょう(笑)。
 一生懸命友人宛の手紙に感想を綴っていたのですけれど、これは棚上げ(放棄に近いかも)することにしました。上手くまとまらないんです。興奮しているから? それもあるけれど、うまい言葉が思い浮かばず、相応しい文章が生まれてこないのです。お喋りでなら、滔々といつまでも話すことが出来るのですけれど……。しばらく音楽について━━CD/DVD/映画でなく、生の演奏会について感想を認めることから離れていると、駄目になりますね。うん、今日それを実感しました。文章は毎日書かないと駄目になりますが、それ以上に、ジャンル・ライティングは時間を空ければ空ける程スキルは失われるのです。
 でも、この演奏会が自分にとってエポック・メイキングな出来事であったのは否定しない。感想にも書いたことですが、初めてカンブルランを生で聴いたのがこの日の演目で、本当によかった。お陰でますますわたくしはハイドンに夢中になり、ストラヴィンスキーを好きになりました。この人の指揮は洗練されていて、上品ですね。好きです。これ程指揮者とオケの相性の良さを実感させられるコンビも、最近では珍しいかもしれませんね。
 今日の感動をくれたカンブルランと読売日響に感謝。ホール・スタッフと白ワインに感謝。なによりも、この演奏会をプレゼントしてくれた母に、いっぱいの感謝を!◆

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第0773日目 〈詩編第080篇:〈イスラエルを養う方〉withストラヴィンスキーをカンブルランは、どう振るか?〉 [詩編]

 詩編第80篇です。

 詩80:1-20〈イスラエルを養う方〉
 題詞は「指揮者によって。『ゆり』に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。」

 国土を踏みにじる敵からわれらを救ってください、と祈る詩である。
 詩79では国土を荒らす敵をおそらくはバビロニアであろう、と推測したが、詩80ではバビロニアなのかアッシリアなのか定め難い。アッシリアであれば王下15:19-20,29にあるティグラト・ピレセル3世による北王国イスラエルへの攻撃(時のイスラエル王はメナハムとペカ)、同16:7-18にある同じアッシリア王による南王国ユダへの攻撃(時のユダ王はアハズ)を背景とするか。またバビロニアと仮定すれば、王下24:1-2,10-17,同25:1-21にある数次に渡ってのユダ攻撃、エルサレム攻撃(時のユダ王はヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤ)が創作背景となろうか。
 斯様に考える根拠は詩80:3「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」主の御力が顕現してわたしたちを救ってほしい、とあるゆえだ。エフライムはシケムを、マナセはサマリアを擁する(旧)北王国領、ベニヤミンはエルサレムを擁する南王国ユダの領土である。アッシリアは双方を攻めて迫り、バビロニアは旧北王国領の一部を統治していたユダに迫ってこれを落とした。これゆえにアッシリアかバビロニアか、と結論するのだ。
 この詩でイスラエルは葡萄の木に喩えられている。葡萄は聖書でしばしば目にする果実で、繁殖力が強い。また、聖書中では人間が栽培するのに最もふさわしい果実とされてきた。古代イスラエルでは大切にされてきた品種である。第9-12節では、葡萄の木がエジプトからカナンへ主の手により移植され、その地へ根附いて枝を伸ばした、と詠われる。即ち、イスラエルの嗣業の民の繁栄である。続く第13-14節では、その葡萄の木を踏みにじって土地へ侵入した敵のいることが報告される。これがアッシリアかバビロニアであろう、と推測するのだ。
 「万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。/いつまで怒りの煙を吐き続けられるのですか。」(詩80:5)という詩句が、殊更悲痛に響きます。

 「天から目を注いで御覧ください。/このぶどうの木を顧みてください。/(中略)/それを切り、火に焼く者らは/御前に咎めを受けて滅ぼされますように。/(中略)/わたしたちはあなたを離れません。/命を得させ、御名を呼ばせてください。」(詩80:15,17,19)



 何年振りかで行く明日の演奏会を前に胸がはち切れそうな誕生日の今日、予習を兼ねてストラヴィンスキー《火の鳥》(1910年オリジナル版)を、作曲家自演(SONY)、R.クラフト(NAXOS)、アンタル・ドラティ(Decca)で聴いています。この前アバドの映画で聴いたのは1919年版。優劣を問う場でありませんから発言は差し控えますが、この曲がカンブルランの棒でどんな音色と色彩を纏うのか、とても楽しみでなりません。◆

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第0772日目 〈詩編第079篇:〈神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い〉〉 [詩編]

 詩編第79篇です。

 詩79:1-13〈神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い〉
 題詞は「賛歌。アサフの詩。」

 詩74に連続する詩、慟哭の詩である。
 敵の攻撃によりエルサレムは瓦礫の山と化した。これは主がわれらを見放し、怒ったからであろうか━━昔われらが犯した罪ゆえに? が、神よ、それに御心を留めてくれるな。憐れみをわれらに向け、助けてください。そうして、敵に報復してください。われらは代々にあなたに感謝し、栄誉を語り伝えますから。
 「あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を/異国の民の中で、わたしたちが/目の前に見ることができますように。/捕われ人の嘆きが御前に届きますように。/御腕の力にふさわしく/死に定められている人々を/生き長らえさせてください。」(詩79:10-11)
 ここで語られる敵とは、バビロニアと考えるのが無難でないか、と思う。おそらくここでエルサレムにユダの人の姿はなく、再生の力も奪われていたのではないか。灰色の都。"come on up for the rising"という言葉も、灰色の都の空虚な空の下(under the empty sky)では殊更むなしく響く。
 わたくしはキリスト者ではないから、そちら方面から「詩編」のみならず聖書それ自体へアプローチするのは元より出来ない相談だけれども、理解を深めるためにキリスト者の書いた本を読むことは度々ある。今回は特に、北森嘉蔵という人の書いた『詩編講話・下』(教文館 2004)に強い感銘を受けた。北森氏は詩79:9 「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて/あなたの御名の栄光を輝かせてください。」を<罪の赦し>を乞う詩句と捉えた上で、「救いの神は、ただ人間のために、罪を赦して救うのではないのです。罪を赦すことにおいて、神の御代の栄光が現れるのです」(P12)と説明する。ほっ、と胸を撫で下ろしたくなる、とてもいい話であると思いませんか?



 Do you love? yes,I love.and true love,will never die. -S.King"Nona"◆

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第0771日目 〈詩編第078篇:わたしの民よ、わたしの教えを聞き〉〉 [詩編]

 詩編第78篇です。

 詩78:1-72〈わたしの民よ、わたしの教えを聞き〉
 題詞は「マスキール。アサフの詩。」

 昨日読んだ詩77と同じテーマ、イスラエル全体の信仰回顧を扱った詩。単独で(本ブログのように)一日一篇を読んでも構わぬが、この2篇についてはまとめて読んだ方が鑑賞も行き届くのではないか。
 この詩は、イスラエルがエジプトで奴隷の身に甘んじていた時分、神がエジプトに降した種々の災いに触れ、葦の海を渡って出エジプトを果たして以来荒れ野を彷徨している間、民が様々な不平や抵抗を行ったことと、それに対して神が憤って降した怒りに触れている。いうてみれば、出エジプトからカナン入植へ至るまでに民と神の間で起きた<疑問>と<回答>の回顧であり、一種のギヴ・アンド・テイクの詩である。━━民は荒れ野の40年の殆ど最初に、こんなに苦労するならエジプトにいた方がマシだった、と不平を垂れ、食物も水もない生活を神は果たして解決し得るのか、と疑問に思う。それへの回答として、神はシンの荒れ野にて天からマナを降らせ(出16)、レフディエムに於いてはモーセを通じて飲み水を与えた(メリバ。出17)。
 詩77をわたくしは朴訥とした調子、というたが、対して詩78は厳めしく重々しい調子がする。読んでいる最中、これまでに読んできた「出エジプト記」から「民数記」、「申命記」を経て、「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」の当該場面が走馬燈のようになって、まるでパッチワークのコラージュのように脳裏へ浮かんでは消えてゆく、なんて体験をしたせいかもしれない。……イスラエルは自らの行いによって災いを招いている(招いた)というのが、この詩を読んで改めて認識したところである。
 読者諸兄には是非の直接の鑑賞をお願いするより他ないから、これ以上わたくしの駄弁、妄言を綴る必要もあるまいと思うけれど、一点だけ補足しておきたい。
 詩78:67-68「主はヨセフの天幕を拒み/エフライム族を選ばず/ユダ族と、愛するシオンの山を選び」;王国以前のイスラエルを指導した2人の大人物がいる。即ちヨシュアとサムエルであるが、彼らはエフライム族の出身であった。神は悠久に続く王の家としてこのエフライム族ではなく、ユダ族を選んだ。なぜならばここから━━ルツを祖の一人とする━━かのダビデが現れるためである。申し添えるなら、メシアたるイエスの祖の一人はダビデであった。そうしてこのユダ族に与えられた嗣業の地はシオンの山、即ちエルサレムを擁する地である。ここで序(ついで)に記憶を新たにしておくと、モーセはレビ人、サウルはベニヤミン族の出身。諸々の士師については「士師記」を参照されよ。
 最後に詩78の、いちばん胆となる詩句を下に引く。

 「主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教えを置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。/子らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。/子らが神に信頼を置き/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために/先祖のように/頑(かたくな)な反抗の世代とならないように/心が確かに定まらない世代/神に不忠実な霊の世代とならないように。」(詩78:5-8)

 「神は御心に留められた/人間は肉にすぎず/過ぎて再び帰らない風であることを。」(詩78:39)



 「だいじょうぶか、ブックオフは!?」とでも題したい独り言を、このあとに続けようと書きました。が、あまりに情けない話なので、お蔵入りとします。
 プルーストの『失われた時間を求めて』の新訳が刊行されていますが、買い悩んでいます。光文社古典新訳文庫か、岩波文庫か? 同じ全14巻を予定する両文庫。有名な冒頭部分とマドレーヌの場面を特に読み比べて検討しているのですが、一長一短ですな。訳文も、全体の注の付け方も、図版の選択も入れ方も、解説も、うーん、良い意味で本当に悩んでいます! どちらを買うか!? 他にお金の使い道がなければ(なんと贅沢な物言いだろう!)、両方買っちゃうですけれどねぇ。……。
 そうそう、ドストエフスキーの『白痴』は今日から下巻に入りました。楽しんで読んでいますよ。ムイシュキン公爵にはなんだか無条件の感銘と共感を抱きますね。アグラーヤもイポリートも、コーリャもガーニャも、ナスターシャ・フィリポヴナも、みんな、素敵だ。ぎゃんぎゃん喚くリザヴェータ夫人も、右往左往する将軍もむろん、例外ではない。こちらは、河出文庫の新訳に手を出さなくてよかったな、と安堵しています。◆

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第0770日目 〈詩編第077篇:〈神に向かってわたしは声をあげ〉〉 [詩編]

 詩編第77篇です。

 詩77:1-21〈神に向かってわたしは声をあげ〉
 題詞は「指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。」

 以前詩71を読んだとき、作者個人の信仰回顧の詩である、と書いた。詩77も同じく信仰回顧の作品だが、こちらはイスラエル全体を指しているようだ。一人称で語られるのは、詩が本来<個>に帰属するものであるからに過ぎぬ。
 詩は個人的な信仰の悩みから始まり、天地創造という窮極の神の御業を顧み、かつアロンとモーセ兄弟を指導者とする出エジプトの栄光を語る。構造としては、詩77:11までを個人的な信仰の悩みを嘆き、詩77:12からは天地開闢-出エジプトの間に神が果たした役割、神が揮った御業に思い巡らすパートとなっている。まあ正直なところ、尻切れトンボで終わっているな、という気もするのだが。
 朴訥で真摯な調子があって、なかなか良いな、と思う詩だ。特に深く感じ入ったのは、こんな詩句だ、━━
 「夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。」(詩77:7)
 眠られぬ夜々、このありがたくも不安に満ちた━━いつ終わるともしれぬ孤独の時間を過ごさねばならぬとき、われらは自らの心に問いかけることが多い。時により過ぐれば不安の連鎖(スパイラル)に陥り却って悶々とする場合もあるが、このブログにたびたび登場するスイスの人格者ヒルティは、まさしくこの眠られぬ夜を過ごすために、「」と説いた。詩77にわたくしが抱く感慨の基には、ヒルティ読書の経験があるのかもしれない。
 もう一つ、蛇足であるが、この詩を読んでいて、どうしても頭に浮かんでくるのを払いきれぬ、或る漫画の一場面があった。他ならぬ『ピーナツ』である。スヌーピーとチャーリー・ブラウン、というた方が通りはよいか。様々なエピソードのなかに、夜中に寝附けずにいるC.Bが自問し、闇のどこかで答える声がある、というものがあり、その場面、そのやり取りを思い出すのだ。詩77:8-11に於ける「わたしの霊」と「わたし」の問答は、チャーリー・ブラウンの孤独な夜のエピソードを想起させるにじゅうぶんな位置を━━すくなくともわたくしのなかでは━━占めている。
 おちゃらけたようにこんなことを書いていますが、詩77の中心をなし、いちばんのポイントとなるのはこの部分であることを、末筆ながら付け加えておきたいと思います。

 「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。/夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され/わたしの魂は慰めを受け入れません。/神を思い続けて呻き/わたしの霊は悩んでなえ果てます。」(詩77:3-4)

 「夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。/『主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。/主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。/約束は代々に断たれてしまったのだろうか。/神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。』/わたしは言います。/『いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。』」(詩77:7-11)



 高層ビルの間から空が見える。雲の切れ間から姿を現す昼間の月が、ほぼまん丸に見えている。なぜだか、ちょっと気持ちが軽くなった。◆

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第0769日目 〈詩編第076篇:〈神はユダに御自らを示され〉〉 [詩編]

 詩編第76篇です。

 詩76:1-13〈神はユダに御自らを示され〉
 題詞は「指揮者によって。伴奏付き。賛歌。アサフの詩。歌。」

 敵を目前にして浮き足立つユダを鎮め、主の力が及んで彼らの絶たれるであろうことを確信する詩である。━━圧倒的な兵力で王都のすぐ手前まで迫ってきた敵。さりながらここ(エルサレム)は神の幕屋と宮を擁する都、ここより主が現れ出でて相手の兵を狂気に陥らせ、恐怖に立ち竦ませる。だから、と作者は民に訴える、「あなたたちの神、主に誓いを立て、それを果たせ」(詩76:12)と。
 「神は弓と火の矢を砕き/盾と剣を、そして戦いを砕かれる。」(詩76:4)
 詩76は、アッシリアの王センナケリブとの戦いを詠んでいる、とされる。この原稿もそれに引きずられた部分があるのは否定しない。アッシリアはユダの砦を次々に落としてエルサレムに迫り、ユダの言葉で降伏を勧告した。時のユダ王はヒゼキヤ、預言者はイザヤ。イザヤが神に祈ったその夜、主の御使いが敢然と現れてアッシリア軍をほぼ全滅にまで追いこんだ。アッシリアは敗走した。該当箇所は王下18:13-19:37,代下32:1-22。
 これが詩76の背景である。<モンスの天使>みたいな話ですね。ちなみにセンナケリブはその後、臣下に暗殺された。アッシリアのエルサレム包囲は前701年に起こった事件。
 詩76:3に「神の幕屋はサレムにあり」とある。サレムとはむろん、エルサレムだが、創14:18に既出の地名でもある。アブラム(アブラハム)が戦勝してシャベの谷へ至ったとき、「いと高き神の祭司サレムのメルキゼデク」はパンとぶどう酒を持って彼を出迎えた。既に前3世紀からサレム/エルサレムはカナンの都市国家として栄え、異教神シャレム礼拝の中心地でもあった。但し、メルキゼデクの神がシャレムであった、とは断定できない云々(『新エッセンシャル聖書辞典』P475 いのちのことば社)。

 「あなたは天から裁きを告知し/地は畏れて鎮まる。/神は裁きを行うために立ち上がり/地の貧しい人をすべて救われる。」(詩76:-10)



 夕食にカレーを作っていたら、鍋に水を多く入れてしまった! 仕方なくカレー・スープへメニューを変更。いや、久しぶりにカレーを作ったら、こんな失敗をしてしまいましたよ。でも、今日はカレー・スープ、明日はカレーなんて、転んでもただでは起きないメニューですよね。
 調理の最中は『新版 原発を考える50話』(西尾漠 岩波ジュニア新書)を読んでいました。みなさん、調理中に本は読みますか? ぼくは、読みます。でも、小説は絶対無理。読むならジャンルはノンフィクション、サイズは新書がちょうど良い。考えてみれば、調理の際は自然科学系の本を読んでいることが多いなぁ。シルビア・アールの『深海の女王がゆく』(日経ナショジオ社)もそうだった。この本は断然オススメ。紹介記事は後日!◆

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第0768日目 〈詩編第075篇:〈あなたに感謝をささげます〉〉 [詩編]

 詩編第75篇です。

 詩75:1-11〈あなたに感謝をささげます〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。賛歌。アサフ詩集。歌。」

 短い詩であるが論旨は明確である。主の言葉に比喩はあるが、伝えんとするメッセージは不変である。主はいう、━━「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う。/地はそこに住むすべてのものと共に/溶け去ろうとしている。/しかし、わたしは自ら地の柱を固める。」(詩75:3-4)
 驕り逆らう者には制裁が下り、従う者は高く上げられる。それは自明の理。だからこそ従う者は神なる主に感謝をささげ、その驚くべき御業を物語り、ほめ歌をうたう。なぜならば、主は、「逆らう者をことごとく折り/従う者の角を高く上げる」(詩75:11)からだ。
 勧善懲悪を謳うが、あくまで神の基準に基づくそれであり、民の思いや思惑を裏切る性質のものであることは留意すべきであろう。



 買うか否か苦悩中の文庫の解説に、『ロリータ』の著者として有名なV.ナボコフの言葉が━━たしか、「名作は再読してこそ面白くなる」とか、そんなような文言であった。
 「そうだよな、うん、まったくその通りだよ!」現在読んでいるドストエフスキーの『白痴』はまさにそうした感慨を抱くに足る作品です。なんだ、この百八十度の転換は。下巻の扉には前回の読了日の他に感想がたった一言だけ、「バカげている、時間返せ!」と。……我ながら笑ってしまう。こんな短時間で文学への個人的評価は劇的に変転するのか、と。
 細切れの時間で読んでも結局は最初から読み直すことになるのですが、そんな風に行きつ戻りつして作品を読んでいると、否が応でも明瞭になってくる部分があるものです。
 それってつまり、どういうこと? こういうことです、記憶が整理され、物語世界がすっきりした構造を持って目の前に表れ、最初読んだときはわからなかったこと、わかりにくかったところへ光が当たって、ある日突然物語にどっぷり浸かっている自分を発見できる、ということ。それってつまり、作品を面白く、楽しく読んでいる、ということなんだ!
 <太宰治>というクッションを置いて心機一転、新たな気持ちでドストエフスキーに取り組んだことは、決して遠回りでも失敗でもなかった。しかもそれが、『白痴』再読であったから功を奏したのだ。これと『悪霊』を捨て置いてそのまま『カラマーゾフの兄弟』まで進んでいたら、ドストエフスキーへ夢中になる自分は、十中八九いなかったであろう。それって、なんだかとても怖いことだ。勿体ないよね。読まず嫌いよりも治癒不能だ。
 上巻はあと1章で終わる。亀が歩くにも似たスピードだが、それゆえにドストエフスキーを楽しめている、と、弁解めいた言葉を書きつつも、実は満更でない感慨を抱いて、この<ドストエフスキー読書計画>を楽しんでいます。書評家じゃないんだから、小説はたっぷりどっぷり楽しんで読もうぜ! <文学>、なんて名声(?)に怖じ気づいちゃ駄目だよ。◆

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第0767日目 〈詩編第074篇:〈神よ、なぜあなたは〉〉 [詩編]

 詩編第74篇です。

 詩74:1-23〈神よ、なぜあなたは〉
 題詞は「マスキール。アサフの詩。」

 王都エルサレムは荒廃した。王宮は破壊され、至聖所は打ち砕かれた。主の坐す所は汚され、あちこちが廃墟となった。未だ火は燻り、空は煙に塗り潰された。作者はそんな廃都同然と化したエルサレムに立って、この事態を嘆き、「なぜなのか」と訴える。
 主よ、なぜあなたはわれらを見放し、敵のなすがままにされたのか。敵はあなたの名を置く聖所まで破壊し、御名を侮ります。神よ、弱き者の魂を守り、われらを忘れないでください。どうか契約を顧みてください。あなたの嗣業の民が再びあなたを讃えることができますように。
 「神よ、刃向かう者はいつまで嘲るのでしょうか。/敵は永久にあなたの御名を侮るのでしょうか。/なぜ、手を引かれてしまわれたのですか。/右の御手は、ふところに入れられたまま。」(詩74:10-11)
 「神よ、立ち上がり/御自分のために争ってください。/神を知らぬ者が絶えずあなたを嘲っているのを/御心に留めてください。/あなたに刃向かう者のあげる声/あなたに立ち向かう者の常に起こす騒ぎを/どうか、決して忘れないでください。」(詩74:22-23)
 「列王記」と「歴代誌」を読み返してみると、この詩はエジプト王シシャクによるエルサレム攻撃(王上14:25-26)、もしくはバビロニア軍侵攻による南王国ユダ滅亡-王都エルサレム陥落(王下25:1-21)を背景とした歌ではないか、と推察される。見落としがない限り、<敵>によるエルサレム蹂躙はエジプトとバビロニアによるものしかなかったように思う。
 もう一つ、詩74:9に「今は預言者もいません」とある。王国分裂時、南のユダに預言者はなく、バビロニアによるエルサレム陥落・破壊時にはエゼキエルとエレミヤはこの地を去っていた。詩74はそれ以後の作、と考えてよいのかもしれない。
 わたくしはこれを読みながら、リヒャルト・シュトラウスの交響詩《変容(メタモルフォーゼン)》を思い出していた。詩74の描写と交響詩の作曲背景が、完全にダブって離れなかったのである。少しく説明すると、《変容(メタモルフォーゼン)》は1944-45年にかけて作曲された、23の独奏弦楽器による短調の、極めて悲痛な音楽である。作曲家は戦禍で荒廃したドイツの街並み、破壊された劇場━━二度と戻らぬ文化の崩壊を目の当たりにして感じた感情を、この曲に塗りこめた。当然の裏返しとしてそこには、失われた時代への追憶が息づいている。これは、リヒャルト・シュトラウスの作品としては最上の部類に入る作品だ。R.Sを嫌い、かつ苦手とする人も多いが、そうした人にでも俄然お奨めできる作品、とわたくしは思うておる。推薦の演奏は、(やはり、というべきか)カラヤン=BPOによる1980年9月の録音(DG)。ルドルフ・ケンペ=シュターツカペレ・ドレスデンによる1970-71年の録音(EMI:BRILLIANT)もそれに並んで聴くこと多い演奏である。それ以外は、まぁ、みなさまの懐具合とお好み次第で、というところだ。

 「主よ、御心に留めてください、敵が嘲るのを/神を知らぬ民があなたの御名を侮るのを。/あなたの鳩の魂を獣に渡さないでください。/あなたの貧しい人々の命を/永遠に忘れ去らないでください。/契約を顧みてください。/地の暗い隅々には/不法の住みかがひしめいています。/どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように。」(詩74:18-21)



 庭木を剪定するときは(種類にもよりますが、或る程度まで)大胆にハサミを入れてしまった方が格好がつきます。また、皮膚にこびりついた樹液は、塩で洗うと綺麗に取れます。肌もすべすべになって、一石二鳥ですよ。さんさんか、本日それを知る。
 暇に任せてドストエフスキーの傍らヒルティ伝を読み耽った、晴れた空を見あげると心地よい気分を覚える今日でありました。でも、ちょっと薄ら寒かったですね。◆

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第0766日目 〈詩編第073篇:〈神はイスラエルに対して〉〉 [詩編]

 詩編第73篇です。

 詩73:1-28〈神はイスラエルに対して〉
 題詞は「賛歌。アサフの詩。」

 「詩編」第三巻の始まりである。詩73-83まで《アサフ詩集》と称されるパートが続く。既にわれらはアサフの名前をこの「詩編」で見た。詩50を参照されたい。復習しておくと、アサフはダビデによって任命された神殿の詠唱者である。
 これを読んで、ほっ、とした。すこぶる安心したのだ。一旦道を踏み外しても悔い改めたならば、神なる主は再びその者の右手を取って導き愛してくれる。なんと大らかで清らかな詩であろう。迷いがすすぎ落とされるような読後感を味わえる。
 嗣業の民と雖も日々の労苦を託つことはあったらしい。そんな人々は当然の成り行きとして、主に反して驕り高ぶる者、悪事を働き暴力で人を屈服させる衆の生き方へ、なかば警戒、なかば羨望の眼差しを向ける。それが楽な生き方に映るなら尤もだ。人間、誰しも労苦を避けたい、減らしたい、と思う。無軌道かつ自堕落な生活、行為に魅せられても仕方ない。<悪>は常に善人を誘惑するから。
 が、神を軽んじた衆に心囚われた者にすら、主の罰、怒りは注ぐのだ。どれだけそのようなことがあろうと、主を畏れ敬い従う心は失っていない、と証したにしても。「わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった。/日ごと、わたしは病に打たれ/朝ごとに懲らしめを受ける。」(詩73:13-14)
 でも既に述べたように、神は再びその人を迎え入れてくれる。なんと良い詩だろう。救いと希望が満ちている。悪しき想念、邪淫の妄執に駆られて行動する者は罰せられるが、誘惑を退けて反省し、悔い改めたならば罪は除かれる。どう表現しようと、清らかな魂の再生を喜び感謝する詩である、という本質は変わらない。

 「地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。/わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが/神はとこしえにわたしの心の砦/わたしに与えられた分。
 見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。/御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。/わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。/わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」(詩73:25-28)



 アクセス解析を調べると、幸いにして本ブログも多くの人々に毎日閲覧いただいているわけで、大変うれしく、心強く思うておるのだが、この数百人のなかにおぐゆーさんがいてくれるのであろうか、と嘆息混じりで想い馳せることがある。URLは既にお伝え済み、相手がいるなら閲覧のはずもないが、なにかの拍子に思い出して覗いてくれればいいな、と胸焦がしていたりもする。でもさ、邪淫の妄執は避けたいよ。あれは地獄だからね。◆

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第0764日目 〈詩編第072篇:〈神よ、あなたによる裁きを、王に〉〉 [詩編]

 詩編第72篇です。

 詩72:1-20〈神よ、あなたによる裁きを、王に〉
 題詞は「ソロモンの詩。」

 お待たせ、「詩編」第二巻もぶじ終わるね。というわけで、第二巻掉尾の詩72である。題詞にびっくり、なんと登場するのは第3代イスラエル王ソロモンだ。そう、最後を飾るのはソロモンによる詩篇なのである(ソロモンの名を挙げる詩篇はもう一つ、第127篇がある)。このソロモン詩篇は《第二ダビデ詩集》に含まれ、それは第20節に「エッサイの子ダビデの祈りの終わり」とあることから明らかだ。
 ソロモンの御代は王都エルサレムに於いて40年に及んだ。その治世は王国へ繁栄をもたらし、諸国が彼に仕えた。その事績や知恵はすべて『ソロモンの知恵の書』に書き記された。シェバの女王の挿話が代表するようにソロモン王の叡智はイスラエルのみならず、周辺諸国にまで及んだ。そうしてなによりもソロモンは、父王ダビデが準備だけで終わらせていた窮極の事業、即ち神殿建築に着手し、これを完成させた。誠、ソロモンは内外より仰いで讃えられるべき存在であった。━━はずなのだが、唯一の背信行為により主に見放されて敵対者を生み、最終的にイスラエルの南北分裂を招いたのもソロモンである。彼にまつわる様々な物語は王上2:12-11:43にまとめられている。
 それを踏まえていえば、詩72はなんとも皮肉な内容になっている。彼は願い、祈り、歌う、王国の永きに永きを重ねた久遠にも等しい歳月の栄華と繁栄を。何人に対しても自分の行いが公正であり、私情を交えぬ裁きが実現できることを。諸国がこの王、この国に仕えて貢ぎ物を納めるようになることを。王の栄光と統治の理想を高らかに歌いあげたのが詩72である。
 おそらくは━━ソロモン作という前提での話だが━━彼の即位後、間もない時分の作物ではないか。逆にそれ以外のタイミングで詠まれたとすれば、あまりに滑稽ではないか。
 とは雖も、この詩は読んでいて大変気持ちのよい詩である。というか、それ以上に、荘重で高い格を備えた作物である、というてよかろう。正直、このノートを完成させるまでとても苦しんだ。上手く文章がまとまること極めて皆無で、内容を引き絞るために詩72へは何遍も目を通し、時には口に上したかわからぬ程だけれども、それでもこの詩の輝きや魅力というのはまったく色褪せることがなかった。ふだんならだんだんと最初の(恋愛感情にも似た)ときめきは失われてゆくものなのだが……。それだけにこの詩を、聖書のなかの「詩編」という書物から切り離して、一個の文学作品として鑑賞したい誘惑に駆られたのである。
 でも考えてみれば《第二ダビデ詩集》の掉尾をソロモンの詩編が飾るのって、なかなか意味深長ですよね。
 なお、この詩は、来るべきメシアの統治と栄光を予見した詩、としても知られる。ハーレイに従って該当箇所を挙げれば、第7節と第8節、第11節と第19節であるそうだ。いまこの件について拘泥するつもりは、わたくしにはない。ただそのように扱われている、とだけここでは述べておく。
 本日を以て「詩編」第二巻読了、1日のインターヴァルを置いて第三巻に入ります。



 映画『世にも怪奇な物語』を観た。10代の頃に観たTV放送ヴァージョンは2話構成だったような覚えがあるんですよね。記憶の混乱か?
 アラン・ドロン主演ブリジット・バルドー共演の第2話「影を殺した男」も捨て難いが、やはりテレンス・スタンプ主演の第3話「悪魔の首飾り」がダントツでよいですね(監督はフェリーニ!)。まさしく悪夢、そうして鮮烈な映像。鞠をつく美しすぎる少女の顔は、嗚呼、夢にまで出てきそうです。仏=伊の合作による1969年の映画。
 フェリーニは別として、ロジェ・バディム(第1話)、L.マレ(第2話)が監督した他2作を観て思うのですが、ポオの原作をフランス人が手掛けると、どうしようもないぐらい優雅な残酷性が浮き彫りになりますね。ボードレールを嚆矢にポオ受容の歴史に誉れあるフランスの底力かもしれません。この調子で「アッシャー家の崩壊」と「赤死病の仮面」の映像化もお願いしたかった、と口惜しく思うのは、わたくしひとりでしょうか。
 『世にも怪奇な物語』は録画したものをDVDに落としましたので、後日、再試聴して感想など認(したた)められたらいいな、と考えております。◆

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第0763日目 〈詩編第071篇:〈主よ、御もとに身を寄せます。〉〉 [詩編]

 詩編第71篇です。

 詩71:1-24〈主よ、御もとに身を寄せます。〉
 題詞なし。

 幼少時から老年に至るまでの間、主から心を離したり祈りを捧げるのを怠らなかった人の、信仰回顧の詩である。主に依り頼む気持ちは、老いて頭髪が白くなるとますます強固になった。そんな齢に差しかかったとき、彼は自分が悪意ある衆の標的となっているのを知った。それゆえ、幼な子の頃から信じて背かなかったイスラエルの神なる主に、私を救い出してください、と願うているのだ。
 ━━が、この詩で大事にせねばならぬのは、殆ど生まれ落ちたときから老境に至るまでの歳月、「多くの人」(詩71:7)に驚かれながらも主への信仰と信頼を片時たりとも失うことがなかった、という点にこそあろう。
 先にわたくしはこの詩を「信仰回顧の詩だ」と記した。その信仰とはもしかすると<信心深い>どころではなく<強迫観念>の域にまで達しているかもしれない。生まれついての信仰は、一歩誤ればオブセッションと化す可能性を孕んでいる。それでも、主への揺らぐことなき気持ちを大切にしているのは素晴らしいことなのかもしれない。なぜなら創世記この方、主が自分の民に求めてきたのは、それだからだ。ブレたりあやふやになったりすることなき悠久の愛と、ゆめ絶えることなき希望にあふれた讃美であるからだ。そうして時代が下るにつれて純度の高い信心の持ち主がどれだけ稀になってゆくか、われらはこれまで散々目にしてきている。
 嗣業の民としてあるべき姿、心を映した詩である一方で、ぎりぎりの境界で踏み留まることの難しさを伝える詩であるようにも、わたくしには思えている。

 「わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。/わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。/しかし主よ、わたしの主よ/わたしは力を奮い起こして進みいで/ひたすら恵みの御業を唱えましょう。/神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えてきました。」(詩71:14-17)

 「わたしもまた、わたしの神よ/琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。/イスラエルの聖なる方よ/わたしは竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。/わたしの唇は喜びの声をあげ/あなたが贖ってくださったこの魂は/あなたにほめ歌をうたいます。/わたしの舌は絶えることなく/恵みの御業を歌います。」(詩71:22-24)



 来年の追っかけ作曲家はプロコフィエフとラフマニノフで決まった。共に20世紀ロシアの作曲家ながら印象は正反対。プロコフィエフのモダニズム、ラフマニノフのロマンティックに、じわじわ侵され、気附けばすっかり惚れていた。いや、<恋>って病気だね。◆

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第0762日目 〈詩編第070篇:〈神よ、速やかにわたしを救い出し〉&映画『恋の正しい方法は本にも設計図にも載っていない』を観た思い出。〉 [詩編]

 詩編第70篇です。

 詩70:1-6〈神よ、速やかにわたしを救い出し〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。記念。」

 危難からの救出と正義の執行を、作者は待ち望む。
 過剰な装飾を削いだ、平明かつ率直な表現がされていて、変に引っかかることなくすらすら読める、ありがたい詩だ。<読み流せる>ようでその実、心にするする入ってゆく類の詩なのである。そうして、或る特定のフレーズが(意識して覚えたわけでもないのに)ずっと頭の片隅になんとなく残っている、なんて経験をさせてくれる詩でもあるのだ。
 初めて聖書を買ってきちんと読み始めるまでの数年間、折に触れて巻を開いて拾い読みすることはあったが、その当時から詩70は心惹かれる詩であり、魅せられたように読む部分のある詩であった。偏愛とまではゆかぬが、心慰みにぼんやり眺めること多き━━握玩の域に近い詩編であった、と往時を回想しつつそんなことを記しておく。
 なお、詩40後半部分(詩40:14-18)との符合は見逃せない。どんな影響関係があったのだろう。

 「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。/主よ、遅れないでください。」(詩70:6)



 グールドのCDを就寝の際に聴いてはならぬな、と自己反省を込めていってみるさんさんかです。ちなみに反省かつ確信を得たのは、バッハ《平均率クラヴィーア曲集》でした。
 閑話休題(さて、それはさておき)。去る第0729日目:詩編第38篇の日、新宿バルト9に中川翔子の初主演映画『恋の正しい方法は本にも設計図にも載っていない』を観た、とご報告しました。今日はそれの思い出を、感想ではない形で徒然に書いてみます。
 結構軽い気持ちで観るのを決めたのだが、これは観てよかった、と心底から叫ぶことのできる映画でした。あれからちょうど1ヶ月ほど経ちますが、いまに至るもあのとき覚えた<あたたかさ>を忘れることができていない。
 中川翔子がいまのようにメジャーになる前からブログを楽しんできた身には、「しょこたん、大きくなったねぇ」としみじみする場面や台詞の一々もないではなかったのですが、いや、映画館の大きなスクリーンで観たら、思わず身震いしました。女優としての素質がこんなにたっぷりとあったのか、と感心し、感銘し、驚嘆した。改めて惚れ直しました。共演する鈴木裕樹の曲者ぶり&真っ直ぐぶりも、この映画にはよく合っていたな。この2人が、例えば山奥の秘密の場所へ2人で出掛けて語らうシーンなど、ほほえましいことこの上ない。彼の存在が映画に安定感と勢いを与えていたことは否めません。もっとこの人の出演している映画を観たいな。でも最後のキス・シーン、やっぱりあってよいですよね。
 予定調和的な結末かもしれぬが、あの2人の物語としては然るべき終わり方だったのではないか。観終えたあとのほくほく感、かの『耳をすませば』に匹敵いたしましょう。◆

第0761日目 〈詩編第069篇:〈神よ、わたしを救ってください。〉〉 [詩編]

 詩編第69篇です。

 詩69:1-37〈神よ、わたしを救ってください。〉
 題詞は「指揮者によって。『ゆり』に合わせて。ダビデの詩。」

 詩22同様、メシア(救世主)を待ち望む詩。わたくしはこちらの方が好きだ。なにを訴え、なにを語らんとするかがよくわかるし、最後の節までたどり着くともう一度、最初の節へ戻りたくなる中毒性を含んでいる。詩22を読んだ約一ヶ月半前と現在とで心境が異なるせいかもしれない。いまの状況と詩69はあまりにも重なるところがありすぎて、読んだときはすっかりびっくりしてしまった。それも、聖書読書がもたらすふしぎな<共鳴>であるかもしれぬ。が、そんな個人的な告白を別にしても、すこぶる感度のよい詩である、とは思っている。
 新約聖書に引用される旧約聖書の言葉は多い(新共同訳をお使いの方は巻末付録の「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」を参照ください)。なかでも目立つのは「詩編」であるが、詩22とならんで目に付くのが、この詩69だ。両方、メシアの出現を期待、或いは予言しており、描写の幾つかはイエス・キリストにのみ当てはまるがために、新約聖書に取りこまれる頻度も多いわけだが、参考までに、━━
 ・詩69:10と「ヨハネの福音書」(ヨハ)2:17
 ・詩69:5と前掲書15:25
 ・詩69:26と「使徒言行録」(使)1:20a
 ・詩69:23-24と「ローマの信徒への手紙」(ロマ)11:9-10
 ・詩69:10と前掲書15:3
━━となる。これは上述の一覧表からピックアップしたから、潜在的なレヴェルでいえば、も少し多くの影響関係を見出せるかもしれない(新改訳をお使いの方なら、脚注という形で当該箇所とすぐ参照できますね)。なお、滅多に新約聖書に触れることはないから、ここで両者の該当箇所を一つだけ、試みに挙げてみよう。
 「彼らの宿営は荒れ果て/天幕に住む者もなくなりますように。」(詩69:26)
 「詩編にはこう書いてあります。/『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』」(使1:20)
 使1:20にはもう一つ、「詩編」からの引用がありますが、それは第109篇第8節なので、ここでは触れぬことと致します。
 ちょっと道草を喰いましたが、詩69は内と外からわが身、わが心を嬲る迫害にひたすら耐え、いつの日か主が救い出したイスラエルに、シオンに、そこを嗣業の地とする主の僕たる民が住むであろう、という骨格を持つ。わたくしはこれを、魂をいたぶられる者が心の支え、縁(よすが)にする詩と感じ、読むのであります。<行為に及ぶのではなく、ただ耐える>という点がポイントでありましょう。そんなわたくしが一読して共感し、かつ「よくわかる!」と叫んだ詩句を紹介します。
 「わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ/粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。」(詩69:11-12) 〈よくわかる!〉
 「嘲りに心を打ち砕かれ/わたしは無力になりました。/望んでいた同情は得られず/慰めてくれる人も見いだせません。」(詩69:21) 〈共感〉
 最後に、いつものように〆の詩句を引用して、今日を終わらせましょう。

 「天よ地よ、主を賛美せよ/海も、その中にうごめくものもすべて。/神は必ずシオンを救い/ユダの町々を再現してくださる。/彼らはその地に住み、その地を継ぐ。/主の僕らの子孫はそこを嗣業とし、/御名を愛する人々はその地に住み着く。」(詩69:35-37)



 市の中央図書館でヒルティの伝記を借りようと棚の前にいたら、新潮文庫版シャーロック・ホームズ全集の訳者、延原謙の伝記を偶然発見しました。所蔵は知っていてもこれまでずっと借り出されていて、なかなか書架にはなかった本。勿論、借りました。これから寝床に入ってしばし読み耽るつもりです。
 これから出勤のみなさま、ごめんなさい。今宵さんさんかは夜更かしします(現在、午前03時37分……おい)。◆

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第0760日目1/2 〈詩編第068篇:〈神は立ち上がり、敵を散らされる。〉withカラヤン=BPO1977年東京ライヴのベートーヴェンでは第1番が良いな〉 [詩編]

 詩編第68篇です。

 詩68:1-36〈神は立ち上がり、敵を散らされる。〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。歌。」

 戦場へ赴く際、意気高揚の目的もあって作られた詩であろう。萎えがちな心、乱れがちな士気をまとめ、鼓舞するのに有効なのは檄を飛ばすことではなく、このように集団で歌をうたうことだ。詩句を追ってゆくと、この詩がイスラエル建国史にだぶってくるように感じるのを否めない。おそらく聞き馴染んだ固有名詞が散りばめられているせいだろう。
 嗣業の民は神の導きによりエジプトをあとにすると、困難の末“乳と蜜の流れる地”カナンへ入植し、幾度かの内戦を経てから王を立ててイスラエル王国を興した。諸国の民はそのイスラエルを討とうと窺うが、神は必ず彼らを打ち倒し、その血を大地へ流す。やがて諸国はイスラエルに貢ぐようになる。━━<神>の王国による世界支配(あくまで当時の概念に於ける“世界”である)を期待する気持ちがよく表れた詩であるまいか。
 とはいえ、現代の━━あまりにキナ臭く秩序の壊れかけた21世紀の空気のなかで読むと、詩68は幾分ニュアンスの異なる面をわれらに見せる。少なくともわたくしには読むたび毎に、これが一種の殉教の歌のように思えてくるのだ。━━虐げられし人々、或いは自分たちをそういう存在だと思いこんでいる人々の姿が、この詩の背景に見えてくる。我ながらおかしなものだ、と思う。

 「力を神に帰せよ。/神の威光はイスラエルの上にあり/神の威力は雲のかなたにある。/神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。/イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。/神をたたえよ。」(詩68:35-36)



 過日に購入した、1977年東京でのカラヤン=BPOによるベートーヴェン・チクルスのCDを聴き直しています。聴くたび毎に《英雄》と《田園》、第5番がいい、と感動するのですけれど、今回はいつにも増して、交響曲第1番が凄い、と思いました。
 比較的軽量級の交響曲ですが、当時のBPOがフル編成で奏でると、斯くも雄大な交響曲へ変貌するのか、と感嘆したわけです。試しに彼らがEMIとDGへ録音したセッション録音や他の指揮者数名による第1番と聴き較べてみましたが(後者についてはライヴを含む)、やはり1977年の来日公演を凌ぐ演奏ではなかった。
 なぜ、この曲をこれ程に気に入ってしまったのか。考えても考えがまとまらない。単純に度肝を抜かれたのだ、としか言い様がない。呼吸とテンポ。双方が相俟って、これだけの感銘を与えたのだ……と書いてみても、しっくりしないでいる自分がいるのも事実。音楽ブログに書くまで、もうちょっと考えましょう。当時、生で聴けた人が羨ましい。◆

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第0759日目 〈詩編第067篇:〈神がわたしたちを憐れみ、祝福し〉〉 [詩編]

 詩編第67篇です。

 詩67:1-8〈神がわたしたちを憐れみ、祝福し〉
 題詞は「指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。」

 「諸国の民」と「すべての民」は同義。即ち、イスラエルの神の教えが天の下にあまねく広められ、諸国の民がそれに従うよう求める詩だ。即ち、宣教の詩、布教の詩である。
 主旨はこうだ。われらイスラエルの神は公正である、正しい者を祝福して背く者には容赦なき裁きが与えられる━━諸国の民、すべての民が、こぞって感謝をささげるようになりますように。
 もしかすると、異教徒の国へ赴く途中の、或いは、到着して宣教活動を始めている宣教師たちが、心のなかで詩67を誦(とな)える場面があったかもしれませんね。

 「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。」(詩67:5)

 「神がわたしたちを祝福してくださいますように。/地の果てに至るまで/すべてのものが神を畏れ敬いますように。」(詩67:8)



 『生きていくための短歌』(岩波ジュニア新書)という本があります。神戸の定時制高校に通う生徒たちが作った短歌を、彼らの生活や仕事など背景と共に紹介した本。ほぼ一年前に出たものですが、珍しいことに書店に並んですぐに買いました。事前に評判あっての行為ではない。店頭でたまたま見つけ、少し読んですぐさま購入したのです。
 それだけ、内容に手応えを感じたのかもしれません。あれは、まさにあのときの自分に必要な本であったのです。ちょうどその頃は転職活動中、直近で経験のある倉庫業務に就きたいと望んでいた。自身の手で、この経済状況を建て直し、なによりも生活の安定を図りたかった。一度失われたものを再びこの手で、自分の稼ぎで築き直したかったのです。
 幸い、すぐに仕事は見附かって朝早くから働きに出たが、残念ながらすぐに辞めざるを得なくなった。年配の差し歯の男に殺されかけた、とだけいうておく。はい、記憶封印。
 ……ぼくがこの本を手に取ったのは、なによりもそこに若い人の生活力にあふれていた点に共感し、尊敬を抱いたからでした。十代中葉で油まみれになった手を誇り、なかなか思うようにならない生活を懸命に生きようとしている人たちが、ここにいる。ぼくはこの年齢になって、なにを生き迷っているのか。彼らの方が余程しっかりしているではないか。社会的に大きな仕事をしていても、立派な会社に勤めていても、彼らには遠く及ばない。
 いまでもこの本はすぐ手に取れる場所にある。落ちこんでいたり、些事に煩わしさを感じたりするとき、この本を開く。そうして、俺はまだ真剣に生きていないな、と反省し、また明日を頑張ろうと立ちあがるのだ。職場、って、そういうものだしね。◆

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第0758日目 〈詩編第066篇:〈全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。〉〉 [詩編]

 詩編第66篇です。

 詩66:1-20〈全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。〉
 題詞は「指揮者によって。歌、賛歌。」

 神は民の信心を試すため、様々な御業を発揮してイスラエルに、諸国に、その力をあまねく知らしめた。詩66は、太古より示され続けた神の御業と栄光を讃美せよ、という詩だ。それを強く読者へ印象附けるのが、第7-9節である。手抜き、と誹られるのを覚悟でその箇所を引用する。曰く、━━
 「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。/背く者は驕ることを許されない。/諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。/神は我らの魂に命を得させてくださる。/我らの足がよろめくのを許されない。」(詩66:7-9)
 本当は以上を以てわたくしの駄弁を終わらせるつもりだったのだが、一寸だけ妄言にお付き合い願いたい。第6節についてだ。
 「神は海を変えて乾いた地とされた」とあるのは、おそらくノアの箱船の挿話に絡めてのことであろう(心情的に「方舟」としたいが、新共同訳に従って「箱船」とする)。箱船がアララトの山頂に漂着して数ヶ月後、全地から水が引いて乾いた大地が現れた(創6-8)。これは神が人間に対して示した殆ど最初の大きな御業である。これを仰ぎ、讃えずしてどうしろというのか。また、同様に「人は大河であったところを歩いて渡った」とは、むろん、アロンとモーセに率いられた出エジプトの挿話が根っこにある(出14-15)。
 神なる主が如何に偉大で貴く正しい存在であるか、それを諸国の民へ教える力を大きく持った詩である、といえよう。プロパガンダ的詩篇、と断定してしまえば、もうそれこそ身も蓋もない話だけれど。

 「神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。」(詩66:20)



 人はなぜ二心を持つのだろう。建て前と本音は、使い方を誤ればとても残酷な気遣いになる。概ねに於いて、人を疎外する者とは、また、それに同調を示す者らとは、相手を死に至らしめかねないことをしていることに気がつかない。彼らが追い詰められる立場の者になったら、果たしてどんな気持ちになるのであろう。それとも、そんな自分の境遇を甘んじて受け入れる覚悟を固めた上で、<誰か>を嘲り、中傷し、駆逐することに、目先の愉悦に、うつつを抜かしているのか? もしそうなら、ただのバカである。
 こんな輩どもが社会に出て、したり顔で社会や人間関係の機微など語っているのだから、もうなにをか況や、というところですね。くだらなさすぎて、溜め息も出ませんや。もっとはっきりいえば、いちばん嫌なのは、そんな人々の存在でなく、そんな人々の気まぐれな言動に左右されてしまう━━心がしっかりしていない自分なのですけれどね。
 嗚呼、強い心を持ちたいな。そう……ホレイショのような。◆

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第0757日目 〈詩編第065篇:〈沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。〉withラム姉弟『シェイクスピア物語』を手引きに。〉 [詩編]

 詩編第65篇です。

 詩65:1-14〈沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。〉
 題詞は「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。歌。」

 その長閑さに心がおだやかになる。詩65は、大地の恵み、森羅万象の営為を喜ぶ詩。これを読んでわたくしは、ハイドンのオラトリオ《四季》やベートーヴェンの交響曲第6番《田園》に聴かれる、神なる主の創造し給うた自然への畏敬の念と感謝の喜びを感ずるのだ。<敵>の存在を匂わせたり、命狙う衆の根絶を願うのとはまったく無縁の、珍しい詩といえよう。
 正直なところを申せば、仕事帰りの作業で斯様な詩と出会えるのは、非常にうれしい。心がほっ、とし、安堵するのだ。ちと俗な表現をすれば、心が洗われる気分がする。こういう、一寸毛色の変わった作品があるから、「詩編」を読むのは楽しいのだ。いうてみれば、スパイス的な作品、隠し味的な作品である。
 ところで、詩65は確かに自然への恵みを讃仰する詩なのだが、前半1/3(詩65:2-5)はややトーンが異なる。実は詩65の眼目はこの部分にある、というてよい。罪を犯して背いた者をも、あなたは贖いそばに置いてくださる。如何に幸いなことだろう。わたしはあなたに満願の献げ物をささげます、シオン(エルサレム/神殿)に坐す神なる主に。━━そうした祈りを承けて、前述した自然讃仰のパートへ移るのだ。ざっと読んだだけではつながりがよくないように思うかもしれないが、この点を読み誤ると、詩65のニュアンスはだいぶ違うものとなるのではないか。
 偉そうなことをいうた。ではそれがどういうことなのか、と問われるだろうから、引用を交えて以下のように述べておく。
 詩65の2/3を占める自然讃仰の根拠は、以下の詩句に求められよう。「わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。/遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。」(詩65:6)つまり、自然を媒介として人間に恵みを与えてくれる主の御業が讃美されておるのだ。それが「お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。」(詩65:9)という表現を生むに至っている。この詩句、なかなか味わい深いと思いませんか?
 何度も何度も味わって、そのたび感銘を新たにしたい詩である。その牧歌的雰囲気から、一種の清涼飲料水的な役割を果たしてくれる詩でもある、というてよいだろう。

 「あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。/神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。/あなたがそのように地を備え/畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。
 あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。/あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。/荒れ野の原にも滴り/どの丘も喜びを帯とし/牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われています。/ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。」(詩65:10-14)



 明日(今日ですか)から横浜にてAPEC開催。喧しくなるなぁ。
 週末はドストエフスキーを読めないので━━理由はいろいろあるんだ━━、代わりにラム姉弟の『シェイクスピア物語』(松本恵子・訳 新潮文庫)を読んでいます。コンパクトに、しかも原作のエッセンスを少しも損なわずにこれだけのリライト作業が出来る、という点に驚嘆します。これまで読んだなかでは、「お気に召すまま」がよかったかな。
 原書で読んだことはありませんが、簡潔かつ平明な文章で綴られているんだろうなぁ。前書きに、シェイクスピアの原作に使われている言葉はなるたけそのまま使用した、という旨の文章があったと記憶しますが、流石に原書を繙き、シェイクスピアの原書も脇に置いてみないとわからないところですよね。どこかにその辺を手っ取り早く解説してくれた本はないものかしら。
 話を戻せば、この本以上にシェイクスピアへの手引きとなってくれる本はない。ラム姉弟の本でシェイクスピアを読む楽しみを知ったのは、さて、一体いつのことであったろうか。もっとも、この文庫に収められた作品以外のシェイクスピア作品へ手を伸ばすようになったのは、それからだいぶ先になりますが。
 この『シェイクスピア物語』、いまでは岩波文庫から上下巻で完訳が出ておりますから、これから読む人はそちらの方をお奨めします。新潮文庫版は、もう如何せんだいぶ前の翻訳なので日本語にちょっとガタが来ている。むろん良い訳なのですが、現代の読者向けとは申し難い文章であるのは、残念ながら事実であります。
 でも、このような良い本というのは、年齢など関係なしにいつでも感動と喜びを与えてくれるものですから、興味が出たら即買うなり借りるなりして自分のなかに取りこんでしまうのが最上の方法であると思います。出来れば、身銭を切ってこそ、自分の滋養になるはずなのですけれど、そこまでは特に要求しません。◆

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第0756日目 〈詩編第064篇:〈神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。〉〉 [詩編]

 詩編第64篇です。

 詩64:1-11〈神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。〉
 題詞は「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」

 目には目を、というべきなのか、因果応報、と表現すべきなのか、正直迷うている。旧約聖書ではもう嫌気がさす程目にしてきた構図━━敵がわたしを欺き、突然人々へ悪事を謀る。が、神なる主は報復するかのように突然、敵を討つのだ。みなは恐れて主の御業に目覚めるだろう━━だが、こちらも忍耐強くそれに相対そう。
 敵の張り巡らす罠は巧みだ。「人は胸に深慮を隠す」(詩64:7)とまで彼らはいう。物陰に身を潜ませ、無垢な人を、正しい人を、巧みに唆して暗黒面へ引きずりこむ。それに抗い、浄化する力を持つのは━━決定的な意味での<力の持ち主>は、とどのつまりは<神>ということになる。人間はあくまで代理人に過ぎず、悪を謀る敵を全地から滅ぼすことはできない、ということか。
 悪は栄える。なぜならば、道を外れた行いは、或る種の法悦(エクスタシー)をもたらすからだ。それゆえに彼らは恐れない。その彼らを打ち倒すからこそ神の御業は偉大であり、御業を目の当たりにした者は神なる主を畏れ、主なる神を恐れて、讃仰するのだ。この図式はそのまま聖書全体を〆括る「ヨハネの黙示録」にも当てはめられよう。
 悪は常に魅力的である。ゆえにこそ危険である。

 「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。/敵の脅威からわたしの命をお守りください。/わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」(詩64:2-3)

 「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/『見抜かれることはない』と言います。/巧妙に悪を謀り/『我らの謀は巧妙で完全だ。/人は胸に深慮を隠す。』と言います。」(詩64:6-7)



 疑問がある。なぜ、自分は赤川次郎を読まなくなったのか。やはり高校時代は夢中だった。文庫化された作品を片端から読み潰してゆき、当時刊行されていた文庫の2/3は読破したのでないか。でも成人してしばらくすると、だんだん離れていった。なぜか?
 その時期はちょうど読書の関心が日本の古典文学に比重が傾き、並行して近現代の海外小説を本格的に読み出す時期であった。赤川次郎から離れたのは、おそらくその為だ。読んでも満足することはなく、却って欲求不満になっていったのだ。もっと良い小説を、もっと読み応えのあるがっちりした小説を、読みたい。そんな思いがエンタメ小説との訣別となり、国内外の古典へ自分を向かわせたのだ。
 エッセイは途切れることなく読んでいると雖も、肝心の小説は『さすらい』と『霧の夜の戦慄』しか、この数年で新しく読んだ作品はない。『怪談人恋坂』は文庫による再読だったから勘定に入れない。どうだろう、この激減ぶり。
 赤川ブランドを純粋に楽しんだ最後の時期に読んだ作品は、『作者消失』と『そして、楽隊は行く』、『晩夏』、『幽霊の径』(と『怪談人恋坂』)といったところか。偽りないところを告白させていただけば、近頃赤川次郎を読み通すのが苦痛になってきている。以前なら普通の厚さは1時間強、だいたい2-3時間で読み終えられた。が、『さすらい』に至っては1章1日という、とんでもなく遅いペースでようやっと巻を閉じたのだ。
 先日、ほぼ同い年の人と話す機会があったのだが、その人は中学時代から未だ情熱衰えることなく赤川次郎を読み続けている、という。ただ自分の楽しみのためだけに!
 そういう人と較べてみると、単に興味が他へ移っただけなのか、と思う。が、━━否、といおう。それだけではない。他に様々読んできたが為にこちらの背丈が伸びたのだ。それゆえにいつの間にやら赤川次郎では満足できなくなったのだ。それが、読まなくなった最大の理由だ。
 体力? それはどうだかわからぬ。少なくとも1冊を読み通し、間断なく読み続けるフットワークは、確かになくなった。しかし、それはどの作家についてもいえることだ。事実、今年のドストエフスキー-太宰治はどうであったか? 余程のことがない限り、再び赤川次郎の新作に手を(率先して)伸ばすことはないだろう。淋しいことだが、仕方がない。でも、学生時代に読んだ彼の小説は、いまでも大切に保管している。ページを開けば、あのときのときめきとドキドキワクワクを、すぐに思い出せる。◆

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第0755日目 〈詩編第063篇:〈神よ、あなたはわたしの神。〉〉 [詩編]

 詩編第63篇です。

 詩63:1-12〈神よ、あなたはわたしの神。〉
 題詞は「賛歌。ダビデの詩。ダビデはユダの荒れ野にいたとき。」

 詩63は、一種の<頌(オード)>である。神なる主を求め、満たされた心が自ずと吐露した頌歌。
 わが魂は荒れ野の如し、衰え、渇いている。主よ、あなたを捜し求めたからです。━━が、いまはこうして聖所であなたの御力と栄光を仰ぎ見て、わが魂は満ち足りました。「わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。/床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」(詩63:6-7)わたしはあなたの陰でわたしを支えてくださいます。
 題詞が示すとおり、ユダの荒れ野で敵と戦っている(と覚しき)時分のものであるから、第10-11節では敵対者が地から絶えるよう願う文言が含まれている。敵とは誰か? 一部では、それはアブサロムである、という。サム下17-18に於いて、ダビデ王はヨルダン川東岸ギレアド領のマナハイムに陣を置き、対アブサロムの最後の━━苦渋に満ちた━━戦いに臨んだ。その折に詠まれたのが件の詩、というわけである。
 ハーレイはいう、「(ダビデは)どのような場合にも祈り、感謝し、悔い改め、賛美して直接神へ向かった」(『新聖書ハンドブック』P233)と。詩63は、そんなダビデ王が残した(とされる)諸詩の中で、特に素直で凛とした詩のようにわたくしは思うのである。

 「あなたの慈しみは命にもまさる恵み/わたしの唇はあなたをほめたたえます。/命のある限り、あなたをたたえ/手を高く上げ、御名によって祈ります。/わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。」(詩63:4-6)



 録画しておいた映画『ナルニア国物語:第2章 カスピアン王子の角笛』を観ました(movie plus)。前作「ライオンと魔女」同様、非常にしっかり作られた脚本と丁寧な演出で、なんでだか胸を撫で下ろしました。ディズニー、やれば出来るじゃん!
 『ナルニア』に関しては、C.S.ルイスの原作より映画の方がずっとオススメできるように思います。原作はどうにもストレートかつ教条的な面があることを否めず、特に『指輪物語』のあとに読むとその単調さが却って目立ちます。まあ、最終巻での驚天動地の結末には唖然としちゃいますがね。
 原作附き映画の場合はイメージの固定化という弊害を招くことがある。『ナルニア』とて例外ではない。だがその代わり、原作以上にキャラクターへ感情移入し、作品にのめり込むことが出来る。時間制限のある映画だからこそ、観客は魅力的なキャラクターと魅惑的なナルニアの世界に導かれて、いつの間にやらテルマール人とナルニア人の戦いに一喜一憂することが出来るようになるのだ。
 映画『ナルニア』は来年2011年2月に第3章が公開予定の由。◆

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第0754日目2/2 〈詩編第062篇:〈わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。〉〉 [詩編]

 詩編第62篇です。

 詩62:1-13〈わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。〉
 題詞は「指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌、ダビデの詩。」

 全150篇の詩編のなかで、おそらくは最高傑作というてよいのが今回の詩62だ。
 欺負(ぎふ)と謀略に魂を奪われた者を詰り、主の道を外れることなく歩んで主の目に正しいと映ることを行う自分とその民は、神を信頼し避けどころとするのだ、という宣言。もしくは宣誓。それが、詩62の骨子である。
 これを読むわたくしの脳裏には「力が力を生むことに心を」囚われたかつての職場、いまの職場の誰彼の顔が浮かび、かつ露中の対日外交が思い浮かぶ。果たして<力>に魅入られた者はどこまで己を増長させてゆくのだろう。道理を忘れて欲望にまみれ、道を踏み外して暗黒面に落ちたら、もうかつての<心>は取り戻せぬのだろうか?

 「人の子らは空しいもの。/人の子らは欺くもの。/共に秤にかけても、息よりも軽い。/暴力に依存するな。/搾取を空しく誇るな。/力が力を生むことに心を奪われるな。
  ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた。/力は神のものであり/慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と。/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」(詩62:10-13)



 かつて書いたように叔母が亡くなり、親類もこの場合は喪に服すわけである。そろそろ喪中葉書のことを考える時期になったが、つくづく骨の髄まで染みこんだ道楽とは恐ろしい、と実感しているのだ。
 こんな次第だ、聞いてくれ。あるとき、喫茶店で本を読んでいた。そんなとき、ふっ、と思いが乱れた。その狭間から、書くことを諦めた物語の種子が侵入してきた。ノートを開いて第一稿を書き上げるまでに、さして時間はかからなかった。
 物語は変容した。当初はまったく意図しなかった人について書き、まったく意図していなかった短い物語が、満足して筆を擱いたわたくしの前に広がっていた。その後、流れの悪い箇所の処理に悩んでいるうち、いつの間にやらカレンダーは11月。既に第一稿は<そこ>に眠って新しく手を入れられるのを待っている。が、発表する舞台はないのだ……。
 否、発表する舞台はある━━ここに! 年賀状用の小説とは、クリアランス・セールの対象品に等しい。時期を逃したら価値は失われる。叔母の喪中であるのに、という難詰を覚悟の上で、本ブログにて「詩編」のノートと同時に、件の小説を発表することにする。でもそのとき、われらは第何篇の詩を読んでいるのだろう? 詩119-122のどれかか?
 葉書一面に収まる分量ゆえに掌編と呼ぶべきものとなるが、わたくしは毎年こんな小説を書いて、受け取った人が永く握玩してくれることを希望しているのだ。
 さて、ここで宣伝もお終いだ。過度な期待は体に悪い。あなたにも、わたくしにも。◆

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