第3549日目 〈近世怪談翻訳帖の作品選びをしながら。〉 [日々の思い・独り言]

 急に寒くなった。幸いと祝日である。家中に留守にできぬ障りありひねもす蟄居して、ぼんやりと朝から、空いている時間は読書に耽るてふ贅沢三昧の今日を過ごした。溜まりに溜まった未読本を消化するつもりだったのが、気附けば積みあげた岩波文庫黄帯の山を崩してカビの生えた文学にすっかり遊んでおったことである。
 とはいえこれはけっして目的なき読書ではない。近世怪談翻訳帖の作品探しを兼ねている。高田衛編・校注『江戸怪談集』上巻を巻頭から読み進めて、結局『宿直草』は終わらせられなかったけれど、そのなかに幾篇かの下心そそられるハナシのあったことが収穫だ。
 『宿直草』は「とのいぐさ」と読む。延宝5(1677)年開版。荻田安静編著。未だ全編に拝すの機会を得ぬが、岩波文庫所収の各編に目を通してみると、最後に荻田の感想や道義的解説が付されるハナシが散見する。これは後代の怪談集に於いても踏襲されるパターンなので、本筋にはいっかな関係なくとも当時の人々が件のハナシに対してどのような所感を抱いたか、時代風潮と併せて確認できる貴重な証言というて良いと思う。
 さて。
 いまのところ、これは……、と舌舐めずりしてどんな風に現代語訳してやろうか、と考えているのは、「淺草の堂にて人を引き裂きし事」、「三人しなじな勇ある事」、「たぬき薬の事」、「幽霊の方人の事」、「虱、人を食う事」と「狐、人の妻にかよふ事」あたりである。
 最初のハナシは近松浄瑠璃のような道行だが、翌る朝、男が見た者は……てふもの。どこかで『伊勢物語』の、盗み出した妃を鬼に喰われたエピソードを想起させる。「三人しなじな勇ある事」はなんとも飄々とした風合いのハナシで、翻訳次第で途轍もなく〈化けそうな〉ハナシである。生きたまま柱の穴に突っ込まれた虱の復讐譚「虱、人を食う事」、読んでいて思わず背筋の震えそうになった「幽霊の方人の事」など、手を掛けて現代日本語の衣を纏わせてやりたいものだ、と実力以上の大望を抱いてしまう。
 ところで古典の翻訳をする際、どう現代語に置き換えれば良いか、どう処理すれば良いか、迷うことに、掛詞や枕詞の件がある。
 いま一寸現物が手許にないので甚だ心許ないけれど、西鶴の『好色一代男』ね、これはむかしは吉井勇が現代語訳を手掛け、その後は吉行淳之介がやっている。古典の常套手段であるが冒頭は、掛詞、枕詞の羅列で、吉井勇はそれを現代日本語の文章の流れをぶった切ってでも、後代のそのあたりの知識薄い人が読んだら困惑する懸念も顧みず、ほぼそのまま自分の文章に落としこんでいる。対して吉行は流石に当代の文学者であることもあり、言葉は悪いが適当に省いたり他の表現に置き換えるなどして文章の流れ、スムーズに徹して進めている。
 見習うべきは、範とすべきは、どちらか。正直なところ、どっちの処理も正解なのである。作品や原文、場面による、という、なんとも脆弱な答えになってしまう。
 翻って上に候補を挙げた諸編のうち、例えば「淺草の堂にて人を引き裂きし事」は道行ものである以上、男か女、どちらかからそのきっかけになる手紙が届けられるわけです。届けられるとはこの場合、文章になっていることを意味する。今編では、まァ直前からその傾向があるのですが、「何時までとてか信夫山、忍ぶ甲斐なき爰にしもをればこそ聞け。憂き事をただ蛟の峒、鮫住む沖のなかなかに君もろともに出でなば」云々、ここをどう訳そうかな、と舌舐めずりして下心持ちながらも中空を睨んで、さて……、と考えこんでしまう。
 まだこれらを現代日本語へ移すのは先になるから、それまでとつおいつ思案に耽るとしよう。むろん、考える過程で読み返して候補から脱落するものもあるはずだから(その逆もまた然り)、「淺草の堂にて人を引き裂きし事」が読者諸兄の前にお披露目される日かならず来るとはお約束できない。あしからず。◆

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