第3418日目 〈わが脳ミソはカオスの如し。〉 [日々の思い・独り言]

 最近、「浅茅が宿」の翻訳をサボっている。Pagesに入力してゆくのがメンドクサイ、というのではなく、単に多忙ゆえのこと。まァ、メンドクサイ、というのも事実だけれど。──こほん。
 いや、なんというかですね、さっきスマホのカレンダーやメモ・アプリ、そうしてアナログに手帳を眺めていたら、まったく書きこみのない日が珍しいぐらいに6月は忙しかった。あっという間に時間が流れた、とは陳腐な表現かもしれないが、実際のところ、その言葉を実によく噛みしめることのできた月だったのである。
 お陰様で結婚記念日をゆっくり祝うこともできなかったが、これは来月の楽しみに取っておこう。なんというても今年のみくら家、5月末から6月一杯はお祝い事がすべて流れて、正直それどころではなかったのである。そのお祝い事は来月に、皆の予定が合うときに、まとめてやってしまおう、と考えている。それは福音というにじゅうぶんなお祝い事なのだ。
 で、ここで話を冒頭の「浅茅が宿」に戻すと、本稿を書く直前まで数日ぶりに入力と訂正・推敲作業を並行させていた。京都から帰った勝四郎が妻の死を認めることができた場面である。どうにも気が乗らぬのは、それが人の死を扱った場面だからだろう。
 そろそろお披露目のタイミングを考えねばならぬが、そもそれ以前にブログの再開もしていないのだから「なにをか況んや」だけれど、7月後半には分載という形で読者諸兄へお届けしたく計画している。ホントかよ、と自分でも思うのですがね。
 それはそうと、読み始めた徳富蘇峰『近世日本国民史』の「赤穂義士」だが、序章を読んだ以後はまったく開くことができていない。つまり、宙ぶらりん、なのである。なんともいえぬ浅ましさ、ではあるまいか。
 そんな状況なのに、突然積み本から渡部昇一『ことば・文化・教育』(大修館 1982/07)を取り出して読み始めたり、英文法や古典文法の本に目を通したりしているのだから──これは「浅茅が宿」現代語訳中に生じた疑問から読んでいる──、もうわたくしの脳ミソはカオスと化しておりまする。
 いやはやなんとも。◆

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