第3615日目 〈「喪」の日常に古典和歌書写を組みこむこと。〉 [日々の思い・独り言]

 明るい事象を語りたい。建設的な話をしたい。──と思えどもそれは難しいこと。いまのわたくしにそんな胆力も気持を維持する力もないのだ。ただ伝えられるとすれば、わたくしには大事であっても読者諸兄にはどうでもよいこと、なのである。萩原朔太郎『恋愛名歌集』にまつわる話だ。即ち、──
 モレスキンの各章メモをノートに書き写して、それっきりだった。斜線を引いた歌をノートに書き写すか考えているとき、中断を余儀なくされたのだ。考えていたことさえ忘れ果てていた。やるべきことの洗い出しが済んで、翌日の予定を立てて、それをこなしてゆくことで日々の営みが前進するようになった頃に、ふと思い出したのである。
 邪な考えは、ふとした拍子に心のなかへ土足で上がりこみ、いつの間にかどっかと胡坐をかいて居坐っている。気がつかないうちにそれは居場所を広げて、健全な心を蝕んでゆく。自分のなかにいつ、それが忍びこんだのか、知る人はすくない。気附いて対峙できる術を知る人は、同じくらいにすくないかもしれぬ。
 あなたは、どう? わたくしのことか? イエス。
 邪な考えに支配されたりしなかった。負の感情に呑みこまれても、どうにか抜け出せてきた。それは、なにによってもたらされたか? ──むろん両親の愛情と育て方のお陰がいちばん大きいけれど、いまそれは脇に置くとして。
 ──本を読み、文章を書くことで、どうにか救われてきたように思う。過去にも同じ趣旨の文章は本ブログでお披露目したことあるけれど、いま程それを実感できるときはない。かつては理念であり観念だった。が、いまは違う。20年前と同じく、35年前と同じく、体も心もそれを知っている。実感している。実感と経験こそがすべてである。
 20年前も35年前も、悲しみが一つの区切りを迎えた頃、再び本を読み始め、小説を再び書き始めた。それが現実と折り合うための抵抗であり、自己治療方法だったのだろう。
 抵抗と自己治療。今回は、萩原朔太郎『恋愛名歌集』の斜線歌をノートへ書き写す作業が、その役を担う。正直にいえば、なんでも良かったんだよ。たまたま中断していた書き物が、これであったというだけで。
 『万葉集』に始まり、『古今集』から六代集へ、『新古今集』へ至る朔太郎選歌から、斜線を引いた計約80首を書き写す。
 ──その日やるべきことがなくなり(結果が「済み」であれ「未」であれ)手持ち無沙汰になって様々考えることができる時間帯、いい換えればいちばん危険な時間帯を、書写という単純作業に費やして一応の知的満足を味わった後に、くたっと寝る。このルーティンが、いまの自分には合っているようだ。と同時に、自分のなかで燠火のようにまだ残っていた古典への情熱が、ふつふつ甦ってくると感じているのも事実。
 2023年02月13日 18時26分
 かつての小説執筆のように想像力が羽を広げて自在に空を舞うことはないけれど、書写という作業を通じてあたかも往時、古典を書写して後世に残した人々の、或いは異本を博捜して本文校訂に従事した人々の、気持や使命感を想像もしくは追体験しているてふ気分を味わったのは偽りなき事実である。これを風狂というべきか。
 おそらくこの感覚を味わう一助となったのは歿する前後に購入して、いま並行して読んでいる前田雅之『古典と日本人』(光文社新書 2022/12)と村井康彦『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書 2020/10)であろう。この2冊の存在は無視できない。併せてかつて貧書生だった時分、図書館で借りた数々の私家集、勅撰集を縦書きノートに写した経験──これをも少し綺麗にいえば、ノスタルジーといふ──が思い出されていることもあろうか。
 閑話休題。
 いまはまだ……悲しみが一つの区切りを迎えた、とは言い難い。果たしてそんな時が訪れるかも疑問だ。けれど、遺された家族は生きなくてはならぬ。生きるためにわたくしが手段の一つとしたのが読書であり、文章を書くことである。
 報道されるような事件を起こすことなく、法に抵触する犯罪とも無縁で生きてこられたのは、読書と執筆が、壊れそうになる自分を都度正しい方向へ導いてくれたから。単純にいうてしまえば、自分がどんな状況にあり、どんな境遇にあろうとも、読書と執筆は、心と体を支える役を担うてきたのだ。
 そう考えると、いま、中断していた書き物があったことは、不幸中の幸いであったか。この状況で最初の一字から文章を書き始める;そもその構想というか、なにを書くかという段階から始めねばならぬのは、チト酷なことだ。それについていろいろ考えを巡らせたりしている間に、邪な考えに支配されたり、負の感情に呑みこまれているやもしれぬではないか。
 幾らメモ部分のノートへの書写が終わっていたとはいえ、斜線歌の書き写しを実行するか思案していたとはいえ、結果的には朔太郎の本があったことで気が紛れ、救われている部分はあったのだろうな、と思うている。そんな意味では、感謝の1冊さ。◆

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