第2969日目 〈渡部昇一の日本史が面白い!〉 [日々の思い・独り言]

 『ワインズバーグ、オハイオ』を遂に通勤カバンから取り出した日、代わって入れたのが渡部昇一の『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社 1989/05)である。いつだったか、集中的に渡部昇一の本を読みたくなって未架蔵未読のものを片っ端から買い漁ったなかにあった、1冊だ。
 渡部昇一は文筆活動の最初期から亡くなる直前まで、日本史にまつわる多くの著書を世に送り出した。本書はその発端となった記念すべき著作だ。
 刊行当時、地下街の書店のいちばん上の棚に置かれていた本書は、高校生だったわたくしには憧れの書物であった。お小遣いとわずかなアルバイト代から書籍購入費をを捻出する身に、1,000円以上の単行本は買うに勇気がいり、また他に欲しい本、読みたい本があるゆえにどうしても本書は優先順位が低くなっていたのだ。
 本書は渡部氏の著作の例に洩れず、出版社を変え、判型を変え、時にタイトルが一部変更されて、書店の棚に供給され続けた。わたくしはたぶん、そのどこかの段階で刊行されたものを読んでいる。祥伝社文庫であったか、新書であったか、そのあたりの記憶はまるで曖昧だけれどね。いずれにせよ、かつて高校生だった自分が書店の棚に刺さる背表紙を仰ぎ見ていたその本が、いまはわたくしの通勤カバンに収まり、通勤時だけでなく昼休憩のときにも読み耽っている。
 わたくしもある程度の日本古代史や天皇の系譜、記紀万葉には知識を持っている為なおさらに感じるのだが、渡部氏の著す日本史は実に瑞々しい。いつ読んでも新鮮である。そうして毎回、なるほど、と思わしめる箇所がある。なかでもやはり本書、『古代編』に始まり『鎌倉編』、『昭和編』へ至る三部作は渡部日本史の中核をなすメモリアルな著作である、といわざるを得ない。
 誰もが疑問に思いながら等閑視してきた問題を、著者はなんのしがらみも忖度もない立場から、自由闊達に話題を広げてゆく。日本武尊を存在を傍証する資料や建築物、宝物はあっても肝心の悲劇の皇子を抹殺する<科学的な立場から作られた日本史年表>に疑を呈し、陵墓があるにもかかわらず年表から抹消された仁徳天皇や応仁天皇に触れ、或いは中華民国を指す<中国>と古代日本や古代ゲルマンでこの世を指す<中国(なかつくに)>について考察し、その流れで中華民国を<シナ>と呼ぶことの根拠を記す。そうして避けて通れぬ<カミ>の語源、日本人の特異なる点を揺るぎなき態度で読者に伝えてくる。
 この本を高校生の頃に読んでいたら、わたくしは古典学者ではなく日本史の研究者を志していたかもしれない。それだけ本書は卓見に満ち、思考と想像を刺激してくれる優れた1冊なのだ。
 以後、渡部昇一は日本史の本を、昭和史にまつわる本を、たくさん書いた。上智大学の教え子が、どうしてそんなに日本史の本ばかり書くんですか、と疑問をぶつけたとき、渡部氏は、いわずにはいられないからですよ、と答えた由(『学びて厭わず、教えて倦まず』P114 辰巳出版 2020/08)。戦前戦中を知っている身としては、戦後生まれの学者が無責任に垂れ流す無節操かつ無知蒙昧な発言に我慢ができないのですよ、という意味だ。
 でも、それゆえに1人の読者として捉えた場合、渡部氏が身内に燻るルサンチマンをこのように解放してくれたことを感謝する。日本史にまつわる多くの著書を持つということは、内容が重複していたとしても発言したことが山ほどある、ということの証左であろう。
 これ程に次のページを繰るのが楽しみでならない日本史の本を、渡部氏以外の誰が書けるというのか。どの本を読んでもハズレはないけれど、やはりこの1冊から始めるべきだろう。◆

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