第2557日目 〈『ザ・ライジング』第5章 17/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 母の運転してきてくれた車が停まった。若山牧水像のある公園の前だった。彩織は「待ってて!」といい残して降りると、散在する水溜まりに街灯の明かりが映る道路を走り出した。二〇メートルほど前方に防波堤が横たわっている。手前の派出所に電気が灯っていた。誰かが詰めているのだ。――誰やろか。ああ、どうか田部井さんでありますように。田部井さんならのののお父さんも知っている、子供の頃からののを知っている。きっと二つ返事で探してくれるに違いない。彩織はおもむろに立ち止まると、勢いよく扉を開けた。途端、田部井巡査と視線が合った。彼は目をぱちくりさせて、頬を上気させた彩織を見ていた。ぽっちゃりした体を椅子から浮かせて中へ招き入れようとする田部井を制し、彩織は「ののが行方不明やねん。きっとそこの海におるんや。はよ探してえな!」と促した。そして派出所を出て、防波堤へ向かった。後ろから沼津署へ連絡を入れている田部井の声が聞こえた。
 彩織は防波堤の階段を一段おきに駆けのぼった。潮の匂いを含んだべとっとする風が襲いかかり、刹那、たたらを踏んだものの、辛うじてその場に留まった。馴れてしまえば大したものではない。いつもと同じではないか。真夜中だから普段は感じない恐怖が心に巣喰うのだ。闇の色をして彼方まで広がる、不気味な波音を轟かせる駿河湾へ目をやりながら、彩織は怖じ気づきそうになる自分にそういい聞かせた。だってののはもっと怖い思いをしているんやから。
 風に乱れて顔にかかる髪をぞんざいに払いのけ、ぐるりと四囲を見渡してみた。遊歩道の左右に目を凝らすが人っ子一人見えない。海上と砂浜を睨視するも生きとし生けるものの姿はなかった。のの、と彩織は口の中で呟いた。どこへ行っちゃったんや……。
 ふと耳をすますと、世界のずっと向こう側から混声合唱の厳かな歌声が聞こえてくる。彩織には聞き覚えのある歌詞だった。昨年の合唱コンクールで歌ったベンジャミン・ブリテンの《五つの花の歌》という合唱曲、その四曲目「月見草」だった。その可憐な花は夜露に濡れて、世捨て人のように光を避け、その美しい花を夜へ無駄に捧げる。そんな意味の歌詞だ。なんだってこんなときにこんな歌なんや……まるで今夜ののののことを歌っているみたい。もっとも、誰のであれ《レクイエム》なんて聴こえてこんだけマシかもな。
 「ののっ!」海へ叫んだ。吹きつける風が言葉を散り散りにしてしまう。それにもめげず、彩織は口のまわりを両掌で囲って、また叫んだ。「ののーっ!!」
 応える声はなかった。防波堤の突端――今年の夏、希美と二人で坐りこんで夕暮れの海を眺めながら、白井先生に告白してきたら、とけしかけてみた突端に掌をついて、彩織は息を呑んだ。すべてを呑みこんでしまうような闇を従えた海が、目の前に広がっている。知らず涙がこぼれて手の甲へ落ちた。のの……どこへ行っちゃったんや。ずっと一緒って約束したやないの。なのにウチを残してどこかへ行っちゃうなんて……。この幼馴染みの彩織ン様との約束を破るなんて、なに考えとんのや。もう、のののアホッタレ。
 そのときだった、彩織の背後から自分を呼ぶ声に気づいたのは。
 のの?
 ――いや、まさか。希美が後ろからひょっこり姿を現そうはずのないことは、彩織はじゅうぶん過ぎるほどわかっていた。
 彩織はゆっくり振り向いた。そこには、胸の前で手袋もしていない両手を合わせて自分を見つめている美緒が、うつろな表情で立っていた。「希美ちゃんは……」という美緒の眼から大粒の涙が頬を伝い落ちた。
 それを見咎めて彩織はその肩を摑んで揺さぶった。
 「ののはまだ死んでない! 泣くんだったら死体見てからにせいっ!」
 目を見開いて呆然と彩織を見ていた美緒が、ややあってこっくりと頷いた。彩織は少し顔をやわらげて美緒の肩を叩くと、「ごめんね。大声出したりして」と謝った。
 頭を振った美緒の視線が一点を結んで固まっている。その様子に不審な目を向け、彩織は美緒の視線の先を追った。自転車が倒れている。見覚えがあった。「ふーちゃんのだ……」と美緒が呟くのを聞いて、彩織はあたりを改めて眺め渡した。
 見計らっていたように、砂浜から希美の名前を呼ぶ藤葉の声が聞こえてきた。彩織は美緒と顔を見合わせると互いに手を取って、防波堤から砂浜へ降りられるなだらかなスロープへ足を向けた。
 かくして〈旅の仲間〉は揃った。あと欠けているのは希美だけだった。□

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