第2909日目 〈渡部昇一『ヒルティに学ぶ心術』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 渡部昇一『渡部昇一的生き方 ヒルティに学ぶ心術』(致知出版社 1997)を読了。摘まみ読みで済ませてきたが、ちかごろ立て続けに著者の本を読んでいることから、その波に呑まれるようにしての通読となりました。
 専ら『幸福論』に拠って仕事の方法や習慣の重要さ、エピクテトスの哲学、病気の克服等を引用しつつコメントを交えている。仕事の方法、習慣に関してはこれまでもこれ以後も、何度となく繰り返し語られているので新鮮味というのは正直ないが、こうして本来の文脈で語られ直すと、改めて眼を開かされる思いのするのは不思議で、愉快な経験でありました。
 エピクテトスの章は、わたくしには本書の白眉と映る。『幸福論』にはヒルティの訳したエピクテトスの『要訓』からの文章が訳されて載るが、なんべんとなく読んでも、誤魔化しなくいえば、「わかる」と「わからない」の比率は4:6ぐらいでした。ゆえ、岩波文庫のエピクテトスの2巻を購っても不明はさらに深まるばかりで。それを渡部昇一というフィルターを通してエピクテトスの、ひいてはストア哲学の考えに触れると、実によくわかった、という気にさせられる。すくなくとも「わかる」と「わからない」の比率は5:5ぐらいにはなった、と自負している。
 じゃあ結局わかってないんじゃないの? そう疑問を投げられると答えに窮するが、要するに、自分の内と外にそれぞれあるものの間の線引きを明確に意識せよ、自分の意思で自由になることと、どうにもならぬことを切り分けて、その上で為すべきことはなにかを考えて行動せよ、ということだ。「自分でどうにもならぬことについてくよくよ嘆いてもしょうがない。自分でできることは何かということをいつも考える。……たとえばある状況があって、それを変えたいと思ったら、変えるために何かをやることは自分にはできる」(P55)、これは本書の要である、と思います。
 これは本当に、心から納得できたことであります。おこがましいいい方にはなりますが、これまで自分が仕事を通していつの間にか身に付けていたことと、ここで語られるストア哲学が同次元にあることが確認できました。となると、こんな風にいえるかもしれません──多くの労働者は自分でもそれと知らぬ間に、ストア哲学を一部なりとも体得し、実践しているのかもしれない、と。
 とはいえ、本書のすべての箇所に、成る程、と膝を叩いたかといえば勿論、そうではありません。そんなこと、あろうはずがない。第6章「病気治療法」ではヒルティの言葉にも渡部のコメントにも首肯しかねる部分が幾つもある。第5章「時間のつくり方」他に散見される労働に関する発言も、また然り。本稿に於いて当該箇所の発言は控えますが、やはりそのあたりには<限界>というものがあることを痛感せざるを得ません。
 ところで、どうして渡部はヒルティの邦訳を、岩波文庫と創元社の選集だけしか挙げず、白水社の2度にわたる著作集について1度も触れないのか。自身の若き日に読んだ日本語訳のヒルティが、岩波文庫と創元社の選集であるためか。斯様に肩肘張らず読めるよう工夫された本でヒルティの言葉を引用するには、かつてその装幀、その版面、その活字、その訳文、その表現で親しんで滋養として現在も書庫にある件の邦訳書でなければならなかったのか。おそらくそうだろう、誰しも本を著す際は、明確な理由と目的がない限りは手に馴染み、目に馴染み、心に添うたかつての愛読書に拠って立つことになるのだろうから。◆

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