第3644日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉12/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←FINISHED!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)←FINISHED!
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)←FINISHED!
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)←FINISHED!
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)←NOW!


 十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)
 『新古今集』全1979首(岩波文庫[佐佐木信綱校訂1929/07、1959/02改訂 底本;穂久爾文庫蔵鎌倉時代古写本]に拠る)から朔太郎が選歌したのは121首。1/16程度である。かつて自分が『新古今集』を読んで斜線を引いた歌と重複するのは、半分に満つか満たぬか、という感じ。
 それでも『古今集』や「六代集」以上に、『新古今集』の章には深く興味を覚えるところが少なくなかった。と或る歌人の遇し方について、朔太郎といまの自分の扱いは似ているな、と思うたのだ。その歌人を、藤原定家という。
 藤原定家は平安末期から鎌倉初期の公卿で、『千載集』選者藤原俊成の息子。歌人、歌学者として当代随一の存在として、後鳥羽上皇と並んで新古今歌壇の頂点にあり、新古今調と呼ばれる技巧と歌風を確立した。『新古今和歌集』選者の一人である。〈歌の家〉御子左家を俊成と共に興して、歿後も長く影響を後世まで与えた(呪縛し続けた)。御子左家は定家息為家の時代に二条・京極・冷泉の三家に分裂して前二家は早々に断絶したが、為家から先祖伝来の文書を相伝された冷泉家は近代になると入り婿を繰り返して今日まで定家の血脈を繋いでいる。代表的著作に歌集『拾遺愚草』と日記『明月記』がある。
 『新古今集』に載る定家の歌から朔太郎が選んだのは、わずかに3首。全121首中、たったの3首である。つまり、──

 年もへぬ祈る契りは初瀬山 尾上の鐘のよそのゆふぐれ
(P138 巻十二恋歌二 1142)

 春の夜の夢の浮橋と絶えして 峯にわかるゝ横雲の空
(P138 巻一春上 38 編外秀歌)

 帰るさのものとや人の眺むらむ 待つ夜ながらの有明の月
(P162 巻十三恋三 1206)

──である。
 いずれも有名な歌で、良くも悪くも定家らしい詠物。新古今調の典型である。いま本稿を書きながら岩波文庫の『新古今和歌集』を目繰っていたが、なんと、朔太郎が選んだこの3首のなかで当時のわたくしが斜線を引いたのは1首のみ、「春の夜の夢の浮橋途絶えして」だけだった(ちなみに今回『恋愛名歌集』ではただの1首にも斜線を引かなかった)。歌の下にはこんな書込みを、10代中葉のわたくしは残している。曰く、「全テニ優ル歌中ノ歌也。此ノ優艶詞情謌ノ極ミ也」云々。
 ──正直なところ、いまもその気持は変わらない。ただ「全テニ優ル歌中ノ歌」てふ箇所には疑問符が付く……要するに1990年代中葉に『新古今集』を丸ごかしに読んでいたこの貧書生は、自分が実際に──古典和歌を範とした──短歌を詠んでいたこと(『短歌研究』という雑誌に投稿歌が選ばれて掲載されたことが、こんにちに至るも殆ど唯一のささやかな自慢だ)、大学に残り古典学者としてどうにか身を立てようと奮闘していたこと、この2点に立脚して古典和歌を、就中勅撰和歌集を片っ端から読み倒していた時分だったから斯様な書込みを残したのであろうが……いまとなってはとてもじゃないが、そこまで賞揚する気にはなれない。
 この「夢の浮橋」は、高校の古典の教科書にも載っていた、と記憶する。俊成卿女、宮内卿の歌と共に印象深く心中に在り続けた一首だ。顧みるまでもなく根本的な好みに変化はないようだ。もっとも、高校生のときよりも、20代中葉〜後半のときよりも、然程の感銘を受けなくなっているのを発見してしまうたのは、すこぶる淋しいところではあるけれど……。
 さて。
 歌学者としては認められても、歌人となるとどうもなあ……というのが朔太郎の本音、基本的根本的な定家観といえるだろう。それは「春の夜の夢の浮橋途絶えして」に付した評言のなかでも明らかだ。引用すると、──

 定家の歌を読んでみると、その修辞の精巧にして彫琢の美を尽くしているのに驚嘆する。そうした彼の作歌態度は、時に数学者の緻密な係数方程式を聯想させる。彼はその美学を根拠として、歌を高等数学の函数計算表で割り出して居る。この意味で定家は正に構成主義の典型的歌人であり、……即ち一言にして言えば定家の態度は、美学によってポエジイを構成する所の純技巧主義であったのだ。(P139)

 実に新古今の技巧的構成主義を美学した者は定家であったが、それを真の詩歌に歌った者は、他の西行や式子内親王等の歌人であった。定家その人に至っては、彼の美学を歌の方程式で数学公理に示したのみ。それは単なる美の無機物にすぎないので、詩歌が呼吸する生きた有機体では無いのである。(P140)

──と。
 短歌をこき下ろす際に使われる常套句の1つに、こんなのがある。曰く、三十一文字(みそひともじ)の言葉並べに過ぎず心が入っていない、云々。早い話、朔太郎の定家詠物もこの域を出る歌ではない。朔太郎にいわせれば定家の短歌が宿すのは、〈詩情 ポエジイ〉とではなく〈高等数学のロジック〉なのだ。そんな観点から改めて定家の作物を、若いときから順番に読んでゆくと……成る程、朔太郎のこの評価に納得できる部分が多々あることに気附かされる。その歌風に変化が生じるのは、承久の乱が勃発して後鳥羽上皇等が配流された後の時代から。定家単独編纂の『新勅撰和歌集』や、岩波文庫やちくま学芸文庫の『藤原定家歌集』でそれを確認する事ができる。
 寄り道のお話になる。
 1990年代のいつであったか、NHKの番組で『百人一首』が取り挙げられた(番組名は勿論司会が誰か、ゲストが誰か、もう覚えていない)。むかしから疑問が呈されてきた、選ばれた作物や歌人、またその配列について新しい見解を示す内容だった。これまでも『百人一首』に選ばれた歌に含まれた固有の言葉を配列し直すと、かつて後鳥羽上皇が造営した水瀬離宮の建物や景観を彷彿とさせる、なんていう説などがあった(『百人秀歌』が破棄されて『百人一首』が再度選定されたのも同じ理由から)。
 この番組で示されたのは、『百人一首』を一定の法則で並べ直すと、デューラーを想起させる十乗魔方陣が浮かびあがる、という説であった。残念ながら詳細はすっかり忘却の彼方だが、魔方陣という高等数学を基にした遊戯の産物が事もあろうに『新古今集』を代表する定家の、これまた日本国民であれば知らぬ者のないかれの代表的業績たる『百人一首』と結びつくとは! いや、とんでもなく興奮しました。親しんできた『百人一首』にそんな仕掛けがある(と考える余地があった)とは。
 上に引いた朔太郎の定家詠物評を読んでわたくしがいちばんに思い出したのは、実はNHKの番組で提示された「『百人一首』=十乗魔方陣」という新説だったのだ。発言のフィールドこそ『新古今集』と『百人一首』という違いこそあれ、両者にかかわるは藤原定家その人である。ならば朔太郎の定家評──高等数学のロジックで読まれた(作られた)歌の作り手──と『百人一首』に於ける十乗魔方陣構築説の生まれる所以がふしぎな響き合いをしたとしても、なんら不自然ではないだろう。
 以上、寄り道終わり。
 さて、さて。
 朔太郎の定家評を読んでこれまでの、わが定家詠歌への没頭の浅深を顧みると、長じるにつれてそこから離れて行き(忌避、というてもよいか)、かつて程の瑞々しさを感じられなくなっていたことがわかる。
 仕方なしの側面はある。見てくれの美しさ、纏った衣装や施した化粧に目が眩んでいた若い頃と、年齢を重ねていろいろ経験し、ものを見る目を多少なりとも(望もうと望まざると)養われた現在だからこそ感じられる詠まれた心の深さ、誠へ想いを致すのとでは、受け止め方に歴然たる相違があるのは可笑しくない話だ。花よりも実、ということだ。
 ここで今一度われらは、朔太郎が総論にて新古今短歌へ与えた痛烈な一言を思い出して然るべきかもしれぬ。曰く、「化粧された屍骸の臭気」(P217)と。
 またまた寄り道というか脱線というかになるが、自分の経験を踏まえて提案すれば、『新古今集』と定家や良経、式子内親王、後鳥羽上皇等に代表される所謂新古今歌壇の人々の詠歌こそ、若いうちに読んでおけ、それも四の五のいわずに最初から最後まで、と云いたい。
 感性の瑞々しいうちに、感受性の豊かな年頃のうちに、なんでも消化できる咀嚼力の強いうちに、読んでおくべき文学は沢山あるが、わたくしにいわせれば『新古今集』と定家らの短歌はなかでもその最右翼を成す。ドストエフスキーもミッチェルも、プルーストもバルザックも、『源氏物語』も『三国志』も、そんな時代でないと読むこと能わざる文学であるよ。そこに『新古今集』も加えておけ、と云うかこれをイの一番に読んだ方がいい。詩、という代物、たいていの人は長じて読まなくなるジャンルの代表選手なのだから。
 英国の抒情詩人、ロバート・ヘリックは誠に良いことをその作品のなかでいうている、即ち、「薔薇のつぼみを摘むのならいま、/時の流れはいと速ければ/きょう咲き誇るこの薔薇も、/あすは枯れるものなれば」、と。……最近この詩句を指して、林修先生の「いつやるの? いまでしょ!」と同じですね、というた人が居ったけれど、なにも反論できませんでしたね。だってその通りだもの。
 またまた余談が過ぎた。
 『新古今集』の章を読み終えた直後、章扉にこんな感想を綴った。曰く、──

 元より式子内親王と西行の歌選ぶこと多しが/その儘朔太郎の古典和歌館を反映集成している。 / 万葉振りの歌風精神を持つ西行と / 恋歌に精微な技巧と濃艶なる情の綾を織りまぜた / 式子内親王とである / このあたり好み合うところ少なからずで、式子内親王 / と西行の歌は我も又多く選ぶところとなった。 / 令4師走10午前(ママ)

──と。
 実際の数字で示してみよう。新古今に載る西行法師の歌は全94首、その内朔太郎が選ぶは17首で、更にわたくしが斜線を引いたるは4首であった。同様に式子内親王は全49首の内17首を朔太郎は選び、そこから10首にわたくしは斜線を引いた。
 式子内親王の歌は、いずれも生涯のエヴァーグリーンだ。が、西行は──斜線を引いた歌が存外に少ないことに唖然とした。間違いかと思うて3度、数え直した程だ。が、この数に誤りはなかった。
 とはいえ、20代の頃、私家集『山家集』や『千載集』以下の勅撰入集歌を読んでも、ピン、と来るところ少なかった西行の歌を、朔太郎というフィルターを通してとはいえ、改めて賞味して、いまの自分の心境と重なったり共鳴するところが大きいな、と再発見できたのは喜ばしいことであった。もっとも、反比例するように定家の歌への共鳴や思慕の念著しく減って3首の内1首にのみ斜線という結果に落着した一抹の淋しさはあるけれど。どの世界、どんな行いにも代償は付き物のようである。人を呪わば……? いや、それは違うでしょう。
 『新古今集』選歌の章で斜線を引いたものを記して、擱筆へ向かいたい。その名、その数、即ち、──

 式子内親王  10首
 西行法師  4首
 藤原良経  3首
 和泉式部  2首
 藤原家隆
 法橋行通
 後徳大寺左大臣
 高内侍
 藤原保季
 宮内卿
 源通具
 藤原興風
 小侍従
 藤原顯輔
 藤原範永
 大伴家持
 柿本人麿
 藤原実方
 在原業平  以上1首

──以上、19人34首である。
 かつて自分のなかにたしかにあった『新古今和歌集』への愛着、憧憬は、気附かぬうちに色褪せ、いつしか八代集でも気持の入りこめない(没入しにくい)歌集の双璧を築いていた事実を、本書『恋愛名歌集』は突きつけた。すこぶるショックであるが、一方で嗟嘆気味に首肯したのも本当である。
 それは悲しく淋しい現実であったけれど、八代集初読から『恋愛名歌集』読書まで30年近い歳月が流れていることと、その間に此方がまァそれなりに──良いことも悪いことも、幸せなことも悲しいことも、喜ばしいことも憤ったこともいろいろあったことを加味すれば、就中理屈を三一文字に塗りこめた『古今集』と浪漫的香気を漂わせてむせ返りそうな『新古今集』に抵抗を覚えて気持が離れるのは、無理ないのかもしれない。間の6つの勅撰集に共通するのは、これらに較べてずっと地に足が着いて、人肌のぬくもりを感じさせる点であろう。
 総括すれば『恋愛名歌集』を読むことは、かつての自分といまの自分の好み、歌人や詠物への共鳴思慕等の相違や維持を確認するむごたらしくて残酷な読書であった。◆

 ※萩原朔太郎『恋愛名歌集』メモ感想書写、入力全了。□

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