第3672日目 〈贖罪と責任。──労働についての独り語り。〉 [日々の思い・独り言]

 ウチの会社としてはちょっぴり珍しい仕事を経験してきました。物流関連の仕事が多いウチですが、時期的なものもあるのか、一年のうち何度か発生する(依頼を受ける)珍しい仕事とは、官公庁や役所、病院や学校、企業で使うパソコンと周辺機器のキッティング作業であります。内容が内容ですし、数日だけの作業なので、それ程多くの人数が必要になるわけではない。一現場につき三人が相場だそうだ。
 従って希望者多数の場合は抽選となるが、今回、わたくしはそのメンバーの一人になることができた。過去にPCのキッティングを仕事の一環とすることがあり、それを入社時にプレゼン(?)していたためと思しい。
 とまれ、わたくしは選ばれ、横須賀線の某駅からバスに乗り継ぎ某高校で作業に従事して再び横須賀線の客となり、その仕事を倩思い出しながら、「自分は変わったな」とポツリ呟いたのだ。八月お盆過ぎの或る日の宵刻。心地よい疲労が体のなかに横たわっている……。
 自分は変わった。その日の仕事を通して、ようやく実感できた。
 そのレア案件では幸運にも三名の募集枠に入ることができた。それが後日、当時メインにしていた物流倉庫で一緒になる人たちの話題に上り、質問攻めに遭ったのだが。曰く、どんな作業内容だったのか。曰く、どうしてお前が作業担当者になれたのか。煎じ詰めればこの二点である。
 最初の質問には、きちんと答えられる。好奇心か今後の参考かはともかく、興味を抱くのは自然の理だ。誰だって行ったことも見たこともない世界の出来事には興味津々なのだから。
 返答に窮したのは、二番目の質問だ。どうしてお前なのか、どうして自分ではなかったのか。袖の下をたんまり贈ったのか。担当者の弱みを握って恫喝したのか。勿論、そんなはずはない。法を犯す度胸がこの小市民にあるものか。
 さあどうしてだろう、偶々じゃないかな。そう濁してその場は済ませた。が──口にこそしないけれど──こちらが本稿の話題に即した部分なのだが──かれらは、会社の信用を多少なりとも欠く連衆だった。どういうことか。勤怠や勤務態度に難あり、だったのだ。限られた時間のなか、少ない人数ですべての作業を完了させる最大のポイントはなにか?
 PCの設置や配線、操作に抵抗ないこと? 運搬作業に耐えられる程度の体力があること? 作業工程全体を見渡して一つ一つの作業を如何に効率的に行ってゆけるか改善策を考えられること? ──ううむ、どれも正解の一つではあるンだが、最大のポイントとはいい難い。「最大のポイントはなにか」という質問に対してここで求められる正解は、「勤怠に穴を開けないこと」である。
 少ない人数で、限られた時間・日程で作業を完了させるいちばんのポイントは、所定時間から仕事が始められるよう、遅刻することなく余裕を持って現地に到着/出勤していることだ。これに尽きる。
 過去のわたくしを表面でしか知らぬ人は、どの口がそんな偉そうな台詞を吐くか、と顔をしかめ、或いは陰で嘲笑するだろう。が、わたくしは気にしない。思考が過去で停まり、旧態依然とした人々の陰口を気に病む必要はないからだ。そんなヒマ、人生には存在しない。〈人は変わるのだ/変わることができるのだ〉という当たり前の事実が理解できない人たちなど、放り棄ててよい。
 徒し事はともかく、普段とは異なる仕事を経験したことが、自分は変わった、と思えるようになったきっかけなのは、紛れもない事実である。特筆大書しよう。



 上で触れたレア案件もそうだったが。交互に行っている二、三ヶ所の物流現場(ピッキング、仕分け、etc.)を含めて、いずれの仕事もみな、愉しい、と胸を張っていうことができる。
 では、仕事に於いて「愉しい」とは、如何なる意味合いを持つか。みくらさんさんか思いまするに、──これについてはナポレオン・ヒルがとても良いことをいうている。便乗するわけでも借用するわけでも、模倣するのでもないけれど、『思考は現実化する』を読んで大いに、深く、心から首肯できた点でもあるので、わずかにアレンジして述べてみると──あまり気乗りしない業務であっても熱意と意欲を持って取り組み、収入以上の仕事をしたという実感を抱いて一日を終えられるかどうか、という点に、概ね集約できそうだ。これは業界・職種の別なく共通していえることだろう。
 加えるべき要素があるとすれば、職場の人間関係に恵まれるかどうか、だ。
 この、人間関係に恵まれる、について、私情も交えてお話しておきたい。
 求人広告(フリーペーパー、webどちらでも)に「職場の人間関係良好」とか「和気あいあいとした賑やかな職場です」「風通しのよい、なんでも相談しやすいアットホームな環境です」なんて文言が躍っているのが、散見される。まさかこんな確信犯めいたダマシ文句につられて(鵜呑みにして)応募、入社してしまうようなオッチョコチョイはいないでしょうが、そんな方がいたら是非問うてみたい。──あなたは努力なしにその職場に溶けこみ、労せずして〈良好な人間関係〉の一部になれたのですか、と。答えがイエスならば、あなたはその職場を去ってはいけない。解雇を申し渡されたらプライドを棄て恥も外聞もかなぐり捨てて、泣いて喚いて雇用の継続を嘆願するがよい。それが賢明だ。
 が、上の設問の一つにでも、ノー、と首を横に振らざるを得ないのなら……はじめのうちは(或る程度まで)自分から行動を起こして周囲へ働きかける必要があることを忘れてはならない。相手の状況を慮りながらコミュニケーションを取れ、相手に煙たがられない程度に己をプレゼンしてみてはどうか、報告も相談も質問を怠るな(=報連相を怠るな)、ということである。首を横に振ったあなたはおそらく、あらかじめお膳立てされている……最適化されている職場環境も人間関係もないことを、肌で感じてきているはずだから。
 新しい職場(現場)の上司・先輩諸氏からの熱烈歓迎を期待するのは、筋違いと覚悟しておくのが賢明だ。期待して許されるのはたぶん、歓迎会の席くらいだ。そりゃあ入社当初、配属当初は歓迎されましょう。だってあなたは、海の物とも山の物とも知れぬ未知の存在なのだから。が、そこで働く以上、あなたはお客様ではない。当初の歓迎ムードはやがて消え去る。あなたがその後、その職場でポジションを獲得するのか、必要で信頼される存在となれるのか、そのスタート地点になるのは、上に述べたような、自分からの働きかけに他ならぬのではないか。そんなあなたの姿を見て、それを周囲が認めてはじめて、「仲間」として迎えられ、仕事を任されるようになってゆくのではないか。自分を評価するのは他人なのである。
 文字にするとやたら鹿爪らしく、仰々しく、お堅いハナシとなるが、皆さん多かれ少なかれこうしたパターンを踏襲しているように見える。わが来し方を顧みても、そう思う。けっして独り合点ではあるまい。
 人間関係に恵まれる、とは、受動的な恩恵ではなく、あくまで自分からのアクションを出発点とした、能動的な行動の結果である。──残酷かもしれぬが、事実だ。結局のところ、「仕事の愉しさ」とは日本社会の場合、人間関係に左右されてしまう部分が大きいのは、否めぬ現実、動かし難い事実と申せよう(欧米社会でも人間関係に起因する離職は多いそうだ)。
 自分自身のこれまでを振り返り、点検してみると、人間関係に恵まれた職場での仕事は、肉体的精神的にどんなに大変でも、どんなに辛くても、うん、とても愉しかった、という記憶しかないな。上司・同僚に恵まれた会社での仕事は、「愉しかった」の一言でしか言い表せない。どれだけ歳月が流れようとも、鮮やかな思い出ばかりが残っている。いっしょに働く人は、働く上でとてもたいせつな要素なのだ。まァ、とはいうても喜ばしい記憶としてあるのは、不動産の営業と印刷会社での進行管理、物流現場での労働に限られており、──
 では、キャリアのもうひとつの柱たるコールセンター業に就いていた頃も人に恵まれて楽しく仕事できたかといえば、全く以て然に非ず。むしろ人間関係についてはまるで恵まれなかった所が殆どだ。
 個々の仕事は面白く、それなりにやり甲斐もあったが、いっしょに働く人たちについては離れて何年十何年が経つ現在なお哀れみと侮蔑の思いしか持てずにいる。そこは(コールセンターは)潜在的問題児の集積場所でしかなかった。社会的なモラルが欠落した管理者(堂々たるコンプライアンス違反や不倫の隠蔽に巧みな人、etc.)、オペレーター(肉体的疾患を陰でコソコソ囁き合い笑い合う、業務中でありながら入電の待機時間中はヒマだからと机に突っ伏して熟睡して過ごすいちばんスキル不足知識不足の輩、等)、……書きながら思い出して、疲れがどっと出た。信じられぬかもしれないがこんな人たちが、広い夜空の星の数程もあったのだ。そうしてそんな人たちの常なのか、斯様な連衆に限って上のウケ良くいつの間にか(昇格はせぬまでも)幅を効かせていてね。困ったものではあるけれど、組織での生き残り方、という面では参考すべき点が多かった。人間観察・生態調査の点でもそこは格好のフィールドで、人物素描・小説の登場人物の造形に大きく貢献してくれた。こうした点では、われに益あり、というてよいか。
 このあたりは中葉呆れ気味ながらメモワールで既に(ほぼ実名で)録したから、詳細はそちらへ譲りたい。ただ一言申し上げるなら──あゝ、かれらに情状酌量の余地はないですね。にもかかわらず、「愉しかった」と嘯くところのあるのは、偏に記憶の風化がもたらした弊害であろう。水に流したるわ、という蔑みも、ある。
 嫌みをいうな? なにを仰る、情状酌量の余地はない、の意味をよく噛みしめてから君、詭弁を弄す準備をし給えよ。自分らがしでかした悪戯と巫山戯と犯罪を、よもやお忘れではあるまい?



 歩む道が曲がったりそれたりしていても / 清く正しい行いをする人がある。(箴21:8)



 わたくしの現在を最後に述べれば、──
 ──過去のわたくしを知る人は、現在のわたくしを見て驚かれるかもしれない。仕事への意欲と熱意と勤勉ぶりに、である。
 様々な要因から今年2023/令和5年を、自己変革の一年とするのを年始に誓った。何事もなければ尻すぼみに、習慣化する前に薄れて霧消する意欲となったろう。が、そうはならなかった。実行し始めた矢先に悲痛なる私事が生じたことで、その誓いは有言実行以外の途を絶たれた。斯くして体に鞭打ち心を叱咤して、……プロレタリア小説の題材を幾つも提供できそうな、然れど仲間や上長に恵まれて仕事場へ行くのが楽しみな、肉体を酷使し周囲に気を配る労働現場での日々を送っている。
 世帯主となり一切の責任を負う立場となり、その代わり手はいないこと。過去を悔い、罪を償うこと。信じていただけなくても構わない。この二点ゆえにわたくしは、変わらざるを得なかった。断言できる。図らずも年頭の誓いが外圧内省によって実現・継続する形となったわけだ。
 そうしていま、わたくしは、──邪念を育む暇[イトマ]なく偽りの仮面を被る必要もない、ひたすら体を動かしひたすら汗を流し、夏場は熱中症を恐れて摂取した水分でお腹をタポタポにし、冬は体の芯まで凍らせるような冷気と戦い着ぶくれし、如何に作業を効率化して工程を減らすか知恵を絞り、いつ降りかかるか知れぬ危険を避けるために注意を払うような物流業界の最前線で、朝から晩まで労働に勤しんでいる。生の充実感はかつてよりもいまの方が、より優る。疲弊疲労も比例して、いまの方がより優る。

 繰り返す。「過去の悔恨や後ろめたさへの贖罪」と、「〈家〉を守る責任」を全うすること。これこそが、体を極限まで痛めつけてでも、限界以上に酷使してまでも〈働く〉理由であり、その原動力である。
 「コリントの信徒への手紙 一」でパウロは、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。[神は]あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(10:13)と書く。引用は、新共同訳新約聖書より([]内引用者)。
 耐えられない試練、克服できない試練は与えられない。試練には逃れる道(方法)と克服する力が、セットで用意されている。なんと心強い励ましではないか。聖書の一節である。が、このような文言は、非キリスト者であっても胸のうちに留めてよい。

 時として、気乗りしなくても黙然と仕事に取り組む。それを後押しするのは、「家を守る責任」と「過去の贖罪」に他ならないことは、耳タコかもしれないが大事な部分なので、何度でも述べておく。そこに加えて前述した「コリントの信徒への手紙 一」のパウロの言葉と、ナポレオン・ヒルの本の一節が側面から、責任と贖罪という柱を支えている。
 朝目が覚めると、体の節々が悲鳴をあげて起きあがれない日がある。罹っている白血病の症状の一つに起因するか、全身に強い倦怠感や疲労を覚えて出勤拒否を考える日もある。それでも体に鞭打って気持ちを奮い立たせて、仕事に行く。
 当たり前の行為であるのに、病気を抱えながら出勤して仕事する、という単純な行動が難しい時はある(一年に一度は大きな病気をすると苦笑していた、未だ心に残るあの子も、きっと同じだったのだろう)。しかし、それを押して出勤し、一日の勤めを終えたあとの充実感、胸のうちを充たす喜びは一入だ。家のために流す汗と肉体に残る疲れの、なんと心地よいことか……。◆

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