第3650日目 〈並列読書って、誰でもしてなくない?〉 [日々の思い・独り言]

 場所によって読む本を換えよ。その場所に本を置いておけ。
 ──成毛眞が著書『本は10冊同時に読め!』(三笠書房 2013/04)で主張するのは、この一点である。分量にしてわずか数ページ、他は壮大なる著者の読書論、購書論……しかも偏狭な。
 並列読書。著者はそう呼ぶ(但し命名者は別の由)。それはどのようなものか。曰く、──

 「超並列」読書術とは、1冊ずつ本を読み通す方法ではない。場所ごとに読む本を変え、1日の中で何冊もの本に眼を通す読書法である。(P12)

──と。
 数をこなす本読みであれば誰もが採用する結果になる読書術であり、家のあちこち、普段使いする荷物のなかに、本を置いておくのも同じだ。つまり、そうした人々にとってはなんら目新しいところのない手法なのである。でも、あまり読書しない人、1冊集中型の人には良くも悪くも新鮮な読書術かもしれない。hontoやブックメーターのレヴューを眺めていると、却ってそうした人たちの受け止め方に、成る程、と首肯して教えられるところもあるのだ。
 「本を読むのであれば、あらゆるジャンルの本をバランスよく大量に読むべきだ」(P68)と説く著者は、では何処で、どんなシーンで、どんな本を読んでいるか。105-6ページに、「『超並列』読書術で1ヶ月に読んだ本」(P105)として10冊が挙げられている。そのリストに続けて曰く、──

 このように、見事にバラバラである。
 ギャンブルに関する本もあれば、インドのIT産業についての本もあり、料理の本もある、という具合でそれぞれに関連性はない。仕事に直接関係があるともいえない。
 だが、これらの本は確実に私の血となり肉となっている。必要ではない本を読むのは一見ムダのように思えるが、意外なところで役に立つのだ。(P106)

──と。
 意外なところで役に立つ。それは佐藤優や出口治明など不断の読書を欠かさぬ知識人たちが異口同音に述べるところでもある。相手の人種国籍を問わず、読書によって蓄えられた知識はいつでも引出しから取り出して、相手にわかりやすく説明できるようにしておくこと。それは(超)並列読書術を用いる読書人ならではの、最大の武器でありコミュニケーション・ソースとなるだろう。──斯くいうわたくしも、読書で得た知識やトリビアを、馴染みのクラブで披瀝してその場の会話を盛りあげることもある(あった)。
 おっと、話が逸れた。
 成毛眞は、自宅のあちこちに本を置き、自宅のあちこちで本を読み、リビングでは置かれた50冊以上の本のどれかを読み、寝室には2冊か3冊が常置されて寝る前にそのどれかを読む。トイレのなかでも浴室でも、片時も本を手放すことはない。否、本のある場所にいつもいる。通勤用のカバンにも、会社の机の上にも、本はある。かれは本のある場所でしか生きていない。
 が、そんな風にして自宅のあちこちに、通勤用のカバン(リュック)のなかに、本を備えておいて、いつでもどこでも読める環境を整えておきさえすれば、著者のいうように、「あらゆる場面で『合間読み』と『ながら読み』をしていけば、月に数十冊読むこともわけないだろう」(P81)。
 とはいえわたくしは、本書を称賛する者に非ず。得るところ、首肯できるところはここに引用した箇所、触れた部分くらいで他は然程の内容とも思えない。むしろ仕事と読書にウツツを抜かして地に足着けた生活感覚や、他者の行動原理に想像力を馳せる能力を欠いた〈尊大の親玉〉の姿がページのそこかしこから浮かびあがってくる。
 85ページを例に挙げようか。ラーメンやアトラクションに行列する人がいたら、まるで理解できない、と切り棄てるのではなく、どうして行列をしてまで食べたいのだろう、その店やアトラクションのウリはなんなのだろう、メディアで取り挙げられたのならそれがターゲットにした層以外の人がもし並んでいたら、どうしてその人は行列に混じって並んでいるのだろう、……など情報と印象と想像力を組み合わせて考えてみるのが、経営者の視点なのではないのか。
 この件りが、己の読書術を際立たせる為に仕組んだ敢えてのフェイクであったらば、わたくしはまんまと著者の術中に嵌まったことになるが、まァ、そんなことはないだろう。こちらの過大評価でしかあるまい。
 ──それでは本来すべきの話に移る。本稿タイトルを見て、まさか『本は10冊同時に読め!』の感想だと思うていた人はあるまい。要するに、これにかこつけて、自分の話がしたかったのである。えへ。
 母を亡くして家に居る時間がより一層増えたためか、いままで本を置いていなかった場所にも本が置かれるようになった。置かれた場所にいるときは、そこにある本を読むようになった。とはいえ居間にあった本は一昨日、殆どすべてを撤去した。先程の成毛眞ではないが、撤去以前のリビングには10冊ばかしの本──文庫、新書、単行本、コミック、洋書、雑誌が置かれていたのだ。殆どすべてを、他の部屋へ動かした(残ったのは、『きょうの料理』最新号と前月号、ポケット六法、ニコラス・スパークス『Every Breath』[奥方様]、杉本圭三郎・全訳注『新版 平家物語』第二巻、以上5冊である)。娘が歩きまわるようになったので、危険要素はあらかじめ除くに如くはなし、と夫婦して判断したためだ。
 ついでに申せば、通勤時のリュックには、森功『菅義偉の正体』を入れてある。寝室のベッド脇(わたくしの側)には村上春樹『街とその不確かな壁』、山本博文『歴史をつかむ技法』がある(いずれも05月26日時点)。尾籠な話になるが階下の厠には、わたくしが読むものとして、読進中の小泉悠『ウクライナ戦争』の他、次に読むものとして待機中の小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいウクライナのこと』、並木浩一・奥泉光『旧約聖書がわかる本』、佐藤宏之『気分はグルービー』、が積んである。そうして階段のニッチには立花隆の本が2冊(文藝春秋編『立花隆のすべて』と立花隆・談/會田純一・写真『立花隆の本棚』)といった具合だ。ただ、どうしてこんな所に本があるのかは不明。
 家のあちこちに本がある。そのメリットは、そこで読む本をあらかじめ物色する手間が省けることだろう。そのデメリットは、分散式読書ゆえになかなか読み終わらぬことだ。厠での読書なんて特に、ね。この場合は痔にならぬよう注意を払わねばならない(笑うなかれ、本気の注意喚起だ)。
 けれども、どこに置いてある本でも着実に前へ進んでいる。ほんの数ページであっても、そこにいる時はそこにある本を開くのが習慣になる。たといそこにいる時間が短くとも、何行かでも読めればシメタものではないか。本を読む人は、量ばかりではなく時間についても、「塵も積もれば山となる」てふ諺の誠なることを考えてみた方が良い。──但し、厠での読書にあたっては、くれぐれも痔にならぬよう重ねてご注意申し上げる。キリの悪い箇所でも中断する勇気を持て。
 「塵も積もれば山となる」、それが証拠に、厠での読書であった小泉悠『ウクライナ戦争』は(たしか)先月04月10日あたりから読み始めて、1ヶ月半程経った今月05月26日現在残りは27ページ。或いは、寝しなの相棒山本『歴史をつかむ技法』は05月15日から始めて上述日現在でほぼ半分。どれも毎回数ページしか進まない、進められない。読書は生活を支える杖に非ず。それでも細切れの時間を主に活用してここまで進んだのだから、「塵も積もれば山となる」式読書の好例というに支障はあるまい。
 森『菅義偉の正体』は、既読本では詳述されなかった横浜時代や、アプローチのやや異なる秋田時代と上京後のあたりがなかなか興味深い記述にあふれているためもあって、ちょっとゆっくりめの読書になっている。それでも藤木企業との関わりを深彫りした章「港のキングメーカー」を終えたそのあとは既読本でも散々触れられてきた国政に転じて後の話となる様子なので、或る程度の流し読みでも構わぬか……と思うていたが、そんなことはなかった! それは甘い見通しだったのだ。
 小此木彦三郎の秘書となったときを出発点とする〈影の横浜市長〉時代、初当選から総務相、官房長官を歴任した〈影の総理〉時代を、菅本人や関係者、ゆかりの人等へ取材した際の記録を折々交えているせいで、読み手のこちらは、特定の出来事についても既読本に較べてより立体的に捉えられることができる。かなりの読み応えがある証拠だろう。──ゆえにこちら(『菅義偉の正体』)は05月13日あたりから始めて2週間になる上述今日時点でようやっと半分超、238ページに達したところだ。残りは150ページである。
 ここまでを煎じ詰めれば、(ほぼ)毎日少しずつ、ゆっくりとだが着実に前に(読了に)向かって歩を進めている、ということ。痔になる前に、眠くなるまでに、目的地に着くまでに──タイムアップするまでに。亀の歩みでも欠かすことがなければ確実にゴールへ到達できるのだ。
 もうひとつ、肝要なのは、読書のための環境──読書せざるを得ない環境を無理矢理でも作り出して、そこに身を置くのを当たり前にしてしまうことだ。電車のなか、厠のなか、ベッドのなか──用事を済ませるまでは、目的を果たさぬ限りは、動くことのできぬ場所での読書程捗るものはない。
 ここでわたくしが思い起こすのは、バーナード嬢こと町田さわ子と佐藤優である。理想の読書環境としてド嬢が挙げたのは、独房(監獄)、であった。国策捜査によって偽計業務妨害等の疑いで逮捕された佐藤優は、留置場で数百冊の本を読み倒した(『獄中記』巻末を参照せよ)。甚だ無礼ではあるが、ド嬢の絵空事の域を出ぬ理想の読書環境はその真なることが佐藤優によって実証されたわけだ。……でも、誰でもこんな環境での読書だけはご免被りますよね。
 日々の生活や未来の計画を犠牲にした読書、家族を哀しませてまでする読書に、果たしてなんの価値がありましょうか。人生を損なってまで行う読書に、なんの愉悦がありましょうや。
 ──というわけで、母亡きあと自宅の幾つかの場所に本が置かれるようになった。そこに置かれた本を、そこにいる間は読むようになった(並列読書の実現)。結果として、読む本が多くなり、ますます知を渇望するようになった。知識欲に限界はない。ファウスト博士がそれを証明した。
 本稿は読書を重ねることで更に知を渇望する男の、予定外に長くなった〈独り言〉──毎度御馴染みの〈とはずがたり〉である。◆

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