第3653日目 〈”はじめて”はすんなりゆくものにあらず。──仏教美術の読書の場合。〉 [日々の思い・独り言]

 やはり”はじめて”はむずかしい。はじめての分野の本は終わるまでに時間がかかる。その分野独特の専門用語や文章表現になかなか馴染めないからだ。立花隆や佐藤優のように、曲がりなりにも〈知の巨人〉と呼ばれる人たちならばそのあたり、なんの苦もなくクリアできるのだろうけれど、凡人の極みたるわたくしには到底できぬ芸当だ。
 殊、はじめての分野での最初の一冊が寝る前の、こま切れ時間を用いた読書であるならば菜緒更である。まったくの五里霧中状態からどうにか抜け出せるようになるのは、読書も中盤に差しかかる時分のことであろう。否、読書中にそんな状態になれれば万々歳というべきか。
 かつて岩波ジュニア新書から出ていた水野敬三郎『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』(1985/02)をいま読んでいるのだけれど、これが存外にカロリーたっぷりの内容で、仏像の名称にまず難儀する。続けて細部の説明を、図版と見比べながら何遍も読み返す。そうやってようやく合点して(した、と思うて)、先へ進む。だから毎晩のページを繰る手も鈍重になりがちで、先へ進むスピードもあまり速くならない。
 とはいえ本書の舞台は、奈良の古寺、京都の古寺。そうして扱うのは、そこに祀られた仏像だ。目次を眺めていると、その多くが旅行で訪れたことのある古刹で、いちどはその前に立ってまじまじと見ている像なのだ(連れていってくれた両親に感謝!)。法隆寺の救世観音、中宮寺の弥勒菩薩、室生寺の十一面観音菩薩立像、東大寺の大仏、平等院の六丈阿弥陀如来座像……。どれも前面細部の造作は忘れているが、前に立ったとき抱いた気持は、やや色褪せつつもいまなおどうにか思い出すことができている。一方でわたくしは読みながら、その朧な記憶を補強する作業も並行している──だってお寺のなか、お堂のなかだとどれだけ目を凝らしても、仏像の細部なんて視認できないもん。況んや背後左右や光背をや。
 斯様なことはありと雖も、仏教美術について読む(たぶん)はじめての本がこれで良かった、とは思うている。
 図版の見にくさは、モノクロゆえの限界といえるだろう。さりながら文章を、うわべを撫でる読み方ではなく一文一文を丁寧に読んでゆけば、その不満は或る程度まで解消されるはずだ。その文章も平易な言葉遣いで丹念に綴られており、丁寧にその特徴や魅力、他との近しさ或いは違いを説き、読み進めるにあたって読者の興味をより専門的な──もうちょっと詳しい、という意味合いだけれど──書物へ導き、また実際に現地に足を運んでこの目で見てみたいという気持をかきたててくれる。かつて奈良に旅行する際に読んだ和辻哲郎『古寺巡礼』(改訂版/岩波文庫。初版/ちくま学芸文庫)や亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(新潮文庫)と同じく、わたくしにはこの分野の標準的読み物と思える。
 ……いまの時点では(2023年06月12日 17時40分現在)絵に描いた餅でしかないが、『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』を読み終えたらばその後しばらくの間、未読のまま架蔵している古寺巡礼や仏像めぐり、名刹の本を読んでみようか、なんて企んで、それが現実になるのを愉しみにしている。
 モ一つ、序に申せば、願望はありながら久しく訪れていない(コロナばかりでなく、まァいろいろありましたから)古都の客になって、本で紹介されていた仏像・お気に入りの仏像との対面、再会を望んでいる。あー、早くそんな日が来ないかなぁ。◆

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