第3622日目 〈この2ヶ月間で読んだ本。〉 [日々の思い・独り言]

 葬儀以後、必要な手続というのはおおむね日中で終わり、夜の時間も書類記入や洗濯など済ませてしまえば、僅かながらも自由な時間というのが生まれる。時が経てばかつての習慣も復活する。顧みて余裕が生じ始めた──気持の余裕ではなく時間の余裕──頃から、生活のなかに読書という習慣が戻ってきたようだ。1ヶ月半程前、か。2ヶ月経ったかどうか、というくらいかな。
 ただ、読む本はだいぶ変わったな、という印象である。まず、小説というものが軒並みお払い箱になった。現代作家の小説、という意味だ。兆候はあった、昨秋あたりから。
 そうして現在、right now、遂に村上春樹さえどうでもいいか、と思えている。来月発売予告されている新作小説になんの興味も湧かないのだ。発売日に買いに行かなくっちゃ、なんて気持は微塵もない。蔵書のスリム化を実施中のいま、村上小説はわずかを除いて古本屋行きと決定している──当然、紀行、エッセイ、翻訳についてはその限りではない。
 「さようなら」する小説の過半は、国産ミステリだ。幾つか(幾人か)の例外を除けば、外はブックオフ行き。さらば、新本格。さらば、綾辻チルドレン。身分にあった売却先ではないか。とはいえ、これだけ詰めこんでもダンボール箱6箱分である。スリム化の理想には程遠い。
 話がそれた。戻そう。
 読む本がだいぶ変わった、のである。いままでも読んでいた傍流のジャンルがメインストリームに躍り出ただけ、というてしまえばそれまでか。
 小説を読んで至福の時間を過ごすことに疑問が生じたのだ。
 小説を脇に押し退けてその地位を奪ったのは、例えば医療・医学についての読み物。心理学にカテゴライズされる本は、ここに含めてよろしかろう。他には、例えば、政治と法律がある。
 さっき試しに直近1ヶ月半から2ヶ月くらいで読んだ本を列記してみたら、この2つのジャンルがツートップを張っていた。まァ数的には後者が前者を圧倒するが、再読も含めての話ゆえそうなるのも致し方ない。
 論より証拠。医療・医学・心理学と政治・法律の本のタイトルを列記しよう(文字数を稼ごう)。順不同である。以下、──

○医療・医学・心理学
 清水加奈子『死別後シンドローム』 時事通信社
 宮林幸江・関本昭治『はじめて学ぶグリーフケア 第2版』 日本看護協会出版会
 立花隆『死はこわくない』 文春文庫
 立花隆『臨死体験』 文春文庫
 柳田邦男『犠牲』 文春文庫
 久坂部羊『人はどう死ぬのか』 講談社現代新書
 『もっと知りたい白血病 第2版』
 森元陽子『[改訂版]訪問看護師という生き方』 幻冬舎新書
 渡部昇一『魂は、あるか?』 扶桑社新書

○政治・法律
 安倍晋三『安倍晋三回顧録』 中央公論新社
 山口敬之『総理』 幻冬舎
 八幡和郎『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか』 ワニブックス
 青木理『安倍三代』 朝日文庫
 谷口智彦『安倍さんのスピーチ』 文春新書
 阿比留瑠比『総理の誕生』 文藝春秋
 石橋文登『安倍晋三秘録』 飛鳥新社
 安倍寬信『安倍家の素顔』 ワニブックス/オデッセー出版
 マーティン・ファクトラー『吠えない犬』 扶桑社
 橋本五郎『官房長官と幹事長』 青春新書
 蔵前勝久『自民党の魔力』 朝日新書
 大下英治『内閣官房長官秘録』 イースト新書
 池上彰・佐藤優『(真説・激動・漂流)日本左翼史』全3巻 講談社現代新書
 中北浩爾『日本共産党』 中公新書
 宇野重規『民主主義とは何か』 講談社現代新書
 文部省『民主主義』 角川ソフィア文庫
 高見勝利・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』 岩波現代文庫
 芦部信喜/高橋和之・補訂『憲法』第六版 岩波書店
 大石眞『日本憲法史』 講談社学術文庫

──以上。
 再読本に関しては必要あってページを繰っていたら熟読していた、というパターンが圧倒的のため、すべてを最初から最後まで読んだわけではないことをご承知置きいただかねばならない。殊に政治・法律。リストアップした19冊の過半は上記パターンの再読となる。民主主義と憲法の本すべて、そうして安倍元首相関係書籍の半分が該当しよう。それ以外は──いつ買ったのかは別にして──今回が初読だ。9冊、か。1日で終えた本もあり、数日かけた本もあり、様々である。

 医療・医学・心理学に中葉無理矢理カテゴライズした9冊も、いつ買ったかは別にして2冊を除けば外はいずれも初読。此度のことをきっかけに読む本のジャンルが著しく変化したわけだが、なかでも特筆すべきはこのジャンルの本ではないか(と自己分析っぽいことをする)。
 身近に〈人の死〉を経験して、関心は自ずとそちらへ向いた。初めての死別ではないのに、どうしてだろう。倩思うに、通院付添や自身の病気などを通して医療や医学というものに親近して、家族や自分の抱えた病気や地域医療のことを知りたい、誰もが避けられぬ〈死〉とはどのようなものか、脳死や臨死とはどういうものか、以前から心中燻っていた関心がそれらと実際にかかわりを持つことで具体的になったため、それにまつわる本が目に付くようになった、手にするようになった、というところだろう。
 或る種の体験があると、それに裏打ちされて多少は難しい本、これまで手が出なかった類の本でも読み進められることを、知った。
 たとえば宮林幸江・関本昭治『はじめて学ぶグリーフケア』は版元から想像できるように看護師向けの本で、医学書コーナーで見附けたのだが、清水加奈子『死別後シンドローム』を半分以上消化したところで読み始めたせいか、踏みこんだ内容になる時はあってもさしたる苦労はせずにいる。清水がどちらかというと心理学の方面から遷延性悲嘆症を扱うのに対して、宮林・関本は実際の医療──死別したばかりの遺族に直接関わる看護師たちの悩みや迷いに寄り添いながら遷延性悲嘆症との関わり方、対処の仕方を扱った内容となっている。
 自分がそうだったからというわけではないけれど、『死別後シンドローム』と『はじめて学ぶグリーフケア』は併読することを、これから読んでみようという人には強く奨めたい。心理学と医療現場の相互補完が、遷延性悲嘆症へ対処するには必要だ、と教えられた。この2冊を読んでいなかったらわたくし自身の遷延性悲嘆症は、かなり悪質な経過を辿っていたかもしれない……詳しくは語らないけれど。
 生きて最後に会った時のこと、看取り見送ったあとのこと。これを考えるとわたくしは、医学的に死ぬとはどういうことか、死ぬ間際に人はなにを想うかなにを見るか、という疑問に帰結する。これを知りたくて、立花隆、柳田邦男、久坂部羊の本を手に取った。前者については朧ろ気ながら一面的に分かってきた部分もあるけれど、後者についてはやはりサッパリ分からない。いちど(医学的に)死んで、生き返った人でないとこのあたりのことを書くことはできないのだ。
 臨死体験の本を書いたり訳したり立花隆はしているけれど、証言者の語る体験、内容にどこまで信憑性があるか、甚だ覚束ないというのが正直な感想である。裏づけのファクトが存在しないからだ。人間が想像力を駆使すればこの程度の体験は創作できよう……そんな疑いが、常に付き纏う。
 むろん、証言者は皆、ほんとうに自分はそういう臨死体験をしたのだ、と主張するのだろう。疑問を差し挟む余地こそあれ、否定して斬って棄てることは不可能だ。証言者を信じるよりない、信じる以外ない、という前提で成立するのが、死ぬ間際に人はなにを想うかなにを見るか、なのだ。
 ……それが親しい人であればある程、愛した人であればある程、そこに福音のような祈りをこめて考えを巡らせたくなるよね。というよりもこれが、生きている人間に考えられることの全て、根幹ではないのかな。そんな風に考える。
 1年前はこんなこと、考えなかった。自分にそんなことを考えられるなんて、思うたこともなかった。〈死別〉とは避け難き哀しいイヴェントだけれど、それを経て思考を新たにさせられることもあるんですね。そんな意味で、読む本のジャンルが変わったことは喜ばしいことといえるのだろう。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。