第3640日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉08/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←NOW!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


  七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
 歌史に3つの峰あり。1つは『万葉集』、1つはいま近代、残る1つは間の『新古今集』である。本章で朔太郎は、「詩が栄えるのは、時代の黎明期か転換期で、万物が正に流動変化して居る時刻である」(P220)と説明する。
 1つのジャンルに黎明期が2度訪れるのは滅多にないことだから、外国文化(とはつまり、支那の詩や思想である)を受容し、国体を明らかにしてゆく前進発展の気風を孕んだ万葉一書のみを以てそれにあて、『新古今』と近代期を以て峰とし、転換期というは即ち共に日本史上の一大政変を経験した時代を背景とし、それを経験した歌人たちが優れたる詩才を発揮したがゆえであった。
 正直なところ、絶讃という程ではないが、朔太郎の『新古今集』評価の高いことに少しびっくりしている。朔太郎以前の詩歌の実作者、その詠、その論に、『新古今集』を深心から評価し、その史的意義、歌風や特質を誤ることなく指摘した者あることは、折口信夫/釈迢空や北原白秋あたりを例外として他にあるを知らぬからだ。同時代に於いても状況はそれ程変わらぬのではないか。逆に学界は近世末までの新古今不遇の反動もあってか、ポツポツと、けっして『新古今集』の他より見劣りするなどなく否むしろ……という声も出始めていた。本章の最後の方で朔太郎が挙げた佐佐木信綱は、当時を代表する『新古今集』評価の国文学者である。
 朔太郎の『新古今集』評を抜き書きする。曰く、──

 実に「新古今集」の特色は、その繊麗なる技巧主義の内部において、純真な詩的精神を強く掲げて居る所にある。そして実にまた、これが「新古今集」の芸術的生命なのだ。(P215-6)

 一言にして言えば新古今の歌は、華やかにして悩ましく、技巧的であって哀傷深く、耽美的であって厭世の影が濃い。それは頽廃的の芸術であり、どこか化粧された屍骸の臭気を感じさせる。(P217)

──と。
 化粧された屍骸の臭気! 人工的なるがゆえに一皮剥げば露わになる生命力の欠如!! 『万葉集』や三代集あたりまでは無縁に等しかった、想像と技巧と婉曲をこらして詠まれたデカダンの空気濃厚な歌の数々……象徴主義、神秘主義を旨とした芸術詩派、朔太郎の目を通すと『新古今和歌集』は斯く映る歌集だったようである。──わたくしが朔太郎の詩にいい知れぬ愛着や憧憬を覚えるのは、こんな朔太郎の新古今感がかれの詩に影を落としているからかもしれない。
 〆に、かれの『万葉集』と新古今を対比しての言を引く。ただ、その前に発言の前提を。
 曰く、『万葉集』と『新古今集』は歌史を両断する2つの対蹠的芸術である。『万葉集』は荘重剛健な建築美を大成し、その詩風は直情主義で素朴自然、男性美の典型的完成であり、男性を以て代表的歌人とする、と。一方『新古今集』は、繊麗巧微な織物美を完成し、その詩風は技巧主義的で意匠婉曲、女性美の洗練した極致であり、女性を以て主題的歌人とする云々(P215)。
 上を踏まえて朔太郎の言を引いて曰く、──

 「万葉集」と「新古今集」とは、かくの如く二つの矛盾した対蹠であるが、共にその独自の道を行き尽くした、両極的「完成の歌集」として一致して居る。……のみならずまた二つの歌集は、芸術のある本質的な特色で符合して居る。
 即ち「万葉集」と「新古今集」とは、古典中での最も情熱的な歌集であり、共に緊張した詩情によって、ある調子の高い叙情詩を歌って居る。もちろんその詩操や情熱は万葉において甚だしく、男性的爆発性で、新古今において甚だしく女性的沈鬱性であるとは言え、その歌としての調子が高く、情熱の吐息が深いことは一なのである。(P215)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 この一文を以て『新古今集』を朔太郎が評価する所以である、と申しあげてよいだろう。

※総論メモ爰に了んぬ。朔太郎の詩人の眼を通した『新古今集』評(観)についてはマダ2つばかり云いたいことありと雖もまずは以上でよいか。次から各集選歌の章。□

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