第0633日目 〈ヨブ記第12章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉9/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第12章です。

 ヨブ12:1-25〈ヨブと三人の友の議論 一〉9/11
 ヨブは3人の友に答えた、━━

 エリファズよ、ビルダドよ、ツォファルよ。君たちの知恵は大したものだが、死んでしまえばどうということもない。君たちはその知恵を以て御力と御業を語る。が、人間の限られた知恵を以て神を語ることが許されるのだろうか。
 さあ、生きとし生けるもの、森羅万象なべてに問うてみよ。すると教えてくれるはずだ━━神の御手がすべてを造り、御手のなかに万物があることを。人間など、神にとって何ほどの存在だろうか。
 「神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される。/国々を興し、また滅ぼし/国々を広げ、また限られる。/この地の民の頭たちを混乱に陥れ/道もなく茫漠としたさかい(境)をさまよわせられる。/光もなく、彼らは闇に手探りし/酔いしれたかのように、さまよう。」(ヨブ12:22-25)
 神はその者の行いに応じた報いを降す。



 人間がどれ程の存在というのか? 人間が限られた知恵で神を語るのが許されるのか?
 それはとても大きな問題であり、決して結論の出ない問題であります。何人も神の領域に近づくことはできない。ましてや世界を創世したその業やたゆまず人間に心を寄せてきたその知恵や心など、如何にして知ることができるでしょうか。
 でもこれは、あくまでユダヤの神、イスラエルの神にまつわるお話。日本のあちこちに坐す八百万の神々に於かれましては、もう少し敷居が低く、神と人の境ももっと近しいものであるように感じてなりません。自分たちの生活に神道が浸透しているからなのかな。
 最近必要があって『古事記』と『日本書紀』神代巻を読んでいたのですが、旧約聖書の神と無意識に比較すること度々で、思わず嘆息してしまいましたこと、ここに告白しておきます。



 区役所で用事を済ませたあと、某CDショップにてシューベルトとバッハのCDを購入。
 グールドのCDは10数枚持っていたが、或るときなにを思い迷ったか、(ヒンデミットとリヒャルト.S、シェーンベルクを除いて)軒並み処分してしまった。最近なんだかまた聴きたくなったので、今日はバッハ《ゴルドベルク変奏曲》(1981デジタル版)を購入。
 だけどシューベルトの《八重奏曲》(D.803,Op.166)って、晩年の作品なのに伸びやかで明快で可愛い曲ですね。これは小倉さんのこと思い出させない唯一の曲かも、ベートーヴェンの七重奏曲をそれ以前に否応なく想起させますから。でも愛しているんだ……。◆
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第0632日目 〈ヨブ記第11章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉8/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第11章です。

 ヨブ11:1-20〈ヨブと三人の友の議論 一〉8/11
 ナアマ人ツォファルがヨブにいった、━━

 自分は正しい、神の目に私は潔白である、というのが君の主張か。しかし、果たしてどうだろう。実際のところ、神の目に、いまの君はどう映るだろう。正しい者と映るだろうか。
 君は問うたね、神はなぜ自分を罪人と定め虐げるのか、神はなぜ自分へ背く者へ光を当てるのか、と。だがヨブよ、神はニセモノを見破り、悪を見逃さない。
 君はいま苦しみのなかにいて、それゆえ心は正しくない方向へ、つまり暗黒面に傾きつつある。だから君は神を疑うのだ。生まれたことを自ら嘆くのだ。
 「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ/神に向かって手を伸べるなら/また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ/あなたの天幕に不正をとどめないなら/その時こそ/あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく/恐怖を抱くこともないだろう。」(ヨブ11:20)
 「だが、神に逆らう者の目はかすむ。/逃れ場を失って/希望は最後の息を吐くように絶える。」(ヨブ11:20)



 苦しみの四面楚歌に遭うと、心はだんだんと蝕まれて正常な感覚を失う。バランスを欠いた心は禁忌を犯して(=罪を犯して)、もはや正義と信仰を顧みることがない。
 21世紀のこの国にも同じことが、自らを律し敬いと誠を忘れ果てた<日本>という国家と我ら国民にも、同じことが言えると思いませんか? なんとまぁ、歪な時代の到来でしょう。



 07月03日発行の季刊誌『考える人』(新潮社)を購入。目的の「村上春樹ロングインタヴュー」を不乱に耽読していたら、午前3時を回っていた。慌てて、本日のブログを更新しました。◆
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第0631日目 〈ヨブ記第10章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉7/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第10章です。

 ヨブ10:1-22〈ヨブと三人の友の議論 一〉7/11
 ヨブは悩み嘆き、神に向かって語りかける、━━

 なぜ私を罪人と定め、斯様に虐げるのですか。あなたはなぜ自分に背く者に光を当てるのですか。それがあなたにとって、正しいことなのでしょうか。
 「なぜわたしをとがめ立てし/過ちを追求なさるのですか/わたしが背く者ではないと知りながら(。)/あなたの手から/わたしを救いうる者はないと知りながら。」(ヨブ10:6-7)
 神よ、「心に留めてください/土くれとしてわたしを造り/塵に戻されるのだということを。」(ヨブ19:9)

 これまで私はあなたの加護で生きてきましたが、いま、このようにわが身へ理不尽な災いを蒙ったいま、私にはあなたの真意、本心がわかりました。
 あなたは、私が少しでもやましいこと、良くないことを考えたら、たちまちそこへ目をつけ、責めて苦しめ、苛まされるのです。ふと魔が差して邪な考えを抱き、すぐに心を改めて元の道へ戻ったとしても、ひとたび芽生えた悪を赦し、清めてようとはしないのです。
 そんなの、あんまりです。
 人は、神の前に平等ではないのですか。
 「わたしの人生など何ほどのこともないのです。/わたしから離れ去り、立ち直らせてください。/二度と帰ってこられない暗黒の死の闇の国に/わたしが行ってしまう前に。」(ヨブ10:20-21)



 <人は神の前に平等>━━きっとヨブはこれまでそう堅く信じてきた。それがいま揺らいでいる、他ならぬ神の試しにより。ヨブは嘆いた。呪う側へ回ろうとするヨブ。かつて妻がいったことを、心ならずも実行しようとしている。
 これでよいわけはない。が、ヨブは友の言葉に反論し、神を信じる心を忘れかけている。
 <人は神の前に平等である>。そのアンチテーゼとなるのが、災難に見舞われて外見も中身も変わってしまったヨブなのではある、とさんさんかは思うのですが、如何でしょうか。



 『特攻野郎Aチーム;THE MOVIE』は8月上映予定。TV版の大ファンでしたが、もう、みんな違う人なんですよ。G.ペパードは物故し、他の3人もそれなりのお年。
 観たい。けど、主要キャストは外見が全員、オリジナルを彷彿とさせるだけに不安。でもきっと、面白いんだよなぁ。たぶんこれ、観に行くなあ。◆
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第0630日目 〈ヨブ記第9章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉6/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第9章です。

 ヨブ9:1-35〈ヨブと三人の友の議論 一〉6/11
 ビルダドにヨブが答える、━━

 友なるビルダドよ、君のいうことはよくわかる。神より自分の方が正しいと主張できる者など、あるはずがない。神の心は智慧と力に満ちているから。神はすべてを支配し、その業には何人も逆らうことができぬ。
 が、それゆえにこそ、正しい者も神に対しては言葉を持つことができない。神は理由なく正しい者を傷つけることもある。例えば、私だ。私はいおう、所詮は同じなのだ、と。無垢であろうと罪人であろうと、逆らう者であろうと従う者であろうと、神は等しく滅ぼし尽くすのだ、と。
 「罪もないのに、突然、鞭打たれ/殺される人の絶望を神は嘲笑う。/この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。/神がその裁判官の顔を覆われたのだ。/ちがうというなら、誰がそうしたのか。」(ヨブ9:23-24)

 神の怒りを恐れることなく、私はここに宣言する、私は正当かつ公正に扱われてはいない、と。「苦しみの一つ一つがわたしに危惧を抱かせ/無罪を認めてもらえないことがよく分かる。/わたしは必ず罪ありとされるのだ。/なぜ、空しく労することがあろうか。」(ヨブ9:28-29)
 敢えて私は繰り返そう、私は正当かつ公正に扱われてはいないのだ、と。



 「ヨシュア記」や「サムエル記」あたりでしばしば書いた記憶があります━━旧約聖書の神は残忍である、と。人の行いに対して容赦なく降された神の業の描写に即して斯く申したわけでありますが、「ヨブ記」の本章では神に従う正しい者の側から、神の残酷と残忍、無慈悲について訴えの声があがりました。
 ならば正しければそれだけで神は慈悲の眼差し注ぎ、罪と縁なき生涯を歩ませ、幸を贈り給ふのか、と疑問が生まれるのは当然でないのか。……「ヨブ記」で提示されたこの問題は、敬虔であろうとなかろうと、万人の上にのしかかる永久の疑問であるように思います。
 違うでしょうか?



 今日、映画『RAILWAYS』を観てきました。夕暮れの宍道湖と風にそよいで波立つ麦畑。物語や一畑電車以上に心に残ったのは、それら福井の情景でした。感想を後日お披露目できればいいと思います。◆
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第0629日目 〈ヨブ記第8章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉5/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第8章です。

 ヨブ8:1-22〈ヨブと三人の友の議論 一〉5/11
 友の一人、シュア人ビルダドはいう、━━

 ヨブよ、あなたの言葉は、苦しみに任せた一時的な言葉にすぎない。これは因果応報というものだ。あなたの子らは相応の理由があって裁かれた。いまあなたの身に降りかかった災いも無縁ではない。
 あなたが神を求め、憐れみを乞うならば、また、あなた自身が潔白ならば、神は必ずあなたを顧みる。

 「地上での日々は影にすぎない。/父祖はあなたを教え導き/心に悟ったところから語りかけるであろう。」(ヨブ8:9-10)

 信仰の伝統から断絶した教えが命脈を保つことはない。本来育たぬ場所で育とうとするパピルスや葦が早晩枯れてしまうのと同じだ。その代わり、水さえあれば葦はどんな場所であっても、然るべき地を探し出して芽をつける。
 正しい人というのも同じではあるまいか。神は無垢なるあなたに再び笑顔を与え、歓びを授けてくださるであろう。一方で「あなたを憎む者は恥を被り/神に逆らう者の天幕は消え失せるであろう。」(ヨブ8:22)



 旧約聖書を初めて繙いて以来、我らはずっとユダヤの神、イスラエルの神なる主の業や怒りについて折々見て、ここの書物に登場する人々の行いや言葉によって神なる主への信仰と背反を知ってきました。それらは結局どこまで行っても<彼ら>の信仰であり、<彼ら>の神の行いにまつわる諸々のことでありました。
 が、イスラエルの神、主と、サタンのゲームにより開幕したこの一種の説話で以て、我らはユダヤやキリストの枠を超えた、ずっと普遍的な感覚を抱くに至りました。
 成程、「ヨブ記」は旧約聖書の一部を成しながらそれ以上に世界文学の高峰を占める作品であり、人間が突然不幸に出喰わしたときに誰もが感じる嘆きと恨みと希望を描いて、宗教や肌の色、信条や言語の壁を超越した地点で成立した人類全体のための書物である、とはいえるのでしょう。
 ヨブの苦しみはある日突然誰の身にも降りかかること。それを肝に銘じつつ、まだこれからしばらく、我らは「ヨブ記」を読んでゆきます。



 この結論は正しいのか? もっと熟慮すべきでは? 立ち帰るなら、いま。 
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第0628日目 〈ヨブ記第7章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉4/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第7章です。

 ヨブ7:1-21〈ヨブと三人の友の議論 一〉4/11
 (ヨブは続ける、━━)

 思うのだが、人生とは兵役に等しいのではないか。傭兵の如く日々を過ごし、慰みばかりの報酬を得る。━━それが人生というものではあるまいか。与えられた嗣業の日々は望みもないまま過ぎてゆく。
 目覚めている間は、わが身を蝕む苦しみから逃れ得ぬ。なら、眠ってしまえばどうか? 否、なにも変わらない。眠りのなかでも神よ、あなたは、夢を以て私を戦かせ、幻を以て私を脅かす。
 神よ、あなたにとって人間がどれ程のものだというのか。殊に私ヨブが、どれだけの者だというのか。なぜ私から苦しみを取り除き、罪を赦してくれないのか。人間は塵から生まれて塵に帰る。そうしたら幾等あなたとて、私を探し出すことはできない。

 「わたしの魂は息を奪われることを願い/骨にとどまるよりも死を選ぶ。/もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。/ほうっておいてください/わたしの一生は空しいのです。」(ヨブ7:15-16)



 これまで既に我らはヨブの嘆きを見てきました。が、今日の章こそ「ヨブ記」に於けるヨブの告白の基調音となる。
 以後は、どれだけ激越な告白(とここでは仮に呼んでおきますが、むろん、そんな生易しいものではありません)が出て来たとしても、本章の変奏に過ぎない。その変奏の豊かさと深みは━━突飛な比較で恐縮ですが━━、大バッハの《ゴルドベルク変奏曲》やベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》を想起させます。
 別ないい方をすれば、「ヨブ記」のいちばんのポイントは本章にこそあり、ここをじっくり読んでおけばヨブを見舞った災いとそれについての彼の嘆きにまつわるカンドコがわかる、と申しても言い過ぎではないと思います。
 なお、本章には、さんさんかが「ヨブ記」でいちばん好きな文言が出て来ます。ノートを終わらせるに当たって、引いておきます。曰く、━━
 「忘れないでください/わたしの命は風にすぎないことを。」(ヨブ7:7)  



 予定通り『津軽』読了。残りの時間は梨木香歩のエッセイ集『春になったら苺を摘みに』(新潮文庫)を読む。この人の文章は、透明感があってよい。内容も、それに劣らずよい。ファンなのであります。◆
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第0627日目 〈ヨブ記第6章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉3/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第6章です。

 ヨブ6:1-30〈ヨブと三人の友の議論 一〉3/11
 エリファズにヨブはいった、━━

 いまや私は神が敷いた脅迫の陣に在る。神からの責め苦に、私はどれだけ耐え忍ばねばならぬのか。忍耐したからとて、どんな終焉が私を待つというのか。
 遠方より来たるわが3人の友よ、君らのヨブが間違っているなら過ちを正してくれ。
 君たちの議論はなんのための議論なのか? 君たちにとって、絶望した者の言葉は風に等しいのか? 教えてほしい、友らよ。
 「だが今は、どうかわたしに顔を向けてくれ。/その顔に、偽りは言わない。/(中略)わたしの舌に不正があろうか/私の口は滅ぼす者を/わきまえていないだろうか。」(ヨブ6:28,30)



 絶望した者の言葉は、そうでない者にとってどれだけの意味合いがあるのか? これは、21世紀の現代に生きる我らも真摯に考えるべきでありましょう。
 理不尽な暴力に曝されている人がいます。自分の力ではどうしようもない暴力に曝されて、生きる希望を見出せなくなってしまっている人がいます。ヨブの悩みは、ヨブの嘆きは、ヨブの恨みは、時空を超えたいまの我らの身の上に、重くのしかかってきています。
 「絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ。」(ヨブ6:14)
 この言葉が胸の奥に痛烈に響いてくる人は、果たしてどれだけいるのでしょう?



 最近、星が見えなくて淋しい。海の音もしばらく聞いていない。
 このままでは、おいら、一種のホームシックにかかっちゃうよ。
 伊豆へ行って(戻って?)、そのまま富士山まで足を伸ばそうか。
 リフレッシュした状態で、再び下界へ降って仕事に精を出そう。◆
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第0626日目 〈ヨブ記第5章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉2/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第5章です。

 ヨブ5:1-27〈ヨブと三人の友の議論 一〉2/11
 わが友よ、呼んでみよ、とエリファズはいう。ヨブ、貴方の声に応える者が在るか否かを。ヨブよ、聖なる神以外の誰に、君は頼ろうとするのか?

 怒りと妬みは必ずその者を滅ぼす、とエリファズはいった。塵から災いは生まれず、土から苦しみは生まれない。なのに、「人間は生まれれば必ず苦しむ。/火花が必ず上に向かって飛ぶように。」(ヨブ5:7)
 それゆえにこそ、私は自分の問題を神にゆだねる。なぜなら、「六度苦難が襲っても、あなたを救い/七度襲っても/災いがあなたに触れないようにしてくださる」(ヨブ5:19)からだ。
 ヨブよ、貴方はあらゆる奸計や天災から守られている。それを信じよ。貴方の天幕は安全で、牧場の群れは一頭たりとも欠けることがなく、子孫は増え、一族は繁栄し、天寿を全うして墓へ入るのを、やがて貴方は知るだろう。
 「これこそ確かだ。/よく聞いて悟るがよい。」(ヨブ5:27)



 第4章からヨブとその友人たちとの論議が始まりました。話の内容は徐々にエスカレートしてゆくのですが、全編を通じてエリファズのここでの言葉程、力と希望に満ちた言葉(説得)はないように思います。
 確かに既にヨブの身へ降りかかった災いあるゆえ、却って逆効果かもしれません。が、エリファズはここで気休めをいっているのでは断じてなく、「希望を捨てるな、神を信じよ、これまで貴方がしてきたように」といっているのです。それは<諭し>とか<神への諂(へつら)い>とかではないのです。不幸に見舞われたと雖も、希望と救いを自ら捨ててはならぬ、といっているのです。
 少なくとも、さんさんかはそう考えています。そう考えて、ずっと読んできています。



 『津軽』は全然読めなかったよ、ごめんね。でも明日、昼休憩時に噛みしめて読了させていただきますよ。
 でもできれば、仕事終わり後のスタバで読了したいんだよな……なぜって、午後の仕事中、『津軽』のことで頭が一杯になっちゃうじゃないか。仕事が手につかなくなっちゃうかも。
 頭が一杯になっちゃうなんて、おぐゆーさんのことだけでじゅうぶんだぜ。◆
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第0625日目 〈ヨブ記第4章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉1/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第4章です。

 ヨブ4:1-21〈ヨブと三人の友の議論 一〉1/11
 友の一人、テマン人エリファズは斯く語りき、━━

 ヨブよ、あなたはこれまで多くの人を諭し、倒れる者に力を与えてきた。だのに自分の身に災いが降ると途端にくじけてしまう。
 思い出してほしい、友よ、「神を畏れる生き方が/あなたの頼みではなかったのか。/完全な道を歩むことが/あなたの希望ではなかったのか。」(ヨブ4:6)
 いまだかつて罪なき正しい者が滅びたことはない。災いと労苦は然るべき者の身の上にのみ降りかかるものだ。

 ヨブよ、友よ、わたしは夜の闇のなかから忍び寄るような声を聞いたことがある。その声はわたしにこういっていた、……
 「人が神より正しくありえようか。/(中略)(人は)塵の中に基を置く土の家に住む者。/しみに食い荒らされるように、崩れ去る。/日の出から日の入りまでに打ち砕かれ/心に留める者もないままに、永久に滅び去る」(ヨブ4:17,19-20)と。



 人を諭す者、人に力を与える者。そんな人程、外圧に屈しやすい場合があります。
 これまで自分は上の立場から言葉と力を与えてきた。指導者的立場、教師的立場にあった、といってよいかもしれません。それゆえに、彼は心の強い者だ、と思われ、慕われる。
 が、そんな者ほど、実は苦難や誘惑に弱いのかもしれない。自分の心に巣喰う<弱さ>から目を背けてきた部分は、決して否定できないと思います。
 ヨブも心の弱さを信仰の強さで支えてきた部分があるでしょう。それが、今回の神とサタンのゲームにより根本から揺るがされ、神を恨む者へと変貌を遂げんとしている。テマン人エリファズの言葉は、それを察して早いうちに信仰に戻れ、という助言であります。
 しかしながら、我ら人間は、ヨブの苦しみもエリファズの諫めも、生ある限り同じ肉体の内に抱えこんでしまっているのです。嗚呼……。



 ゆるゆる読み進めてきた太宰治『津軽』。昼休憩時のみの読書ということもあり、今日ようやくラスト30頁に突入。明日は休みで出掛けるので、そのときに読了できるかな……。
 「ヨブ記」が終わったらこれまでと同様、ここに感想をお披露目します(予定)。◆
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第0624日目 〈ヨブ記第3章:〈ヨブの嘆き〉〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第3章です

 ヨブ3:1-26〈ヨブの嘆き〉
 友の前でヨブは口を開いた。

 彼は自分の生まれた日を呪った。
 「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。/せめて、生まれてすぐ息絶えなかったのか。」(ヨブ3:11)
 「なぜわたしは葬り去られた流産の子/光を見ない子とならなかったのか。」(ヨブ3:16)

 彼は自分に突如襲いかかった不幸を嘆いた。
 「日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。/湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。/恐れていたことが起こった。/危惧していたことが襲いかかった。静けさも、安らぎも失い/憩うこともできず、わたしはわななく。」(ヨブ3:24-26)



 与えられた命を呪うとは何事か。それが、嘘偽りなきさんさんかの感想です。
 ヨブには、二重三重の苦しみと不幸が訪れた。呪い、嘆くのは、当然のことでありましょう。それは存分になされてよいと思います。我らには、ヨブと共に悲しみ、ヨブへ同情を寄せることができる。
 我が身に不幸が訪れたとき、人は誰しも「なぜ自分だけがこんな目に……」と思う。わたくしもそうでした。おそらく、皆さまもそうだと思います。
 が、嘆きはあくまで一時的な感情でしかない。如何にしてそれに呑みこまれず、自分を正しく持ち、不幸を克服するべきか。それを、わたくしたちはまず考えるべきです。机上の空論とか理想論とか言われもしましょうが、そんな外野の声は気にしません。経験した者ゆえの実感だからです。不幸や苦労を知る人は、自分を呪ったりはしないものです。



 ペルゴレージ《聖エミディウスのためのミサ曲》を聴く。再び、三度。そうして眠る。◆
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第0623日目 〈ヨブ記第2章:〈事の起こり〉2/2〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第2章です。

 ヨブ2:1-13〈事の起こり〉2/2
 また或るとき、神の使いたちが神の前に集まった。そのなかに、サタンもいた。
 地上の彼方此方を彷徨ってきたサタンを、神はなじった。理由なく彼を破滅させようと私をそそのかしたが、見よ、未だ彼は無垢である。
 サタンは再び嘲り、その御手を伸ばしてヨブの骨と肉へ触れてみよ、たちまち彼は神を、面と向かって罵倒し呪うにちがいない、と告げた。
 神は首肯し、サタンにヨブを試させた。サタンはヨブに触れ、彼を重い皮膚病にかからせた。ヨブは灰のなかに坐り、素焼きの欠片で体中を掻きむしった。
 その様子を見て、ヨブの妻は嘆息した。それ程になったならば、いっそ神を呪って死んだ方がマシではないですか、と。
 ヨブは一喝した。我らは神から幸福を与えられたのだから、同様に苦しみ、不幸をも甘んじて受けようではないか、と。「このようになっても、彼は唇を持って罪を犯すことはしなかった。」(ヨブ2:10)

 さて、ヨブを見舞った災難について知った彼の友人、即ちテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの3人は相談して、ヨブのいるウツの地目指して出発した。すっかり姿の変わってしまった友を見て、彼らは言葉をなくし、哀しんだ。
 「彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」(ヨブ2:13)



 さんさんかは皮膚が弱い体質です。ちょっとした日焼けですぐに全身が火ぶくれのようになり高熱が7日ばかり続いたり、以前も、原因は未だ不明ですけれど(「空気感染かなぁ」とかいわれましたっけ)体中の肌が水ぶくれのようになり皮膚と肉の間を無数の虫が這いずり回っているような病気にかかったり、と、皮膚絡みのトラブルは話題に欠きません(もちろん十年に一遍とかそんな程度の頻度ですがね)。
 ですから、ここでヨブが苦しみ素焼きの欠片で体中を掻きむしってなお苦しむ様は、心から理解できます。こればかりは経験しないとわからぬ類のものである。自分よりひどい病気に苦しんだ(苦しんでいる)方がいた(いる)のは、百も承知で自分の述懐として書かせていただきました。いやぁ、本当にこのときって、「なぜ自分ばかりが?」と嘆きたくなるんですよね。このまま生が終わってしまえばよいのに、と考えたことだって、あります。でも、心のどこかでいつかこの苦しみもなくなり、以前のような生活に戻れるだろう、と願っているのですよね。
 そんなとき、友が見舞いに来てくれるのはとってもうれしい。先述した病気の際も、昔からの友達が仕事を早退して来てくれたり、北欧在住で偶々その時分仕事で帰国していた元カノが見舞ってくれたり、と、心細いときでもあったせいで、定家卿の言葉を借りれば「落涙ヲ禁ジ得ズ」というところでありましたでしょうか。ぼくはこのとき、苦しみはやがて去る、と信じました。幸い病気はひどくなることなく、快方に向かいました……。
 さりながらヨブの場合は、神とサタンが仕掛けた信仰の揺らぎを試す一種のゲーム━━なんだかダンセイニ卿の神話的ファンタジーを想起させますが(そういえば卿は欽定訳聖書を自分の文章の範とした方でした)━━。駒にされたヨブは以後、サタンの思惑通り神を呪う者へ変貌を遂げてゆき(かけ)ます。
 「ヨブ記」は<義人が裁きを受ける理不尽さ>と<信仰のあり方>を示すと共に、<人間の神への挑戦>というテーマが含まれているように思われてなりません。



 コーヒーとドーナツがあれば、しあわせ。もぐもぐ食べて、ちょびちょび飲んで、ぼんやりしたり、本を読んだり、お喋りしたり。なんだかパッヘルベルの《カノン》をエンドレスで聴いていたくなる午後。ああ、今日も何事もなく、健やかに過ごせて、本当によかった。
 因みに、昼休みはほぼ確実にコーヒーとドーナツで過ごしています(食べる店もいつも同じで、某所のスターバックスです)。同僚には「足りるの!?」と訊かれますが、余程のことがない限り、空腹で夜まで持たないなんてことはありません。まあ、帰り道に立ち寄る別のスタバでコーヒーお代わりした際、たまぁにエクレールプラリネやキーライムケーキ、ザッハトルテ食べるときはあるけれど、それは仕事がうまくいったとき限定の自分へのご褒美なので、別のお話。
 ━━でも、コーヒー&ドーナツで読むレイモンド・カーヴァーって、あのドライさがいつもよりマイルドな雰囲気になりますね。◆
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第0622日目 〈ヨブ記第1章:〈事の起こり〉1/2〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第1章です。

 ヨブ1:1-22〈事の起こり〉1/2
どの時代とも定めがたい時代、ウツの地に、無垢で正しく神を畏れて悪を避ける、ヨブという男がいた。ヨブには7人の息子と3人の娘、7,000頭の羊と3,000頭のらくだ、500軛の牛と500頭の雌ろばがあった。彼は東の国でいちばん富裕であった。
 ヨブが敬虔であったことを示す一例を挙げる。7人の息子たちは順繰りに、自分の家で、兄弟姉妹を招いて宴会することがあった。それが一巡する毎、ヨブは呼びつけた息子たちを聖別し、いけにえをささげた。宴会の最中、子供たちが神を貶(おとし)め、呪ったかもしれない、と思ったからである。
 ウツの地のヨブとは斯様な男であった。

 さて、或るとき、神の前に神の使いたちが集まった。サタンも来た。まだその頃、神とサタンは敵対する間柄ではなかったのである。
 サタンは神に、自分は地上の彼方此方を彷徨っていた、と語った。
 そこで神はサタンに問うた、我が僕ヨブ程地上に正しい者はない、と。
 否、とサタンは嘲った。ヨブと雖も利益なしに神を敬うことなぞあるわけがない。神がその御手を伸ばして彼の財産に触れたらば、たちまちヨブは神を呪う者となるだろう、と。
 神は首肯し、サタンにヨブを試させた。━━

 その頃、ヨブの息子の一人が自分の家で兄弟姉妹を招いて宴会を催していた。
 ヨブは別に、自分の家にいた。ヨブの許へ一人の召使いがやって来て、いった。「シェバ人が襲ってきてろばを略奪して去り、居合わせた牧童は自分を除いて皆殺されました」
 話し終わらぬうちに、もう一人やって来て、いった。「天から降ってきた神の火により、羊も羊飼いも自分を除いて皆焼け死んでしまいました」
 話し終わらぬ内に、また一人やって来て、いった。「三つの部隊に分かれたカルデア人が襲ってきて、らくだの群れを襲って略奪してゆきました。居合わせた牧童は自分を除いて皆殺されました」
 話し終わらぬ内に、最後の一人がやって来て、いった。「お子様方皆が集まって宴会中のご長男宅を、荒れ野から吹いてきた大風が四方から襲い、家屋は倒れ、お子様方は誰一人その難を逃れることができませんでした」

 悲しい知らせが、ヨブを立て続けに襲った。
 ヨブは悲嘆に暮れた。衣を裂き、髪を剃り落とし、大地へひれ伏した。そうして、いった。「私は裸で母の胎を出た。/裸でそこへ帰ろう。/主は与え、主は奪う。/主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)
 こうしたことがあっても、ヨブは神を批難し、神を呪うことがなかった。
 ウツの地のヨブとは斯様な男である。



 ウツの地の王、乃至はウツの地方領主であったともされるヨブ。彼の住むウツの地は、塩の海即ち死海南東に位置するエドム(既に何度も出て来てお馴染みの地名です)とされます。後に読む「哀歌」4:21に「娘エドムよ、喜び祝うがよい/ウツの地に住む女よ。」という文言があるのが、その根拠の一つだそうです。
 本章を読んで、また本章以後も読んでいて、さんさんかは或る疑問を抱かざるを得ませんでした。
 ヨブは古今を通して正しい人、「義人」とされてきました。が、正直に申して、本当かな、と疑問がないわけではないのです。宴会を終えた息子たちが神を呪ったのではないか、侮蔑したのではないか、と疑心暗鬼になり、一々呼び出して聖別していけにえをささげた、というのは、果たして義人のやることでありましょうか。ヨブは「無垢で神を畏れる正しい人」である、というイメージがここにあるでしょうか。それともこれは、第3章以後で顕著になる神を呪う姿と対比させるための誇張なのでしょうか。
 確かにヨブは神を畏れ、敬う信仰の正しい人であった。それは疑う余地もありません。が、その一方で、「自分の身に神の怒りが降らぬよう奔走するオタメゴカシの男=ヨブ」、という印象も持っている、とだけ、正直に申し上げておきます。でも、それは悪いことではないと思います。



 参院選が告示された今日、さっそくわが家の近所にも1台だけですが、選挙カーがやってきました。単なる通りすがりで迷惑も一過性でしかない。が、嫌いな政党だったので、「ふん、お前の名前なんか書かないよぅだ」と口のなかで罵倒しました。やりすぎ?
 でも、そのあとで来た豆腐屋さんのラッパの音色と掛け声(「とうふ~、とうふ~」)が、なんとものどかでひなびた感じで、よかったなぁ(ハイドンの弦楽四重奏曲との奇妙な共鳴!)。なんだか今夜は豆腐が食べたいぞ。冷や奴にするか揚げるか、焼き豆腐もよいのだが……うむ、やはり(季節はともかく)湯豆腐か。迷うところである。
 ああ、この国は良い国だ。こんな夢想が許される、この自由。◆
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第0621日目 〈「ヨブ記」前夜〉 [ヨブ記]

 お待たせしました。明日から聖書読書ノートを再開、「ヨブ記」に入ります。
 主人公はウツの地に住まう義人ヨブ。時代は定かでありませんが、イスラエル王国の勃興以前とされます。
 ここで多くは語りません。日を追うに従って「ヨブ記」がなにを訴えるのか、なにを語るのか、それが明瞭に浮かびあがってきますから。そうした上で読者諸兄が、各々なりに感じ取ってくださればよい。レイチェル・カーソンの言葉通り、「知ることは感じることの半分も重要ではない」のです。
 チャップリンの初期作品『担へ、銃』(Shoulder Arms 1918)冒頭に掲げられた一節を引用して、明日から読む「ヨブ記」に備えたいと思います。曰く、━━
 “Peace on earth, ━━good will to all mankind.”(地上に平和を、人類に善意を)◆
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