第3451日目2/2 〈このニュースに接したのも、「なにかのご縁」です。〉 [日々の思い・独り言]

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 08月16日 始値1,035円 終値1,024円
 08月17日 始値1,031円 終値1,051円

 病癒えて復調しつつあるこの1週間、自宅で購読する以外の新聞をコンビニで買って目を通している。エッセイ執筆準備の過程で新聞活用術・勉強術の類の本を読んでいるうち、その熱にあてられていろいろ買いこみ、各紙のカラーの違いや同じ内容の記事の読み比べを楽しむようになったのだ。そうした本に書かれているような、或る新聞では報じているが他では報じていないものがあることを、自分でも知った。
 シャープが「液晶事業への回帰を進めている」と報じたのは、08月17日付朝日新聞の経済欄、中村建太氏の署名記事。
 同社の液晶事業と聞いて株主でなくても脳裏を過ぎるのは、AQUOSの華々しいCMと、中国や台湾の新興メーカーに圧されて売上げが激減したニュースだ。一消費者としてはこれを以て日本は、電機産業大国の覇者の座から陥落したという印象が強い。この20年、わが国の電機産業の栄華はその残滓を舐めるが精々の印象である。
 今年2022年春、台湾の鴻海精密工業がシャープを買収。それに伴い液晶パネルを製造していた堺ディスプレイプロダクト(株)(SDP)はシャープと鴻海の共同運営に切り替わった。
 にもかかわらずこの夏、シャープはSDPの完全子会社化を発表したのである。先行き不透明な企業が、子会社とはいえやはり営業不振の企業をまるごと抱えこむのは「シンプルな戦略」(当該記事、シャープに近い関係者談より)だそうだ。本当に大丈夫なのか……、と株主たちの間に不安が際限なく広がってゆくのは自然の理。
 が、わたくしの如き楽観的な経済の素人は思うのである;これが電機産業大国日本の復活の狼煙になるのではないか、と。エビデンスはない、勘と希望でいうだけだ。不安は確かに募る。当時株主でなくても、シャープ株の低迷と事業の行き詰まりは見ていて唖然とした。しかしいまは、このニュースに期待の一欠片を見る。
 上に掲げたのは既におわかりのようにシャープの、昨日と今日(一昨日と昨日、ですか)の株価だ。普段買わない朝日新聞でこのニュースに接したのも、黒髪の乙女ではないが「なにかのご縁」。──なにをいいたいかはお察しあれ。
 それにしても──このニュース、読み得た限りの08月17日付新聞では、朝日新聞でしか読めなかった。報道自体は既に初夏の頃からされていたので他紙が記事にしなかったのも宜なるかな。ではなぜ朝日新聞だけが?
 ああ、そうか。これが所謂、「まとめモノ」記事(松林薫『新聞の正しい読み方』P112 NTT出版 2016/03)というものなのかもしれぬ。◆

第3451日目1/2 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。4/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 世の動乱は箱根山の向こうの関八州のみに留まらず、次第次第に全国へ飛び火してゆく。飛び火した先では新たな動乱が生まれた。京都も例外でない。
 まず、隣接する河内国で畠山家[18]の家督争いが勃発した。同族相食む争いは解決の糸口の見えぬまま泥沼化していった。3代将軍義満によって南北朝が統一[19]されて以後──少なくとも外見上は──泰平を謳歌していた都を、キナ臭い空気が覆った。人心も落ち着きを欠いていった。
 その京都も災いに見舞われた。春のことだ。疫病が蔓延して、多くの人が命を落とした。往来には屍が棄てられ、積みあげられ、死臭が漂った。その光景は、あたかも人の世の終わりが現出したようだ。──罹患を免れて次の日を迎えられた人は、屍が無造作に打ち棄てられた町の様子を目にして、心の限りに悲しく、痛ましく思い、同時に、無情、ということを思わずにいられなかったのである……。
 勝四郎も、件の光景に接して、心中思うところのある1人だ。武佐に長く住んでいるとはいえ、特段、所縁ある地でもなければ、ここに定まった仕事があるわけでもない。児玉も所詮は他人で、好意に甘えて然るべき身内ではない。──果たしてこのままで良いのだろうか? 否、良いわけがない。
 浮浪者(ふらもの)同然の生活を続けるぐらいならいっそ、命の危険を賭してでも故郷へ帰り、妻の跡を訪ね、もし本当に亡くなっているなら塚を建てて、弔ってやるべきではないのか。
 そう倩思い悩みしていた勝四郎だが、ようやく決心すると、梅雨の晴れ間の1日を選んで武佐を発ち、真間を目指した。10日ぐらいの旅であった。勝四郎がこのとき、どんなルートを辿ったか、詳らかにしない。
 ──。
 なつかしい真間郷へ着くと、既に宵刻。陽は西に沈み、雨雲を敷きつめたように空は暗い。地を照らす明かりはなにもなかった。足許がおぼつかない。が、久しく帰っていなかったとはいえ、祖父の代から暮らす里である。迷うこともあるまい──勝四郎はそう思い思いして、夏野をかき分けて、家があると思しき方角へ進み、古歌に詠まれた継橋の落ちた川を越えた。馬のいななき、足音もしない宵の真間[20]。田畑は手入れする人もなく、荒れ放題、放ったらかしにされたまま。旧の道もいまはどこやら定かでない。かつてそこにあったはずの人家もそこで生活していた人々の姿も、ない。偶さか行き交う人ありと雖もむかしからの里人には非ず。同じく時々人家を見るもむかしからの家にや非ず。
 そんな風に変わり果ててしまった故郷を歩きながら勝四郎は、段々と不安になってきた。自分の家はどこだろうか、と。いまいる場所で立ち惑うてから、更に20歩ばかり歩いてみると、──
 折良く雲の間から星影が覗き、地はやさしく照らされた。そのなかに、落雷で幹が割れた松の老樹のシルエットが浮かびあがる。勝四郎は、はっ、と息を呑んで、その松を凝視した。自分の家に昔からあった松に相違ない──あれぞわが家を知らす導!
 あふれんばかりの喜びを胸に歩を進めながら目を凝らして行く手を見やると、その松の向こうに一軒の家が、闇のなかでうずくまるように、しかし昔と変わらぬまま建っていた。誰かが住んでいるらしく、戸のすき間から燈火が細く洩れている。──ここに住む人もまた、むかしと同じ人ではないのだろうな。諦め半分の勝四郎だったが、宮木がいて、あれからずっと自分を想い慕い夫たる自分を待ってくれているのかも……という身勝手かつさもしい期待も半分、持っていた。
 家への路の窪みや石ころ、勝手気儘に生え伸びた草に足を奪られて転ばぬよう、はやる気持ちを抑えて、勝四郎は、松の傍らを過ぎて家の前に立った。閉ざされた扉の前で、コホン、とわざとらしく、なかの人にわかるぐらい大きく咳払いをする。
 と、それを聞きつけて、家のなかから、
 「どちら様ですか?」□



[18]畠山家
 →畠山政長と畠山義就兄弟(同根)による家督争い。既に兄弟の間には享徳の頃より不和の種蒔かれ、度々衝突を繰り返した。寛正2/1461年6月、山名是豊・毛利豊元の後援を得た政長が義就を破って、家督を継いだ。が、これに黙っている義就でもなく、応仁元/1467年、政長を京都に攻めた。ここに斯波家や将軍家の家督争いが絡んで、応仁・文明の乱が勃発した。
 家督争いが度々各家で発生し、時に国を揺るがす大事に発展するのは、南北朝時代この方、嫡子単独相続が行われるようになっていたためである。かつてのような分割相続ではなく、家督はただ1人が嗣ぐ、となれば、皆々同根相争う事態が出来するのは必然だろう。
[19]「3代将軍義満によって南北朝が統一……」
 →南朝元中9・北朝明徳3/1392年の出来事。南朝の後亀山天皇が京都入りして、所有する三種の神器を、自身の譲位という形で北朝の後小松天皇に授けたことで、南北朝合一が為された。
 義満が南朝に出した合一の条件は、①三種の神器を北朝へ渡すこと、②北条氏の時代と同じように天皇は両統から交互に出して即位させること(両統迭立)、③南朝が皇室領地(公領)を管理・相続すること、であった。
 が、③は実施されず南朝側は困窮を極め、②は当初から義満(というか幕府)にその意思なく、以後は北朝からのみ天皇が出た。南朝の断絶、である。
 斯様に北朝正統が立証されたようなものだが、江戸時代になるといわゆる〈南北朝正閏問題〉が起き、南朝正統論が出るようになった。明治時代の国定教科書問題もその延長線上にある。
[20]「古歌に詠まれた継橋の落ちた川を越えた。馬のいななき、足音もしない宵の真間」
 →典拠;『万葉集』巻十四「東歌」 「足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ」詠人不知(歌番3387)
 「右の四首、下総国の歌」てふ詞書あり。4首(歌番3384-3387)中3首が真間を詠み、その内2首が手児奈を詠う。(『万葉集 三』日本古典文学全集4 小学館 1973/12)◆

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