第3625日目 〈5ヶ月ぶりに開いた本、今年はじめての本。〉 [日々の思い・独り言]

 今年2023/令和5年は幕開け早々から、生活を根底から引っ繰り返す事態が出来した。その影響で以後、普通に行っていた事ができなくなった。読書の中断、は或る面でその最たるものか。
 それまで、かりに断続的であっても読んでいた本を、手にする事もページを繰る気にもならぬまま何ヶ月となく過ごしたのは、初めてである。読もう、という気にもならなかったのだ。部屋の片隅で、カバーを掛けたまま放置されて、そのまま打ち棄てられても不思議でない、本。
 とはいえ、月日は流れる。視界の片隅を通り過ぎてゆくその本が再び気に掛かり始め、或る日外出の際リュックに詰めこんで、ちかごろ新たな行きつけとなった市内某所のスタバでそれを開いいたのは、つい数日前の事。
 過去の営みに自分を呼び戻すだけの歳月がいつしか流れて、その間に自分でも気附かず心は快癒に向かっていたようである。それを俗に、〈時が傷を癒やす〉という。……。うむ、あまり面白くないな。
 報告;蘇峰『近世日本国民史』、「赤穂義士篇」を再び読み始めました。中断していた第13章を始めから読み直すと同時に、まだメモを作っていなかった第12章を読み返した。流石にその日の午後は、これに費やされた。第12章とは、幕府その処断に迷うも義士へ処分が告げられ、かれらそれに従うたる章である。
 それにしても、嘆息嗟嘆しながらの読書であった。読んでいる本は同じなのに、読んでいる自分はかつての自分では最早ない。哀しい形で読み手の心は変わってしまったのである。春やあらぬ……。
 文庫で、残り四分の一。それでも130ページ以上ある。小説の残り130ページと比較するのは蘇峰の名誉のためにも止めておこう。この重量級の修史に於いて130ページを読むとは、同テーマで現代の歴史家、研究者が著した内容の詰まった新書、5冊か6冊分を読むに等しい。否、それ以上の行為、もしくは質量か。「歴史について書く者はみな、蘇峰を使っているに決まっている」、この至言が思い出される。
 先日、スカパー!のと或るチャンネルで女性を中心にした〈忠臣蔵〉物が2作、放送された。橋田壽賀子の脚本と記憶するが、これを観て蘇峰を再読しようと思い立ったのかもしれない。奇しくも中断していた第13章とは、義士たちを陰に表に支えた女性たちを扱った章なのだ。いや、勿論偶然なのだろうけれど──が、そう言って断固否定する事もできぬのである。
 中断期間、推定5ヶ月弱。昨年6月から読み始めたけれど、これだけの中断は流石に初めての事だったよ。上で書いたように、もうゆめ手にする事、読み進める事はないんじゃないか、と思うておったからね。廊下に積みあげた時事通信社版全102巻を目にする度にも思うておったなぁ。でも、わたくしは帰ってきた、すくなくとも、いまのところは。
 残り130ページ、第13章を含めれば6章36項。6月中には読了したい、とは夢を見すぎか。◆

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