第3662日目 〈朝の陽光が運ぶもの。〉 [日々の思い・独り言]

 新しい朝が来た、希望の朝だ。歓びに胸を開け、青空仰げ。
 ──とは、ラジオ体操第一の歌詞である。病室にいて明るくなりつつある時刻から天に上ってゆくばかりの太陽に彩られた空を眺めていると、なぜかしみじみとラジオ体操のこの歌詞を思い出す。
 新しい朝が来た、希望の朝だ。
 太陽は沈んでも、必ず次の日には顔を出す。雲に遮られているか否かの違いだけ。いずれにせよ、新しい朝は来るのだ。「陽はまた昇る」、この当たり前の事実を病室から改めて噛みしめている。……観念の理解ではなく、感覚の理解ではなく、実感として噛みしめている。
 そうして、朝の陽光はわれらに〈希望〉を運んでくる。朝の日射しくらい、これから始まる1日のあれこれについて胸をワクワクさせてくれるものは、ない。上田敏の訳したブラウニングではないが、「なべて世は事もなし」と(まだ始まっていないうちから)呟きたくなるのだ。これから始まる1日に起こるであろう出来事に、出会うであろう人々に思いを馳せて、胸を高鳴らせることができるのはしあわせだ。希望としあわせはこの場合、表裏一体である。
 むろん、これから始まる1日にネガティヴな思いで迎える人もいることは知っている。かつてのわたくしがそうだったから、そのような人々がいることとそのような後ろ向きな感情を抱かざるを得ない程毎日が労苦に満ちていることがあることを、知っている──というか、いまでもはっきりと覚えている。忘れられるわけがない。忘れてはいけない過去の経験だろう。
 そのような人の上にも新しい朝が来て、陽光が降り注ぐ。そのような人にとって朝の陽光は希望だろうか、それとも残酷でしかないのだろうか。……この点についてはちょっと、言葉を紡ぐのは保留としたい……しあわせの形は案外と画一的だが、ネガティヴな思いというのは千差万別だからだ。おそらく、なにをいうても(自分の経験を照らし合わせても)きっと的外れになるに相違ないからだ。
 いまのわたくしにとって朝の太陽は希望以外の何物でもない。これから始まる諸事への期待ばかりでなく、殊現在に関しては朝が来る、日が沈んでまた昇るということは、退院へのカウントダウンを意味している。残された日々への愛着がより深まる要因にもなっている。
 病室の窓から見える外の世界は、太陽は昇ってぐんぐんと天頂を目指して運行し、水蒸気の固まりである雲は一片だに見えることはなく、ひたすら爽快な青空が広がっている。これから始まる1日がどのようなものになるか、どのような人たちと会えるのか、時々刻々と近づく退院の日を迎えてその後どう生きるか。そんなことを考えていると、胸の鼓動が抑え難いくらいに高まってゆく。
 歓びに胸を開け、青空仰げ──まさしくいまのわたくしの気持ちと希望を歌った一節だ。いまは、2023年07月12日(水)06時52分……。◆

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