第3481日目 〈貧乏性の読書──つまらん小説を読みながら。〉 [日々の思い・独り言]

 貧乏性である。読みかけの本を中断する、そんな芸当のできる人が羨ましい。1度か2度の例外を除いて、最後まで読むのが常。勿論そこに、資料的な意味合いで購うたものは含まぬ。
 やはり貧乏性なのだ。いま読んでいる小説も、扱われているテーマは好みで、しかも前作に相当する作品を面白く読んだだけにチョットは期待して(月遅れながら)購入。寝る前に・昼間の気分転換に読み進めているが──やたら単調な一人称に辟易してしまっている。長いキャリアを持つにもかかわらず文章は極めて不味く、無神経で、がさつだ。おまけに話の途中でオチがわかってしまい、しかも正解してしまうからね。やれやれ、であります。
 亡くなる10数年前に雑誌に掲載されたきりで、これまで1度も単行本等にまとまったことがなかった。これを聞いたら、よくぞまとめてくれました、となるところなのだが、……果たして定価で買う程の価値が、自分にはあったかどうか。書肆盛林堂から自費出版物として世に出る可能性もあったそうだが──冗談じゃない。こんな質も実もない薄っぺらい代物に5,000円も6,000円も払えるものか。本当に読みたかったら、図書館で掲載誌を探してコピーしてきますよ。
 閑話休題。
 読みかけの本を、潔く巻を閉じて、時には床へ叩きつけることのできる人が、心底羨ましい。こちらは根っからの貧乏性なので、途中で「ツマラネエッ!!」と感じるものでも最後まで読んでしまう。然る後、すぐさまブックオフ行きが決定、それ用のダンボール箱に放りこまれて顧みられることは、2度とない。
 どうして最後まで読んでしまうのか。詰まるところ、折角買ったのだから最後まで読まないと勿体ない、という思いが根本にある。惹かれる言葉、使ってみたい表現、印象的な1行に出会うかもしれない。仮にそんな出会いがなくても、最後まで読むことで、曲がりなりにも批判等々はできるようになるだろう……。
 話の発端となった小説だが、読み始めてすくなくとも1週間は経過しているのに、全8篇中ようやく半分を終えたところである。惰性の読書は披露しか生まない。身を以て知った。
 かつて生田耕作先生が遠藤周作の小説を批判した言葉を思い出す。原本が手許にないので記憶頼りになるが、『白い人・黄色い人』や『海と毒薬』など読んでみたが、文章はがさつで読めたもんではない、という内容だった。粗雑にして言霊なし。そういい換えてもよいか。
 遠藤作品の多くを読んだわけではない。が、この言葉にははっきり首肯できる。『聖書のなかの女性たち』(講談社文庫 1972/11)は、現時点で既読となった遠藤作品のうちでも文章の不味さ、という点ではぶっちぎりの最高峰を記録している。
 同じことが読進中の小説にもいえる。否、ハチャメチャSFで話題になった頃は巧みにカモフラージュされていた文章の粗雑さが、実は晩年になるに従ってますます磨きがかかっていたことを裏附ける、稀有にして残酷な1冊なのだ。この人、推敲とか殆どしない人だったんだろうなぁ。
 さて、残り4篇。心を無にしてページを繰ろう。◆


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