第3643日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉11/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←FINISHED!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)←FINISHED!
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)←FINISHED!
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)←NOW!
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
 いや、待って。六代集、六代歌集、ってなに?
 答;『古今集』と『新古今集』の間に成立した6つの勅撰和歌集である。成立順に、──
 2 『後撰和歌集』 天暦10/956年前後に成立か。
 3 『拾遺和歌集』 寛弘2-4/1005-7年頃成立か。
 4 『後拾遺和歌集』 応徳3/1086年成立。
 5 『金葉和歌集』 三奏本:大治2/1127年成立。
 6 『詞花和歌集』 久安6/1150-仁平2/1152年頃成立か。
 7 『千載和歌集』 文治4/1188年成立。
──となる。下命者と撰者は省いた。自分で調べてケロ。
 これら6つの歌集の前後に『古今集』と『新古今集』を置いて八代集、更に『古今集』『後撰集』『拾遺集』を特に三代集、と呼ぶ。但し一般的に『後撰集』から『千載集』までを指して朔太郎の如く六代歌集、六代集と称したりはしない。あくまで『恋愛名歌集』に於ける便宜的な称と考えた方がよい。
 ちなみに9番目の勅撰集たる『新勅撰和歌集』(文暦2/1235年成立)から21番目、即ち最後の『新続古今和歌集』(永享11/1430年成立)までを十三代集、『古今集』から『新続古今集』まで21の勅撰集を指して二十一代集、と呼ぶ。
 なお、勅撰和歌集は原則20巻構成だが、『金葉集』と『詞花集』は例外で10巻構成。編纂期が〈乱世〉に重なったなどの原因、理由が考えられる。
 その『金葉集』は複雑な成立過程を歩んだ勅撰集の1つで、初度本、二度本、三奏本、の3種類が存在、こんにちに伝わってそれぞれ翻刻されている。が、朔太郎が読んだ『金葉集』が、いずれであったかは未詳。わたくし個人は三奏本が最もまとまりが良く、二度本に較べても優れた点が幾つもある、と思うている。『金葉集』について語る際は三奏本を旨とするのは、岩波文庫本で三奏本を読んで斯く実感したこと、実際に下命者たる白河上皇が御嘉納せられたことでこれが勅撰集として数うべき本である史実と史的意義、加えて若かりし頃に読み耽った思い入れと愛着から、だ。
 いったい朔太郎は六代集をどう評価していただろうか? 既に読んだ「総論(六代集と歌道盛衰史概観)」に曰く、──

 したがって六代集の道程は、谷の低所から山の高所へ登る坂道であり、自然にまたその選集価値も、後期の者になるほど高まって来る。即ち「後撰集」最も平凡無価値で有り、「拾遺集」、「後拾遺集」等やや優り、「金葉集」、「詞花集」、「千載集」の順に生彩を発揮し来たって、最後に『新古今集』に至って絶頂に達する。(P210)

──と。
 『新古今集』についての言葉はまだ首肯できるが、果たして『後撰集』に関しては何事ぞ。『後撰集』の、前後の勅撰集と最も異彩を放つは、物語めいた長文の詞書だろう。『後撰集』はちょうど日記や随筆、物語/小説といった散文学が隆盛の頂点を目指し、迫ろうとしていた時期に編纂された。別のいい方をすれば、平仮名を用いた散文が自在に書かれ、その表現領域を拡大しつつある時期だった。それゆえもあって『後撰集』の詞書はそのすべてではないにしろ凝縮された物語の様相を呈し、また必然的にそうした詞書を持つ歌も、生活のなかで詠まれたというよりはあたかも物語のなかの一首、という趣を醸すようになった。
 なお一説でしかないが、『後撰集』には未定稿説がある。これについては別途用意している『後撰集』のエッセイで触れるつもりだ。
 ここでいうておかねばならぬは、ただ一つ。わたくしは朔太郎が「平凡無価値」と一刀両断する『後撰集』を偏愛して30年近くを過ごしてきたことだ。きっと未来もそれは変わらない。だから、上述のエッセイがある。
 朔太郎は「六代集」のパートで計40首を選歌した。それぞれでは、『後撰集』全1426首の内8首を、『拾遺集』全1351首の内11首を、『後拾遺集』全1220首の内5首を、『金葉集』(三奏本)全648首の内3首を、『詞花集』全411首の内8首を、『千載集』全1288首の内5首を、という具合だ。個々の歌には長短濃淡ありと雖も評語が付された。
 評語の長いものは大抵、音律の話、分析が主となっていて、逆に短いものはほぼ例外なく選者の感想に留まる。この時代は、朔太郎ばかりでなく、かれの後輩歌人三好達治の詩論書(『詩を読む人のために』)他を読んでいると時折、こうした韻律を読解する一文に行き当たる。それらを読んでいるとかれらの時代は、こうした日本語の調べ(韻律)を検証しながら、日本人の背中に張りついたゴーストたる伝統詩型を尊重しつつも古典時代の類型から脱却せんと新しい歌風、新しい詩風の創造を使命のように思うて活動していたように思われる。
 が、却ってその熱意が時として、秀歌に凡庸な解釈や感想を持たせたりなどして鑑賞眼を曇らせてしまったように見える。たとえば、──

 あらざらむこの世の外の思ひ出に 今一度の逢ふこともがな
(P108 和泉式部 後拾遺集 巻十三恋三 763)

 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき
(P101 参議等 後撰集 巻九恋一 578)

──などである。朔太郎がなんというたか、紹介引用はしない、読んでほしい。
 ここから不遜な話になる。もしわたくしが各週からの選歌数を同じにして新たに選歌したとしたら、その選んだ歌、朔太郎との重複は殆どないだろう。選ぶ人が違えば……というのみではない、好みの問題と思い入れ、愛着の深さが斯く為さしめるのである。
 本稿(実はメモのつもりで書き始め、この段階に至るもこれはメモである、と思うておる)は市役所裏のスターバックスで書いている。つまり出先で書いているため、手持ちの本は『恋愛名歌集』だけで他に参照すべき本のない状況で書いているため、具体的に朔太郎セレクトの短歌とわたくしのそれとではどれだけ重複しているのかわかりかねるのだけれど、記憶だけを頼りにしていえば精々が1/5程度ではないか。上に挙げた和泉式部と参議等の他は、──

 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
(P103 蝉丸 後撰集 巻十五雑一 1090)

 今はたゞ思ひ絶えなむとばかりを 人伝てならで言ふよしもがな
(P107 左京大夫道雅 後拾遺集 巻十三恋三 750)

 長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝は物をこそ思へ
(P115 待賢門院堀河 千載集 巻十三恋三 802)

──が重複しているのは確かだ。『後拾遺集』から選ばれて『百人一首』に入る清原元輔「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ 末の松山浪こさじとは」(巻十四恋四770 百人42)の如くかつては良いと思うて愛撫した歌も『恋愛名歌集』には載るけれど、斜線を引くことはなかった。そうした歌々は、各勅撰和歌集から歳月を経た現在ではどれも次点でしかない。
 しかしまぁ、ここへ選ばれた歌と『百人一首』の重なりぶりよ。半分に迫る勢いだ。和歌、短歌が日本人の背中へ張りついたゴーストならばさしずめ『百人一首』は、日本人のDNAの奥深くへ刻みこまれた民族の魂といえる。呪縛、といい換えても良いか。
 六代集のパートには全部で40首を朔太郎は選んだ。そこから自分、わたくしが何首に斜線を引き、丸印や二重丸を付けたか、備忘目的で記す。──『後撰集』8首の内1首、『拾遺集』11首の内1首、『後拾遺集』5首の内1首、『詞花集』8首の内1首、『千載集』5首の内1首、以上計5首が、「六代歌集」の章からわたくしがなんらかの形で良しと思い共鳴などした歌である。おわかりのように『金葉集』3首からはゼロ、だ。斜線に加えて丸印、二重丸を付けたのは、上にも引いた待賢門院堀河の一首のみ。
 ──もっと若いときに朔太郎のこの本を読んでいたらばまた、様々な点で受け止め方など変わっていたのかもしれない。変わっていたといえば朔太郎についてもいえようか。というのも、本書『恋愛名歌集』が出版された昭和6(1931)年は朔太郎にとって早い晩年の始まりでもあったからだ。当時朔太郎44歳、明治19(1886)年11月1日生、昭和17(1942)年5月11日歿。かれが戦後まで生き長らえて本書の改訂など企むことあったならば、選載される歌の差し替えや評言の書き改めはじゅうぶんあり得ただろう。朔太郎も変わっていたか、とはその意味である。
 然れど早すぎる晩年の入り口の頃に、詩ではなく短歌という伝統詩についての入門書、評論書を残してくれた朔太郎にひたすら感謝、である。

 ※残すは『新古今集』選歌の章のみ。選歌されたるは計121首。63ページ(P118-171)に及ぶ。この週末で読了を目指す。
 でもわたくしがいちばん好きな歌の1つで、高校古典の教科書に載って古典に魅せられるきっかけとなった、俊成卿女「風かよふ寝覚めの袖の花の香に かをる枕の春の夜の夢」(巻二春下112)が選ばれていないのは一寸残念。これも、詩人とわたくしの感性の違いですね。□

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