第3540日目 〈バルバロ訳トマス・ア・ケンピス『キリストにならう』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』は講談社学術文庫版で持っています。『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』が正式な書名で、訳者は呉茂一と永野藤夫(2019/12)。
 岩波文庫にも『キリストにならいて』は収められて(大沢章・呉茂一訳 1960/05)、長く読み継がれていまも現役の書目ですが、活字の大きさと訳文の好み、今道友信の解説(序文)の密度、この3点を以て東京オアゾにある丸善丸の内本店にて講談社学術文庫版を購入したのです。
 あれはもう3年程前でしょうか。田舎の墓仕舞いのことで親戚と陰湿なバトルを繰り広げて、心身共に疲弊しきっていた時分でしたから。セネカを買ったのも同じ時だったと記憶します。
 ずっとそちらで読んできましたが、つい昨日(一昨日ですか)ぶらりと入ったブックオフでバルバロ訳『キリストにならう』を見附けて、三好達治と津野海太郎の文庫と一緒に買ってきた。酔いも充分覚めた日曜日、お昼寝中の奥方様と娘の隣で読んでいたんですが、講談社学術文庫版とはまた違う意味で平易かつ格調ある訳文で、気附いたら1章をすぐに読み終えていた。
 気のせいか、祈り、篤信、という面ではバルバロ訳の方に僅差で軍配が上がりそう。バルバロはサレジオ会司祭という肩書きと旧新約聖書の翻訳という業績から明らかなように、基から信仰の側に立って信者を教え導いてきた人物。斯様な人が手掛けるとあれば、その訳文に信仰の精神が自ずと塗りこまれるのは必然ではないでしょうか。
 較べてみよう。第1巻第23章「死を黙想する」(講談社学術文庫版「死の瞑想について」)第4節「健康と病気」から。ここはわたくしの好きな一節の1つであります。曰く、──

 つねに死への備えができている状態でありたいと、生きている間に努める人は、なんと幸せで賢明なのであろう。まったく世俗を軽蔑すること、徳に進もうと熱心に望むこと、規則を愛すること、苦行すること、すぐに従うこと、自分を捨てること、そして、キリストへの愛のためにあらゆる患難を忍ぶことは、よい死を迎えるという確かな根拠である。
 健康である間は、よいことをたくさんおこなえるが、病気になれば何ができるかわからない。病気のときに善に進む者は少ない。さまざまな地の巡礼をして聖徳に達する者が少ないのと同様である。(P89-90)

──と。こちらがバルバロ訳。ストレートな表現ゆえに却って非キリスト者の心にもストン、と落ちる文章といえます。
 では一方、講談社学術文庫の呉茂一・永野藤夫訳はどうか。同じ「死の瞑想について」から引いて曰く、──

 死の際にかくありたいと願うように、そのように生きていこうと、存命中から努力する人は、なんとしあわせであり、また賢明であることか(集会書四十一の一)。なぜならば、世間をまったく軽んじようという心(伝道一の一)が、いろんな徳に進もうとする熱望や規律への愛、悔悛の労やすみやかな服従への心構え、また自己否定や、キリストへの愛のためのあらゆる苦難を耐え忍ぼうとの覚悟、これらがかように努力する人にたいして、幸福な死への確信を与えるからである。
 健康であるあいだは、あなたはたくさん善いことを行ない得るが、病気になったら、何ができるかわからないのだ。病気のためにいっそうよくなるという人はすくない。同じように、あまり諸方に巡礼して歩いたからとて、聖者とされる人はまれである。(P74)

──と。バルバロ訳との対比のし易さを考えて、「健康であるあいだは、」で改行した。
 ラテン語の原文に則してこちらの日本語がどの程度のクオリティか、ラテン語を解さぬわたくしには不明ですが、バルバロ訳に比してより原文に誠実に、精確であろう、と努めた結果、斯様な訳文ができあがった、と考えます。
 比較引用した箇所のみならず全体を通じても、講談社学術文庫の呉茂一・永野藤夫訳は学術的な翻訳を目指したもので、バルバロ訳は信仰生活に寄り添った訳文であらんと努めたてふ印象が強い。バルバロ訳を読んでの平易かつストンと心に落ちる、という感想を持ったのは、このせいかもしれません。
 どちらを主体にしてこれから読んでゆくか。どちらか一方を、というのは難しい。そのときの気持や環境によって併読する、というのがいちばん正しく、素直な回答になりましょう。じっくりと読んで考える時間、或いは機会あるならば講談社学術文庫版になるだろう。気持を整えたり何事か落ちこんだり悲しみに暮れることがあればバルバロ訳が心に寄り添ってくれるだろう。
 講談社学術文庫版に序文を寄せた今道友信はそのなかで、『イミタチオ・クリスティ』(『キリストにならいて』)は慶長元(1596)年にローマ字版日本語訳が誕生、近代以後は今日に至るまで著名な訳本だけで十指に余る、と述べている。聖書同様、各種の版を集めてその時代、その時代の日本語を味わいつつ信仰の言葉の変遷を辿ってみたいものであります。
 バルバロは序論のなかで、本書について下のように述べ、説いている。最後にそれを引いて筆を擱きたい。曰く、──

 『キリストにならう』は、元来修道者のために修道者が書いたものであるが、しかし一般の修得書でもある。この本の作者の深い洞察力と学識は、いかなる人間にも、いかなる身分の者にも応用しうるのである。

 しかし『キリストにならう』の単純素朴な文章は、一種の神感を受けたもののようであり、もっぱら修辞を避けて、ごく自然な調子であり、さながら作者の前でその話を聞いている感がする。この作者は、長い修道生活から教えられたとしても、無限の生命の河から水を汲むべく、主の御心の上に休んだ聖ヨハネのように、神の霊に導かれていたのであろう。

──と。わが駄弁を重ねる必要がありましょうか?◆

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