第3617日目 〈いま、ぼくがいるところ。〉 [日々の思い・独り言]

 喪の作業には、ショック期から立ち直り期まで5段階の〈喪のプロセス〉を辿る心理面の他、亡くなって葬儀に始まる一連の法要行事と役所や金融機関等々に対して行う各種事務手続を核とした実務面の、2つが包括される。
 実務面とはつまり、こういう事柄である……なにから手を着けるか。並行してせねばならぬ案件に於ける優先順位は。それはいつまでにされなくてはならないか。その過程で誰を頼り誰に専門的作業をお願いするか。……等々不馴れな作業がてんこ盛り。
 わたくしだって例外ではない。まさにこの真っ只中にある。わけもわからぬまま目に付いたときに、気附いたときに、指示されたときに、着手しては右往左往しているのが現状だ。
 手を着けねばならない案件は山積している。完結した案件はなに一つない。すべてが終わる日は訪れるのだろうか。

 「十分にお別れのできなかった場合では、一人で喪の作業をしなければならない中で、死別後シンドロームの芽が出てくることがある」(清水加奈子『死別後シンドローム』P148 時事通信社 2020/09)
 この一節に辿り着いたとき、ドキリ、とした。己を顧みて、すぐに自問──正常な〈喪のプロセス〉を辿っているのか?
 お別れがきちんとできなかったわけではない。最期の瞬間を見届けられなかったので、じゅうぶんなお別れができたとは言い難い。息を引き取る瞬間を見届け、その意味で看取ることができなかったのは確かだ。こちらも眠っている時間に逝ってしまったからね。
 じゅうぶんなお別れが言えなかった、と云う後悔はあまりないのだ。数日前から予感はあった。覚悟していた。冷たい言い方になるが、遺される心構えも、気持の片隅で用意していた。聞いておくべきを十全に聞けなかった、もっといろいろと話をしておきたかった、と云う心残り、無念、悔いはあるけれど、お別れに関しては特段これと云って……。
 さりながら、独り(意味するところを正確に汲んで表記すれば、独り、が相応しかろう)で喪の作業を進めるなか死別後シンドロームの芽が出る、というのは首肯できる。むしろ、独りであるからその芽が出やすくなる、死別後シンドロームに陥りやすくなる、と考えた方がよかろう。
 冒頭で〈喪のプロセス〉には5段階ある、と述べた。順を追えば、「ショック期」→「感情の暴走期」→「抑うつ期」→「受け入れ期」→「立ち直り期」、となる。
 亡くなった事実は受け容れているから、いまの自分は「受け入れ期」にある。──と思うが普通だけれど、そこは人の心である。その動きは複雑で、ベルトコンベア方式に前へと進むわけではない。常に行きつ戻りつの振幅運動だ。
 様々な感情が溢れ出すこともあるから──納得のゆく感情であったり理不尽或いは不可解な感情の混在、発露──「感情の暴走期」にあり、現実世界から切り離されている感覚があるので未だ「ショック期」に留まっている。間遠になっているが「抑うつ」を実感するときもある。
 行きつ戻りつの心の動き、なのだ。進んでは退き、留まりもすれば飛び越しもする〈喪のプロセス〉なるがゆえ、自分のいまいる場所がわからなくなる。まさに五里霧中とやいふべし。
 『死別後シンドローム』には、「すべての段階を終えるのに、おおむね1年はかかる」(P35 表1・注)とある。〈あのとき〉の自分が5段階のどこにいたのか、とは、すべてが終わって「立ち直り期」へ至り、それもしばらく経ってからでないとわからないことなのだろう。
 換言すれば、自分が〈喪のプロセス〉を正常に辿っているのか、拗らせてしまっているのか、現在進行形の状態では不明で当然、ということである。
 1年か……その頃わたくしは亡き母と、どのような新たな絆を結び、形成しているのだろう。◆

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