第3680日目 〈憂い事、イヤなことから逃れて、回復するための一手段。〉 [日々の思い・独り言]

 相変わらずリュックに忍ばせ、またベッド脇に積んで読むことしばしばなのは、憲法の本である。予定にない中断を挟んで読了までほぼ一ヵ月を要した高見勝利・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』(岩波現代文庫)だったが、途中芦部信喜や池上彰など拾い読みしたり、読書ノートを付けていたこともあってか、収録三篇を読み進め、読み終わる毎に憲法についての理解は深まり、自分の憲法観もすこしずつ固まっていった感を強う持っている。
 いま機を見て開くのは、杉原泰雄『憲法読本 第四版』(岩波ジュニア新書)である──09月19日に読み始めてけふ10月03日時点でようやく半分。今月中に読了したいと思うているが、さてどうなることか……。ジュニア新書の一書目ということで正直もうちょっと内容はライトかと思うていたら、とんでもない、舐めてかかると火傷する程の熱量と充実を誇る一冊であった。
 どこかで鬼の笑い声がするようだが、それは無視して先のお話を続ければこれを終えたら池上彰が書いた憲法の本二冊を読み上げ、流し読み程度で済ませていた背後に積み重ねた何冊かの憲法関連書(明治憲法と現行憲法いずれも含む。成立過程と両憲法の[当時]の解説書目が柱となる)を読み倒してゆく予定。これは流石に来年に終える作業となろうけれど、まぁわたくしの通常の読書ペースを思えば止むなし、か。
 されど、一つのジャンルを集中的に読みこみ、短期間の内に理解・知識を深めて血肉とし、自分の意見を表すのは自分には不向きである。同じような人は多いはずだ。読書して文書を書く者皆が皆、立花隆や小林よしのりのようではないのだ。そうなるだけの──継続的な粘り強さと探究心と根気を欠くわたくしなのである。
 そんな人物が斯様な一点集中型の読書に倦いたとき、採ってきた道は二つ。つまり、──
 パターン① 箸休めに手を伸ばしたジャンルに横滑りして、そのまま戻ってこなかった。
 パターン② 特に他を読むでもなくただ一息ついて休んでいたら、もう戻る意欲を失っていた。
──である。
 どちらかに分岐するのがほぼ常で、時間があいたにしても戻ってきて読書を再開、予定していた分を読破したというのは、実は、新潮文庫版太宰治作品集くらいしか思い出せない。いやはや、なんとも。
 そんな危険をいま、強く感じている。憲法の本を何冊か(杉原泰雄『憲法読本 第四版』が実質三冊目となる)読んでいて、ちょっと中弛みというか、惰性になってきてしまっているように感じているのだ。……これはアカン前兆やなぁ。ムカシの轍を、懲りずにまた踏みそうや……。
 そんな危険をいま、痛烈に感じているにもかかわらず、憲法の本を読む一方で愉しんでいるジャンルがある。それが、小説、なのだ。

 今年はいろいろなことがあって、そのせいでか、フィクションの世界に遊ぶのが空しく思えた。令和5/2023年に読んだ本は数あれど、つい先日(二週間くらい前)までは橘外男『蒲団』(中公文庫)だけだったのだ。読んだ小説というのは。しかも、元日!!
 二冊目の小説との出会い──先月9月中葉、新刊書店は文庫売り場にて──は偶然だった。特になにを買うでもなく、日課の新刊チェック及び立ち読み目的でふらり立ち寄った書店の平台に積まれてあったのを見附けて、購い求めたのである。裏表紙の粗筋(これって実際はナンていうんでしょうね)に目を通し、パラパラ目繰ってそのまま、殆ど躊躇いなく他と一緒にレジへ運んだのだ。原田ひ香『古本食堂』(ハルキ文庫)が件の小説である。
 ゆっくり、時間を忘れて読書を愉しんだ。一日一篇、惜しむようにしてページを繰った。帰りの通勤電車のなかでしか開けなかったけれど、却ってそれが良かったみたい。知らず肉体の内に溜まった疲れが慰撫されてゆくのを感じたのだ。『古本食堂』は当時に於けるわたくしの、一服の清涼剤となったのだ(紀田順一郎が『書斎生活術』[双葉社 FUTABA BOOKS]他でたびたび言及する、報知新聞の連載小説『富士に立つ影』[白井喬二]を帰宅するなり読み耽って会社での暗闘が引き起こすササクレだった気持ちを鎮めるサラリーマンの如く)。
 小説という代物は、【逃避】と【回復】をもたらす慰めのツールとなる。『古本食堂』を刺身のツマのような扱いでも敢えて持ち出したのは、それをお伝えしたかったからに他ならない。
 この数週間というもの、憂い事や悲嘆するようなことばかり続いて、クサクサしている。ヘトヘトになっている。それらすべて、原則独りで解決しなくてはならない。そんなときに読んだ『古本食堂』は、沈むばかりの荒ぶる気持を一刻と雖も宥めてくれたのだった。

 これがその後なにをもたらしたか、というと、買ったきり未読で積みあげられていた小説に食指を伸ばして、憲法の本と並行して読み始めたのである。偶々揃いを見附けたからとはいえ、ミステリー文学資料館編『古書ミステリー倶楽部』(全3巻 光文社文庫)を次に選んだのは、古本つながりのゆえもあったか。
 表題通り、古書を題材にしたミステリのアンソロジーなのだが、頗る付きで面白かった。なにしろ、──好きなジャンルながら著しく偏りのある者には──その過半が諸読の作品なのだ。これだけでもう、ワクワクドキドキしてくるではないか。
 第一集に収められた12人12作のうち、目次に、マル印──良かった/好かった印を付けたのは、戸板康二「はんにん」、早見裕司「終夜図書館」、石沢英太郎「献本」の三作。石沢と早見は(おそらく)完全に初読の作家、戸板は中村雅楽物以外のミステリ短編は初めて読む。後味の苦いもの、ホノボノした読後感のもの、しばらくは熱に浮かされた気分でいたもの、様々であるが、どれも存分に愉しめた、騙り/語りの上手さに唸ってしまった作品である。
 第二集は読み始めて間もないから、マル印を付けたのは坂口安吾「アンゴウ」一作だけ。このあと幾つのマル印が目次に付くか、いまから楽しみでならない。終えてみたら、安吾の小説にしかマル印が付いていませんでした、なんて事態にはなりませんように。
 とはいえ実は、そうであっても構わない、というのが相反する本音でもあるのだ。すくなくとも、鬱積してゆく憂い事、イヤなことを刹那忘れて、フィクションの、ミステリの世界に遊び、愉しむ日々を過ごせるのは事実だろうから。
 前述のように、本アンソロジーは全3巻より成る。最後の第三集を終えたらば、ではその次は……さて、なにを読みましょうかね。
 買ったままで未読の小説は、文庫、新書、単行本、幾らでもある。全作読破を目指したものの中途で読むのを止めているドストエフスキー(『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』、そうして新潮社版全集)と、同じく文庫された全作品の読破を志してポアロ物を過半済ませたところで中断したアガサ・クリスティが、視界の隅っこでこちらを窺っている。新しく翻訳が出るたび買いこむのだが読む時間が取れぬまま現在に至っているウッドハウスとスティーヴン・キングも、松本清張も藤沢周平も久生十蘭も、未読の状態で床に積まれたり、どこかに仕舞いこまれている。原田ひ香や原田マハ或いは江國香織のように単発で、作品が気に入って購入した作品も、ある。
 当分、新しく購入したりする必要はない。が、書店での出会いは一期一会だ。新聞の新刊広告には否応なく目が向く。翻訳すればこれは、未読の小説は今後もどんどん順調に増えてゆく、という意味である。だって、面白くて、愉しいのが小説だから。口直し、逃避、回復、気分転換。流石に憲法や政治の本からは斯様な効能、得られません。

 憲法関係の本と小説の読書が(いまのところ)両立しているのは、まったく性質の違うジャンルだからなのでしょうか。地続きではなく、或る程度の距離感があることで、ちょうどよい頭の切替ができているのかしれない、と思うのです……。◆

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