第2542日目 〈『ザ・ライジング』第5章 2/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――いま、上野はロフトからぶらさがったロープを眺めている。ロープの先端はちょうど頭をくぐらせられるぐらいの大きさの輪っかになっており、それはとても非現実的な光景と映った。小説や映画ではお馴染みの絞首刑用のロープだが、まさかそれを自分が、自分のために作るとは思わなんだ。こんなのを使わずに済むのなら、それに越したことはない。考えてみれば、俺だって死ぬ必要はないのかもしれない。他にいくらでも罪を償う方法はあるはずだ。学園からは放り出され、かなえとの関係も終わるだろう。世間から冷たい視線を浴びて職を転々とすることになるかもしれない。でもな、それぐらいどうってことないだろう。深町の心に負わせた傷の深さを思えば、この身に下される処罰などまだ甘っちょろいもんだ。
 上野はロープを凝視した。風もないのにロープが、右へ左へ揺れている。おいで、おいで、と手招きしているようだ。
 上野は腰をあげて台所へ足を向けた。なんだか無性に水が飲みたくてたまらなかった。アルコールの誘惑が頭を過ぎったが、こんな状況で飲み始めたら、ありったけの酒を飲み干すまでやめられはしないだろう。そうこうしているうちに夜は明け、クリスマス・イヴがやってくる。つまり、自殺の決意は徐々に薄れ、朝日と共に消え果てる。まるで吸血鬼みたいじゃないか。それはさておき、明日から死ぬまでの日、俺はびくびくしながら生きてゆくことになるだろう。警察の車を見ては立ちすくみ、警官を見るたびに電柱の陰に身を忍ばせる。なによりも深町と部活のたびに(仮にどちらかが辞めたとしても、二人が学園にある限り)顔を合わせることで味わわなくてはならぬ居心地の悪さと後ろめたさと罪悪感から逃げられはしない。その都度、心を深く抉られて苦しむ羽目になる。もしかすると、あいつらは……池本と赤塚は俺のそんな姿を見たくて、あんな交換条件を付けたのかもしれないな、と上野は思った。それに、おお、俺はいったいどんな面曝してかなえと付き合っていけばいいんだ。ケ・セラ・セラ、と笑い飛ばせるものでもあるまいし。
 ステンレスのシンクに手をかけ、水切りからガラスのコップを持ちあげ、水道の蛇口をひねった。冷水が勢いよくあふれ、コップを達まち満たした。これが生涯最後の水飲みだ。上野は一気にあおるとコップをそのままシンクに置いた。カツンという鋭い音がした。口許をセーターの袖で拭うと、彼は回れ右をして部屋へ戻った。ロフトから垂らしてあるロープを手の甲で脇へ寄せた。ロープはゆらゆらとしばらく揺れ続けた。ベッドの宮台に置いた子機に目が留まった。
 ――かなえに連絡しておくかな。
 恋人にはなにもいわないつもりだった。なにもいわないことが、最良のお別れの方法だと思っていたからだ。しかし、と彼は考え直した。あまりにもひどい別れ方じゃないか、それは。あの世で再会した瞬間、横っ面を張り飛ばされるのが関の山だ。加えて、遺書を残さない以上、誰かに伝えたくてたまらないという欲求が、頭をもたげて鎮まってくれそうもない。彼にとって、胸につかえている重みを払いのけられるのは、大河内かなえを除いて他にはいなかった。それに……彼は思わず苦笑した……生涯の最後に恋人の声を聞きたい。上野は子機を摑むと、指がすっかり覚えてしまっているかなえの自宅の番号を、ゆっくりと押した。□

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