第3652日目 〈平井呈一怪談翻訳集成『迷いの谷』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 平井呈一怪談翻訳集成『迷いの谷』(創元推理文庫 2023/05)が出た。しまった、やられた。もっと早くにやはり手を打つべきだった。己の懶惰が招いたそんな後悔が、ページを繰る手を鈍らせる。
 M.R.ジェイムズとA.ブラックウッドの小説が主柱になる本書だが、こちらは既に原本を所持しているので「読む」というよりは「目を通した」というが正しい。翻訳小説については平井の初期訳書、A.E.コッパード「シルヴァ・サアカス」とE.T.A.ホフマン「古城物語」が読めるのがなによりの収穫。
 後者は奢灞都館版で馴染みがあるとはいえ、こうして文庫で読めるとなるとまたその価値は格別だ。誰もが読める状況が作り出されたことが、なにより嬉しい。ドイツ・ロマン派の雄ホフマンの名作が手軽に読めるようになったことを、やはり喜びたい。
 もう一方のコッパードだが、こちらも文庫で読める日が来ようとは、まさか思うておらなんだ。荒俣宏・編『怪奇文学大山脈』に収まるとはいえ、ホフマン同様、読んでみようと思うとチト手に入れるに難儀しそうなこの本、ふしぎと古書店で見掛けぬ大冊ゆえ図書館のお世話になるが賢明か。されどこのコッパードは平井が翻訳で初めて原稿料を稼いだ記念すべき作品──翻訳家・平井呈一(程一)のデビュー作だ。まずは必読、見逃すべからざる一品といえるだろう。
 この「シルヴァ・サアカス」と「古城物語」については、稿を改めて感想文を綴りたい。
 収録されたエッセイ群について個人的なところを述べれば、もはや新味はない、というてよい。というのも過半が先年出版された荒俣宏・編『平井呈一 生涯とその作品』に収められており、そちらで読んでしまっているからだ。逆にいえばそろそろ呈一名義で発表された各種エッセイ、書評の類は払底しつつある、ということだろうか。
 『迷いの谷』収録のエッセイ七編のうち、「教師としての小泉八雲」はこの人ならではの創見を示した一編として、とても興味深く読んだ。
 戦時中、平井は空襲を逃れて新潟県小千谷市に疎開して、その地の中学校で教鞭を執った経験を持つ。教え子たちは平井去りし後も師を敬慕し、絶えざる交流が持たれた由。平井の訳業として江湖に知られる恒文社版八雲全集は、当時平井の薫陶を受けた一人が創業した出版社から刊行されたものである。
 その学校生え抜きではない、つまり卒業生でもない、東京からやって来た文化人、というだけで教壇に立つことを、果たして平井は想像していたろうか。或る意味で(今日風にいうならば)アウェーに自分を置いてそこで身過ぎ世過ぎを余儀なくされたわけであるが、そのあたりの心境や経験というものが、このエッセイには影を落としているように感じるのだ。
 八雲が教えていた学生が亡くなった際の文章に触れて、「教育とは、ほんとうはこういうところにあるのだという感を深くする」(P580)と述べる。このとき、平井の脳裏には小千谷時代の教え子たちの姿が浮かんでいなかったろうか。また、「松江や熊本時代に、貴重な執筆時間を生徒の作文添削にそがれるのが辛い辛いといいながらも、克明にそれを楽しみつづけていたのも、『ことば』に対するかれの執念の一つのあらわれともいえるだろう。それにつけても、国語によらず外国語によらず、ものを教える今の人たちには、『ことば』を大切にするということを、もっと八雲から学んでよいと思う」(P581)という結びの文書には、国語を教えたり演劇指導に真摯に取り組んだ頃の平井の情熱の燠火を見ることはできないだろうか。
 とまれこの一編は、ながく八雲に関わり続けた平井の気魂が宿った集中屈指の文章と思う。
 ……さて、こちらの懶惰が招いた後悔、その源は、「秋成小見」にある。要するに初出誌『現代詩手帖』の秋成特集号を20代の極めて早い時期に神保町の古書店で入手して以来いったい幾度、この平井の文章を舌舐めずりしながら、或いは端座して耽読したかしれない。あの当時に書かれた秋成に関する文章としては、「研究」という面からは扱いかねるものの「鑑賞」としては抜群のクオリティを持った一編だ。
 創元推理文庫から出ている平井の翻訳集成や前述の荒俣の本でも、エッセイが収録されると聞くたび本屋さんで目次を開いて確認するのは、この小文が収録されているかどうか、だった。もちろん、収められていないとわかるや胸を撫でおろした。なんというか、あまり人に知られぬ宝物のように思うていたのだね。何年も前から、平井呈一名義の本に未収録のかれの文章を数編、まとめて解題しよう、それを本ブログに載せよう、と考えプランを作り書きかけたのが他に目移りしていったん棚上げし、そのまま己の懶惰と怠慢が祟って令和五年の先月五月末に遂に……咨! まぁでも、まだ〈タマ〉はあるさ、と反省の色なく先延ばし。

 平井呈一の怪奇小説の翻訳、どれもとても味とぬくもりがあって、年齢を重ねるにつれてこの人の文章や言葉遣いが馴染んでくる。10代の頃に『怪奇小説傑作集』と『恐怖の愉しみ』の洗礼を受けて、その後に書く自分の文章にもどれだけの影響を及ぼしてきたか知らない(他の怪奇党の方々もそうであろうが、こわい話・気味の悪い話・ぶきみな話・ふしぎな話を好むようになったのは『怪奇小説傑作集』と『恐怖の愉しみ』なくしてはあり得ぬ。要するに、これらとの邂逅によって人生がちょっと違う方向へねじ曲げられたのだ。就中前者第一巻の解説、その結びに……)。
 それは翻訳についてもエッセイについても然りなのだけれど、とはいえ、失礼ながらそろそろ食傷気味になってきたのも否めぬ事実だ。
 平井呈一という不世出の翻訳家の全貌を窺い知るための材料、その文章の妙味を味わうメニューとして今後、なるたけ間を置かずに復刊する必要ありと思うのは、クイーンやセイヤーズ、カーやヴァン・ダイン、デ・ラ・トア、ヘンリ・セシルらの推理小説と、「青春のまたとない思い出」として上梓したアーネスト・ダウスンの全小説集『ディレムマ』、『おけら紳士録』を始めとするW.M.サッカレーの諸作、オスカー・ワイルドの童話や小説、あたりなのだが如何であろう?
 それにしても、つくづく残念に思うのは、荒俣や紀田順一郎が一度は手にして読んでいた平井の回想記「明治の末っ子」がいま以てなお行方不明であることだ。これが出現すれば、これが出版されれば、どんなにか喜ばしいだろう。◆

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