第2881日目 〈原稿差し替えのお詫びと旧約聖書各巻前夜のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 先日お披露目しました第2881日目ですが、ちょっと反省すること頻りでありました。分量のことです。多いですね、文章も長いですね、いまに始まったことではありませんが。公開された件の拙文を読んでみて、その無神経ぶりに溜め息が出てしまいました。
 いろいろ考えたのですが、今回は蛮行に出ることにします。即ち、第2881日目を本稿に差し替え、さいしょ第2881日目としてお披露目した太宰治『新ハムレット』の感想を分断したものを、第2883日目と第2883日目としてお披露目し直すことにしたのです。どうぞ読者諸兄よ、ご理解とご了承の程を。
 なお、更新ペースについては5月中旬までは現状の通り、週1回更新とさせていただき、その頃に以後の更新ペースについて考えたいと思うております。
 ここ数日、『グッド・バイ』を読むことなく家にこもってずっと、昨夏に宣言していた旧約聖書各巻の「前夜」を、書き直したり、パソコンに入力したりしています。久しく聖書の世界から遠ざかっていたので頭をそちらへ戻すのにしばらく時間がかかりましたけれど、いまはどうにか読書当時の感覚を取り戻し、かつ各巻の内容等も思い出したりして、どっぷりと律法と物語と歴史の世界に心を遊ばせております。この気運の高まりに便乗して懸念事項である「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読書・再ノートが実現できればいいのですが、なかなかそう上手くはいかないようで困ります。
 それでは、また来週。◆

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第2880日目 〈新潮文庫から巻頭の口絵写真が消えたのって、いつ頃からなんだろう?〉 [日々の思い・独り言]

 新潮文庫のシェイクスピアで確かめたいことが一点あって、先日の昼下がり、通い馴れた新刊書店まで行ってきました。ひさしぶりの徒歩はさすがに疲れたよ。なんというても片道約3キロ、所要時間約40〜50分である。運動不足の身には、やや応えます。
 2階の文庫売り場で新潮文庫の棚からシェイクスピアを、とりあえず目的の1冊を開いたときのわたくしの表情をもし目にする機会あった人あらば、きっとその人はさぞかし滑稽な場面を見たことだろう。あると思うていたものがなかったことに、わたくしは驚愕したのでありました。
 同年輩の本読みなら記憶にある人多いだろうが、かつて一部の文庫には巻頭に口絵写真乃至はイラスト載せるものがありました。口絵写真の場合は片側1ページ、イラストは見開きになることが多かったかな。一応お断りしておくと、いまわたくしの念頭にある文庫は、写真を載せるものが新潮文庫のシェイクスピア、イラストを載せるものがハヤカワ文庫の一部作品であります。
 今回気になったのは、『リア王』の写真がどの劇団の、誰が扮したものであったか、それをどうしても知りたかったせいです。きっかけは……いわなくっちゃダメですか? 舞台裏を公開するようで気が引けますが、ああ単純な話なのでした、新潮文庫のシェイクスピアは全巻持っているのですが、『リア王』だけが4年ほど前に改版されたヴァージョンで、口絵写真を欠いていたからであります。他の作品はすべて、高校時代に3冊100円で古本屋の見切り棚から拾ってきたゆえ、写真のある版なのですが、『リア王』は何度となく処分しては買い直し、を続けているうち手許には件の写真のない文庫がある羽目になった、という次第。
 棚の前でそんな発見(?)をしたからだと思います、本稿を書くことを思い立ったのは。それからというもの、古本屋は勿論、新古書店も何軒か回って、いつ頃から巻頭の写真やイラストがなくなってしまったのだろう、とチェックして歩くようになってしまいました。その暫定的なご報告を、今日はさせていただきたく思います。
 正確な時期は不明なれど、1つのターニング・ポイントになるのは、平成10年代半ばであるようです。
 手持ちの、口絵写真あるシェイクスピア、例えば『お気に召すまま』は火事のあとにいちど買い直して平成15年6月第97版、高校のときに買いこんで現在まで架蔵する例えば『十二夜』は昭和61年10月第78版、またあるのを知っていながら電車のなかで読む本がなくなったため古本屋の均一本のなかからサルヴェージした『マクベス』は平成18年5月第102版、となっている。然るに件の『リア王』はといえば、平成28年6月第109版で、こちらは口絵写真のないものだ。
 そういえば、新潮文庫にわたくしの知る限り、三島由紀夫『サド公爵夫人・わが友ヒトラー』にも巻頭の口絵写真が付いていた、と記憶する。わたくしが高校時代に三島に狂ってわずかなバイト代の殆どを注ぎこんで新刊書店で買い漁った新潮文庫の三島作品集のなかに、この戯曲集もあったのだが、軒並み処分してしまったのですぐさまと確認すること能わず、同じく今回新刊書店でチェックしたのだけれど、こちらからも口絵写真は消えていた。淋しい。
 すべての刊行物を並べて自分の目でチェックしたわけでないから遺漏あるは止むなしことだが、こうして架蔵分だけで確認した上で推論を述べるなら、前述のように平成10年代中葉に粛々と行われた「改版」のタイミングを以て口絵は削られることになったと思しい。原材料の高騰とか、活字の大きさを変えることでページ数が増え、コストが嵩むようになったとかで、削除の理由はいろいろ考えられる。改版を機にそれまでの解説に代わって新しいものに差し替えられたりしたケースも、あったはずだ。コストをさえるための判断、というのがもっとも現実的なお話だろう。
 ハヤカワ文庫の場合も、やはり同じことがいえそうだが、こちらは新潮文庫のようにチェックするだけの材料がないため、他の人へお任せすることとしたい。たしかSFやファンタジー、映画のノヴェライズに、写真やイラストが多用されていたのではなかったか。特にいまでも印象に深く刻まれているのはフランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』の映画スチールやハネス・ボク『金色の階段の彼方』、或いは『インディ・ジョーンズ』シリーズのノヴェライズですね。これらの口絵イラストがどれだけ物語への没入度を深めてくれたことかっ!? これの廃止されたことを、わたくしはつくづく悲しく思う。◆

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第2879日目 〈岩波文庫の100冊〉 ※最終稿 [日々の思い・独り言]

 ここにかねてより予告してきた、私家版<岩波文庫の100冊>リストをお披露目する。あまり特徴のないリストになってしまったことを、まずはお詫びしたい。
 嘘偽り、虚勢などいっさいを排して、ほんとうに自分が滋養とし、救いとし、愛でたものだけを、ここに並べる。ありきたりの書名ばかりが並び、捻りなく意外性と無縁なリストになったが、ここにあるのがわたくしの人生の糧となった岩波文庫、ほんとうのラインナップである。
 土台作りと称していちばん最初にリストアップしたときはその数、250冊。流石にこれには目眩がした。それを半分以下に削ったところで力尽きて放置、するうち年が明け、ぐずぐずしていたら年度改めの時期に至り、そろそろ重い腰をあげる気にようやくなって、いまを迎えている。
 一念発起して<岩波文庫の100冊>を仕上げる気になった理由は、特にない。「ライバルは岩波文庫」なる阿呆なキャンペーンが始まったことも、春のリクエスト復刊に物足りなさを覚えたからでも、ない。単に、そろそろこの原稿を手放してしまいたい気分になっただけのこと。
 そうして今日;専ら削ることを第一として、「これ、いらねぇな」と口のなかで呟きながら、120数冊から100冊へ絞りこむ作業に然程労することはなかった。他の文庫で読んで執着した作品が随分とあって、それらは容赦なくリストから削りましたしね。
 そうしたことはあっても黄帯がどうしても膨らんでしまうことは仕方なく、白帯がいちばん少なくなってしまうこともまた仕方なかった。青帯はもう少しタイトルを増やしたく思うたが、方針に従って加除してゆくと、あれこんなものか、という結果に。赤帯と緑帯は、うん、まぁこんなものだろう。
 とまれ、宣言の最初からお披露目まで随分と時間が経ってしまい、けれども実際に要した時間はトータルすればおそらく8時間程度である。呵呵。殆どお披露目詐欺と化しつつあった本稿をこうしてようやく、読者諸兄にお届けできることが、なによりも喜ばしく、うれしい出来事なのだ。サンキャー。
 それでは、どうぞご笑覧ください。リストは下にございます。◆

【凡例】
一、以前本ブログでお披露目した「新潮文庫の100冊」のように1人1冊の原則は設けなかった。
一、全100冊を黄帯・緑帯・青帯・赤帯・白帯の順にカテゴライズした。
一、著編者不明及びアンソロジーに関しては「−」(ハイフン)を付して、それを示した。
一、各色帯書目は以下のように並べた。
  黄帯→成立年代順。但し『万葉集』と勅撰和歌集は一括して先頭に掲げ、成立順に並べた。
  緑帯→作者生年順。
  青帯→成立年代順。但し『論語』は旧約聖書の前に置いた。
  赤帯→成立年代順。但し著編者不明の古伝承及び詩歌選は一括して先頭に掲げた。
  白帯→作者生年順。
一、いずれも「通し番号→帯色→書名→著者→校訂/編集/翻訳者」の順で並べてある。
付言;すべて作品成立年時で並べることも考えたが、成立年時のはっきりとしないもの、どの段階を以て成立年時と判断するか迷ったもの、作者の業績全般から編まれた1冊などあることから早い時点でそれは棄てて、無難に上述の如きとした。意外な発見があって、愉しい配列にもなったことを告白しておく(緑帯のなかでは中也がいちばん遅く生まれているんですよ!?)。
 いや、まさか凡例を作る羽目になるとは思いませんでした。□

001 黄:新訂新訓 万葉集(上下) − 佐佐木信綱
002 黄:古今和歌集 嘉禄本 − 尾上八郎
003 黄:古今和歌集 − 佐伯梅友
004 黄:後撰和歌集 − 松田武夫
005 黄:拾遺和歌集 − 武田祐吉
006 黄:後拾遺和歌集 − 西下経一
007 黄:三奏本 金葉和歌集 − 松田武夫
008 黄:詞華和歌集 − 松田武夫
009 黄:千載和歌集 − 久保田淳
010 黄:新訂 新古今和歌集 − 佐佐木信綱
011 黄:新勅撰和歌集 − 久曾神昇・樋口芳麻呂
012 黄:玉葉和歌集 − 次田香澄
013 黄:竹取物語 − 阪倉篤義
014 黄:伊勢物語 − 大津有一
015 黄:蜻蛉日記 藤原道綱母 今西祐一郎
016 黄:更級日記 菅原孝標女 西下経一
017 黄:枕草子 清少納言 池田亀鑑
018 黄:建礼門院右京大夫集 建礼門院右京大夫 久松潜一・久保田淳
019 黄:問はず語り 後深草院二条 玉井幸助
020 黄:六百番歌合・六百番陳状 − 峯岸義秋
021 黄:定家八代抄(上下) 藤原定家・選 樋口芳麻呂・後藤重郎
022 黄:王朝秀歌選 − 樋口芳麻呂
023 黄:王朝漢詩選 − 小島憲之
024 黄:王朝物語秀歌選(上下) − 樋口芳麻呂
025 黄:中世歌論集 − 久松潜一
026 黄:芭蕉文集 松尾芭蕉 穎原退蔵
027 黄:芭蕉紀行文集 松尾芭蕉 中村俊定
028 黄:芭蕉 おくのほそ道[付:曽良旅日記・奥細道菅菰抄] 松尾芭蕉 萩原恭男
029 黄:芭蕉俳文集(上下) 松尾芭蕉 堀切実
030 黄:鬼貫句選・独ごと 上島鬼貫 復本一郎
031 黄:蕪村俳句集 与謝蕪村 尾形仂
032 黄:雨月物語 上田秋成 長島弘明
033 黄:漆山本 春雨物語 上田秋成
034 黄:新訂 一茶俳句集 小林一茶 丸山一彦
035 黄:橘曙覧全歌集 橘曙覧 水島直文・橋本政宣
036 黄:東海道四谷怪談 四世鶴屋南北 河竹繁俊
037 黄:江戸怪談集(全3巻) − 高田衛
038 緑:真景累が淵 三遊亭円朝
039 緑:牡丹灯籠 三遊亭円朝
040 緑:澁江抽斎 森鴎外
041 緑:北村透谷選集 北村透谷 勝本清一郎
042 緑:一兵卒の銃殺 田山花袋
043 緑:温泉めぐり 田山花袋
044 緑:高野聖・眉かくしの霊 泉鏡花 
045 緑:草迷宮 泉鏡花 
046 緑:註文帳・白鷺 泉鏡花
047 緑:上田敏全訳詩集 上田敏 山内義雄・矢野峰人
048 緑:黒髪 他二編 近松秋江 
049 緑:随筆集 明治の東京 鏑木清方 
050 緑:鏑木清方随筆集 鏑木清方 
051 緑:濹東綺譚 永井荷風 
052 緑:北原白秋歌集 北原白秋 高野公彦
053 緑:若山牧水歌集 若山牧水 若山喜志子
054 緑:新編 みなかみ紀行 若山牧水 池内紀
055 緑:郷愁の詩人 与謝蕪村 萩原朔太郎
056 緑:猫町 他十七編 萩原朔太郎
057 緑:貝殻追放抄 水上瀧太郎 
058 緑:或る少女の死まで 他二編 室生犀星 
059 緑:室生犀星詩集 室生犀星 室生犀星自選
060 緑:古句を観る 柴田宵曲
061 緑:俳諧随筆 蕉門の人々 柴田宵曲 
062 緑:中原中也詩集 中原中也
063 青:論語 孔子 金谷治
064 青:文語訳旧約聖書(全4巻) − 
065 青:文語訳新約聖書 詩篇付 − 
066 青:人生談義 エピクテトス 鹿野治助
067 青:読書について ショーペンハウエル 斎藤忍随
068 青:眠られぬ夜のために(第一部・第二部) ヒルティ 草間平作・大和邦太郎
069 青:幸福論(全3巻) ヒルティ 草間平作・大和邦太郎(第一部のみ草間単独訳)
070 青:古寺巡礼 和辻哲郎
071 青:信仰の遺産 岩下壮一
072 青:古典学入門 池田亀鑑
073 青:漱石詩注 吉川幸次郎
074 赤:中国名詩選(全3巻) − 松枝茂夫
075 赤:唐詩選(全3巻) − 前田直彬
076 赤:ニーベルンゲンの歌(前編・後編) − 相良守峯
077 赤:中世イギリス英雄叙事詩 ベーオウルフ − 忍足欣四郎
078 赤:フィンランド叙事詩 カレワラ(上下) リョンロット編 小泉保
079 赤:オシァン − 中村徳三郎
080 赤:ギリシア・ローマ叙情詩選 花冠 − 呉茂一
081 赤:トリスタン・イズー物語 ベディエ編 佐藤輝夫
082 赤:イギリス名詩選 − 平井正穗
083 赤: 英国ルネサンス恋愛ソネット集 − 岩崎宗治
084 赤:墓畔の哀歌 トマス・グレイ 福原麟太郎
085 赤:ワーズワース詩集 ウィリアム・ワーズワース 田部重治
086 赤:水妖記(ウンディーネ) フーケ- 柴田治三郎
087 赤:スペードの女王・ベールキン物語 ゴーゴリ 神西清
088 赤:怪談 ラフカディオ・ハーン 平井呈一
089 赤:あかい花 他四篇 ガルシン 神西清
090 赤:ヘンリ・ライクロフトの私記 ジョージ・ギッシング 平井正穗
091 赤:可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇 チェーホフ 神西清
092 赤:対訳 ペレアスとメリザンド メーテルランク 杉本秀太郎
093 赤:野草 魯迅 竹内好
094 赤:スコットランド紀行 エドウィン・ミュア 橋本槇矩
095 赤:海の沈黙・星への歩み ヴェルコール 河野興一・加藤周一
096 白:フィレンツェ史(上下) マキァベッリ 斎藤寛海
097 白:法の精神(全3巻) モンテスキュー 野田良之 他訳
098 白:金枝篇(全5巻) フレイザー 永橋卓介
099 白:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄
100 白:職業としての学問 マックス・ウェーバー 尾高邦雄■

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第2878日目 〈家族と過ごしたいので、しばらくは週1更新にします。〉 [日々の思い・独り言]

 今後の更新ですが当面、1週間に1度とさせていただきます。今週は本日を最後の更新とし、来週から、原則火曜日午前2時に更新してゆきます。
 詳細な理由のお伝えは、控えます。
 ブログのための原稿書きやその材料の仕込みに費やす時間、それはとっても悩ましくまた愉しいことなのですが、体力的・精神的・時間的にきつくなってきた、と告白するだけで、ご勘弁ください。
 家族と過ごすための時間をもっと作りたい。読書と映画鑑賞の時間を捻出したい。──そんな希望が背景にあるのは事実であります。重要度は勿論、書いた順番です。
 更新間隔は変更になりますが、これまで通り文章を書いていることに変わりはありません。毎日更新を再開後はしばらく、なにも書かずにいられるぐらいのストックを持っておきたいですね。
 第3000日目まで、残すところ120日余。毎日更新から週1更新に方針転換したことで、達成までの期間が延びてしまった。が、それでも今年中には──本ブログを開設して2年目か3年目あたりでぼんやり考えるようになった「目標;第3000日目」の達成を果たせるのではないでしょうか(どうしたわけか、やや他人事な言い方)。
 読者諸兄にはどうぞ、これまでと同じくご愛読いただければ嬉しいです。◆

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第2877日目 〈読むべき本が山ほどあるのに、森鷗外の文庫を買いこんだ、というお話。〉 [日々の思い・独り言]

 荷風と太宰と三島の本を年始から折に触れて読んでいて、森鷗外への興味を掻き立てられるのは、或る意味で必然かもしれない。荷風は『鷗外先生』(中公文庫)にまとめられた幾つもの随筆によって、太宰は「花吹雪」や中編「女の決闘」などに於いて、三島は『作家論』で熱心に弁ぜられた鷗外論に由来する。「たち依らば大樹の陰、たとえば鷗外、森林太郎」という太宰の文章は、はて、いったいどこで読んだのだったか……。
 かれらの文章を読み重ねてゆくにつれ、だんだんと自分のなかで鷗外の存在が大きくなる。が、まだわたくしには読むべき本がたくさん、ある。ここで新しい作家にご参入願うわけにもいかない。いま鷗外の文庫を買いこんでも、読むのは何年先になるか、わからぬからだ。
 書店の棚の前で逡巡し、その都度後ろ髪引かれる思いで立ち去るが、この前、ふと魔が差して過去、読んだことのある鷗外作品のあれこれを思い出して、そういえば自分が好んで読んだ鷗外作品って歴史に材を取った小説か翻訳のいずれかで、所謂現代小説にはあまり関心を持てなかったな、と。
 もうちょっと具体的な話をすれば、──
 高校の教科書で読んだ「舞姫」は文語体への不馴れゆえに当時は閉口したけれど、「かのやうに」と『伊沢蘭軒』『渋江抽斎』『北条霞亭』は愉しく読んだ記憶が、片隅にこびりついている。岩波文庫にあったシュニッツラー『みれん』、アンデルセン『即興詩人』、ゲーテ『ファウスト』の翻訳は一時期、目的ありきと雖も読むたび啓発されること多く、いまも書架の前面に収まっている。
 ああ、いけない。わたくしは、鷗外の作品についてどう思おうと、既読の作品について如何に回想しようと、かのやうな文章を書くべきでなかった。病気の発症である。それを誘引させたのは、その最後のダメ押しになったのは、咨、ワトスン、この文章なのだ。渡部昇一の戒めを思い出せ、文章は感情を増幅する、というそれを。
 さて、冷静になろう。大丈夫か、俺? ああ、大丈夫だ。自分への弁解の言葉は用意してある。
 いずれ、遅かれ早かれ、この日は来ていたのだ。それがたまたま令和2年3月のいまになっただけの話。気附けばわたくしは新潮文庫に入る鷗外の本、5冊を買いこんでいた(1日に、ではありません)。あわよくばちくま文庫の全集も、と思うたが、こちらは現在「舞姫」を収める第1巻しか目録に載らないのね。残念。古書店やネットでこちらの全巻セットを探すとしよう。
 ──とはいえ、いまはまだ鷗外は後回し、いずれ読む日の訪れるまで備蓄しておく本。なにはさておき、いまは太宰、太宰。今日明日中に長編「新ハムレット」を読了して、宿願の年度内新潮文庫版太宰治作品集の完読を達成したいのだ。ゆえに、筆を擱いて予約投稿して、……おやすみなさい、と読者諸兄にごあいさつしよう。◆

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第2876日目 〈みくらさんさんか、封印原稿について述べること。〉 [日々の思い・独り言]

 一度は下書きというか第一稿というか、そういう代物を仕上げたはよいものの、お披露目に至らなかった原稿は幾つもある。使用中のこのモレスキン、ラージサイズ方眼ノート(ハードカヴァー)にも、1つ。結びのマーク(◆)に至ることなく放棄したものは、勿論除いている。
 そんな風に陽の目を見なかった原稿をふたたび取り挙げる日は、果たして来るだろうか。これまでの実績を踏まえていえば、可能性は精々2割がよいところか。時が経れば次第に新鮮味は当然、書かれた内容や意見にギクシャクしたものを感じ、文章にも偽善の臭いを嗅ぎ取ってしまう。逆にいえば、そんななかからサルヴェージして改修を施し、どうにかお披露目できるぐらいまで(時に結構骨折って)仕立て直した原稿には、わたくしをしてそれだけの労を執らせる<輝き>があったのだろう。
 次のエッセイがなかなか書けず苦吟しているときはふと、過去のノートを漁って、「なにか使えそうなものはないかな」と期待してもみるのだが、結果が空振りに終わって時間を無為に使うただけじゃ、と嘆くのが火を見るより明らかなため、チャンドラー式に、否、最近は専ら第2873日目式に、心へ浮かぶ由無しことをひたすら書いてゆく(打鍵してゆく)ことになる。
 今年1月の終わり、下書きというか第一稿というか、そんな代物を書いて現在絶讃封印中なエッセイが1編、このモレスキンにはある。なにについて書いたか。『ラブライブ! サンシャイン!!』(以下、『LLS』)についてだ。全体のムードは、ネガティヴな色合いが濃い。炸裂してしまっている、といい変えても間違いではない。お披露目の機会を自ら棄てた理由は、そこにある。<るさんちまん>なんて一言で片附ける気にもなれぬ、どんよりとして、やたらと好戦的な文章だったのだ──。
 たぶん、日頃から胸の奥で燻っている複雑な気持ちを、ぶちまけたくなったのに違いない。吐き出してしまわないと、病むばかりですからね。キャストの1人がイヴェントで発した言葉に噛みつき、沼津の経済効果、今後の成長について憂いを示したり、おいお前は果たして何様であるか、と罵詈されても、まぁ仕方ないかな。
 持病さえなかったら他の熱心なライバーたちと同じように、ライヴやイヴェント、ライヴ・ヴューイングに参戦し、聖地・沼津への巡礼を平均月に1回は行っていたことだろう。なんというても沼津は子供時代を過ごした、第2の故郷。現役の在住民にはかなわないが誰彼を引き連れて迷うことなく各所を効率的に、かつ濃厚に巡礼して回り、外来客は足を向けること躊躇うだろう穴場スポットにて憩うこともできる。即ち、愛のみがあって憎なんて毫も抱くことなく、『LLS』を好きでいることができたはず。
 ──件の代物を、いま読み返してみた。ゾッ、とする。『LLS』になんの思い抱かぬ、またそも存在を知らぬ人が読んでも、覚える感情は不快以外の何物でもないだろうその原稿、されど永劫に破棄するつもりになれないのが本心。今後の再利用の可能性を視野へ入れてのことに非ず。もっと別次元のお話だ。以て戒めとし、己への諫めとせよ。
 ゆりかもめに乗って豊洲の運河を見おろしながら、こんなことを思う。いつか『LLS』について、憎をいっさい配して本来の、愛情たっぷりな文章を書ける日が来るのだろうか。咨、そうするにはモナミ、わたくしはちょっと血の気が多いようでありますよーソロー。◆

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第2875日目 〈英国ミステリが好きだから、この本を長い年月探していたのだ。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしは大英帝国に忠誠を誓う者である。本気でそう思うている。きっかけは勿論、シャーロック・ホームズだ。その次にアガサ・クリスティ、エミリ・ブロンテと続く。高校を卒業する春、親戚に連れられてイギリスへ旅行した。
 それを契機に英国そのものに惹かれて、歴史の本を繙き、料理に魅せられ、関心は小説ばかりでなく戯曲や詩、エッセイへ広がり、文学ばかりでなく映画や美術(ターナーとタデマが好き)、音楽に深く淫して(フィンジとRVW、エルガー、ダウランドが殊に好き)、いつの間にやら言語や文法までが好きになったとなっては、もはや病膏肓に入るというても宜しかろう。
 散漫になりがちな気配漂うゆえ、ここでは話題をミステリに絞る。
 入り口がホームズ、その次にクリスティ。となれば、そのあと海外ミステリを読んでゆく過程で英国ミステリが主軸になるのは、避けられぬ事態……というよりも、必然であろう。そこでみくらさんさんかは考える、腕組みして天井を睨んで、考える。クリスティのあとに読んだ英国ミステリって、なんだろう?
 ブロンテを振り出しにディケンズ、ヒルトン、などなど所謂メインストリーム或いはその路辺に咲くマイナー・ポエットの文学に耽溺する一方で、怪奇小説に淫してジェイムズやマッケンに歓喜しながら先達の導きに従い読んでゆく愉悦の時を過ごしていたが、さて、ミステリとなると……。誰の作品を、クリスティのあとに読んだのか、まるで覚えていないのである。誰かなのは間違いないが果たして誰であったか、手掛かりは既にこの世になく、また証言もあてにできない……。
 まぁ確かなのは、英国ミステリを愉しんで読んできた、ということである。
 若竹七海/小山正共著『英国ミステリ道中ひざくりげ』(光文社 2002年7月)という本がある。タイトル通り、夫婦である著者が英国ミステリの舞台になった或いは作者や作品にゆかりある場所を訪ね歩き、文章の端々に英国ミステリへの尋常ならざる<愛>が炸裂している、読んで楽しく見て愉しい(写真がいっぱい掲載されているのだ)、小山によるコラム(英国各地の古書店ガイド)も必読な1冊。
 じつはわたくし、新刊書店に並んでいるときには買いそびれ、その後ネットオークションや古書店で探すようにしていたが、なかなか見附けることのできない、個人的には<幻の本>も同然だった。1度だけ、非常に状態の悪いものを高田馬場の古書店で見掛けたが、帯はなく、表紙カバーは日焼けと黒ずみで汚れること甚だしく、本文にマーカーが縦横無尽に引かれた、オブジェにも鍋敷きにもなににもならぬものだった。むろん、買うはずがない。この本に1,500円の売価を付けた古書店も古書店だが、購うた人も購うた人である。
 そうして、じつはここからの数行が本稿の要諦なのだ。
 殆ど本書の入手ほぼ諦めていた先月の或る日、すっかりその本のことを忘れて沼津市内のと或る古書店にふらり、と入ったとき、なにげなく見渡した入り口近くの棚に、見覚えのあるタイトルが記された背表紙が視界に入った。新刊書店で昨日買ったのをそのまま並べました、という感じの、状態美麗なる初版帯附きな若竹七海/小山正共著『英国ミステリ道中ひざくりげ』である。売価900円。吉田健一の文庫と一緒にレジへ運び、店を出てからわが身の幸運を存分に噛みしめた……歌おう、感動する程の喜びをっ!!
 読みたいと思うたとき、もうこれで図書館のお世話にならずに済む。何度借り出しては後ろ髪引かれる思いで返却したことだろう。あんな悲しい経験とは、これでサヨウナラだ。コラムの活字をやたらと小さく感じることが、初めてこの本を新刊書店の平台で見附けたときから今日までに流れた時間の経過を思わずにいられないけれど、大丈夫、いまの俺にはハズキルーペがある。どんなもんだ、えっへん。
 ──本稿を、後日お披露目予定の本書感想文の予告編と受け取っていただいて、いっこう構わない。が、その公開日は不明である。まずはお待ちいただけると、嬉しいかな。ちゃお!◆

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第2874日目 〈岡松和夫『断弦』を3冊も買ってしまっている理由。〉 [日々の思い・独り言]

 同じ本を何冊も買ってしまった経験、読書好きな方なら1度や2度はあるはずだ。持っていることを忘れていた、持っているのはわかっているがどこにあるかいまは遭難中のため買い直した、大好きな本なので読書用・保管用・布教用に買い足した、持っているが酷使したことで壊滅寸前の様相を呈しているためもう1冊買う必要があった、その他諸々。
 以上はわたくし自身、経験のある「もう1冊買っちゃった、えへ」の背景である。忘れていたのはなぜか岩波文庫に集中しており、遭難中のため買い直したのはサンケイ文庫版キング短編集第1巻『骸骨乗組員』である。酷使したせいで(ほぼ)同じ本を買う必要に駆られたのは言わずもがな聖書と『論語』であり、大好きな本ゆえに買い足してきたのが岡松一夫『断弦』であった。
 この『断弦』については、様々な人が語ってきた。ぶっちゃけ、永井荷風と平井呈一の交際を核に据えた、他ならぬ平井呈一の近親者が綴ったいぶし銀の魅力を放つ小説で、大きな図書館なら架蔵しているのではないか。お読みになることを、もし未読の方が本稿をお読みくださっているならば、強くお奨めする。
 創元推理文庫から平井の創作とエッセイをまとめた『真夜中の檻』が出た際、東雅夫が解説でこれに触れていたのが、『断弦』を知ったきっかけだった。以来、これをどうしても読みたいと思い思いしていたところ、県立図書館にあるのを知ってすぐさま駆けつけ、現代日本小説の棚から探し出して近くの机に向かって閉館間際まで読み耽り、それでも読了することできなかったために借り出して、家に持ち帰って返却日まで何度となく読み返した……。結果、所有欲が高まり、斯くて古本屋を探し歩く日々が始まった──それは殆ど聖杯探索に似た様相を、やがて呈して悠希。
 最初の1冊はたしか、中野ブロードウェイのなかにあった間口の狭い古本屋で見附けた。売価が幾らであったか、忘れてしまった。パラフィン紙で丁寧に保護された、帯附き初版の『断弦』をわたくしはその晩、寝転がりながら読んで朝、目を覚ましたら抱きかかえておりましたよ。
 が、ふしぎなものだな、いったん所有してしまうと借りていたときと違って頻繁にページを繰ることがなくなるんだ。他に読む本もあるし、そればかり相手にしているわけにもゆかぬから、仕方ないんだけれどね。加えて、既に本はそこにいつでもあり、ゆえもたらされる安心感から、棚に収めて以後はまるで神棚に祀られたご神体のように崇め奉る対象になっている……さすがに誇大表現に過ぎているのは承知だ。けれど読者諸兄よ、極めて真実に近い気持ちなのだ。許せ、済まぬ。
 そうして現在、岡松一夫『断弦』は3冊、ここにある。3冊あるからとて誤解しないでほしい、けっして読書用・保管用・布教用というわけではないのだ。読書用と保管用、そこにもはや境界線はなく、布教用とても布教するに値する相手ももういない。棚にあるのを見ると、つい買うてしまう。その結果が、これである。不憫になって買ってしまう、というのはその本が長いこと棚に売れ残っているのを憐れに思うているうちに、いつの間にやら判官贔屓にも等しい愛情が湧き、やがて「自分が買わなくてどうするのか」という強迫観念に駆られて勇んで件の本をレジへ運んでわがものとした場合のことである。
 が、わたくしの場合、そうではないのだ。<出会いは或る日突然に>訪れて、<電光石火の恋>の病を一瞬にして発症、<惚れた芸妓を落籍かせて女房に落ち着かせる>が如き行為である。もしかすると他の誰かが読む機会を奪ってしまっているのかもしれない。が、ブックオフオンラインでアルバイトしていたとき、この本が破棄されて紙屑屋のトラックに放りこまれる場面を目撃した経験(トラウマとも)あると、この本の背表紙を見るたび記憶がよみがえり、つい引き取りたくなってしまうのですよ……。◆

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第2873日目 〈どうしようもなく、エッセイのネタがないことについて。〉 [日々の思い・独り言]

 限られた時間内で探すこと叶わず、出典を明示すること不可能となったのは残念だが、村上春樹はエッセイを連載するにあたり、事前に話題を幾つもリストアップして片っ端から書いてゆき、なくなったら連載終了になる旨文章があった。羨ましい限りである。正確なニュアンスは抜け落ちているに相違ないが、概ねそんな主旨であったはず。
 事前にネタをストックしているというが、その数は連載回数の何倍にも達するだろう。使わなかったものもあり、使えなかったものもあり、いつの間にか書き手のなかでの鮮度を失ったものもあり、実際に読者が読んだネタは氷山の一角と考えるべきだろう。
 羨ましく思うというのは、ネタのリストアップにじつはなくて、むしろそれを消化してゆくだけの集中力と話の広げ方、取り上げ方に由来する。わたくしも時にネタを幾つか、モレスキンのラージ・サイズ方眼ノートへ書き出すが、殆ど役に立ったことはない。書き出したときはおおよその仕上がりが予想されているところあるので、非常に心は高揚し脳ミソも活性化しているのだが、哀しいかな、実際に書くときは相応の時間が経過しているため、鮮度は勿論、「なにを書こうとしていたんだったかな」と小首を傾げる始末なのである。
 毎日毎日、ここにお披露目するための文章を書いている。ノートに手書きであったり、MacやWindowsであったり、と違いこそあれ、ぶっつけ本番、綱渡り状態で遮二無二書き綴っていることが専らなのは、ツール云々に関係ない事実だ。
 だいたい宵刻から数時間後にお披露目するエッセイについて考え始めて早ければ夕食前後から、たいていは風呂も浴びて寝るまでは自由な時間という時間帯に書き始める。それでも書けないときは、まるで書けない。そんなときはうだうだと文字を重ねて原稿が方向性を持ち始めるまで、ひたすら忍耐、ひたすら打鍵である。タイピングだけは早いのはたぶん、時間に追われて書いているその副産物であろう。
 休みの日を設けるのが、怖いのだ。体力的に時間的に精神的にきつかったら、或いは書くことがなにもなかったら、休みの日をつくって回復を待つのも1つの方法であろうことは、じゅうぶんに承知している。が、どうしたわけかそれを避けたい気持ちなのだ。休むことに多少なりとも罪悪感があるのかな。そんなマジメな人間ではないはずなのだが……。これもまた、サラリーマン生活で骨身まで染みこんだ習性なのかなぁ。いやはやまったく。
 お前の文章には内容がない、質も良くない、なんてこといわれても、毎日が日曜日なわけでもないので、そんなこといわれても困る。先々月まで一身上の都合により、毎日が日曜日どころかバカンスだったことは、言い訳のしようがないけれど。
 ……短時間でより良い原稿を書けるようになるよう、日々精進善処いたします。蛇足ながらご報告すると、本稿作成所要時間;38分。
 見守っていてください。◆

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第2872日目 〈吉祥寺-渋谷間を走った「帝都電鉄」について。──証明終わり。〉 [日々の思い・独り言]

 困っている。エッセイの蓄えが尽きた。備蓄、ゼロ。ぶるぶる震えてしまう言葉だ、背筋に寒気の走る言葉だ。備蓄、ゼロ。何度書いても、事態は好転しない。さらに困ったことに、エッセイのネタもないのだ。どんなに七転八倒、五体投地、輾転反側してみても、ネタは欠片も出てこない。いやぁ、困った。
 が、それでも書かなくてはならない。──え、ネタもないのに書くの? 然り、ない袖は振れない、というのは物質的なものに即していう言葉だ。やれやれ、ご愁傷様、と君云ふこと勿れ。強がりいうな、なんて頭を振り振りしながら見下すような白い眼を投げるの、止めてくれ。背筋がゾクゾク、心がさざめくではないか。……正直にいえば、こんな風に倩していると、いつの間にか=気附いたら、相応の分量になっているのだ。そうして、これ幸いと、エンドマーク(◆)を付ける。いまからそれを、君の前で証明しよう。
 豊洲への往復の車中にて、太宰治『新ハムレット』「乞食学生」を読んでいる。そのなかに、語り手と少年が帝都電鉄に乗って渋谷へ行くてふ件りがあってね、ふと気になって調べたわけサ。原文はこうである、──
 「吉祥寺駅から、帝都電鉄に乗り、渋谷に着いた」(P136 新潮文庫)
 この直前、かれらは井の頭にいる。「井の頭公園の池のほとりに、老夫婦二人きりで営んでいる小さい茶店が一軒ある。私は、私の三鷹の家に、ほんのたまに訪れて来る友人たちを、その茶店に案内する事にしているのである」(P120)……「森を通り抜け、石段を降り、弁天様の境内を横切り、動物園の前を通って池に出た。池をめぐって半町ほど歩けば目的の茶店である」(P122)……そうして訳あって帝都電鉄に乗って渋谷へ参じた次第だ。
 ここで2人が乗ったのは引用にある如く帝都電鉄、即ち、今日の京王井の頭線である。武蔵野を横断してまっすぐ線路が延びる省線、つまり現在の中央線快速や総武線各駅停車ではない。省線で渋谷に出るなら、新宿乗り換えになることはいまと同じだ。
 かれらが殴りこみをかける勢いで乗ったのが、今日の京王井の頭線であるのはわかった。使用した鉄道をちゃんと書いてくれる太宰の優しさに、われらは万歳を三唱しよう。バンザイダザイ、ダザイバンザイ、バンザイヴィーナス(嗚呼、茉夏は可愛かったなぁ)。
 では、とここで新たな疑問が、当然のように発生する;帝都電鉄、ってなに? (話が戻った)
 それはかつて存在した鉄道事業者の、改称後の名前だ。元は東京山手急行電鉄という。大東亜共栄圏と同様、理想を追い求めて諸般の事情により泡沫の夢と化した、山手線外周へ約50㎞にわたる環状路線を構想した鉄道事業者である。
 大正14/1925年に運行開始していた山手線の外周を取り囲むようにして新たな環状路線を敷設・運行するプランはしかし、鉄道省の審議が長引いている間に内閣総辞職、昭和大恐慌などの余波をもろに受けて頓挫、辛うじて免許取得済みの路線のうち比較的建設が容易であった渋谷−吉祥時間を開業させるに伴い「帝都電鉄」と改称するも、昭和15/1940年(なんだか最近、この年号に縁があるなぁ)に小田原急行電鉄に合併。この世から消滅した。
 ……1つの小説に登場する固有名詞を調べてみると、かならず<時代性>というものが浮かびあがってくる。三島由紀夫は、小説は風俗から風化し始める、と喝破した──と記憶する。風俗描写或いは固有名詞全般の不明。これが、近代文学のハードルを上げる要因の1つかもしれぬが、これはけっして瑕疵ではない。むろん、経年劣化でもない。
 むしろ考古学に属するのではないか。地表(上記引用文)に出現した化石(帝都電鉄)のまわりを慎重に、丹念に掘り進めて、片鱗乃至は全体像を摑む(帝都電鉄/東京山手急行電鉄の歴史と当時の国内の情勢)──まさしく、といえまいか。わたくしはこれを仮に、文芸考古学と名附けたい気分である。もし既にこのような学問があるなら、わが無知蒙昧を失笑して看過いただきたい。とはいえ、こんな作業が「これまで知らなかったことを知る」愉悦と法悦と歓喜をもたらしてくれるのは、誰にも否定できぬところだろう。
 鉄道については、文章を著した文人たちならば、なにかしら書き残している(意識してか無意識にか、それはさておくとして)。かれらが残した文章を繙けば、いまは埋もれてしまった歴史を掘り起こし、風景を再現し、人々の声を汲みあげることができる。考古学、と冗談ごかしていうのは、この点を考慮してのことだ。そうして鉄道の歴史は日本近代史のさまざまな面と、密接に結びついている。今後も機会あらば無学の歴史好きとして、このような調査報告をお披露目してゆきたい。
 ──
 ──どうだい、書けただろう? 書いているうちにどうにかなる、とわたくしは堅く信じて疑わない。井戸を掘り続けていれば、意外なところから水が湧き出て溜まるものさ。
 以上、証明終わり(Q.E.D.)。◆

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第2871日目 〈東武伊勢崎線、準急A太田行きに乗る。〉 [日々の思い・独り言]

 と或るアニメがきっかけで好きになった声優さんがいるのだけれど、その人の出身地は群馬県太田市であるという。へー、そうなんだ。『カミングアウトバラエティ!! 秘密のケンミンSHOW』のナレーションみたいな反応で恐縮だが、知ったときはそんな風に独り言ちた。
 そうしてわたくし、田舎は群馬県館林市なのである。太田市とは、邑楽町をはさんでご近所さんだ。──生まれも育ちも縁ないが父祖の地であり祖母が住まい、お墓もそこにある関係で、群馬には相応の愛着があるのだ……今年の秋メドでずっぱりと縁切りの予定で動いているが(万歳)。
 その声優さん、まぁ名前を出してしまうと内田彩さんなのだが、太田市出身であることに触発されたとほぼ同時に脳裏へ浮かんだのは、そういえばいまはもう廃止されたが、東武伊勢崎線の準急は行き先別に「A」と「B」というのがあったなぁ、ということ。「準急A」の運転区間は始発浅草から北千住までが各駅停車・北千住から太田まが準急区間・太田から終点伊勢崎までが各駅停車、「準急B」の運転区間は始発浅草から北千住まで各駅停車・北千住から東武動物公園まで準急区間・東武動物公園から終点伊勢崎まで各駅停車、であった。
 かつて館林に行く際は国鉄/JR京浜東北線で神田まで出て、そこから銀座線に乗り換えて終点の浅草まで行き(駅間で一瞬、車内灯が消えて補助灯に切り替わっていたのが懐かしい。浅草と田原町の間だったかな)、太田行きの準急Aに乗るのが常であった。物心ついたときから、電車を使うときはそうしていた……というよりも、その方法しかなかったのである。事情が変わったのは湘南新宿ラインが開通してからで、その後は専らこちらを使い、久喜経由で館林行きの電車に乗るようになったのだ。当然のことながら、久喜から乗る電車の種類がなんであるか、頓着しない。そこに行きさえすればいいのだから。館林が終点だしね。
 そんな次第なので、いつの間にか東武伊勢崎線の路線図から準急の区別がなくなっているのを知ったときは、そりゃぁたいそう驚きましただよ。厳密にいえば現在も東武伊勢崎線に「準急」は存在する。が、それはかつての準急ではないのだ。2003年3月のダイヤ改正にて「準急A」と「準急B」の区別は廃止された。いまは「準急」と「区間準急」である。
 さて。ここから先、可能であるなら東武線の路線図を下記URLから開いていただけると、嬉しい(https://railway.tobu.co.jp/guide/line/isezaki_line.html)。
 現在の東武伊勢崎線は、東武スカイツリー線の別称を持ち、併せて始発駅を2つ持つ;浅草駅と押上駅〈スカイツリー前〉である。「準急」と「区間準急」の始発駅も異なり、浅草駅始発は「準急」、押上駅始発が「区間準急」となる。
 押上駅を出発した準急は次の曳舟駅を出たあとは北千住駅までの各駅を通過、そのあとも西新井と草加に停車して、新越谷から先は終点の久喜まで各駅停車。
 浅草駅を出発した区間準急は北千住まで各駅停車し、その後は西新井、草加に停まって新越谷から先は終点まで各駅停車である。区間準急と代わらぬではないか、といわないでほしい。実はこの区間準急、久喜から先も延々と各駅停車を続けて利根川を渡り県を変えて終点の太田まで走るのだ(分福茶釜で有名な茂林寺の最寄り駅は途中駅「茂林寺前」である)。
 正直なところ、運転区間と名称がちぐはぐではないか、と思わないでもない。「区間準急」が文字通り、特定区間だけ準急として走りますよ、というのなら、それは押上発の準急にこそ冠せられるべき呼称ではあるまいか、と。浅草発の区間準急の方が余程、過去の準急としての務めを果たしておりますぜ? なんだ、「区間準急」なんて限定的な、実態と異なる名称は。ふぅ、どうしてこんな逆転現象のようなことが起こったのでしょうか。
 東武伊勢崎線の「準急」はね、浅草と太田と結ぶ、地平線の向こうに筑波と赤城の山影を見晴るかす関東平野を縦に貫き、ひたすらまっすぐ北の地を目指し、空っ風にも赤城おろしにも負けることなく、今日も元気に走り続ける唯一無二の存在でなくてはならんのですよ。「東武電鉄」って「武蔵国の東側を走る電車」のことなんだぜ(西武電鉄は西側ですな)。
 最近はさすがに両者の区別も混乱することなくなり、かつてのような義憤を感じても華麗にスルーする術を身に付けたので、ありのままを受け容れるようになったが、それでも東武伊勢崎線の準急の呼称だけは永く釈然としない気持ちを抱えたまま、これからも生きてゆくのだろうなぁ。
 わたくしが隠れ京急ファンなこともあって、独りで館林へ行くときは湘南新宿ラインではなく、京急線直通浅草線の終点押上駅から乗ることの方が多い。「スカイツリー前」という名称が示すように、東京スカイツリーの根元にある駅ゆえ、いつ行っても賑やかかつ前進困難な(時間帯・曜日のある)駅なのだけれど、東武伊勢崎線も浅草線/京浜急行線も坐れて快適なることが、まぁ唯一無二の利点といえようか。
 もっとも浅草駅で区間準急に乗るメリットも相応にあり、やはりその魅力の大なる点はホームが急角度に湾曲して車両との間に50センチばかりの隙間があく箇所あるところと、駅を出た途端に隅田川を堂々たる風格で渡って右手にアサヒビール本社とスカイツリーを、左手に隅田川両岸を彩る桜並木と緑を眺められるところは、他線ではけっして得られぬ目の保養といえよう。隅田川の花火大会のときは車内からもその光景を見られる。──押上経由だとこのような、子供の頃から当然のように眺めていた光景を目にする機会、すっかりなくなってしまっているのが淋しい。
 余計なことを付言すれば、横溝正史の短編「貸しボート十三号」では生首半チョンパな死体がボートに乗って隅田川を、東武伊勢崎線浅草駅を出てすぐの鉄橋の下を、人目に怪しと思われることなく流れ流れて浜離宮の沖合へ辿り着いてカップルを驚かせ、金田一と等々力警部が呆れるように笑ってしまったのでありました。
 ──筆を擱こうとして思い出したけれど、むかし館林駅の東武佐野線ホーム側にあったラーメン屋さん、美味しくって、館林駅で乗り換えに時間あれば必ず寄っていたなぁ。昔ながらのラーメン、中華めんという方が相応しいかもしれないけれど、ラーメン王石神の舌には合わぬだろうけれど、これまで食べたなかで五本指に入る<うまいラーメン>だった。そういえば太田駅にもむかし、ホームの端っこにラーメン屋があったような記憶があるのだが……?◆

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第2870日目 〈それではみなさん、さようなら。〉 [日々の思い・独り言]

 六本木一丁目を離れることになんの感慨も湧かないのは、どうしてなのだろう。
 上長や同僚に恵まれた仕事は面白く、時間の過ぎるのも忘れる程に楽しんでいたのだが、やはり最後の最後で耳の病気がそれにストップをかけた。耳鳴りはいつものこととはいえ、新しい薬になったのが躓きの原因、釈然としない幕切れの原因であろう。
 殆ど仕事らしいこともできぬまま最後の1週間を(事情を知らぬ他チームの方々からは白い目を送られながら)過ごし、表情は完璧なまでの営業スマイル、口角あげた口からは感謝の言葉を述べ散らして業務エリアを出たあとは、すぐさま憮然とした顔になり、未練なくさっさとエレヴェーターを呼んで、偏奇館跡碑を眺めたことでありますよ。
 そのまま足は亡き婚約者の母校へ向かってそこで人に会い、用事を済ませたらば青山霊園に毎月恒例の墓参をしてきた。チクショウめ、という思いである。沖田艦長ではないが、バカめ、といってやりたい気分だ。こんな気持ちを抱えてここを訪れたくなかった──歩きながら腹のなかで連衆を叱咤罵倒して殴打の真似でもしていれば収まるか、と淡い期待を抱いたが、空振りであった。
 わたくしはキミたちに事情を知ってほしいわけではなかったのだ。知るべき者だけが知っていればいい。キミたちは事情を知る立場の者ではないし、知る必要のない立場なのだ、と、なぜわからない?
 上長や同僚に恵まれた仕事は面白く、時間の過ぎるのも忘れる程に楽しんでいたのだが、んんん、なんだか後味の悪い3週間であったな。やっぱり職場環境って大切だ。
 では、さようなら。◆

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