第3621日目 〈安倍の復活、みくらの復活。──同列に語るなYO。〉【第三稿、決定稿】 [日々の思い・独り言]

 最悪の形で総理を辞任した安倍は、正に政治家として地獄に落ちた。安倍が経験したのは二つの地獄である。一つは、「総理の座を投げ出した敗残者」としての外部からの酷評。そしてもう一つは、「自信の喪失」という内面の崩壊である。(山口敬之『総理』P64 幻冬舎 2016/06)

 安倍元総理は第一次政権が不本意な結果に終わったあと、自民党総裁として返り咲くまで約5年、雌伏の期間を過ごす。この5年間という歳月が安倍晋三を変えた。しかしこの5年間は常人には想像しがたい試練の時期だった。決してなだらかでない再起への道を、よくぞ折れることなく歩んだと敬服するより他ない鍛錬の時期であった。
 山口のいう「外部からの酷評」とは体調悪化というやむなき事情ありと雖も就任から1年足らずで退陣、ゆえに政権放り出しと周囲から容赦ない侮蔑の言葉を浴び、これまでは引きも切らず訪れていた人たちが潮の引いたように寄りつかなくなったことを指す。加えてその跡を襲った2人の首相が約1年で退陣に追いこまれて、最終的に自民党が下野する遠因を作ったと誹謗されたこともあったという。
 安倍はもう終わった。それが世間の見方だった。本人のなかにもそうした思いはあったようだ。が、ご存知のように安倍晋三は復活した。雌伏の5年間を安倍は無為に過ごしたりしなかった。ではその間、安倍はなにをして過ごし、なにを行ったか。
 勿論、地元の山口県下関市に戻った。父晋太郎の代からの後援団体に頭をさげて回った。本気で、命を懸けて政治をやっていたのか。支持者からそう詰問されて返事に窮した場面もあったという。地元でミニ集会を何度も開催して、有権者の声を直接聴いた。有権者が──というよりは国民が、本当に政治に求めている課題・要望はなにか、聴くことができたのは貴重だった。こうして安倍は、次の衆院選での圧勝を視野に入れた地元での、地味な活動に全力を傾注して、足許を固めていった。脆弱に陥った地盤を今一度踏み固め、更に盤石なものにする改良工事にこれ務めたのである。
 そればかりではない。この間の安倍の行動として夙に知られるのが、夫人や第一次政権スタッフといっしょに高尾山へ登ったことだ。これは、第一次政権で内閣広報官を務めた長谷川榮一の提唱によるという(長谷川は第二次政権に於いて総理大臣補佐官兼内閣広報官を務めた)。Facebookで(ン、いまはメタか?)「安倍さんと一緒に高尾山登山をしませんか」と呼びかけると、山頂に到達する頃には300人程の支持者が安倍の周りに集まっていた由。かれらが掛けてくれる声は皆あたたかく、それは安倍をして、もう終わった、という声を自分のなかから払拭するには充分な効果があったようだ。それを契機に安倍はだんだんと、自信を取り戻していった。本人の言葉である。曰く、──

 それ(高尾登山での激励:みくら註)が自信を回復することにつながりました。厳しくマスコミに叩かれ、自信も誇りも砕け散った中から、だんだんともう一度挑戦しようという気分が湧いてきました。(安倍晋三『安倍晋三 回顧録』P91 中央公論新社 2023/02)

──と。
 が、それだけが安倍復活の機運だったのではない。前掲の山口『総理』は──また他著者による類書でも──もう2つ、大きなトピックとして中川昭一元財務相兼金融担当相の死と、東日本大震災被災地での邂逅を挙げる。
 中川昭一といえば当時メディアが途切れることなく流したローマでの酩酊会見が専ら思い出されるけれど、その実際は闘病の副産物であったらしい。
 2009年10月、中川は自宅のベッドで寝た状態で亡くなっているのが発見された。享年54。死因はいまに至るも不明というが行政解剖の結果、循環器系の臓器や血管に複数の異常があったことがわかり、体内からアルコール分が検出されたという。以前から中川は椎間板ヘルニアの「痛みに耐えきれず、鎮痛剤や精神安定剤、睡眠導入剤などを大量に薬を飲んでいた」(石橋文登『安倍晋三秘録』P232 飛鳥新社 2020/11 原文ママ)。
 ──睡眠導入剤を飲んだらアルコールは絶対に、一滴も体に入れるな。そうかかりつけ医から厳重訓告された経験が、わたくしにはある。なぜか、と問うと、医師はただ一言を以てわたくしから二の句を奪った。即ち、記憶障害を起こしたり一時的記憶欠落など起こしたりするよ、と。これを聴いて以来わたくしは、不眠で悩まされた時でもアルコールや睡眠導入剤どちらかに頼ることはあっても、両方を一緒に服用するなんて愚かな考えはきっぱりと捨てた。
 閑話休題。
 安倍の嘆きよう、落ちこみようは凄かったらしい。同じ保守系政治家として肝胆相照らす仲であり、第一次政権発足時は政調会長に迎えた程だ。安倍の追悼文はいまもネットで読めるけれど、読むたびに涙腺をゆるませられて、2人の間にあった絆の深さに思い致すのだ。
 とまれ志を同じうした中川の余りに早い逝去が、失意の底にあって未来を模索中だった安倍に再チャレンジへの意欲を掻き立たせたようである。
 もう1つ、挙げられるのは、東日本大震災直後に自らトラックを運転して現地入りし、救援物資を配って歩き、各地の避難所を訪ねて被災者たちに声を掛けて回ったことだ。平成23/2011年04月07日、木曜日である。最後の訪問先である宮城県亘理町の避難所で、安倍は忘れられない出会いをした。同行した山口敬之は、前掲書でこう書く。曰く、──

 ここでも安倍は一区画ずつ声を掛け、跪いて話を聞いていた。もう日が暮れかかっていた。私は腰が痛くなって、体育館の壁にもたれて安倍の様子を見守っていると、一人の少女が話しかけてきた。(P93)
 (中略)
 しばらくして、全区画を回り終わった安倍が近づいてきた。立ち上がって望美ちゃんを紹介し、彼女の置かれた状況を説明した。母を失った女の子を前に、安倍も無言で同様に立ちすくんだ。静寂のなかで進退窮まった我々を、望美ちゃんの明るい声が救った。
「ヒゲのおじさん、安倍さんと写真撮ってよ。総理大臣だったんでしょ?」(P94)

──と。
 このあと山口は、現地での少女と安倍の会話やその後も続いた交流、少女の希望通り小学校が再建されてあちこちに散り散りになった友だちと再び一緒に通えるようになったこと、第二次政権発足1ヶ月後の所信表明演説で被災地での出会いについて触れられたこと、就任して最初の被災地訪問に亘理町を選び少女と再会したこと、について触れる。
 盟友・中川昭一の死と被災地での出会い。「内面の修復」に筆を費やしてきた最後に山口は、こう書いて結んだ。曰く、「この二人が安倍の復活に向けて大きな力となったことは間違いない」(P96)と。
 ちなみに前掲『安倍晋三 回顧録』には中川の名前は登場しない。少女についても触れられない。遺族や本人への配慮の結果と思われる。敢えて語らなかった、語っても削られたのだろう。
 もともと読書をする方ではなかったらしい。正直なところ、余りイメージはない。が、追悼写真集に何枚か載り、追悼特集を組んだ言論誌各種でも一部寄稿者が明かすように、或いは国葬での菅前首相の追悼演説で具体的書名が引かれたように、安倍晋三は読書家ではあった。世間並みの読書好きというのではなくもっと大局を摑むための一助として読書をしていた、という方が実態なのかも知れないが、とまれ安倍晋三は読書家であった。チャーチルの伝記を愛読する一方でスティーヴン・キングの小説を読んで他人に奨めるような宰相がかつてあったか。
 岩田温と渡部玄一の証言、八幡和郎の文章を引く。曰く、──

 (会食の席でフェミニズムが話題に上った際。原点となるのはエンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』だと説明した。それがきっかけで安倍がエンゲルスを読んでいることを後日、人伝で聞いた──)安倍元総理は実に熱心な読書家、勉強家であったが、多くの国民はこの事実を知らないのではないか。……政治家で「なにか面白い本はないか?」と尋ねられると、いくつかの本を紹介することにしている。だが、実際に思想、哲学の著作に目を通される方は少ない。政治家は多忙な仕事であることを重々承知しているので、重要著作の概要を紹介することが自分の仕事であろうと考えていた。だからこそ、安倍元総理が共産主義、フェミニズムの著作を読み込んでおられることに衝撃を受けたのだ。胆識ある偉大な大宰相は、無類の読書家であった事実を伝えたい。(岩田温 『WiLL』2022年11月特集号 P225 ワック 2022/11)

 なかでも印象的だったのは、安倍先生がスティーブン・キングのSF小説『アンダー・ザ・ドーム』についてお話されたことです。……安倍先生は父[渡部昇一]の著作をはじめ、政治や歴史に関する本を読まれるイメージが強かったので、海外の小説もお好きであったのは意外でした。(渡部玄一 『WiLL』2022年11月特集号 P241-2 ワック 2022/11 []内引用者 原文ママ)

 安倍さんの素晴らしいことは、この浪人中の時間を無駄にせず、生まれ変わったことです。もともと、安倍さんは、学生時代から勉強が大好きというタイプではないし、映画とか映像系は幅広く見るし、本は読みますが、いわゆる読書家でもありませんでした。総理を辞めてから再登板するまでのあいだは、人が変わったように読書に励み、堅い本をアンダーラインを引きながら読んだり、各方面の専門家と会って知識を獲得したりしていました。(八幡和郎『』P129 ワニブックス 2022/09 原文ママ)

 なお谷口智彦『誰も書かなかった安倍晋三』(飛鳥新社 2020/11)に、自宅書庫の棚を背にはにかんだような表情の安倍が1冊の本を手にした写真が載る。その本、『NEVER DESPAIR 1945-1965』は、戦後のチャーチルを描いた、全8巻から成るチャーチルの公式伝記最終巻の由(これを入手した経緯は谷口の本に詳しいから省く)。ドイツから祖国を守り抜いて勝利に導いたチャーチルが戦後、途端に英国民からそっぽを向かれたのは聞く話だが、本書はその時期のチャーチルを描いた本で、書名を和訳すれば「絶望するな」になる。首相の座を退き全方位から叩かれていた時期の安倍にとって、ぴたり、と自分の心情に重なる部分があったのだろう、それゆえの愛読書になったのだろう。このような背景を知ってしまうと、途端に当該書を読みたくなってしまうのが悪いクセ。買ったか? さてね。
 ──心身は充実して気力を取り戻し、前進への力強い一歩を踏み出す準備は整った。とはいえそれは、あくまで内面の話。政治の表舞台へ戻るには、有権者のみならず自民党所属の地方議員、国会議員の協力がなければ叶うものではない。勿論個人の力でかれらを動かすことは出来ぬ。表舞台への復活を目指す安倍を信じてこれを支持し、心中覚悟で、覚悟を固めて未来を託すと腹を括った、歴戦の政治家たちが結束して〈応援団〉になる必要があった。
 その〈応援団〉のなかで最も重要な役回りを演じ、安倍復活の最大の立役者となったのが菅義偉であるのは、もはや語らずとも知られていることである。そうして、総裁選前はどちらかというと劣勢だった安倍を担いで最終的に勝利へ導いたのが、それぞれ派閥の領袖である麻生太郎と高村正彦であったことも、同じくいまでは語らずとも知られている。ゆえに、というわけではないが素描のように、この間の経緯を綴ってみたい、──
 第一次政権で総務相を務めた菅は、「必ず安倍を復活させる」といって官邸を去ったという。それからというもの菅は機会ある毎に安倍と会ってサシで説得を続け、総裁選勝利のシナリオを明示して背中を押し続け、諦めることがなかった。最初は消極的であった安倍もだんだんと、内面の充実と歩を一にするように再び総裁への挑戦意欲を強くしてゆく。
 が、総裁選に立候補を表明しているなかには、最有力候補である石原伸晃幹事長、地方議員からの得票率が圧倒的な石破茂前政調会長などがいた。これに勝つにはどうしたらいいか? 安倍は、麻生の支持がなければ勝てないし、また総裁選に出馬もしない、といった。麻生ははじめ、当時野党だった自民党総裁、谷垣禎一を支持する予定だったが、石原の立候補により谷垣が出馬を断念すると、「自分のボスの寝首を掻くような人を支持するのは、私の渡世の仁義ではない」と記者会見の場で言明、安倍支持を宣言した。その約30分後に高村も記者会見を開き、同じく安倍支持を明言する。総裁選の決着はついたも同然だった。
 しかし党員投票と国会議員票で、安倍の得票数は石破のそれを下回った。石破茂、199票。安倍晋三、141票。立候補者の誰1人過半数に届かなかったため、国会議員票だけを対象にする決選投票で、安倍は石破を破る。石破茂、89票。安倍晋三、108票。
 全ては菅のシナリオ通りに動いた。自民党が政権与党に返り咲くと安倍は、菅を内閣の要諦、官房長官に抜擢。麻生は副総理兼財務相、高村は副総裁のポストに、それぞれ配置した。これは決して論功行賞ばかりではない。それは第二次政権発足から憲政史上最長の7年8ヶ月の「安倍一強」時代を、かれらが一丸となって支え続けた事実が証明していよう。
 斯くして安倍晋三は、菅義偉(官房長官)や麻生太郎(副総理兼財務相)、甘利明(自民党政務調査会長)、高村正彦(自民党副総裁)といった第二次政権の要を成す議員たちの支援を受けて野党自民党の総裁として復活(括弧内は第二次政権誕生時のポスト)した。直後の衆院解散総選挙で政権奪還すると第96代内閣総理大臣に就任、7年8ヶ月にわたる第二次安倍政権がスタートした。第一次政権の失敗が第二次以後の憲政史上最長政権を実現させたことは、安倍元総理が回顧録で語るところだ。

 私は第1次内閣当時、首相の職を担うには未熟すぎました。……自分でやりたいようにやる、という考えで、党内に配慮や目配りができなかった。そうやって振り返ると、経験不足、準備不足は甚だしかったと思います。
 ……
 第1次内閣は、06年9月26日に高い支持率で華々しくスタートしたにもかかわらず、厳しい批判を浴び続け、わずか1年で退陣しました。この失敗は非常に大きかったと思います。あの1年間は、普通の政治家人生の15年分くらいに当たるんじゃないかな。
 その経験があったからこそ、第2次内閣以降、政権を安定させることができたのでしょう。第2次内閣が発足した12年12月26日、再び官邸に入った時には、同じ過ちは繰り返さないという思いを強く持っていました。(『安倍晋三 回顧録』P378-9)

 ──どうして安倍元総理の復活について延々と書いてきたかといえば、本稿タイトル通り、わが身わが事わが復活を(無理矢理)ここにこじつけてしまおうという魂胆からに他ならない。余りに不遜、余りに暴挙、余りに傲慢とは、百も承知だ。
 では、さて……。
 目下本ブログは事実上の半永久的更新停止中である。定時更新できた最終日に、もう更新は出来ないかも、と弱音を吐いたけれど、その時は本気でそう思うていたのである。自分の気持のなかでは本ブログ、もう「終わった」ものに映っていたからなぁ。そのあと何日か更新しているが、そんな風に眺めれば悪あがきの域を出るものではない。むろんその当座は、当該稿の執筆とお披露目は悲しみから抜け出せずにいる自分自身への叱咤激励、本格的な再起を視野に入れた鼓舞の意味を込めたのでもあったのだが……なかなかそう巧くはいかなかったようだ。
 わたくしには、ブログの更新再開を助けてくれる、気心知れた知己(スタッフ)はいない。復活に向けて様々動いて、道を示して懸命に後押ししてくれる盟友も、ない。わたくしは、安倍さんとは反対だ。いずれも身から出たサビ。狭い社会で抗争と裏切りを繰り返した結果だ。時に性格が災いしたのである。
 元々個人のブログの話なのだから、更新を再開して継続してゆくか、これを限りに13年か14年の歴史に幕を降ろすか、ブログ主たるわたくしの一存に委ねられて、誰彼を巻きこむようなことをする必要なんてまるでないと分かっちゃいるが正直なところを告白すれば、殊メンタル面で誰かにサポートしてもらえぬとそれについて深考して決断することさえ困難に困難に思えて仕方ない。いまはつくづく過去に築かれたあたたかで相応に堅固であった縁を自らぶち壊してきた己の浅薄短気を恨むばかりである。政治家に擬えればわたくし、安倍さんというよりは小沢だね。畜生め。咨、捲土重来を期す機会わが未来に有るや否や。
 もっとも、こんな風に縷々書いているなかで徐々に意思は固まってきている。そろそろ雌伏の時を終わらせよう。かつて誓ったように書き続けて前へ進むか、潔く終止符を打って新たな世界で前に進むか。どちらへ転ぶにしても、遅かれ早かれ結着はつく。
 死の向こう側にある世界を憧憬してそちらへ行く望みが、いまでもふとした拍子に湧き起こっていちどは鎮まった心をザワザワさせる。希望とは相反する情動ではあるが、それを否定してはあとできっと激しい揺り返しに見舞われる。……そんなことありと雖もゆっくりとながら内面に被った深甚なる傷は修復の方向へ向かっていると分かる。〈喪のプロセス〉を正常に歩んでこられたことの証左かも知れない。
 もし万一にも更新を再開するならば、はじめは、10日に1回、1週間に1回など無理ない範囲でお披露目してゆき、だんだんとそのスパンを短くして以前通り毎日定時更新に戻せばよい。逆に終止符を打つのであれば、そうと決めるなら、そろそろ最終日の挨拶原稿の想を練り、筆を執る必要が出て来る……。
 まこと、僭越ながら、不敬とか不遜とか揶揄されるを承知で本稿タイトルを「安倍の復活、みくらの復活」とした。なぜか? 安倍さんの復活劇に、自分の希望を重ねているからだ。◆

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