第3374日目 〈永井荷風「元八まん」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 永井荷風に「元八まん」という随筆がある。それを教えられたのは御多聞に洩れず平井呈一の文章であった。典拠を確かめるために該書を引っ張り出そうとしたが、あいにくダンボール箱の山の後ろの本棚にそれはあって出してくることができない。ただその文章が牧神社版『アーサー・マッケン作品集成』のどの巻かの解説であったのはまちがいない。創元推理文庫の『恐怖』でたしかめると、その文章は第2巻『三人の詐欺師』所収「赤い手」解説の一節であった。
 かいつまんで申せばマッケン文学の特質の1つとして、世紀末ロンドンを隈なく歩きまわり、目にする風俗を捉えた一種の都市綺譚、の趣を呈すところがある。それが平井翁をして荷風の『濹東綺譚』や『日和下駄』、そうして「元八まん」などを想起させる、というのだ。思い出してみればわたくしが荷風散人の文学へ一歩足を踏み入れ、断続的ながら今日まで読み続けてきているのはこうした指摘に導かれて、そのまま<荷風の沼>の深みに嵌まったものであろうか──それ以前に「来訪者」と「四畳半襖の下張」は読んでいたけれど、あれはまぁ、一種の助平根性からだから。
 マクラはここまで。それでは「元八まん」である。
 本篇は岩波文庫の『荷風随筆集・上』にも収められているが、わたくしが読むのに専ら使っているのは昭和30年代後半に岩波書店から刊行された全集の、第17巻(昭和39/1964年07月)だ。判型も大きくなって読みやすくなった新しい全集が欲しいけれど、おあしに問題があってなかなか手が出せない。
 わたくしはこの随筆の舞台となった土地を、まったくというてよい程歩いたことがない。以前仕事の関係で葛西臨海公園駅と葛西駅の真ん中にある建物に半年ばかり出向していたが、そこは「元八まん」の舞台とは荒川をはさんで対岸である。荷風が歩いたのは現在の南砂町や砂町の界隈だった。
 「元八まん」が書かれたのは昭和9/1934年師走。当時そのあたりはまだ蒹葭生い茂る草生す田舎で、人家もまばらに建つ程度。が、近代化、都市化の波はこの東京外縁にも着実に届いており、既に真新しい幹線道路が敷かれ、元八幡近くには州崎遊郭と錦糸堀を結ぶ城東電車の停留所(ステイション)があった。
 そんなような江戸の名残をどうにか留めていた時代の貴重な証言でもある「元八まん」、執筆は末尾に記され、前述もしたように昭和9(甲戌)12月。『断腸亭日乗』昭和9年条に本稿執筆の字は見出せねども荷風は遡ること昭和6年11月から折あるごとに大川を越えて本所深川方面へしばしば散策するようになるので、或る意味で本篇の執筆は必然といえるやもしれぬ。なお、日記では昭和7年1月8日条に元八幡(砂村八幡宮)の記述が初めて見られる(全集第21巻P70 岩波書店 昭和38・1963/10)。
 本篇は「深川の散歩」、「里の今昔」と併せて翌る昭和10年3月、『中央公論』誌に「残冬雑記」の総題で発表。これが初出となる。ちなみに「元八まん」は原題を「葛西橋」といった。
 この時期の荷風の作物は江戸文化に根ざした創作や『日和下駄』の系統に属する東京散策、地誌考証の随筆が目立つようになる。秋庭太郎も『永井荷風傳』で、「(この時期)既に江戸儒家に関する考証も影をひそめ、随筆雑記の多くも回想記や、そのかみの『日和下駄』に類する東京近郊の散策記のたぐひであった」(P366 春陽堂書店 昭和51・1976/01)と述べている通りだ。また紀田順一郎は『永井荷風 その反抗と復讐』のなかで、「荷風の逍遙癖はむしろその頻度や、マニアックなまでの執着性に特徴を見出すべきかもしれない」(P131 リブロポート 1990/03)と指摘した上でその好例を、「元八まん」に於ける元八幡探訪に求める。
 紀田は荷風の散策のあとを追って経路を丹念に辿り、「当時の東京の新開地と、江戸の廃墟とが交錯する地点に孤独と寂寥感に満ちたおのれの心象風景を重ねあわせていたのである」(P133)と結論附けた。けだし傾聴の価値ある一文と思う。
 さて、先日「元八まん」を読んでフト考えたのだが、戯れに、或いは文章修行でも理由は構わぬのだが、本文をすべて原稿用紙へ書き写して(その際、旧仮名旧漢字は現行のものに改めてもよし)、そこに様々語釈や地勢面からの補注を付けたりしてみたら案外と面白い作業になるのではないか。実地調査の必要もあろうから地図を調べて史跡を訪ねる愉しみばかりでなく、出掛けては徒歩となろうから健康面でも益するところ多々あろう。そんな過程で、破壊し尽くされたように思える東京にも未だ江戸の名残、東京市の面影が残されていることに気附けるだろう。
 本篇には既に述べた如く、「深川の散歩」と「里の今昔」という姉妹篇がある。こちらについても機を改めて、今日と同じように取りあげてみたい取りあげてみたい。◆


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