第2993日目 〈渡部昇一『日本史から見た日本人 古代編』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 改めていう、本書初刊は昭和48(1973)年に産業能率大学出版部から出版された。この世に産声をあげて間もなく半世紀。その間、判型を変えて読み継がれてきたとは既に何度も触れたこと。今回読書に用いたのは思い入れ深い平成元(1989)年刊の祥伝社版である。初刊から実に10数年経た後の堂々の復刊、しかもその際続編の『鎌倉編』と併せて現代編ともいうべき『日本史から見た日本人 昭和編』も刊行された。この3冊が背表紙見せて横浜駅東口ポルタ地下街にあった丸善の棚に居並ぶ光景は、高校生のわたくしに畏怖を抱かせるにじゅうぶんであった……。
 という昔ばかしはここまでにして。本書のいちばん特徴的な点はなんというても、英語学者が書いた日本史の本、というところを第一とせねばならない。執筆のきっかけは『クオリティ・ライフの発想』(講談社文庫)と『知的生活の方法』(講談社現代新書)等で記されている。
 煎じ詰めれば著者がドイツ留学中に日本の歴史や民族、日本語のことを考えるうち、「(日本史学者の書いた本のなかの)納得のいかないところ、あるいはこうしたところを見落としているんじゃないかというところにもいろいろ気づく」(『クオリティ・ライフの発想』P123)ことがあった、それらがだんだんと自分のなかに溜まってきたときに勧めを受けて刊年の夏休み、一気呵成に書き下ろしたのが本書である由。執筆の傍ら資料を繙いて書き進めてゆくことはせず、自分の思考が捉えた日本の姿、歴史の流れを大切にして、かつ折節外国の歴史や政治、文化と日本文明を比較しながら筆を進め、史料については「専門家が専門家向きに出版したものを使うようにした。……原典にあたっている偉い先生方の出版した史料的なものは、私たちも近づけるわけだから、疑問があったらそれで確かめるということにした」(同P124)という。
 本書は出版以来様々な歴史学者、読書家から江湖に迎えられて好評を博した。その評言は多く「ユニーク」てふ言葉を用いたそうだが、そのユニークなる点の理由を、著者は『知的生活の方法』で明かしている。即ち、漫然と読書するなかで「面白いな」「これはいったいどういうことだ」「なんだか矛盾した話だな」などと思うたことを片っ端からカードに書き留め、卓上ファイルへ放りこんでいた、というのだ(P138-9)。それはけっして業績目的の資料収集でなければベストセラー狙いの魂胆からでもなく、依頼をこなすための一気呵成の史料博捜でもない。興味の赴くままに作ったカードが自然と溜まり、著者の歴史観や異質な視点が焦点を結んだときに書き下ろされた本なのである。そのユニークという点こそが、本書を半世紀近く生き永らえさせてきた原動力であったろう。
 実際、『日本史から見た日本人 古代編』は平成・令和に書かれた日本史のどの本と較べても見劣りしない。日本の国体の変化が過去に5回あってうち3回が武家社会成立までに起きている、しかも国体がどれ程変化しようと王朝解体の意識はまるでなく奇妙な二重権力がその萌芽も含めて古代よりあったこと。仏教伝来という宗教戦争の発端となってもおかしくない出来事があったにもかかわらず、唐の文化・法律を巧みに換骨奪胎して日本化したと同じ方法論でカミとホトケの奇妙な同居を実現させたこと。日本人の生活習慣や皇室信仰が神話時代から連綿と続く世界的に稀有なる民俗(フォークロア)であり、日本の独自性は神話の独自性に由来すること。「中国」という国名が如何に不遜で厚顔無恥かつ一知半解の結実で、逆にその国を「シナ」と呼ぶことが強い正統性を持っていること。
 いったいどんな歴史の本に斯様な発見が盛りこまれているでしょうか。その発見に揺るぎなきエビデンスを与えているというのでしょうか。暴言吐くが、あったらお目に掛かりたい。
 本書を語る際、かならず引き合いに出されるのが<和歌の前に日本人は平等>。学生時代の恩師の1人は産業能率大学出版部から本書の初刊が出た際、この1章を読んで衝撃を受けたと酒の席の戯れに話してくださった。既にお話したように本書通読は今回が初めての経験だったが、この<和歌の前に日本人は平等>の章だけは本屋さんで立ち読みしていた自分がこれを真実と、本心から感じ入ったのはその後1年半あまりで万葉八代十三代集を読破した直後のことであった。
 たしかに勅撰和歌集は後になればなる程、ただの権威でしかなく、威厳も誉れもそこにはなかった。そこに選ばれる歌人たちは政治的意味で採用されるケースも多々あったけれど、しかし、身分の上下、過去の所業や家柄、そんな枝葉末節に振り回されることなく和歌の出来映えによってのみ個々の集に名を連ねた人々である。『万葉集』ならいざ知らず、天皇の一大事業、歌人の名誉というべき勅撰二十一代集に歌が選ばれるということは、貴賤不問の名誉であり、と同時にそれは神代から続く和歌の平等を再確認させることでもあった。
 ──その後陸続と刊行されてゆく渡部日本史だが、その出発点は本書にある。以前にいうたことだけれど、渡部昇一の日本史の本を読むならまずはこの『日本史から見た日本人 古代編』からだ。然るべき人によって書かれると日本史は斯くも命漲るものとなり、触れると斬れるような鋭さを持ち、抑え難き熱情が渦巻くのだ。
 ちなみにもう1つ、最後に本書の凄い点を挙げるなら、産業能率大学版出版部から祥伝社NONSELECT版までの間、本書は多少の章立ての変更、図版の入れ替えこそあれ、本文はただの一度も手を加えられていない、という点か。つまり昭和48年から著者没する平成29年まで、渡部昇一はここに書かれた内容について絶対の自信を持ち、もし新しく発言することあった場合や改める点小さきと雖もある場合は常に次の本、次の本で更に展開、深化させていったということを、最後に述べておきたい。◆

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