第2936日目 〈ぼくの命を救ってくれて、ありがとう。──Huey Lewis & The News - I Am There For You (official video)〉 [日々の思い・独り言]

 むかし話をさせてください。
 19年前、はじめてアメリカへ行きました。友だちからの招待でした。到着したのは夜も遅い時間。出迎えに来てくれていた友だちの家にその晩は泊まり、翌朝、かれの勤務先の入るビルの前で別れました。
 「ランチは無理だけど、ディナーを一緒にしよう。積もる話をその時に」
 それが彼と交わした、最後の会話でした。パリッ、とスーツを着こなしたビジネスマンたちが、逆方向へ足早に歩いてゆく。どれぐらい歩いたのかな。突然まわりが真っ暗になりました。その数秒後、だと思います。頭上で鼓膜が破れるような音がしたのは。
 その瞬間、世界から音が消えました。本当に鼓膜が破れたのではないか、と怖くなり、耳許で指を鳴らした。聞こえてきたのは指を鳴らす音だけでは、なかった。まわりにいた人たちが何か叫んでいる。みんな、上を見あげている。
 振り返ると、ビルから黒煙が上っていました。ぱっくりと壁に裂け目ができ、ニッ、と笑っているような形でした。Oの字に開いた口からは、言葉がなにも出て来なかった。舌が震えているのは辛うじて分かるけれど、喉の奥からはどんな言葉も出てこなかった。
 ふたたび同じように空が陰り、轟音が降ってきた。どれぐらいの時間が経ったのか、そうして、2つのビルが倒壊を始めた。後年になってその時の映像を観た、紹介された遺族の言葉が突き刺さり、深く首肯した。曰く、あれは夫が死ぬ瞬間でもあったのです、と。
 誰かが、「逃げろ」と叫んだ、その声を合図に、一斉に人がこちらへ走ってくる。その場から動けずにいたぼくの腕を摑んで、黒人男性が「走れ」と言いました。よたつく足を交互に振り出して、のろのろと走った。友だちのことは脳裏になかった。その場を離れるだけが精一杯だった。
 どんな経緯を辿ったのか、気附いたら病院にいた。廊下の簡易ベッドに寝かされて、なにか質問されているらしいが、よく聞こえない。聞き取れない。問答無用で体を調べられ、治療を施されたのは覚えている。言われてみると、後頭部に軽い痺れが慢性的に走っている。背負っていたリュックは埃まみれで、刃先のなまくらな刃物で無理に裂いたような傷もあった。
 どんな人が病院に運びこんでくれたのか、分からなかった。探すことも問うことも忘れていたから。現場から離れることを促してくれた黒人男性とぼくを病院へ運びこんでくれた人がいなかったら、いま頃こんなのんびりとブログを書いたり、最後の恋に身をやつすこともなかった筈。
 そうして、病院で言葉の通じない日本人を相手に治療を施してくださった病院のスタッフに、心よりの感謝を捧げます。命の恩人、という言葉は時にやたら陳腐に、軽々しく扱われる。しかし、あの日からこの言葉を誰彼に安易に用いたことは、一度もない。
 ──いま世界は新型コロナウィルスによって犠牲を強いられている。一部の職業の方々に尋常でない負担を掛けてしまっている。それに対して心ない言葉を浴びせ、行動を取る人たちがいる。信じられない思いだ。どうか、あなたたちの信念と決意が、未来に光と希望と救いをもたらしてくれますように。医療に関わるすべての人たちへ。ありがとうございます。◆

 Huey Lewis & The News - I Am There For You (official video)
 https://www.youtube.com/c/hueylewisofficial




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第2935日目 〈今年は小説をあまり読まなかった。〉 [日々の思い・独り言]

 しばらく読書感想文を書いていません。池上彰の5冊を取り挙げて以後は、その筆を執る気すら正直起きないでいます……。
 勿論、いろいろ読んでおります。件の5冊の時のように3時間程度で1冊というわけではないけれど、往復の通勤電車のなかで早朝と退勤後のスタバで、ちょこちょこ読み進めている。
 Twitter他SNS等含めてあれ以来の読書を顧みると、池上彰+佐藤優『僕らが毎日やっている最強の読み方』(東洋経済)、佐藤優『国家の罠』(新潮文庫)『獄中記』(岩波現代文庫)、池上彰+竹内政明『書く力』(朝日新書)、加藤周一『読書術』(岩波現代文庫)、村上世彰『村上世彰、高校生に投資を教える』(角川書店)を読み、いまは池上彰+佐藤優『知的再武装 60のヒント』(文春文庫)です。
 太宰治が途轍もなく面白かったから、その反動かしらん……小説、全然読んでいません。まだ禁断症状が出ているわけではないが、渇きを覚えてきている。床には未読の松本清張が積み重なり、その先には新潮文庫のドストエフスキーが積んである。内、未読は2作。書架に目を転じれば新潮社の全集が場所を塞いでいるけれど、はてさて、このなかの何冊が最終的に読めるのだろう? 時間は、もうない。
 が、読めばどんなにか心が晴れるだろう。幸福を胸のなかに覚えることだろう。その一方で実際に手を伸ばして第1ページ目から読んでゆくことの出来る本がどれだけあるか、いつも不安を感じている。来年の愉しみになっている筈の村上春樹とスティーヴン・キングとて、例外ではない。
 されど、この2ヶ月で本当に読むのを愉しみにして購入した小説は、幾つもある。涼宮ハルヒの新作やラヴクラフトの新訳第2弾、クック『図書室の怪』、書肆盛林堂が刊行したスミスやハワード、ダンセイニ卿の作品集、ダンセイニ卿研究者が翻訳して自費出版した卿の少年少女向け長編小説、だ。別の言い方をすれば、仮に万一小説の感想文を書くことができるならば、すくなくともネタ本に困ることはない、ということにもなる。
 顧みて今年は読書感想文を定期的に執筆することはなく(太宰読書中は別として)、自由気儘・行き当たりばったり無計画に本ブログでお披露目してきた。来年は、ジャンル不問で2週間に1本ぐらいのペースで感想文を、読者諸兄にお読みいただけるようにしたいなぁ、と企んでおりますが、さて、果たしてどうなりますことやら。
 他人事のようで恐縮ですが、こんな風にお茶を濁しておけば、たとえ半年に1本しか挙げられなかったとしても、言い訳は立つんではないか。違う?◆

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第2934日目 〈滅びの時は来たりぬ。〉 [日々の思い・独り言]

 今日はこのようなお話しをすることになってしまい、本当に申し訳ないと思っています。
 ──
 ジムの帰り道、心地よい疲労感に包まれたまま近所のドトールに入りました。そうしてなにげなくスマホのメッセージアプリを開いたら、上司の二枚舌と会社の裏切りに愕然としてしまいました。疲労感に取って代わったのは、限度なき怒りでした。──戦闘準備、或いは戦闘開始。そんな言葉を口のなかで呟いたのは10何年振りか。
 事の発端と経緯、顛末は省きます。これを一大事と捉えて緊急事態宣言急の案件と判断し、今後の対策を講じるのは、あくまで当事者側の事情であり、殆どすべての読者諸兄には些末以前の出来事に過ぎないのだから。これで貴重な読者の過半を失う発言をしちまったが、仕方ない。戦いの代償は支払われなければ。
 嗚呼、皆様。ご存知でしょうか。抱かれた感情はちょっとした外的要因によって、簡単に憎しみに変わってしまうことを。とはいえ、わたくしには理性も知性も想像力もある。反社会的行為、法律に抵触するような行いには手を染めない。然るべき証拠と裏附け資料を揃え、然るべき手段で関係各書へ働きかけ、社会的制裁を加えるだけのこと。
 まぁ、そのあとは、ご自分たちの愚行を生涯忘れることなく細部に至るまで精確に思い出すことを繰り返しながらゆめ忘れぬよう努めていただき、長いか短いか分からぬ残りの人生を送っていたいただきたい。
 「すべては滅びる」のではない、「すべては滅ぼされる」のです。◆

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第2933日目 〈2020年、わたくしはこういう本を読んでいたのか……。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年も同じ傾向のものを書きましたが、今年も、自らの読書歴の振り返りという意味をこめて綴ってゆくと致します。
 2020年の読書でやはり最大のトピックは、新潮文庫版太宰治作品集の読破でした。ちょうど10年前に一旦中断してそのままになっていたのを昨年から再開し──というのは何度も書いてきたので省きませう。
 本稿の趣旨に従ってなにか1冊選ぶとすると……んんん、難しいな。”今年”読んだ太宰ですからねぇ。1冊というよりもそこに収まる作品になっちゃう。そうね、こんな感じ;『きりぎりす』から「未帰還の友に」、『新ハムレット』から「女の決闘」と「待つ」、『グッドバイ』から「グッドバイ」。
 個々の作品については最早触れない。当該文庫の感想にあるから。太宰の才能がオールラウンドで堪能できる逸品揃い、神品揃いとだけ、ここではお伝えしておきましょう。忌憚なくいわせていただくと、この4作で太宰に抵抗ある人は、他のどんな有名作傑作代表作を読んでも、ピン、とは来ない不感症患者と診察されても仕方ないと思います。
 太宰を(再読含めて)6月で終わらせたあと、わたくしが向かったのはドストエフスキーでした。短編・初期作と続けて本丸というべき『未成年』『カラマーゾフの兄弟』へ至る予定でしたが、現在挫折中。ふたたびドストエフスキーに心が向かう日は来るのかな。
 されど斯様な下であっても、読む機会稀な短編群にまとめて触れることができたのは、収穫でした。太宰とはまた少し異なる意味で、作者の多芸多才ぶりが味わえたからであります。
 して問題はここから先、即ち中秋から現在までの読書について、なのでした。小説から離れて教養書、専門書、要するにフィクションではないジャンルの本に溺れていたがゆえに、上述のようにあの本は、この本が、と取り挙げることができないのです。それに代わって出来ることといえば、この時分、わたくしがなにを読んだか、を羅列することぐらいで……許されるでしょうか、ありがとう。では、──
 未読未架蔵の渡部昇一の著書を買い漁り読み倒し、氏の日本史に関する本は『日本史から見た日本人』全3巻(祥伝社 1989/5)と『渡部昇一の少年日本史 日本人にしか見えない虹を見る』(致知出版社 2017/4)があればじゅうぶんと判断できるぐらいには読みこんだ。『日本の歴史』全7巻(WAC)は後者に不足を感じたならば読めば良い。
 20代に読んでいた雑誌『BOOKMAN』(イデア出版局→トパーズプレス 1982/10−1991/6)の全冊揃いを入手したことから、タングラムから出版・翻刻された書物関係の本を購い、髙宮利行『西洋書物学事始め』(青土社 1992/12)やウィリアム・ブレイズ『書物の敵』(八坂書房 2004/10)を読み耽り、改めてわが国と西洋の書誌学の架蔵する本を点検する機会を与えられた(その流れで、『弘文荘 反町茂雄氏の人と仕事』文車の会・編を購入。以て反町茂雄に関する本の蒐集にピリオドを打つことにした[『弘文荘待賈古書目』なんて、買えないよ])。併せて鹿島茂や庄司浅水の本に手を伸ばした。
 池上彰や佐藤優らの著書をガツガツ読んで、感想を本ブログやTwitterに投稿もした。そのなかから特に1冊、とはまるで選べないが、どれもこれもわたくしには財産となり栄養分となり、前に進むためのガソリン代わりになった。池上さんと佐藤優の勉強術は社会人には高嶺の花のように映るけれど、案外と工夫次第で自家薬籠のものとできるのかもしれない……が、千々心乱れることあるいまのわたくしには、「ああ、そうですか」と溜め息吐くぐらいしかできそうに、ない。
 ──顧みて今年は、恋愛面ではまーーーーーーーーーーーーーーーーーったく進展なく展望もないまま2021年に”to be continued,”となったけれど(もうっ!!)、読書に関しては昨年よりも充実していた様子であります。来年も、読書についてはこうだと良いな。◆

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第2931日目 〈短く、滋味ある文章を書き遺してゆきたい。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ数日、短いものばかり書いています。時間的体力的精神的制約も手伝ってのことと自分では思っていますが、短い文章を書くという作業、「まとめる」という面ではなかなか難しいけれど、書き甲斐がある、挑み甲斐がある、工夫のし甲斐がある、技巧の凝らし甲斐がある。要するに、面白くて、愉しい。
 内容はともかく分量だけは結構ある文章を書き続けてきた反動か、それともただ単に飽きたのか。理由は定かにあらねど、書き始める前から「今日はこれぐらいの文字数でまとめてみよう」と考えていることが多い。
 サラリ、と或いは感情に任せて書いたように見えるものでも、お披露目へ至るまでには何度か書き直したり、棄てたりしています。1時間を費やしてたったの2,3行という日も、ある(書き悩んでボサボサの髪を指でわしゃわしゃやって、フケ撒き散らすことはない)。書いては消し、を繰り返し、本をパラパラ目繰って書き進めるための燃料調達に奔走したりもする。
 しかし、手を離れてお披露目される段階に至ると、そんな迷いや悩みを窺わせない文章に仕上がっていてほしい。理想は、秋成の『胆大小心録』かな。近現代に範を仰ぐとするなら……あれ、短くまとめられた文章で心底惚れてしまうものに出合ったこと、考えてみるとないかも。一時的に影響を受けたものなら幾らでもあるんだけれど……。価値は認められても痕跡残すぐらいに惚れこむことができないんじゃあ、無意味だものね。
 短いものは書くのが難しい。文字数の制約がなければ自由の幅は広がる。が、要旨がぼやけて腑抜けな文章になりがちだ(読者諸兄よ、この発言を深く刻め、なぜならこれは経験者からの発言だからだ。呵呵)。そんなものは、断言する、小学校で国語をちゃんとやってきたなら阿呆でも書ける。一方、短い文章を書くにはテクニックが要る。日頃から不断の読書を重ね、ボキャブラリーとエクスプレッションとレトリックの採取に余念なく、不明の事柄を調べることに倦くことなく、それをアウトプットする機会を精力的に持ち、推敲の意味を理解している書き手が、”読ませる”短い文章を書くことができるのではないか、というのがわたくしの観察結果である。そうして書かれた文章が読み手のなかにストン、と落ちて心奥に残るとき、本当の意味でその文章は生命を得る。──わたくしにはそれが理想と映る。そんな短い文章をエッセイを、わたくしは書きたい。書き遺したい。◆

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第2930日目 〈あなたはとても遠い場所にいる。──沓冠で読んでね。〉 [日々の思い・独り言]

 なんというても今年の聖夜は「je te veux」の一言に尽きる。かつて今年以上にこの言葉に重みが込められたことは、ない。かなはぬと心の底では分かっているが、ある筈のない一縷の望みに縋っている。みくらさんさんかよ、お前は狂っている。その恋がかなふと本気で思っているのか。
 はやく諦めろ。彼女はお前の想いに吐き気を催し、存在を疎んじ、視界に収めることも同じ部屋にいることも御免被りたい、と思っている。必要あって話さねばならぬ時、一刻も早く話を切りあげ自席に戻りたいと考えているのを、まさか知らぬわけではあるまい。すくなくとも、まわりは知っているよ、お前はピエロだ。あの子の言動を見ていれば、誰しも分かることなのだから。
 ながい人生を、おそらくまだ数10年続くであろう人生を、孤独に生きよ。独りは馴れているではないか。すくなくともお前は、”お独り様”カテゴリーのなかでは比肩するもの無きアウトサイダーだ。ブラヴォ。
 すべては燃え尽きる。大切な想いはすべて掠い取られる。あの女性への気持ちは一方通行で終わり、やがて離れ離れになって忘れられてゆく、NNさんのなかでは。でも、それでいいの? これまで報われないと分かっていてもなお気持ちを強く持ち続け、時間を積み重ねてきたのに。まだ諦めちゃ駄目だ、それは唾棄すべき行為である。好きという気持ちを持ったまま、それを伝えて、許される限りの時間を共に過ごそう。残念ながらカウント・ダウンは(あなたが望むにせよ望まぬにせよ)始まった──この恋を、こんな言葉で表現しなくて済むようにしたい。その言葉とは、慚愧。◆

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第2929日目 〈映りこんだ2人の影、ゆめ経験できない遣り取り。〉 [日々の思い・独り言]

 あなたの夫になりたい。
 背中から聞こえてきた声。何事、と振り返る必要はなかった。天井から床まであるガラス壁に映っていた。カップルが丸テーブルを挟んで向かい合っていた。コーヒーとフラペチーノ。
 男は前屈みになり、女性の顔を見つめてそう言った。ガラス壁に映りこむ2人に、悟られれぬよう視線を向け、よく聞こえぬ耳を傾けた。女性は両手を拳に握り、俯いていた。雰囲気の、よく似た人。
 女性が、男の方へ顔をあげ、手を伸ばした。メリー・クリスマス。◆

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第2928日目 〈I will impose sanctions on yours.〉 [日々の思い・独り言]

 人間五十年、化天のうちを比ぶれば/夢幻の如くなり/一度生を享け、滅せぬもののあるべきか/これを菩提の種と思ひ定めざらんは/口惜しかりき次第ぞ。
 「敦盛」の一節であります。
 むかしから好きで、口のなかで誦すこと度々。きちんとした註釈書に当たったわけじゃないので、解釈は相当に自己流ですが、時々ぴったりとこちらの心情に重なり合うことがあります。
 ──終活を始めました。昨日の原稿と正反対の趣の発言になりますが、びっくりする人などありますまい。誰が読んでるんだ、こんなブログ。それはさておき、終活を始めた。
 自分の持つすべての権利を禅譲し、独りの人生を無駄なく過ごすための作業を始めた。まさか死ぬ瞬間まで独りでいることになるなんて、思わなかったよ。
 向き合うこともせずに知ったような口で言うてくれるな。万事お茶を濁す態度に終始して済ませようとしたお前がそんな台詞を吐けるのか?
 どうぞ愉しんでください。◆

第2927日目 〈自分を変えるためにできること。〉 [日々の思い・独り言]

 今日からジムへ通い始めた。自宅最寄り駅から徒歩8分程度の場所にある、大きめなスポーツクラブ。先週入会手続をし、今日から……なんだか1週間が早かった。ウェアを買い、シューズを買い、スポーツマスクを買い、ちょっとビールを飲むのも控えて(その代わり日本酒に切り替わったのだけれど)、今日を迎えた。
 意識したわけではないが、この1週間で会社の最寄り駅から自宅最寄り駅までの約4キロを、小1時間で歩いて帰宅したこともある。まぁ、国道を真直ぐ歩けば済む話だし、これまでも何十回となく歩いているコースだけれど、今回はちゃんと目的ありきの徒歩帰宅だから、以前とは全然意味合いが異なる。
 12月に入ってからというもの、自分を変えるための投資をずいぶんとしている。ジム然り、メガネの新調然り、etc.etc.生活の見直しも行っている。どれだけ深酒して遅く寝ても朝6時には起きて、朝シャンして朝食とお弁当を作り、7時30には家を出て、職場のあるビルの1階に入るスターバックスで本を読んだり原稿を書いたりしている。
 これまで怠惰の象徴だったわたくしが、どうしてこんな風に自分を変える努力を始めたか。変わろうとしている自分を**さんに見てほしい、これをきっかけにわたくしへ振り向かせたい、という想いが強いからだ。たとえ気附かれていなかったり、気附いてスルーされるのは淋しいが、わたくしは諦めずにアピールを続ける。それに腰の贅肉が落ちれば、夜の営みも……いや、さてさて。
 来年2月頃には、目に見えて脂肪がなくなり出ていた腹も引っ込み、顔の贅肉も落ちていたら最良だ。トレーナー氏曰く、筋肉は比較的ある方なので脂肪過多な点を除けば目標体重・体型になるにはそれ程苦労しないだろう、とのこと。記憶で書いているから事実と異なる点があれば、相済まぬ。いやぁ、しかし、わが体内になんと脂肪の多いことよ。なんと、体重の1/3が脂肪で構成されているのだ。まいった。
 **さんを想い、夢をかなえ未来を実現することを餌に、またがんばろう。それに、体を動かすって、愉しい。◆

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第2926日目 〈Rよ、──告別、不在、そうして出逢いと訣別。〉 [日々の思い・独り言]

 Rよ、きみが土の下で眠る人になって、何十年にもなる。
 若いままで逝ったきみは、そちらの世界でも高校生の年齢であるのだろうか。夢のなかですらあえないから、その辺は確かめる術がない。
 この前、お姉さんの娘が、そちらへ行った。自分よりも年上の姪とは、もうあえたかな。たがいにはじめてあう同士だ、すっかり仲良くなっているか、2人とも様子見を決めこんでいるか、それとも……?
 きみをあの朝うしなって、以来ぼくはだれともかかわりを持とうとしたことがない。取って代わるだけのひとと知りあわなかったから。ぼくはきみの亡霊にすがって、生きてきた。
 けれど、今年を最後にする。もう来年からは、祥月命日を除いてきみの墓参をやめることにした。
 あの子と夫婦になろうとおもうのだ。今年はきみが逝って32年。今年はあの子とあって20年の年。いっしょに墓参を望んでいるが、この報告の返事を聞いてからにしたい。
 きみの影を心のなかから消し去ってしまう女性だが、向こうはそれを希望していない。思い出は思い出のまま、……というのだ。
 共に暮らして家庭を築き生活を営み、子どもたち、頭に白いものの混じったあの女性に看取られて、ぼくはこの世を離れたい。そうして、彼女が来るのを天国の門で待ち続けたい。
 残酷なお話なのは承知している。あの世できみから、どんな報いも受けよう。
 Yだけなのだ。Rよ、許せ。◆
iPhone8 Evernoteにフリック入力。


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第2925日目 〈わたしには夢がある。叶えたい未来がある。〉 [日々の思い・独り言]

 夏から突然更新を停止したため、年内の第3000日目の達成は難しくなった。
 2020年は余るところあと12日。本ブログが第3000日目へ到達するために必要な日数はあと76日。どう考えてもムリですね。1日6回更新しても、今年の大晦日が第2936日目であることに、変わりはない。1日が48時間になったとしても、1日1回の更新ゆえ〈第****日目〉てふタイトルが変わるわけはないのだ。残念である。
 そんな怨嗟の声は脇にやるとして、今日は短く、来年の展望というか抱負を倩綴ってみよう。ブログ/書き物、読書、自分自身の3本立てで(”3”は魔法の数字!)。
 では、まず「ブログ/書き物」から。頭の数字は便宜上のものである。
 ①加藤守雄著作目録・解題を執筆する。
 ②未だ執筆していない旧約聖書の書物の〈前夜〉を仕上げて、ここにお披露目する。
 ③売り物になる文章、読んでもらえる文章を書く努力を惜しまない。
 ──加藤守雄については部屋の大掃除をしていたところ、てっきり火事で失われたと思っていた著作のコピーが出てきたので、若き日の宿願を果たす意味もこめて、ここに挙げた。
 次は、「読書」について。
 ①<第2次ドストエフスキー読書マラソン>の完走を、6月までに目指す。
 ②スティーヴン・キングと村上春樹の未読著作品を片っ端から読破する(結構な数が溜まっている)。
 ③読書に於ける浮気性を改善する。
 ──ドストエフスキーは全集でしか読めない小説、書簡や評論、『作家の日記』をここに含めることは、たぶんないと思う。これらはむしろ、補遺的な読書になるだろう。
 最後に、「自分自身について」。がんがん行くで。
 ①現在の派遣先企業でエリア正社員に採用されて、コンタクトセンターのマネジメント職に就く。
 ②来年1年間で新たに200万円貯める。
 ③そろそろ決着を付けようと思う。即ち、初めて逢った日から20年以上になんなんとするあの子を妻に迎えて、みくら家の安泰と敵対者の一掃を図る。
 ──付すべきコメントが? 否、必要ない。自身に関しては、ここに書いたことがすべて。
 どれもこれも実現可能な抱負を掲げたつもりである。が、一部の面識ある方々はご存知だろうけれど、実現可能な計画ですら怠惰な性格と無計画性が災いして、なに一つ達成できないままで年の暮れを迎えることは、これまでに何度もあった。
 しかし、今回は──というか来年は──違う。人生節目の年の決意は半端じゃないんだぜ。特にプライヴェートについては、、全て達成してみせよう。来年のいまの時期の報告を、読者諸兄よ、楽しみにしていてくれ。前へ進め、Go with it,JAM.

 わたくしはここで、夢と未来を語る。
 それは実現したい夢であり、実現させる未来である。
 現在と、あるべき未来をつなぐために力を尽くせ。◆

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第2924日目 〈ドストエフスキー「ネートチカ・ネズワーノワ」は読めませんでした。〉 [日々の思い・独り言]

 今日立ち読みした本のなかに(※)、ぐさり、と来るフレーズがあった。そうして、それに深く首肯した。曰く、1冊の本を読むのに10日以上要するのはよろしくない、と。むろん、どんな本を読んでいるかで変わってくる話ではあるが、これが海外の小説である限り概ね正解と思う。
 殊、小説に関して「10日」というのは、一つの目安とするには打ってつけの期間ではあるまいか。この場合、「1冊」を「1個の作品」「1編の作品」と受け止めるか、分冊ならばそのうちの「1冊」と捉えるか、ケース・バイ・ケースになる。本稿では「1編の作品」と捉えて話を進める。
 前置きがダラダラしたが、要するにわたくしはいま読んでいるドストエフスキー「ネートチカ・ネズワーノワ」を放り出すことに決めたのである。
 聞き慣れないタイトルだな。そう思われるのはもっともだ。全集でしか読むことができない小説なのだから。
 作者には珍しく女性の一人称を採用した本作は、シベリア流刑の前から<大>長編を企図して執筆されていたが、流刑が終わってペテルブルグに戻った後、短くまとめられて(長編の構想は破棄されて)新たに中編小説として発表荒れた。
 新潮社版全集第2巻の1/3強を占める「ネートチカ・ネズワーノワ」を読み始めたのは、確か10月の下旬からだ。思えば予兆はあったのだ。そもそものはじめからページを繰るのが遅い読書だった。なかば義務から来る読書であったからでもあろう。四六判であったから、とか、活字が小さくて、なんていうのはあとから取って付けた言い訳でしかない。忌憚なく、偽りなくいえば、面白くなかったのだ。面白くないというよりも、つまらなかったのだ。つまらなかったというよりも、まるでのめりこむ要素を欠いていたのだ。
 自分に合う、合わない、は別として、小説とは面白いもの、ページを繰る手が止まらないもの、たとい短時間であっても没入できるものであるはず。そこにはかならず、<愉悦>と<法悦>がなくてはならない。にもかかわらず、──
 「ネートチカ・ネズワーノワ」にはそれがなかった。いっさいなかった。もう呆れてしまうぐらいに、なんにもなかった。
 結局カバンのなかに潜ませて1ヶ月強、次第次第に本を手にすることが間遠になっていった。久しぶりにページを開いても、読書はもはや苦行でしかなかった。『二重人格』がそうだったように、そのうち「これは!?」とスイッチが入って面白く読めるようになる瞬間が訪れるだろう、と期待した──が、それは抱くだけ無駄な期待であった。「ネートチカ・ネズワーノワ」を読むイコール苦行ニアイコール退屈、てふ公式が自分のなかにできあがると、もうこれ以上読むのは耐えられなくなり、同時に、パタン!、と本を閉じて本棚に戻した。
 切り棄てて、次へ向かおう。恋はそのように行かないが、本ならそれが可能だ。
 読書、殊小説は短期集中を旨とすべし。◆

※立ち読みして棚に戻したと思っていたが、実はそのとき購入していたことが判明。どうした、わたくしの記憶力? その本は、印南敦史『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社 2016/02)である。□

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第2923日目 〈池上彰『なぜ、読解力が必要なのか?』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 ここでいう読解力とは、国語のテストで小説の登場人物の気持ちや著者のメッセージを汲み取る能力を指すのではない。日常生活や社会生活を営んでゆく上で、かならず必要になる力である。ネットや新聞にあふれる情報の取捨選択、分析したり裏を取ったりすること。会話や仕草、表情から相手の真意を探ったりすること。そうした諸々をすべて引っくるめて読解力と呼ぶ。
 池上彰が『なぜ、読解力が必要なのか?』で主として説くのは、如何にして読解力を養うか、読解力を伸ばすにはどうしたらよいか、である。
 まず読解力には、論理的読解力と情緒的読解力の2つがある、と池上さんはいう。前者は専ら優れた評論によって思考を鍛えられること、後者は文学作品から承ける感情によって培われる。
 「情緒的読解力とは、「人間の感覚で考えられる」ということです。人間力がある、あるいは共感力があると言い換えてもいいでしょう。」(P50)
 「一方で論理的読解力はどんな力かというと、相手の主張を理解する力です。また論理的読解力は、多角的なものの見方を身につけるための力であるといえます。」(P53)
 情緒的読解力を養うことで人は、他者の心情に立った物の考え方ができるようになる。論理的読解力を養うことで人は、世界を多角的に、複眼的に捉えることができるようになる。
 その読解力を伸ばすには、①書く、②読む、③聞く(訊く、質問する)、④伝える、の4つの要素が必要だ。わかるように書くためには不断の読書が欠かせない。スマホやSNSでは読解力は養われない(著者は書いていないが、他人の痛みや悲しみ、苦しみを想像するだけの想像力も養われることがない)。相手のいわんとしていることはなにか、を常に考えて相手の話を聞き、相手にわかるように説明する。──これが、池上さんが経験に基づいて導き出した読解力の伸ばし方である。
 本書では端々に、新型コロナウィルスに直面して生活スタイルが変容せざるを得なかった世界で、読解力がどれ程重要なものになってゆくかも述べられている。そのなかでも殊、最後の5行は胸に迫る文章になっている。引用して、本稿の〆括りとしたい、曰く、──
 「新型コロナウィルスの感染拡大により、世界で何十万人もの人が亡くなるという未曾有の事態に直面した2020年、未来は人智の及ばない、不確かなものだという事実が、改めて私たち人類に突きつけられました。だからこそ今、教養を身につけ、読解力によって物事を正しく理解し、立ち向かうことの重要性が高まっています。
 読解力は、不条理な世の中を生き抜くために欠かせない力なのです。」(P179-180)◆

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第2922日目 〈その恋、ゼッタイ駄目! ──「SMAPのポジティブダンス」になぞらえて。〉 [日々の思い・独り言]

 「SMAPのポジティブダンス」という歌がある。アルバム『We are SMAP』収録、作詞:鈴木おさむ、作曲:石野卓球。歌うは中居正広、木村拓哉、香取慎吾の3人。
 ネガティヴ思考をポジティヴな方向から捉え直そう、という主旨の歌だ。なのだが……最近、これを聞くたび、脳内再生されるたび、気持ちがマジ凹んでいる。いやいや、とてもそんな風には考えられないよ、と。
 かれらは歌う、──
 「誰かに恋して 悩めるばかりで/愛にならなくて……ネガティブ」
 「恋に悩むのは 恋がないよりも/人生濃いかな……ポジティブ」
 「希望も未来も夢もないのだから/楽しくないんです……ネガティブ」
 「希望も未来も夢もないのなら/妄想すればいい……ポジティブ」
 ちかごろ忘れるために、思い煩うて寝られなくなるのを防ぐために浴びるように日本酒を呑んでいる。なに、晩酌の量がずっしり増えただけだ。アル中ではない、まだ。
 が、所詮は無駄な抗いである。呑んでも呑んでもあの子の姿がはっきり思い浮かんでくるばかりだ。次の日になれば否も応もなく顔を合わせることになるのだ。恋煩い? 違う、もっと重傷だ。出勤すれば逢うことになる。ゆえに時偶良からぬ企みが頭を過ぎることも……。
 咨、大崎で冤罪被って以来いわゆる社内恋愛を目の敵の如く、蛇蝎の如く忌み嫌い、拒絶してきたのに、その決意は一度の迷いもなく今日まで守られてきたのに、ここに至って頑なな誓いをあっさり破らせ揺さぶりを掛けてくるような存在に遭遇しようとは。
 恋をしても愛にならないのは当然だよ、中居くん。われらの間にある年齢差、親子に等しいからね。その人に相手のあるなしはさておくとしても。
 恋に悩むのは恋していない人より人生濃いかもしれないけれど、その恋が喜び以上に苦悩をもたらすものでも人生濃い、っていえるのかな、キムタク?
 夢はあってもそれが現実になる未来に希望を持つのが、喜ばしくもあるし心底から望みたいことではあるけれど、同時にとっても辛いんだよ、慎吾ちゃん。
 妄想するのは一時的な慰めにはなるけれど、それの反動で喰らうダメージは精神的にも物理的にも相当なものだってこと、わたくしは経験から知っているんだよ、中居くん。
 恋に浮かれる気楽さとは、いつの間にやら訣別していたことに気附かされた、ジャストナウで進行中、そうしてラストの恋。われを忘れて暴走する恐れのないであろうことだけが、唯一の救いであろうか。咨、老いらくの恋はするまじ。◆

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第2921日目 〈田舎への往復に選んだ本。〉 [日々の思い・独り言]

 田舎なんて嫌なものだ。そこに住まう親類との付き合いはもっと厭だ。嫁をもらうなら、仮に田舎があっても親類がいないか、付き合いを断っている人が望ましい。昔気質といえば聞こえはいいが、人の話をまったく聞かず理解せぬ田舎人ほど卑しき者はなし。
 そんな卑賤の衆と顔を合わせねばならない、最後から何番目かの機会が昨日(注:令和2年10月26日)あった。墓仕舞いのためである。
 往復はJRを用いた。出発の直前まで、書架へ視線を走らせ、床積みの本の山を見おろし、悩んでいたのは勿論、その往復の車中で読む本をなににするか、という楽しくも時間の掛かる作業なのであった。タイム・リミットは迫っている。所要時間、約4時間。途中、寝たり喋ったり坐れなかったりぼんやり窓外を眺めることを考えれば、ざっと2時間程度の読書タイムと考えてよいかもしれない。
 候補の筆頭はドストエフスキー「ネートチカ・ネズワーノワ」。が、如何せん活字が細く、揺れる車内で読み続けることは辛い。いやぁ、経年劣化はヤなもんだね。
 様々な思考過程を経て、セネカを鞄に入れた。トマス・ア・ケンピスを諦めたのは、うぅん、これ、どう考えても電車のなかで読むようなモノじゃぁない。『孫子』を避けたのは、今日の流れに支障を来しそうな気がして怖かったからだ。厭な親類でもいまはまだ波風立てずに顔合わせなくちゃあならんもの。
 セネカ!
 ──ずっと気になって仕方のなかった古代ローマの著述家だ。ヒルティの文庫解説でストア哲学と併せて知り、聖書読書/ブログ執筆の過程でローマ帝国のことを調べていてふたたび気になり始めたセネカ。
 買っておよそ2週間、他の本と一緒に積んでいた。手にしたのは、偶然である(だろう)。ぱらぱら目繰っていたら、『心の安定について』の一節が目に止まり、その部分だけ読んで、他の箇所も読みたい、と強く思うたのだ。さいわいと読みやすいレイアウト、フォントのサイズ、日本語訳で、電車のなかで読むには良きお伴に感じたのだ。ゆえに鞄に入れた。
 そんな次第で翌る日、北関東と南関東をつなぐ(あちこちの路線をくっつけて運行するの、大反対なんだけれどなぁ)あちらこちらを拾い読みし、そのまた更に翌日即ち今日、補えば令和2年10月27日(火)に収録3編を通読しての感想を、後日ここでお披露目するといたしましょう。
 そうね、日を改めて。それでは、その折に、お目にかかれれば。Au revoir,mon ami.◆

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第2920日目 〈抜き書き万歳、引用万歳。〉 [日々の思い・独り言]

 久々に読むに値するツイートを読んだ。いまの想ひ人とほぼ同年齢なはずの女性のものだ。抜き書きで構成される読書ノートと、そこへ至るまでの遍歴が紹介されている。まァ、とはいうても実際は、その女性が自身のブログにある記事をツイートしたものだが。
 要約すれば、内容はこうだ、──
 高校生の頃から読んだ本の感想を書き始めた。が、そうした本の大概が、しばらく経つと内容を思い出せないのだ。その後、大学のゼミで、本の抜き書きを作る、という経験をした。教授曰く、それは将来なにかの機会に文章を書くことになった際、かならず役に立つ、と。そうやって作り始めた(感想文代わりの)抜き書き集の方が高校時代に書いていた感想よりもずっと、本の印象が強く、抜き書きを読むことで内容や雰囲気等まで思い出せるのだ。
 若干的外れな要約かもしれぬが、その点はどうかご容赦いただきたい。なにしろいま手許にはスマホもタブレットもPCもないのだ。しかし、大まかな論旨に大きな誤りはないはずだ。
 閑話休題。
 わたくしは、このツイートに感じ入るところ、大であった。一々に頷き、共感した。歴だけはじゅうぶん長くなった自分の読書の歩み、友人への手紙や公にするアテなき短文そうしてブログでの本の感想を顧みて、ああまさしくその通りだな、と首肯したのである。
 今年、わたくしは太宰治を読了した。都度、その感想文を認め、それなりに考えて清書し、お披露目してきたが正直なところ、その内容なんてもう殆ど覚えちゃいない。流石に一部の作品に関しては、「こういう風な小説だった」「こんな場面があったはず」と記憶へ朧に残ってはいるが、他はどうにもさっぱり……。
 ブログへ載せた感想文に、それらの本の引用があったか覚えていない。が、原稿を書くに際して、抜き書きは用意していた。本に印を付けたところを一旦書き写し、それを横目に感想文を認め、推敲したのだ。一部なりとも内容などを覚えている作品があることの理由の1つは、抜き書きという作業があったためなのかもしれない。
 20代中葉にわたくしは、当時復刊された分も含めて岩波文庫の黄帯に収まる古典時代の歌集を、殆ど読んだ。特に思い出深いのは、勅撰和歌集11冊、山家集、金槐集、拾遺愚草、和泉式部集、新葉集、王朝秀歌選、風葉集、定家八代抄、王朝物語秀歌選、六百番歌合、中世歌論集、である。全部で24冊。
 どうしてこれらを特に思い出深いというか。偏に自分自身の編纂になる歌集を作ろうとしていたからだ。むかしの、勅撰集編纂に於ける和歌所に倣い、一首一首を短冊状の紙片に書き写し、配列に頭を悩ませ、また(歌を)棄てたり出したりまた戻したりしたのである。もう小説を書くのも古典の現代語訳も止していたからとはいえ、20代中葉から後半に掛けて、わたくしはなんと暇で、酔狂な行為に身をやつしていたのだろう。そうして、そんな短冊状の紙片約1万3千枚はあの晩、火焔のなかで灰となった。
 さて。
 抜き書き、引用ということでどうしても触れねばならぬのは、聖書である、内容を覚えている/思い出せる、という面からも、聖書読書を以てわたくしは実感しているからだ。
 足掛け8年、実質7年。1日1章の原則で、わたくしは愚直に聖書を、「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで順番に読んだ。勿論、旧約と新約の間に挟まった旧約聖書続編も、「トビト記」から「マナセの祈り」まで素直に。
 如何せん信徒ではないから、そうした方面からの読書は到底できぬ。ならば古人が伝承伝説として語り伝えて、神の愛、人の営みを記録した民俗叙事詩、、一個の歴史書として、頭から尾っぽまで丸ごかしに読んでゆくより他あるまい。実は本ブログはその読書の(思わぬ)副産物である。せっかく<世界でいちばん読まれている本>を読むなら、なにかしらの記録を残しておきたい。斯くして本ブログは誕生し、その日読んだ章の内容と感想を記録してゆく日々が始まった。判で押したように毎日が同じ。でも、それがとっても安らいだ気持ちにさせてくれたのだ。
 単に内容を紹介し、自分のコメントを残すだけでは心許ない。説得力に欠ける以前に、その章で書かれていることをきちんと伝えられているか、不安だったのだ。それを補う意味で、当該章からの引用を始めたのである。もっとも時には引用するのは、抜き書きするのは、この箇所で良いのか、こんなに長くて大丈夫なのか、など悩んだこともあったけれど。
 が、結果としてこの作業は実に有益であった。その章、その書物がどんな内容でトピックになる出来事やキモになる考え、そうした諸々が、ブログにお披露目された文章中の引用を見るだけで概ねわかるようになったのだ。誠におこがましい言い方だけれども、旧新約聖書(続編附き)という豊饒の世界をわが手中に収めた気分さえしているのが正直なところなのだ。これを有益といわずになんというや。
 ──件の女性のツイートは自分の経験から生まれた、自信を持って述べられた揺るぎなきたった独りの意見である。芯がある。わたくしは彼女の意見に一も二もなく賛同する。同じ経験をして、その有用性を実感しているからだ。
 抜き書き万歳、引用万歳。◆

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第2919日目 〈どうしてか、心がとてもクリアだ〉 [日々の思い・独り言]

 今日は2020年12月12日(土)、18時56分である。約40分前に退勤した。ビル1階のスターバックスでこれを書いている。1週間前、あの子から食事に誘って今度の土日なら……とお返事いただいたが、今日はその続きを書く。
 端的に述べれば、お断りされたのである。「来週だと思っていた予定が実は今週で。また今度でお願いします」と。平気を装って「咨、そうでしたか。残念です。また誘いますね」と返すのが精一杯だった。
 でも、どうしてだろう。食事を断られて落ちこんでいるはずなのに、心はとってもクリアだ。雑念のない心はこんなに澄んで、凪いだものなのか。
 まだ完全に駄目になったわけではない。まだ希望はある。そう信じる。
 「また今度誘ってください」という台詞にどこまで信憑性があるか、疑いだしたらキリがない。いまは、自分にとってムシのいいことだけを考えよう。本当に予定があるのを忘れていただけなのだ。来週予定と思っていたのが、実は今度の土日であった(つまり今日と明日でありますな)。ならば来週の土日は空いているということか。ムシのいいことだけを考えよう。
 そのとき誘いますね。この言葉が届いていたか、わからない。
 でも、まだ棺に葬られたわけではない。わたくしはまだ生きている。あの人のことを考えている。想いが失われることがない。苦しみも切なさも、いまの私に鎖を与えてはいない。
 心はこれまで経験したことがない程、クリアだ。
 避けられているわけでも嫌われているわけでもない。本人を前に本音をいうわけはない、とは重々承知。でも、わたくしはそこに希望をつなぐ。ムシのいいことだけを考えるのだ。
 唐突に、彼女がやったことの凄さを讃えてしまった。必然的に来し方を端的に語り、あなたへの想いを、その片端だけだが洩れ伝えてしまった。引いてくれて構わない。
 **さんは凄いよね、これまで誰にもできなかったことをしてしまったんだから。
 え、どういうことですか?
 (良いの本当にいって? と前置きした上で)ぼくのなかにずっといた婚約者の影を消し去ってしまったんだから。
 ハッとしたような顔をしてこちらを見あげたが、これ、実際はドン引きしたんだろう。
 が、影を消すことのできた唯一の女性であるのは事実だ。誰を好きになっても、付き合っても、けっして消えなかった影を消すなんて偉業を成し遂げる存在(23歳!)が現れるとは、正直思わなかった。
 ──ここで隣のブースの人が通りかからなかったら、どうなっていたかわからぬ。いちおうそれに、感謝をしておこう。
 ……11月休み申請の際、「25日 婚約者命日のため」と提出しているから知ってはいる。しかし、まさか自分がわたくしに愛情を寄せられており、亡き婚約者に匹敵する存在になっているなど、今日初めて知ったろう(良くも悪くも)。済まぬ。
 さて、どうしても今日のことだけはお伝えしておかなくては。今日、即ち彼女の予定がなかったら食事に行っていたであろう土曜日のことである。時間的にこの瞬間こそ、店に入って数分という頃合いである。
 会話、状況をiPhoneのメモアプリに残した。冒頭で述べたスタバにて。いまやこれ、<日記>である。なによりもこれが雄弁なることこの上ないので、そのまま引用(=コピペ)する。
———

 朝、挨拶いつも通りなれど関わりたくない様子露わ。こちらもそれを汲み、来るの察すると動く。それ2時間ぐらい続く。
 耳のこと、支障ないよう伝えた方が良いか確認すると、別にいい、と。こいつ、本当にこちらに興味も関心もないんだな、と実感。
 必然的な流れにより某に、2月メドで退職検討している旨伝える。まぁあちらさんは喜ぶんじゃないかな、と冗談混じりに言うと、ああ確かに、との返事。えそこまで嫌われてるの、と冗談混じりに訊くと、笑って濁される。
——

 日中は通常通りオペレーションをこなす。これまでと同じ行動、心中はともかく。
 但し、ガールズトークの恋愛、結婚、失恋の話、心に痛し。**、聞き過ごして寡黙に過ごす。
——

 業務終了後、2人とも唯の一言も口を利かず。不自然なれど、いまはこれでいい。**、年明け新人向け「よくある問合せ」を一心不乱に作成。もとより今日は**、先約ある日。されどいまでなくても良い仕事で残業するは、当方回避のためと考えるより他なし。了解、了解。
 これまでは「自分の仕事片附けてゆくので、先にあがってください」等の言葉あれど、今日はなし。わたくしがさっさとあがろうとしている光景を見ているためか。
 帰り際、「あまり根を詰めないでね、あなたが倒れると困る」と声掛け。**、こちらを向き、「いまわたし倒れたらたいへんですよね。来年のこととか」と。自覚できている。と同時に、お前仕事しろよ、という威嚇/牽制か。ここはもはや**無しでは動かず。**、自負から「わたし無しでも回りますかね?」と薄ら笑い。
 その後、割に唐突に、
 「わたし必要なのかな(いなくていいのかな)」と、ぽつり。
 「それ、僕の台詞ですよ。私、2月でいなくなりますからね」
 **、パッと顔をあげて一瞬なれど喜ぶ顔。それ見て、流石にショック。「そんなに嬉しそうな顔しないでよ。さすがに辛いわ」と。このときなにかしら呟きあれど、聞こえず。「あ、まだ決まったわけじゃないからね。そのぐらいにはいなくなってないとヤバいなって思って」
 それに対する反応無し。代わりに、「私、いつまでいるのかな」と呟く。
 「3末まで大丈夫ですよ」
 「そうですか?」
 「そうですよ」
 →そのあと、お疲れ様でした、お先に失礼します、というて出る。
 ※恋絡みの話出さず、この前帰り際に変なこといってごめんね、とか、また予定合わせて行ってください、とかいわず。成長したものじゃ。
———

 最後の部分は正直、もう記憶から消えかけているが、だいたいこんな流れであった。補聴器、考えようかな。
 いろいろとあった日だった。**を想う心に偽りなけれど、忌避の様子露わは流石に……。そこまでのことをしでかしたのか、と自分の言動を疑ってしまう。まぁ、明日も一緒だから、そのときの観察を基に今後を考えるか。
 斯様なことを倩書き連ねて、思い出される感情と光景に乱れることありと雖も、やはり心はクリアなのだ。刹那のざわめきはあってもすぐに凪いで、この一ヶ所に留まりどこへも行けない。頭上を仰げば太陽も月も北極星も見えるのに、ここからわたくしが希望の光指す方向へ向かうことはできない。
 でも、いつか動くことのできる日が来る、と信じている。ムシのいいことだけを考えよう。
 心はクリアだ。雑念のない心は、こんなにも澄み渡って静かなものなのか。19時59分擱筆。◆

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第2918日目 〈池上彰『学び続ける力』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 <講談社現代新書・池上彰三部作プラス・ワン>のプラス・ワンにあたるのが、本書『学び続ける力』である。テーマは、「基礎教養を身に付けることの大切さ、その有用性」だ。しかし、いわゆる教養論ではない。
 「(書き終わってみると)勉強することの意味や、学び続けることの意味について考える本になりました。教養についての真髄を探ったり、その本質をえぐったりする本、というのは、私にはどうもそぐわないようです。できるだけ、自分がしてきたこと、学んできたことの延長で、背伸びをせずに、お話したつもりです」(P184)
 池上さんは正直である。「背伸びをせず」というのはまさにその通りで、本書のどこを繙いても浮き足立った、理論優先実態不在の意見は見当たらない。これは凄いことだ。本書で様々述べられる教養についての考察はいずれも、池上さんが自分のなかに蓄えられた経験に基づいたことばかりなのだ。
 この類の本にはたいがい1箇所ぐらい、空疎な意見が混じっているものだが、『学び続ける力』にはそれがない。皆無というわけではないけれど、それはあくまで意見の相違というレヴェルに留まる。そこを不満に思う衆もあろうが、まぁ万人から讃辞のみを以て受けいられる本なんて、この世に存在しないから。
 本書で説かれる「基礎教養」というのは、義務教育で習うような基礎学力ではない。むしろ人生を豊かにし、また時に生きるために必要となる知識のことだ。そうしてそれが一過性のものでなく、自分のなかへ残って「いざ」というとき活用できる知識のことだ。自分を守り高め、人間関係を円滑にするためのツール、というてもよいか(そういえば佐藤優は「教養は武器になる」てふ主旨の発言をしていたように記憶する)。
 「自分がきちんとできていないのに述べるのも何なのですが、あなたも、仕事を通して勉強すればするほど、やっぱり基礎が必要だと痛感するはずです。ちょっとした夏休みや冬休み、少しでも時間があるときに関連の専門書や古典的な基本書をきちんと読んでみると、自分がなにがわからないのかがわかるはずです。「わからない」とわかったことを勉強するということです。/これは、誰にでもできることです」(P36)
 これには同感しかない。望んで就いた仕事であっても基礎に不安があると、たちまち仕事は立ち行かなくなる。昔取った杵柄であっても風化した知識、偏った知識、誤った知識で事に当たるとたちまち醜態を曝してしまいかねない。
 が、「自分はなにがわからなかったのか」謙虚に認めて、正しい知識、新たな知識を身に付ける勉強を始められる人であれば、基礎教養は身に付けられるのだ。そうやって自分の弱かったところを補強し、欠落を埋めたあとに見えてきた世界の、なんと眩しく、なんと豊饒で、なんと広大に映ることか!
 大事なのは、「わからない」とわかったことを学ぶ姿勢である。池上さんは番組でいろいろな芸能人と共演してきた。本書でも何人かの名前が出る。そのなかでひときわ印象に残っていると思しいのが、当時まだSMAPだった中居正広だ。ファンゆえ、わたくしも池上さん同様、「中居くん」と呼ばせていただく。
 「中居くんはふだんから、非常に勉強家です。けれども、「自分は途中から勉強するようになったので、基礎があるわけじゃない、どこか自分には足りないところがあるんじゃないか。どこか間違っているかもしれない」という恐れのようなものを持っているように感じられます」(P117)
 この池上さんの驚きは本物だ。夙に知られるように中居くんは相当な勉強家、読書家である。
 勉強家としての中居くんの出発点はおそらく、コンサートのMCがふるわなかった経験であろう。それ以来MCで使えるネタをノートに書き留めるようになり、ノートのページは真っ黒に埋められていたという。ノートはそこから発展を遂げて、読んだ本・聴いた歌の印象的なフレーズを抜き書きしたり感想を書いたり、日々考えたこと思うことを書き留め、コンサートの演出や進行についても書かれるようになった。野村克也の著書に学んでSMAPのあるべき姿を模索し、形にしていった(プロデュースしていった)。
 また、『ザ・大年表』第1回では政治について事前に徹底的に学び、放送では努力を感じさせない堂々たる司会ぶりを発揮した。池上さんを驚嘆させたのは、この番組での共演がきっかけだったのではないか。最近も『中居正広のニュースな会』で勉強家の片鱗を示している。
 自分に欠けたところがあることを理解し、それについて学ぶ力があるからこそ、中居正広は唯一無二の司会者として活躍を続けているのだ。
 終わる前に、なんだか救われた気分の一節を引用する。曰く、──
 「別に研究の道に進まなくても、自分から学ぶ力をつけることができれば、社会に出てからも、ずっと勉強を続けることができます」(P85)
 研究者になることは諦めてもそのまま自分の好きなことを、知りたいことを勉強し続けてきた。時々、こんなことやるよりももっと楽しいことがあるだろう、と嗟嘆したこともある。好きな女の子に猛アタックしてふられてもふられてもデートに誘う、っていうのもその一つ。
 でも、それらに憧れめいた気持ちは抱いても、実践することは躊躇われた。そういうことに向いた性格ではない。勉強は淋しさや苦しさを紛らわせるためもあったけれど、わたくしは根本的に<学ぶ>ことが好きだ。日本の古典文学や書誌学についての本を読み、それについて考え、聖書を読破して本ブログの核とさせたことも、結局は勉強することが楽しかったからだ。
 わたくしは女の子や家庭の幸福ってものとは無縁に出来ているのだから、せめてこれぐらいの愉しみはあって良いと思っている。
 さて、本書は基礎教養の大切さを説いた本である、と冒頭に述べた。残念ながら本稿はその魅力の一端をも伝えることはできなかったが(基礎教養から遠く離れた所に着地してしまった時点でそれは明らかだね)、最後にこの一節を引いて面目を果たすことにしたい。
 「(いまの教養とはどんなものか?)私は、教養を持つということは、「よりよく生きる」ということではないか、と思うのです。/社会で力を発揮することができ、よく生きること。それに資するものは、現代的な教養と言ってよいのではないでしょうか」(P172)◆

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第2917日目 〈怠惰を駆逐すれば、「マカバイ記」読書を始められる、……か?〉 [日々の思い・独り言]

 つらつら顧みて、聖書にかかわるエッセイで書いておくべき優先順位の高いものは、断然、マカバイ戦争とハスモン王朝成立までの通史だ。
 8月に端を発した沈黙期の間、2つの「マカバイ記」を読み返して、そう思い至った──が、言うは易く行うは難し。最後の最後でいつも翻意して、筆を投げるのが恒例になっている。
 問題は地理、地勢なのだ。1つ1つのエピソードの舞台になった土地の地名や周辺環境について聖書から推測することはできても判然としない部分が圧倒的に多い。現在のイスラエル地方の地図に重ねても小首を傾げるばかりで、ピン、と来ないところがある。一例を挙げる;一マカ5:37,敵将ティモテオスはギレアド北方ラフォンの街に面した渓流に陣を敷いてユダ軍を待ち構えたというが、その渓流はラフォンの街の外側をどのように流れていたのだろう。どの方向からどの方向へ流れていたのか、水量や水勢は如何か、底の深さはどれぐらいか、川幅は何メートルぐらいあるのか、縁にはどのような植物が生えていたのか、等々。
 本ブログが聖書読書ノートとして機能していた最後の日、参考文献に書名を挙げた『聖書大図鑑』にはたしか、イスラエル全土の地形図が、カラーで載っていたはず。マカバイ戦争時の各地の地図も、併せて。これらをカラーで拡大コピーして、マカバイ戦争の主だった出来事を年代附きで付箋に記して貼る。これを壁にでも貼って毎日ぼんやり眺めておれば自ずと、書き倦ねているマカバイ時代のイスラエル通史が書けるのではあるまいか。かつて渡部昇一が最初の日本史の本やドイツ参謀本部の本を書きあげたのと同じプロセスで。
 が、腰の重いわたくしにはこんな簡単な作業すら、非道く難儀なんだよな。怠惰を原因の一とする所以である。咨、と天を仰ぐべきか、呵呵、と体を揺らすべきか、迷うてしまうよ。
 わたくしはここでヒルティの名言を引用する。曰く、──
 「まず何よりも肝心なのは、思いきってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである」(「仕事の上手な仕方」『幸福論(第一部)』P24 草間平作・訳 岩波文庫)
──煎じ詰めれば四の五のいわず、やらない/できない理由を探している暇があれば、思い切って着手して作業に取り掛かれ、ということだ。
 ルナンのように、書くにあたり事前に現場を踏破しておくのが、歴史について表す場合は最善なのだろう。されどわが身にイスラエルは遠すぎる。「マカバイ記」や史資料を精確に正確に読みこんで、ちゃんとした地図を傍らに置いて作業を進めるだけだ。◆

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第2916日目 〈池上彰『〈わかりやすさ〉の勉強法』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「今回の本は」と池上彰は『〈わかりやすさ〉の勉強法』の「はじめに」でいう。「「わかりやすさを考える」三部作の最終巻であり、「具体的な勉強法」編です」と。続けて、「私自身が、自覚しないまま日頃から実践してきたことを、「自分はどうやっているんだっけ」と自問自答しながら、まとめてみました」(いずれもP4)とも。
 有り体にいうなら本書は<三部作プラス・ワン>のエッセンスが詰まった1冊であり、現代日本屈指のニュース解説者であり、またとない<知>の啓蒙役、池上彰の頭ン中が窺える1冊なのだ。
 本書は大きく分けて、次の大項目によって成立している。①プレゼンのテクニック、②新聞・書籍・ネットの読み方使いこなし方、③情報のインプットとアウトプット、④聞き上手と伝え上手、⑤細切れ時間の使い方。
 この内、②は本稿では扱わない。佐藤優と対談した『僕らが毎日やっている最強の読み方』(東洋経済 2016/12)でより具体的に、より説得力を持って語られているからだ。こちらについては読了後、感想文を認める予定でいる。
 上記項目のうち、わたくしが最も感銘を受けたのは、①プレゼンのテクニック、である。おそらくいまの自分の仕事に結びつくところ大だからだろう。
 『ザ・ベストハウス123』というプレゼン番組に出演していたときを顧みての話だ。タレントや芸能人たちのプレゼンを見ていて気附いた、上手であったり面白かったプレゼンの要素が3つ(3の魔法!)、紹介されている。
 第一に、「予習している」こと。
 与えられた台本をただ読んでいるだけだとツッコミや質問があっても即応できない場合がある。が、「きちんと予習をしているタレントは、台本を覚えるだけでなくて、「これはどうしてだろう」と自分なりに素朴な疑問を持って調べてきています。そうすると、ほかの出演者からの質問にも「それはですね……」と答えられます。ディレクターがあらかじめ台本に書いておいた以上のことを聞かれても、自分の言葉で返せるのです」(P20)と指摘する。
 第二に、「話をうまく一般論にして、よいキーワードを見附ける」こと。
 不時着した旅客機からの生還劇をプレゼンした俳優が、乗員乗客が互いに助け合った様子に触れて、こうした人々の助け合いを「ヒューマン・チェーン」というキーワードを用いて表現した。
 ありきたりなプレゼンにならないためには、「ここから実は言えることがありまして」と一般論に持ってゆくと同時に、「さらにそこでVTRになかったキーワードを提示することができれば、とても効果的です。/このようなときのキーワードは、まったく新しい言葉ではなくて、聞いたら意味がわかるぐらいの、親しみの持てる言葉の方がいいのです。その意味でも「ヒューマン・チェーン」はちょうどよく効いていました」(P22)
 人は耳で聴いただけですぐ理解できるようなわかりやすく、単純で、かつレトリックの効いたフレーズを好み、そのフレーズを駆使する人間を支持する。池上さんは番組でプレゼンした俳優の名を挙げて書いているが、もう1人、脳裏に描いていた人物がいなかったか。わたくしはこの件を読んで、すぐにその人のことを連想した。
 <自民党をぶっ壊す>、<聖域なき構造改革>、<改革の”痛み”>、<恐れず怯まず捉われず>、など記憶に残るフレーズを効果的に用いて空前の支持率と人気を誇り、<ワイドショー内閣>とメディアにあだ名された時の自民党総裁、第89代内閣総理大臣、小泉純一郎の姿が。思えば小泉元首相は日本憲政史上最強のプレゼンターであったかもしれない。この件についてはもうすこし、視点を変えるなどして考察してみたい。
 閑話休題。
 第三に、「焦点の合わせ方が上手い」こと。
 先の生還劇といい洗脳といい、聞いただけでは他人事、絵空事、遠い世界の出来事だが、私たちの身にもいつ同様なことが降りかかっても可笑しくない、と認識させられれば自ずと聞く側の姿勢も改まるというものだ。それを実現させるのが、如何に聞き手の立場に焦点を合わせてゆくか、ということだ。
 「何について触れたら相手に興味を持ってもらえるか、どういう話なら相手の身に置き換えられるかということを見つけるのが、大事なポイントなのです」(P24)
 これは最早プレゼン云々の話ではなく会話術の域に達している。考えてみれば誰彼との会話って基本的にセルフ・プレゼンだものね。セルフ・プレゼンが上手くいかないと、場合によっては生き残れない。見えない人間(Invisible man)になりかねない。
 (デートだったら目も当てられない結果になるよ、好きな人相手にしどろもどろなんて可愛いとかウブとかではなく、ただ単に頼りなく、楽しくない。楽しくないとは笑顔が一度も生まれないことを意味する。みくらさんさんか、退勤直前の約3・5時間前、提案していた食事の誘いを断られた(退勤直前、っていうところがミソだ。話が蒸し返されようもないタイミングだしな)が、これ幸いと自分磨きに次の誘いの実現までの時間を費やすつもりだ。相手の話を聞くことも勿論だが、楽しい時間を過ごせるよう自分を、相手をプレゼンするためのスキルを磨こう。)
 池上さんもこのことに触れて、「よくテレビ画面でお目にかかる人は、それなりのプレゼン能力の達人ばかり」(P25)と述べている。だからこそ、この直後に引かれた島田紳助が池上さんにいった台詞が重みを増してくる。曰く、「いつも勉強しているタレントだけが、テレビの世界で生きていけるんですよ」(同)と。
 タレントだけではない。会社員だってそうなんだよ。自らを向上させる意欲を持ち続け、目指すところに向かって努力を続けられる人間だけが<1つ上の舞台>に足を踏み入れて、これまで誰も見たことがないような世界を眺めることができるのだ。
 某アイドル・アニメ劇場版のサブ・タイトルではないけれど、勉強する人間だけが<輝きの向こう側へ>行くことができるのだ。◆

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第2915日目 〈池上彰『わかりやすく〈伝える〉技術』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の感想文でわたくしは、相手に物事をわかりやすく伝えるための技術は様々あれど、その根本を支えるのは伝える相手への想像力だ、と結論づけた。
 <三部作プラス・ワン>の2冊目、『わかりやすく〈伝える〉技術』のなかで池上彰は、わかりやすく伝える技法として今度は「地図」と「<3>の魔術」を紹介している。抜き書きノートからこの2点に即した箇所を引用、自分の経験を交えてコメントしよう。
 はじめてその話を聞く人の前に、嵩のある資料を何冊もドン、と積みあげるのは逆効果だ。途端うんざりして、吸収できるものもできなくなってしまう。では。どうすれば?
 かれらの前に最初に提示すべきは、全体を見渡せる1枚の地図だ。
 「あらかじめ「いまからこういう話をしますよ」と聞き手にリードを伝えることを、私は〝話の「地図」を渡す〟と呼んでいます。「今日はここから出発して、ここまで行く」という地図を渡し、「そのルートをいまから説明します」という形を取ることで、わかりやすい説明になります」(P19)
 ニュースの冒頭にあるリード(前文)をたとえて「地図」と呼んでいるのだが、本稿では1枚の紙に描かれた全体俯瞰図としての地図と置き換えてお話しを進める。全体を要約したレジュメと言い換えてもよいか。
 どれだけ膨大、複雑に入り乱れた資料であっても、余程のものでない限り、A4サイズの紙に内容は落としこめる。
 いま職場で使われているスクリプトは改訂更新が頻繁に繰り返されている。最新ヴァージョンはこれまでバラバラだったものを1冊に集約したせいで何と約50ページになんなんとし、うち後半1/2は常時使うものではない。逆にいえば残り1/2は常に使う部分なわけだが、それとてページが行ったり来たりしていて、ベテラン勢からは特に不評を買っている。既存メンバーでさえこれなのだから、来月入ってくる新人たちの混乱ぶりと阿鼻叫喚の連鎖は必至。
 そこで登場するのが、「地図」だ。あらかじめ話の起点と終点、真ん中を埋めるフローを記した地図さえ用意されていれば、余計な不安は除かれよう。そんな地図をいま、パワーポイントで作っている。全体の流れと順番が把握できたらスクリプトで詳細を確認し、スクリプトにあたっていていまの自分の立ち位置を見失ったら地図へ戻ってくればよい。
 池上さんの述べんとしていることと、なにか齟齬でもあるだろうか。否。ニュースのリードは前文であると同時に俯瞰図である。それを、「地図」という。わたくしが上に述べたA4サイズ1枚に業務フローをまとめたそれも、俯瞰図であり地図なのだ。それぞれの立ち位置が違うだけ。
 日本人はどうしたわけか、「3」という数字が好きだ。ことわざや慣用句、また日常生活にも古来より浸透して、不即不離の関係を築いている。一方でこの「3」という数字、物事をロジカルに考えたり、第三者(おう)への説明にも便利な数字である。
 池上さんは「わかりやすく伝える技術」の1つに、「3」というキーワードを採用する。
 「人は、たいてい三つまでなら耳を傾けて聞きます」(P152)
 「その点、「三」という数字は過不足のない、きりのいい数字です。「大事なことは三つあります」と言われると落ち着くのです。何と何と何だろうという興味も持てます」(P153)
 「すべてを三の単位で積みあげて考えてみましょう。……すべてを三つに分けて整理していくと、聞き手にもわかりやすくなりますし、話もしやすくなります」(P154)
 そう、そうなんだよね。周知すべき事柄を3つに絞り、1つの話の柱となる部分を3つに分け、それを前もって相手、聞き手に知らせておくと、聞き手の反応が、知らせていない場合に較べて前向きなのだ、意欲的なのだ、そうしてそのときの集中力と理解力たるや半端ではない。伝える側のこちらがタジタジになってしまう程に。
 加えて、そうやって話すべき事柄を絞りこみ、また話の内容を整理しておくと、話者であるこちらも勉強になるのだ。伝達事項を十全に理解するのは勿論、どうやって話を切り出そうか、記憶に残るフレーズは作れるか、どのように話を展開させようか、この難しい表現を如何にわかりやすく・しかし実態からかけ離れることなく伝えようか、など頭をフル回転させて考えることになる。それ即ちこちらの記憶にも完全に定着するということだ。必要なときに思い出せるかは別として。
 なんにでも「3」という数字を意識して当てはめてゆくことで、伝える能力を磨きあげられるのだ。それは聞き手にとっても話者にとってもウィン・ウィンであることを意味する。◆

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第2914日目 〈池上彰『相手に「伝わる」話し方』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 勝手に、<講談社現代新書・池上彰三部作プラス・ワン>と呼んでいる本について1日1冊、平均2.5時間の読書時間を以て4連休に読破した。
 最初に読んだのは、『相手に「伝わる」話し方』。NHK時代、記者・キャスターの経験から得た、「物事をわかりやすく伝えるための技法」が詰まった、人前で話をすることが仕事(の一部)となっている人に読んでほしい1冊である。
 特に心に残ったのは、下に引用する3つの箇所だ。即ち、──

 「聞き手の心に届くような話し方をしたければ、「書いた文章」を読みあげるのではなく、「自分の言葉」で語りかけなければならない」(P83)
 管理者として同僚(部下という言葉は使いたくない)オペレーターに毎朝或いは都度周知事項を伝えるとき、書かれた言葉、内容を如何に整理し、伝えるべきポイントを洗い出して、皆のなかへ残るようにするか、考える。
 うまく伝えられた、皆にするりとわかってもらえた、と手応えを感じたこともあれば、自分のなかでうまく咀嚼出来ぬまま伝えてしまって、あとで再周知する羽目に陥ったこともある。

 「伝える相手への想像力に欠けると、コミュニケーションは失敗します」(P103)
 頷くより他にない。
 ここでは集団のなかでのみ通じるような略語や専門用語をむやみに使なかれ、と戒めているのだが、勿論公私問わずさまざまな場面でもいえることだ。恒常的な人間関係ばかりでなく、一期一会に等しい刹那の出会いや、片想いの相手に勇気をふるって告白したりデートに誘ったりするときでも……。
 想像力を欠いた言動は必ず良くない結果を招く、と知れ。
 これをもうすこし、<伝える>技術に寄せたのが次である。

 「相手は何を知らないのか、/こんな言い方をして、相手にわかってもらえるのか。/ひょっとすると、相手は知らないのではないか。/常に自問自答し、伝える相手への想像力を持っていないと、わかりやすい説明はできない」(P146)
 最終的に、「物事をわかりやすく伝えるための技法」は相手への配慮と、自分の思いこみを一旦脇に除けてみる“立ち止まり”、そうして想像力である、とこの件りは教えてくれる。

 本書は他にも、伝えようとしていることをわかりやすく図式化してみるなど具体的なアドヴァイスを与えているが、そのすべての根本にあるのは、伝えようとする相手に寄り添った想像力である。これを敷衍していえば、想像力のないところにコミュニケーションは成り立たない、となるか。深く頭を垂れて納得、自戒する。
 本書は、この想像力の件を含めて、これまで自分が行ってきたことが明文化されていて「わが意を得たり」と想うところが多々あった1冊であった。久々に「読んでよかった」と思える本に出会うた気がする。サンキャー。
 このあと続けて、『わかりやすく<伝える>技術』と『<わかりやすさ>の勉強法』、補遺ともいえる『学び続ける力』を読んだ。別に順番は(本来なら)どうでも構わないのだが、<講談社現代新書・池上彰三部作プラス・ワン>の場合はやはり、刊行順、つまり本書をいちばん先に読むのが妥当であろう。なぜなら池上さんの、このあとに書かれた現代新書の3冊はすべて、この1冊で提示された事柄をベースに展開しているからだ。◆

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第2913日目 〈その晩はご飯を食べながら、あなたの話を聞き、あなたの笑顔が見たいのです。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の稿を承けて簡単ではあるが事の顛末をお話しします。
 終わりを迎えてはいないので(幸いなる哉、ホザナ)、途中報告というのが本来であります。

 まだ1時間経ったか経たないか、という段階で筆を執っているため(19時07分起稿)、自分のなかできちんと整理できていない。それでも、書く。書かずにおれない、記録しなくては気が済まない性分ゆえに。
 勇を鼓して食事に誘い、日程を組んだ。返事は保留である。否、煮詰められていない。
 経緯は省くが今度の土日で調整中だ。どちらかといえば、土曜日が濃厚だ。候補日として挙げた3日のなかからわたくしの見ていた職場のカレンダーに目をやりながら彼女は、「土日のどちらかなら、たぶん、大丈夫」と返事をくれた。
 完全拒絶ではなかった。どれだけ安堵したことか。もう膝から頽れそうだった。体中から力が抜けてゆくとは、こういうことなのか……。
 平日は退勤後なにかと忙しいらしく、「やること、たくさんあるから」と。職場の飲み会も当初は「行けるかわからない、調整してみないと」だったから、まぁこの返答には渋々納得。退勤後はすばやくフロアを離れるし。──嗚呼、深追いはするまじ。女の子は忙しいのだ。
 (****さん、想いが既に洩れて伝わってしまっているのはわかっている。気附いている人も少なからず、いるのだ。けれど、当日それを口にする気は正直なところ、あまりない。
 それよりもその日は、ご飯を一緒に食べながら、あなたの話を聞きたい。あなたがどんなことに喜び、どんなことに興味を持ち、普段どんなことをして過ごしているのかを知りたい。あなたの、笑顔が見たい。そうして少しで構わないから、わたくしのことを知ってほしい。その晩に望むのは、**さん、それぐらいのことです。)
 怖いのを克服して、なけなしの勇気を振り絞って、今日、彼女をご飯に誘った。この話をしている間、彼女の目が泳いでいたのが印象的だ(気掛かりだ、と同義)。
 コロナ云々と仰られていたが、どうか、これ幸いとコロナを口実に拒んでくれるな。誘ったこちらにはもうどうすることもできない。所謂脈なし、お断り。年齢の差を理由に拒絶される方が良い(実際はこちらもご免なのだが)。
 いまさらに気附かされる、どれだけの片想いがコロナの犠牲になったのかを。コロナは人の命だけでなく、恋をも殺す。その1人にはなりたくない。現在と、望む未来をつなぐためなら努力は惜しまない。
 わたくしは夏から聞こえてくる或る噂に悩まされ、それに心を囚われることがある。深まる陰で、泣く。

 以上、途中報告を終わります。ご清聴ありがとうございました。20時35分擱筆。◆

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第2912日目 〈忖度を蔑ろにしたしっぺ返し - 未来をつなぐために為すべきこと。〉 [日々の思い・独り言]

 時間をかけて作りあげた関係を自ら壊すなんて、なんて愚か者だ俺は。
 7月に出逢って、その日に恋に落ちた。一目惚れだった。でもこんなことは、過去に何度もあった。今回もそうだろう。が、一方でこれまでとはなにか違うと感じてもいた。
 具体的にどのタイミングでこの気持ちが本物とわかったのか、定かでない。気附いたら、一目惚れで始まったかりそめの恋が深く相手を想うそれに変質していたのだ。
 顧みると兆候は確かにあった。先月末の祥月命日は別として、ほぼ欠かすことのなかった月命日の墓参を7月以後、一度もしていなかったのだ。交際相手がいた頃でも月命日には墓前へ足を向けていたのに、今回はただの一度も行っていない。意識に浮かぶことすらなく。
 これがどれだけ大きなことか、おわかりいただけるか。婚約者逝ってから32年、ずっと心のなかにあり続けた影を、27歳年の離れた女の子がいとも簡単に消し去ってみせたのだ。凄い。
 しかし、それに気附いた瞬間から、不安と苦しみと喜びが綯い交ぜになった毎日が始まる。好きという気持ちを表に出さぬよう努めながら接するのは、辛い。もっともっといろいろ話したり彼女のことを知りたいのに、それを口に出せずにブレーキを掛けている。わたくしは大人というよりも老人だ。ハンス・ザックス気取りの、ただの臆病者。
 そんな風でもこの4ヶ月半でそれ相応の関係はできあがった。プライヴェートについてもパーソナル・ヒストリーについても、業務中にときどき交わす会話や業後のお喋りのなかで教えてくれた。勿論、わたくしも自分のことを。でもまだわれらは互いのことを、十分には知っていない。
 先週、彼女を食事に誘った。返事は、かならず是非、と。これまでにも何度か帰り際、今度飲みに行きましょう、はい行きましょうね、という会話はしていたけれど、かならず、とは今回初めて登場したワードである。
 なお、アルコールからご飯に眼目が変わったのは、彼女が現在網膜下出血をやっており、飲酒原因の可能性ありとてアルコール断ちしている、そう話していたことに起因する。
 この食事の誘いが冒頭の「自ら壊す」につながる。いくらシフトがなかなか合わなかったとはいえ、誘ってから1週間後のことである。2回目の同シフト、2人シフトとしては初めての日だ。このときの会話、状況を当日、iPhoneのメモアプリに残した。思い出したことや状況説明など補足しながら引用する。
———

 普段は分けている前髪を下ろしている。実に似合って可愛い。それを言うと、「ありがとうございます、でもこれだとビール買う時年齢確認されるんですよ」と。続けて、「いつも買ってるお店だと顔パスなんですけど、新しい人とか違うお店だと年齢確認を求められます。(なにか身分証出すの?)免許証出します」。
 実年齢よりも幼く見える。年齢相応には確かに見えない。未成年と思われても可笑しくない……とはわたくしの気持ちが入った評価であるか。「若く見られて良いじゃない」と言うた後この子の年齢思い出し、「複雑だね」と私言う。「大人に見られたい」との答え。
 ふと思い出して知己の女性の話す。その人は18歳で結婚した、童顔であるが、夫のビール買うとき指輪でパスされていた(成人扱いされていた)。「良いなぁ、強いなぁ、指輪」心底より羨ましそうだったので、「あなたも貰えばいい」と返す。すると「くれる人いない」、と返事あり。
 業後、評価を改められる様なこと言ってしまう。以下会話。
 「この前話していたご飯の件なんですけど」
 「え、この前……この前って?」
 「今度行きましょう、って言ってた」
 「ああ、すみません、この前っていつだろうって。そんなお話が(ありましたね)。はい」
 「あの、本当に誘っていいんですか」
 「ああ、どうなんでしょうね」(「どういう意味ですか?」だったか?)
 「あなたのご予定もあるだろうから、確認しておこうと思って」
 「予定ない日の方が多いんです」
 「なら今度誘いますね。いまアルコール飲んでないって言ってたけど、お店もそれ考えて選んだ方がいいですか?」
 「うぅん、どういう事ですか?」
 「目のことで禁酒中って言ってませんでしたか?」
 「ああ、別にどっちでも……」
 このとき本拠点からの回答待ち案件があり、それが来ないと帰れない。いつもなら一緒に退勤して廊下で立ち話して別れるのだが、回答待ちと雑用片付けて帰るので先にあがってください、と事前にいわれていた。そのあとでの上記の会話。
 ここで**さん業務に集中したい様子に気づいて、しまった、と思う。「また日曜日、お話しさせてください。すみません、あなたの今の状況を考慮しないで」と言って去る。この間、**さん、わざとらしいぐらいモニタを凝視して、こちらを見ることなし。忙しい時に能天気な会話してくるな、と、内心かなりイラッとされたかもしれない。蔑まれたかなぁ。嗚呼!
 もう日曜日はこの話題、出すのやめようか。このまま、職場だけの関係になるしかないのか。
———

 嗚呼、読者諸兄よ、このやり取りをなんと見る。是か非か、否か諾か。ご裁断を。
 明日は日曜日、あれから何週間も経った気がする。3日とはそんな錯覚を起こすには十分なのかもしれない。
 逢うのが怖い。見かけは普段通りでも心は閉ざして、注意を払うことなく会話も一問一答で終わり、せっかく縮まった距離も遠くなるのか。厭だ、と思うても既に評価を根本から引っ繰り返すに足る材料を与えてしまったのだ。自業自得。忖度を蔑ろにしたことへのしっぺ返し。
 これからの短い、限られた期間で関係修復、関係改善はなるか。望んだ間柄となるには、どうすればよいか。考えろ。
 くれぐれも過去の轍は踏むな。諦めるな、腐るな、気取るな。前に進む勇気とブレない気持ちだけが、未来を作る。現在と、望む未来をつなげられるのは、その想いを強く持つ者、即ち俺だけだ。
 明日は日曜日、これまでのような友好的ムードをふたたび作り出し、親しみある物言いと態度が互いにできるように尽力し、ふたたび食事に誘って日程を組んでしまおう。コロナ禍のなかで第3波が来ているけれど、収束なんて待っていられない。JAM.
 候補となる店はリストアップした後、現地調査済み(帯に短し襷に長し、というのが悩ましいところ)。OKをもらい、当日ドタキャンされることなく待ち合わせの時間に会い、愉しい時間を過ごして、次の約束を取り付けてそれも実現し、できれば年内には恋人同士となれますように。
 わたくしは自ら蒔いた失態の種を一粒残らず拾いあげて、あらためて<大地>に希望の種を蒔き水遣り役を担いたい。わたくしは職場の同僚にして同じ役職者の彼女、****さん以外の誰も望んでいない。諦めるな、腐るな。ふたたび、JAM.◆

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第2911日目 〈ドストエフスキー「家主の妻」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 第2次ドストエフスキー読書マラソンをゆるゆるのんびり進めながら、せっかく全集を手に入れたのだからこの際、そちらでしか読めない作品に触れておかないと勿体ないよね、と考え直し、『二重人格』を読み終えた2,3日後から新潮社版全集第1巻所収「家主の妻」を読んでいました。
 さて、中編「家主の妻」とはどんな小説か。先日Twitterに載せた拙文を転載しましょう。曰く、──学問に精出すストーカー、オルドゥイノフが一目惚れした女性、カチェリーナの家に間借りする。相手の過去と現在に憐憫の情を起こして恋のからまわりを演じた挙げ句に相手の夫、恐るべきムーリン老人につけ込まれて足許掬われて、アパートから追い出される話。
 初読のときは「つまらないなぁ」、「かったるいなぁ」、「冗長だなぁ、あいかわらず」なんて思い思いしながらページを繰っていたのですが、いや、ちょっと待て。自分の集中力の欠如が、斯く為さしめただけではあるまいか? そんな風に反省して再読三読、「そんなに悪い小説じゃぁない」と取り敢えずの結論を出すに至りました。勿論何度読み返してもかったるい箇所はかったるいし、鈍重な場面はひたすら忍耐ではありますが、けっして駄目な小説ではないぞ、これは。
 オルドゥイノフの人物像──夢想的直情的な性格、好きになった女のあとを追ってそこに住まいを決めてしまうぐらいに行動力がありながら実は結構な臆病者──は処女作から絶筆に至るまで、ドストエフスキーの小説では掃いて捨てる程いるお馴染みな存在です。カチェリーナへ寄すかれの想いが果たして恋愛であったのか憐愍であったか、いま一つ疑問ながら、かれの気持ちがいっこう相手に届いておらず空回りしている滑稽さは、見るに哀れ、語るに遣る背ない。
 ではその気持ちの相手、カチェリーナはどのような女性なのか、といえばこれまた摑み所のない、鵺のような輩であります。その過去がどうあれムーリン老人の操り人形、欲望の捌け口の役を甘んじて受け容れている。しかもその様子は自ら進んでその役に立候補し、そこに法悦すら感じてもはや老人から離れることができないという為体。艶と病と滅びを具現化したような女、といえば良いでしょうか。敢えて申すまでもなく所詮はオルドゥイノフに相手の務まる存在ではありません、断じて。
 三角関係を築いているようで実は三角形を構成する要素さえハナからないのが、本作の登場人物の相関関係の大きな特徴といえましょう。最初から最後までカチェリーナとムーリン老人、2人の隷属関係だけがここにあり、他は書き割りに過ぎない。辛うじて生彩のあるオルドゥイノフとて2人のまわりを指咥えながらうろうろしている小物でしかないのです。
 ムーリンこそ本作の要というてよいでしょう。このムーリンという老人、会う人会う人の精気を吸いあげ、また支配する吸血鬼のような人物です。およそドストエフスキー作品でははじめて表舞台に現れた、悪魔的造形の施された人物ですが、とはいえ後年の作品群に登場する同種の人物たちの大きさに較べると肩を並べるべくもありません。そんな意味ではその描写にまだドストエフスキーの未熟が目立ちますね。
 ペトラシェフスキー事件へ連座して流刑になる前と釈放されたあととでは、ドストエフスキーの作品は別物というてよい程の落差がある。明白な相違を様々に指摘できるぐらいです。悪魔的と呼ばれる人物の造形も、その1つ。『悪霊』のスタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフの如き強烈な印象を残す人物を生み出すには、当時のドストエフスキーはまだ経験不足だったのであります。とはいえ、ムーリン老人がかれらのプロトタイプであることに異見はないでしょう。
 されどもオルドゥイノフの前で哀れなる老人を演じたあと、カチェリーナを抱きしめてからの表情の変化には、想像するだにゾッとさせられたよ。いやぁ、老人の残忍にして狡猾なる性格を顕著に示しておりますね。うぅむ、羨ましい!!
 ──有り体にいってこの「家主の妻」、面白くはないが「つまらん」と斬って棄てる作品でもない。前回の『二重人格』のように新訳を求めるつもりはないが、新しいドストエフスキー選集が編まれるならば是非にも収録していただきたい1作(新潮社版全集の千種堅の飜訳は良いですよ)。本作は忌憚なくいえば、出来映えや訴求力などいろいろな面でどっちつかずの小説であります。が、再読三読と読み返すに従って隠れていた輝きに気附かされる、そんな不思議な魅力を持つ小説でもあるのです。
 ──さて、「家主の妻」のあとは第2巻に進んで未完の長編『ネートチカ・ネズワーノワ』を読もう、と考えていたのだが……同じ巻に収まる短編「正直な泥棒」が未読とわかったので、急遽先にこちらを片附けてしまうことにしました。よって次のドストエフスキー小説の感想文は件の短編となることを、既に告知済みな一部の方へお伝えして筆を擱きます。◆

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第2910日目 〈ドストエフスキー『二重人格』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『二重人格』(小沼文彦・訳 岩波文庫)は面白い。
 始まってしばらくは、主人公の(旧)ゴリャートキンの粘ついた喋り独白にイライラさせられ、なんど中断を検討したことか。<第二次ドストエフスキー読書マラソン>なんて<枷>がなければ、(経験したこともないような)苦痛と忍耐ばかりの読書に音をあげていただろう。
 が、或る日或る時、前に進むことだけ考えてページを繰っていた指が、これまでにない早さで、軽やかさで、動き始めたのだ。これといって興味を掻き立てられる場面であったわけではない。単に作品のペース等に自分の感覚が馴染んだだけなのかもしれない。突然目の前が、パーッ、と広がり、自分が彩りあざやかで豊かな実りをもたらす沃野の縁に経っていることに気が付いたのだ。
 むろん、以後もジリジリイライラさせられる瞬間は訪れる。それは否定しない。だって事実だもん。が、そのときは既に作品の面白さに捕らわれて、ページを繰る手も早くなっている。読書に費やす時間は同じであっても、その面白さに開眼する前と後とではクオリティがまるで違う。
 では、その分岐点はどこであったか? 第5〜6章である。老五等官オルスーフィ・イワーノヴィッチ宅の宴会から諸事あって追い出された主人公、フルネームをヤーコブ・ペトローヴィッチ・ゴリャートキンが吹雪のペテルブルクをとぼとぼ歩いているとき、自分の分身とすれ違って、思わずそのあとを追いかける。そいつが入っていった家はまさしく、この九等官ヤーコブ・ペトローヴィッチ・ゴリャートキンの住居。慌てて入ってゆき、扉を開けるとそこにはベッドに腰をおろしてこちらを見やる分身、新ゴリャートキンの姿が。この翌日かれらは睦まじくいろいろ語り合うのだがこの<ウィリアム・ウィルソン>的な、戦慄的な状況にゾワリとさせられるのだけれど、ドストエフスキーが書くとこの状況もまるでスラップスティック・コメディに思えてきてしまう。やはり──すくなくとも流刑経験以前のドストエフスキーは本質的にユーモア作家だった。
 そうして、格段に読むスピードが速くなり始めたのは、第8章、137ページから(遅い!)。新ゴリャートキンがいよいよ本領を発揮し始めたあたりの章である。役所の上司に取り入り気に入られ、重用されている分身──新ゴリャートキン──に焦りと嫉妬を抱いた旧ゴリャートキンの右往左往と、いやらしいまでのへつらいがあまりに滑稽に感じられて、それまで抱いていた“われらの主人公”への悪感情を一気に払拭して興味と共感へと舵を切らせたのである。
 これは序盤の話であるが、中盤終盤にも勿論、同様な見せ場──読みドコロがある。
 そうね、たとえば第9章。
 或る理由から駆けこんだレストランにてピロシキを1個食べただけなのに、なぜか11個分の代金を請求されて途方に暮れてしまう旧ゴリャートキン。どうしたわけか、とあたりを見回すと案の定そこには新ゴリャートキンがいて、かれが食べたピロシキ10個分の代金が自分に請求されていることに思い至った旧ゴリャートキンの台詞がふるっている。曰く、──
 「人間、腹がへってりゃ肉饅頭の十一ぐらいは食べることもあるだろうさ。そうとも、黙って勝手に食べさしておけばいいんだ。なにも驚くことはありはしない、なにも笑うことはないじゃないか……」(P174)
 笑うよ、どう考えたって! 腹ぺこならたしかに肉饅頭(ピロシキ)を幾つも胃袋に収めるだろうけれど、11個は流石にどうかと思うぜ、ゴリャートキン!
 或いはそうね、第11章。
 新ゴリャートキンとの会談が大いなる侮辱の内に幕を閉じたあと、遅れてやって来た憤怒に突き動かされて、かれの乗る辻馬車に飛びかかってインディ・ジョーンズばりのアクションを繰り広げる場面(『最後の聖戦』でナチス・ドイツの戦車相手に大立ち回りを演じるインディの姿をご想像あれ)。ここはおそらくドストエフスキーが書き得た数々の要素を含んだ場面のなかでも屈指のアクション・シーンである。勿論、ここでのインディ役が旧ゴリャートキンである以上、カタストロフとまったく無縁であるのは申しあげるまでもない。
 それからそうね、予想外の同情と幸福にあふれた大団円になるかと思わせて、やはり新ゴリャートキンの暗躍、悪意、嘲笑が決定打となって破滅と喪失へ追いこまれた旧ゴリャートキンの姿に哀れを誘われる第13章、即ち終章だな。

 『分身』というタイトルの邦訳も持つ『二重人格』は、『貧しき人びと』に次ぐ第2作として1846年2月、『祖国雑記』第2号に掲載された。が、その後、作者自身によって改訂されて1866年のドストエフスキー作品集第3巻に収録。邦訳はいずれもこの改訂版に拠る。
 本作は好評だった前作に比べて酷評に曝された。やがて本作は忘れられた作品と化し、余程のドストエフスキー愛好家か、全作品の翻訳を目指す人か、わたくしのような「取り敢えず読めるものは全部、片っ端から読んでみよう」という暇人ぐらいしか顧みることがない。積極的に読者が手を伸ばす類の代物ではない。
 が、前に述べた如く辛抱して読み進めれば、途端に面白くなること請け合いだ。また、その構造、思想、語り口、主人公の性格・思想などは紛れもなくドストエフスキー独自のものだ。加えて後の重要作、就中『地下室の手記』の出現を早くも予告した作品、と見ることさえ可能だ。これをいい換えればドストエフスキーという作家が、極めて振り幅の大きい、様々なジャンルを書き分けられる才能と筆力と体力を、キャリアの最初期から既に備えていたことの証しでもある。
 ──さりながら残念に思うのは、いまもむかしも文庫で読める『二重人格』(『分身』)が岩波文庫だけという現状だ。初版が1954年、訳文に手を入れた改版の出たのが1981年となれば、表現がどうとか訳文がどうとかいう前に、活字が小さく細くなっていて、読みづらさを痛感するにはじゅうぶんだろう。
 この点を根本的に解決するためにもひとつ、岩波文庫や光文社古典新訳文庫には良き訳者を得た新訳を検討、実現していただきたい。有名作の新訳も大事だが、顧みられること少ないマイナーな作品に目立つ骨董めいた既訳の再点検も行ってほしいのだ。
 こんなに面白い小説が知られることなく日陰の身に甘んじている理由の1つは、文庫で読める翻訳が1種類だけしか存在しないからだ。各社の検討と実行を期待する。◆

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第2909日目 〈渡部昇一『ヒルティに学ぶ心術』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 渡部昇一『渡部昇一的生き方 ヒルティに学ぶ心術』(致知出版社 1997)を読了。摘まみ読みで済ませてきたが、ちかごろ立て続けに著者の本を読んでいることから、その波に呑まれるようにしての通読となりました。
 専ら『幸福論』に拠って仕事の方法や習慣の重要さ、エピクテトスの哲学、病気の克服等を引用しつつコメントを交えている。仕事の方法、習慣に関してはこれまでもこれ以後も、何度となく繰り返し語られているので新鮮味というのは正直ないが、こうして本来の文脈で語られ直すと、改めて眼を開かされる思いのするのは不思議で、愉快な経験でありました。
 エピクテトスの章は、わたくしには本書の白眉と映る。『幸福論』にはヒルティの訳したエピクテトスの『要訓』からの文章が訳されて載るが、なんべんとなく読んでも、誤魔化しなくいえば、「わかる」と「わからない」の比率は4:6ぐらいでした。ゆえ、岩波文庫のエピクテトスの2巻を購っても不明はさらに深まるばかりで。それを渡部昇一というフィルターを通してエピクテトスの、ひいてはストア哲学の考えに触れると、実によくわかった、という気にさせられる。すくなくとも「わかる」と「わからない」の比率は5:5ぐらいにはなった、と自負している。
 じゃあ結局わかってないんじゃないの? そう疑問を投げられると答えに窮するが、要するに、自分の内と外にそれぞれあるものの間の線引きを明確に意識せよ、自分の意思で自由になることと、どうにもならぬことを切り分けて、その上で為すべきことはなにかを考えて行動せよ、ということだ。「自分でどうにもならぬことについてくよくよ嘆いてもしょうがない。自分でできることは何かということをいつも考える。……たとえばある状況があって、それを変えたいと思ったら、変えるために何かをやることは自分にはできる」(P55)、これは本書の要である、と思います。
 これは本当に、心から納得できたことであります。おこがましいいい方にはなりますが、これまで自分が仕事を通していつの間にか身に付けていたことと、ここで語られるストア哲学が同次元にあることが確認できました。となると、こんな風にいえるかもしれません──多くの労働者は自分でもそれと知らぬ間に、ストア哲学を一部なりとも体得し、実践しているのかもしれない、と。
 とはいえ、本書のすべての箇所に、成る程、と膝を叩いたかといえば勿論、そうではありません。そんなこと、あろうはずがない。第6章「病気治療法」ではヒルティの言葉にも渡部のコメントにも首肯しかねる部分が幾つもある。第5章「時間のつくり方」他に散見される労働に関する発言も、また然り。本稿に於いて当該箇所の発言は控えますが、やはりそのあたりには<限界>というものがあることを痛感せざるを得ません。
 ところで、どうして渡部はヒルティの邦訳を、岩波文庫と創元社の選集だけしか挙げず、白水社の2度にわたる著作集について1度も触れないのか。自身の若き日に読んだ日本語訳のヒルティが、岩波文庫と創元社の選集であるためか。斯様に肩肘張らず読めるよう工夫された本でヒルティの言葉を引用するには、かつてその装幀、その版面、その活字、その訳文、その表現で親しんで滋養として現在も書庫にある件の邦訳書でなければならなかったのか。おそらくそうだろう、誰しも本を著す際は、明確な理由と目的がない限りは手に馴染み、目に馴染み、心に添うたかつての愛読書に拠って立つことになるのだろうから。◆

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第2908日目 〈遅ればせながら、狂騒の夏、終わる〉 [日々の思い・独り言]

 ──台風9号が温帯低気圧に変わり、小笠原諸島近海にて発生した台風10号の不穏な話を聞いた夕方に、これを書いている。既にカレンダーは9月となり、狂乱と騒動の絶えることなかった令和2(2020)年の夏、8月が終わった。
 大気の様子不安定で晴れていたかと思えば急に霧に包まれ雨が降る、そんな日にもかかわらずいつものスタバへ退勤後寄り道して、本稿の筆を走らせているのは(時々止まるのは仕方がない)なるべく早いうちに──記憶が細部までくっきりとしているうちに──、かの狂騒の夏をアルバムの1ページに昇華させておきたい、という願いからだ。要するに、本ブログのネタ、原稿のストックにしておきたいのである(※けっきょく本稿お披露目は12月に入ってからのこととなったが、ストックしていたのが役に立ったというよりも、唐突にお休み期間へ突入した本ブログ再起動のテコ入れに徴用した、というのが限りなく正解に近い)。徒し事はさておき、──
 先月はどうしたわけか、やたら本を買いまくった月であった。たぶん前月、前々月以上に。昨年同月比? 笑っちゃうぐらいに今年の圧勝である。なぜって昨年8月からは本代よりも診療費交通費の方が圧倒的にかさんでいたから。そうして今月9月は、8月の狂騒の反動で緊縮財政を自らに課すこととなる。まぁ、経済ってそういうものだよね。
 それはさておき、この企画、書名を曝して己への戒めとも警告ともする役割を担ってもいる……書いている最中に飽きが来て、抛たなければいいんだけれどなぁ。
 ──
 8月の購書の目玉は、主として2つ。1つは生田耕作先生絡みの書籍等を意識して渉猟したこと。もう1つは若かりし頃に好んで読んでいた雑誌を全冊買い揃えたこと。まずは前者から。
 定期的にわたくしは、生田先生に因んだ本をあれこれ見附けては検討して、買うている。「定期的」とは軍資金が或る程度潤沢にあるとき、の言い換えである。そうした意味では8月は軍資金が(それなりに)豊かにあり、また入手したい本が立て続けに目の前に現れたラッキー・マンスであったわけだ
 古本市でのマンディアルグ『満潮』『ビアズレーの墓』(共に奢灞都館)を振り出しにして、滋賀と愛知の古書店から、先生が主幹となって刊行された文芸誌『るさんちまん』全3冊を購入した。状態は皆、いずれも40年前の刊行物であるのを考えればそれなりに経年劣化はしているが、自分が当時読み馴染んでいた書目であるがゆえにそのあたりはまるで気にならない。考えようによってはそのまま所有し続けていたらいま頃は、今回購入した音同じ状態になっていたであろうかと想像する愉しみがあって、良い。状態の話はさておくとしてもそんなこと、知られざる作品、知られざる作家に触れられる幸福を思えばなにという程のものでもない……。
 咨、勿論、それだけに留まらぬ。入手の順番は異なるが、他にもわたくしはピエール・ルイスの、これが本邦初訳であろうと思われる「書庫の幻」を載せた『PAPER APPLICATION』第1号(続刊の有無不明。「編集後記」の類いっさいなく作品のみで勝負という潔い性格が却って個性的といえよう)、先生旧蔵のセリーヌの原書を購い、アスタルテ書房から刊行されたシャルル・ノディエ『愛書家鏡』もようやっと架蔵する夢がかなった。
 そうして今回の本丸というべきは、先生が晩年に教え子や知己の人らと運営(?)していた日本文化研究会会報の、ほぼ全揃いである。こんな曖昧な表現をしたのは、事実上の最終号と目されるキキメ中のキキメ、生田かをるさんの特集号を欠くからだ。
 実を申せばわたくしは第1号の、鴨川改修計画批判と第2号の木水彌三郎の号は持っている。勇を鼓してはじめて生田先生にお手紙差しあげた際、畏くも頂戴したご返書に添えられて第1号(献呈書名入り)と第2号が同封されていたのだ──内容と相俟ってわたくしには、加藤剛の献呈書名入りエッセイ集と共に大切な宝物だ──。
 わたくしは先生の、江戸漢詩や書画にまつわる話が大好きで、正直に告白すれば先生の主戦場たる超現実主義やオカルト、エロティシズムの著訳書などよりもずっとずっと、こちらの方に偏執狂的愛着を持っている。もっともその根っこには学生時代、本朝の古典就中近世文学に親近して国学者漢学者の著作伝記を漁り、読本黄表紙詩歌随筆を来る日も来る日も耽読し、書画への関心止むことなくまた茶湯花街遊びを覚えて耽ったあたりがあるのだろうことは必至。
 それゆえにこそ、『鴨川風雅集』や『文人を偲ぶ』『江戸の世に遊ぶ』は(友どちからもらった、カバーがなくなった)『黒い文学館』を別にすれば、いちばん回数多く読み返して愛読したのだ。斯様な背景、根っこあってこそ、是が非にも日本文化研究会の会報は、絶対にコンプリートしてみせる、と意気込んでいたのである……しかも単品で売りに出されるのを買いこむ程の持続力はなく、欠号がいつ埋まるか不明なことからも完全揃い、もしくは可能な限り揃いに近い状態で購入できる機会を窺っていたのだった……。結果から申しあげれば既にお伝え済みのように、完全揃いまであと1歩、が、その1歩の達成がどうにもこうにも難しく。やれやれ。
 先生絡みの購書でもうすこし駄弁を綴れば、国書刊行会の《フランス世紀末文学叢書》に収まるオクターヴ・ミルボー『責苦の庭』と、中島棕隠の漢詩集『鴨東四時雑詞』を挙げておく。
 前者は若き生田先生が師・生島遼一宛葉書に、その残虐なる場面の数々より極めつきを書き写して、「先生も是非お読みください」旨添えたてふ<イタズラ>をやらかしたエピソードが妙に頭にこびりついて離れず、今般ようやくその気が起きて神保町の古書店の棚からわが家へお迎えした1冊。
 中島棕隠は生田先生が特に傾注した江戸時代中期、京都で活躍した漢詩人。棕隠について書かれた文章を読んでいるうちに、「生田耕作をして斯くまで夢中にさせて讃辞を連ねさせるとは、どのような詩人なのであろうか」と興味を抱いたのが、棕隠の詩に触れるきっかけであった。岩波書店の《江戸詩人選集》に収まる棕隠の巻を引っ張り出して一時、バイト先である大学生協の建物の屋上で寝転がって、ひなたぼっこしながら読んだのは、いまでも愉快な思い出である。まぁ先生の熱狂がこちらにも伝播して、註釈や翻刻を中心にぽつぽつと、無理ない範囲で買い集めていたらじきに”原書”が欲しくなり、その流れで『鴨東四時雑詞』を万札数枚を叩いて購った次第である。
 ──んんん、生田先生に因む本の購入記録を書き綴ってみたが、果たしてどれだけのお金を費やしたのか。冷静になって顧みるに頗る恐ろしいところであるが、気にするのはやめよう。一期一会の遭遇である。機はゆめ逃すべからず。出会いは大切にしなくてはならない。
 ところで自分でも忘れるところだったのだが、高校生のときはじめて買って、220代半ばの頃に終刊号を手にした雑誌を8月に、複数筋から買い求めて全冊を揃えたこともお話するのだった。当時の横浜駅東口ルミネ5階有隣堂にて買い、これまた当時、神保町は神保町交差点そばにあった岩波ブックセンター(現:神保町ブックセンター)入り口付近の雑誌コーナー──ミニコミ誌/タウン誌のコーナー/棚だったのかな、そこは。一緒に『谷根千』など置いてあった記憶がうっすら残っている──にて終刊の第30号を手にしてレジへ運んだ、あの雑誌──。
 焦らすのは趣味じゃぁないし、「さっさと書名をいえ!」とお叱りの声も聞こえてきそうなのでさっさと白状すると、その雑誌は『BOOKMAN』という。瀬戸川猛資が3代目の編集長を務めて巧みに雑誌を存続させ、トパーズプレスから1982年10月から1991年6月まで、隔月刊という触れこみで刊行され続けた読書の達人たちによる読書家のための雑誌であった。いまに至るもこれだけのクオリティを保った書物に関する雑誌もなかったのではあるまいか、すくなくとも或る程度の号を重ねたもののなかでは。が、この雑誌に関しては既に、稿を別にして書いてあるので詳細を述べるのは省こう。
 正直なところ、どうしてこれまで、本腰入れて『BOOKMAN』を買い揃える気が起きなかったのか、わからない。時間空間財布の余裕がなかった、といえばそれまでだが、それ以上に、先の日本文化研究会の会報のところでも述べたと同じく、買うなら可能な限り一度に、加えていえば一ヶ所の店で欠号あろうと他でそれが埋まり完全揃いを達成できるならば行動を起こすつもりが、なかなか欠号が埋まらないという事情がクリアできなかったのが、真の理由というてよい。間隔を置いたら、欠号が埋まるまでどれだけの歳月を費やすことになるだろう……!?
 この度、この狂騒の夏を語るにトピックとなるに相応しく、『BOOKMAN』はわたくしの手許に集まってきた。その経緯はこんな風である……或る日、なにげなく電脳空間に散在する古書店のサイトを覗いていたら、偶々愛知県内の古書店が2/3にあたる号を売りに出していた。むろん、興奮した。が、すぐに冷静になった。残りを他で、短期間で埋められるか? 至極真っ当な懸念である。されどその懸念はものの10分も経たぬうちに解消された──驚いたことに、2ヶ所と分散はするが欠号を埋められることが判明したのである。途端、わたくしの指は購入ボタンをクリックし、気附けば支払いも済ませてあとは到着を待つだけになっていた……。
 ──前述の通り、わたくしはこの機会を逃すことなく全30冊を買い揃えた『BOOKMAN』を材料に2つの、実質1つのエッセイを書いた(この時点でお披露目されているかはわからないけれど)。これも渡部昇一いうところの「本がある自信」が為さしめたことである、と、そう自負しているのだが。以て全号の総目次の作成とレヴューの作成なんていう企みを抱くのも宜なるかな。
 ──
 まだまだ本稿は続く。が、この先は簡単な購書記録とさせていただこう。特段の理由はない。加えて、以下に記すのが買い物のすべてではないことも、併せてお伝えしておきたい。
 8月1日(土)
  ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』『ユダの窓』『夜歩く』
  エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの新冒険』
  コナン・ドイル『失われた世界』
  E.T.A.ホフマン『くるみ割り人形とねずみの王様』
  渡部玄一『明朗であれ 父、渡部昇一が遺した教え』
  玉川重機『西荻ヨンデノンデ』
 8月3日(月)
  真田啓介『古典探偵小説の愉しみ Ⅰ フェアプレイの文学』
      『古典探偵小説の愉しみ Ⅱ 悪人たちの肖像』
  クラーク・アシュトン・スミス『魔術師の帝国 《3 アヴェロワーニュ編》』
  猪場毅著・善渡爾宗衛編『真間 猪場心猿著作集』
 8月18日(火)
  『小説すばる』9月号
  村上春樹『一人称単数』
 8月27日(木)
  織田哲司・下永裕基・江藤裕之共編『学びて厭わず、教えて倦まず ”知の巨人”渡部昇一が遺した学ぶべきもの』
  渡部昇一『学問こそが教養である』
  レスコフ『レスコフ作品集1 左利き』
      『レスコフ作品集2 髪結いの芸術家』
  松本清張『随筆 黒い手帖』
      『実感的人生論』
──上述の通り、その他諸々である。山本弘『翼を持つ少女 BISビブリオバトル部 1』や清原紘・画/綾辻行人・原作『十角館の殺人』第2巻、綾辻行人・有栖川有栖他『7人の名探偵』等々……いや、上述の通り、まだまだあった筈だが、ちょっと思い出せない。
 それでは、読者諸兄よ、放り出すようであるが本稿、これにて幕となる。またいつかの再会を。◆

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