第3527日目 〈「ヨブ記」再読へ向けて。〉 [日々の思い・独り言]

 思いつくことがなにもないので、聖書を開いて、目に留まった一節から話を展開させてみようと思う。上手くいったら喝采の程を。滑ったりしたならば……読者諸兄の優しさに甘えたい。
 伴侶のように常にそばにあった新共同訳聖書を、適当なところで開いたら、「ヨブ記」第36章であった。引用する節に下線が引かれている。曰く、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない」と。第19節である。前後関係がわからずとも、この文言の意味するところは薄々わかる。
 わたくしは、これを、「苦労するなかで得た様々な経験や知恵、教訓は、苦労したからこそ人生に役立てられるものとなり、苦労なくして歳月を過ごしてきた人の経験や知恵、教訓は、その前では塵芥に等しい」と解釈した。塵芥に等しい、とは言葉が過ぎようか。ならば、こういい換えよう、「同じ出来事を体験していても、そこから得られる様々な知恵や教訓や経験則は、人生で苦労をしたことのある人としたことのない人とでは、その質、その差は歴然としている」と。
 第36章のなかからどうしてこれを、引用して原稿を書いたのか、もう覚えていない。「ヨブ記」を読んでいたのは、2010年06月06日から同年08月04日のことだから12年以上も前である。「ヨブ記」は全42章、第36章といえばもう後半部にあたり、そろそろ3人の友人がヨブを諫めるのを諦めて、砂塵のなかに潜む〈主なる神〉とヨブが直接対話するクライマックスを迎える直前のあたりだ。そんな件りでこの文言が現れるその意味はなにか。どうして友人エリフはこのタイミングでヨブに、斯く語ったのか。
 白状すれば、偶然にもこのページが開かれたとき、頭を抱えてしまった。
 「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない。」
 この2行がいわんとすることは、上述のように解釈して幾許なりとも腑に落ちるところではある。が、理不尽な災難に見舞われたヨブの許を訪れて、〈反-神〉の立場に立った冒瀆の言葉を連ねるヨブを懸命に諫める友人エリフの、この例の台詞を全体のなかへ落としこんで読むとき、わたくしはハタ、と迷うのである。──エリフはどうしてこのタイミングで、斯様な台詞を口にしたのか、と。
 それは年来の疑問である。この12年、幾度か「ヨブ記」を繙いて目を通した。この書物は、「聖書について」という新共同訳聖書付録の解説に拠れば、「旧約聖書の最も劇的な書の一つであり、ヨブとその友人との対話形式による長い詩である。苦しむヨブが『利益もないのに、神を敬うだろうか』(1:9)ということが対話の主題であり、それはヨブ一人の問題ではなくて、苦しむ義人すべての問題でもある」(付2)である。
 然り、「ヨブ記」は最も劇的な書物の1つである、が、同時に最も頭を悩ませる書物の1つでもある──旧新約続編を通して、最も哲学的であり、最も読解に苦労する書物である。旧約聖書のなかではこの点、最右翼というてよかろう。全体を通して肩を並べ得るのは、「ヨハネの黙示録」であろうか。この難解さの前では「エズラ記(ラテン語)」なんて可愛いものです(初読のときはあれ程苦労して、匙を投げた状態で進めたのにね。この変わり様はなんだ。呵呵)。
 「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない。」
 これはエリフが、絶望して神をも呪う言葉を吐き散らすヨブに放った、諫めの言葉である。この観点からすれば、神からの試練を与えられてそれを克服した者だけが、鋼のように堅くて強い、どんな誘惑や迫害に対しても揺らいだりすることのない信仰を持てる、という意味になろうか。このエリフの言葉の真意を探ることが、また、この言葉が持つ、より普遍的な意味を求めることが、2度目の「ヨブ記」読書の取っ掛かりになりそうだ。
 ちなみに「聖書について」から引いた上記解説の「利益もないのに、神を敬うだろうか」は、まだヨブが災難に見舞われる前である、神がサタンを相手にヨブを讃えたとき、サタンが口にした疑問の台詞である。
 神はいった、「(地上をあまねく巡ったお前は知っているか、)地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と。
 サタンが答えて曰く、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。……ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(ヨブ1:9)と。
 ヨブは神に試された男である。その試しは、サタンの挑発に神がうかうかと乗ったことから始まった。いい換えれば、それだけヨブは、神の目には正しく映る人物であり、サタンの目には逆にその信仰が本当の信仰であるか疑わしく思うに格好のサンプルと映った。
 「ヨブ記」はここを振り出しに、理不尽な災難に見舞われて瀆神の立場に一転するヨブの姿と、それを諫める3人の友とヨブの対話を描き、砂塵のなかに姿を隠した神とヨブの一騎打ちを経て、大団円に至る。
 「ヨブ記」全編を通してわれらの心に残るのは、古来よく本書を指していわれてきたような「なんの落ち度もない善人が、どうして謂われのない苦しみを受けなくてはならないのか」という疑問であるばかりでなく、「人の一生には常に理不尽な苦しみや悲しみが潜んでいて、それはいつ牙を剥いて襲いかかってくるかわからない」という、どうしようもなく避けがたい人生の真実ではあるまいか。
 エリフのかの台詞、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない」はそんな物語のなかで、いったいどんな意味合いを持つのか。これを探ることが2度目の「ヨブ記」読書の取っ掛かりになる一方で、長らくわたくしの頭を悩ませてきた疑問へのアンサーにもなるはずだ。
 エリフは、苦しみを経験したあなたこそ、神を本当に敬い畏れることのできる人物だ、といいたかったのだろう。その確認を主な目的として、「ヨブ記」再読の準備を進めたく思う。◆

 補記
 先達て、岩波書店刊旧約聖書・新約聖書註解全20巻を購入した。いつも図書館で借りて、読書の参考にし続けたものである。遠からず到着するはずだ。此度の「ヨブ記」再読についても、強い励ましを与えてくれるだろう。

 更なる補記
 これを契機に、「エステル記」以後の〈前夜〉にも、そろそろ本格的に取り掛からなくてはなぁ。□

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