第3616日目 〈亡くなったあとも、その人たちは生きている。──近江国の大人へ。〉 [日々の思い・独り言]

 おお、親愛なる近江国の大人よ。しばらくの無沙汰を致しました。第二信に触れて拙の思ふところをお話させていただきたい。──よろしいでしょうか?
 貴兄はそのなかで、自分が身罷ったあとは、として前置きして、こう仰った、「(家族や友人が)時々思い出してくれるだけでいい」と。
 同感であります。貴兄のお考えに異を唱えるところはございません。元よりわたくしも同じように考えるからであります。
 人が本当の意味で死ぬ(亡くなる)のは、この世からその人のことを覚えている人物がいなくなったときなのでしょう。
 生前の故人をずっと後までも覚えていて、なにかの折に懐かしく思い出したり、誰彼に/誰彼と話してくれている人物の在る間は、たとえ肉体的には死者であっても記憶や語り継ぎという形で生者たり得るのでしょう。故人に子供や孫といった血を継ぐ存在があれば、なおのこと故人はかれらがこの世に在る限り生者であり続けます(これがどれ程幸福なことか、いまのわたくしはつくづくと、痛みすら伴って感じております。悔いている、というてもよいでしょう)。
 貴兄にはバンド活動の音源やお書きになった作品が形として残っている。わたくしもたくさんの文章を残している。書かれたものは全部ではないが電脳空間にいまこの瞬間もあり、われらを知らぬ圧倒的多数の無関係な人たちに読まれている──つまり、われら亡きあとまでも存在は認識されてゆくわけです。
 が、そんなものを一切残さなかった普通の生活人、所謂市井の人々はどうか? 圧倒的多数の無関係な人たちに存在を認識されることなく、普通の家庭に生まれて普通の両親に育てられ、普通に学んで働いて結婚して家庭を持った、平凡な人生を送った平凡な人は? 或いは、様々な事情や理由や原因によって、人生に苦しみや悲しみ、痛みが伴った人々は? 要するに、生きた証を特に意識して残すことのなかった人々は、どうやって他者に存在を、人生を、認識されるのか?
 結論だけ申せば、記録と記憶がすべてなのです。故人の来し方や思い出を語る/綴る、語り継ぐ、とは結局、記録と記憶に基づくわけですから。
 だからこそ──というのは些か飛躍するようですが──わたくしは、時間という一方的で情け容赦の無い、全人類が等しく享受する〈暴力〉によって存在も人生も圧し潰されて忘れられてしまう無名の人々のことを考え、想いを寄せ、自分が生きている間だけでもかれらを忘れぬよう在り続けたい。
 わたくしは、苔生す大地の下で誰にも知られないまま眠る人々のことを記録し、記憶を薄れさせぬためにも語り続け、その人の魂がやすらかでありますよう祈っていたい。
 むろんそれは身内の人、身内になるはずだった人、一時的とはいえかかわりを持った極一部の他人、にしか向けられぬ営みとならざるを得ないでしょう。が、わたくしが斯く努める/務めることで、除籍謄本以外にその人が生きたことを伝えてゆけるなら、それがきっとわたくしの、これ以後残された人生で行うべき仕事、役目なのだろう、と思うのです。
 祈りとは鎮魂にとどまらず、命の連鎖への敬意に他なりません。与えられたこの人生に於いて縁あって結ばれ和を為した人々への愛情と感謝、畏怖と崇敬がわたくしのなかにはあって、それを支えているのです。◆

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