第3638日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉06/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←NOW!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
 「総論『奈良朝歌風と平安朝歌風』」で既に見、察すること可能であるように、朔太郎は『古今集』収載歌を、就中四季歌を一刀両断、一蹴する。その文章に曰く、──駄歌、低能歌、愚劣もしくは凡庸の歌の続出、倦怠して読むに耐えず、小学生が子供らしい趣向・機智をこらしてこしらえた自由詩にも劣る(P201-2)などなど、イヤ、手厳しい、手厳しい。
 ダメ押しは、この一節か。曰く、──

 もっと辛辣に批判すれば、万葉及び八代勅撰集の一切を含めた中で、『古今集』が一番駄目な歌集であるか知れない。駄目と言う意味は、詩歌の本質である尖端的の刺戟がなくして、却って散文の特色たる平明雅純を主脈にした、中庸的の生ぬるい似而非韻文であるからだ。……詩にしてその特色が無かったら取柄はない。刺戟のない歌集、中庸穏和の催眠的歌集と言う点で、『古今集』は確かに代表的の名歌集(?)であろう。(P204)

──と。
 斯様に季歌は切り棄てても翻って恋歌になると、かれの評価は一転する。曰く、「赤裸々の心緒を叫び、真の高調した人間的情熱を歌って居る」(P205)と。更に、「『古今集』は全体として見れば駄劣なれども恋歌はこの集の生命であり、(『万葉集』からは縁遠い)特殊で優美なスタイルも相俟って万葉以後の新しい詩的価値を創造した点を以て、この恋歌の部門のみで『万葉集』と相殺することができる」(P205)、という。
 『古今集』以後の勅撰集、私家集、歌合は、人工美と技巧の極北というてよい『新古今集』を例外として、駄劣低能凡庸の『古今集』を範とし、聖典と崇めて、ひたすらその模倣にこれ努めた所産である、と、言外に責めている。しつこいようだが、恋歌のみが『古今集』に生彩を与えており、特記さるべき点であろう、と朔太郎の主張である。
 章末補記中で、香川景樹の『古今集』讚を呵々した朔太郎。江戸時代後期を代表する歌人の1人、景樹は桂園派の頭目だが、この派の旨とする歌風は『古今集』に範を仰ぎ、平易を尊び声調を重んじた(調べの説)。
 香川景樹は自らの詠歌を以て平明穏雅の風を説いた。そうして己の作物ばかりかその歌風を慕う桂園派の門人や後続の歌人たちの詠も含めて、調子の低い散文的なレヴェルへ貶めた。それというのも、成る程、景樹が駄劣低能凡庸の『古今集』を崇めた結果である、と云々。景樹が『古今集』を讃えた「自然の花」なる言葉は、こんにちの常識より見れば寧ろ『万葉集』へ帰せられるべきだろう、とも。イヤ、此方もまた容赦がない。
 ──本章本文の結びである。曰く、──

 故に要するに『古今集』は、日本三大歌集の中で最も下位の歌集である。ただそれが奈良朝以来の新歌風を創造し、爾後の連綿たる亜流を率いて、長く千載の規範を垂れた一事でのみ、正に『万葉集』と相殺さるべき権威であろう。(P206)

──と。「でのみ」なのである。朔太郎の『古今集』観、『古今集』評、ここに極まれり、ここに尽きる、というてよい。つまり歴史的価値のみで生き残っている歌集であり、けっして文学的価値でそうなったのではない、と。
 さて、『古今集』について、ここに極まりここに尽きる表現を残したもう1人が、正岡子規であった。『歌よみに与ふる書』は明治31(1898)年2月11日から同年3月4日まで、新聞「日本」へ10回にわたって連載後、明治35(1902)年12月に吉川弘文館から刊行された『日本叢書 子規随筆続編』へ収められた。『古今集』を筆頭に伝統和歌、旧派歌人を攻撃して、『万葉集』に倣い、範とした鎌倉三代将軍実朝(『金槐和歌集』)を賞揚した。──念のため付け加えれば、萩原朔太郎『恋愛名歌集』は内容すべて書き下ろしで、昭和6(1931)年5月、第一書房より刊行された。
 果たして──朔太郎の『古今集』否定(除恋歌)は果たして、それを独り読み独り考えて導き出された独りの評か。その出発点或いはその途上子規に影響されたり支配されたり、即ち同調・歩を一にすること、なかったであろうか。
 子規の発言から30年以上を経ての上梓とはいえ、その頃子規の発言はどの程度にまで歌壇詩壇に影響を及ぼしていたか。或いは過去の遺物として忘れられていたか。が、『古今集』否定が時代の常識、風潮となって定着して人々の意識の襞の奥にまで染みこんでいたならば、朔太郎も時代の子として制限された視野しか持ち得なかった人である、と申せよう。
 子規以後、戦前までの『古今集』評の変遷を調査して集成してみたらば、案外と面白いものが出来上がりそうだ。なにか興味深い、裏の文学史が浮かびあがる予感もしている。
 菜緒、『古今集』恋歌を良しとする朔太郎の態度や理由はわかったけれど、例歌を何首か取り挙げて、どこがどういう様に良いのか、自分は好むのか、この総論で述べてくれたらよかったなぁ、と残念に思うている。もっとも、『古今集』選歌の章を別に設けてあるのでそちらを読め、ということであろうとは理解している。──のだが、ね。□

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