第3630日目 〈本ブログが生まれるまで。〉 [日々の思い・独り言]

 そうね、それはこうして始まったんだ。……
 書いた作品を寄稿させてもらっていたweb文芸誌や音楽ライターが主催するSNS、レビューサイトが相次いで閉鎖されてから、もしくは自分の意思で脱退してから、書いたもの/書いているものを発表するアテがどこにもないまま、何年も過ごした。
 聖書を読み始めた頃だから、2008/平成20年のことだろう。読みながらメモを作る。そうしなければ内容理解が追いつかなくなるところまで、聖書読書が進んでいたのだ──「出エジプト記」の後半、神聖法典に踏みこんで間もない時分だ。いい方を変えれば、いつ読書を断念しても可笑しくない段階に差しかかってきた、と云うことである。
 或る日、作り終わったメモ数枚をぼんやり眺めているとき、ふと、思い付いたのである。これをネット上で発表することはできないかな。そうすれば、せっかく始めた聖書読書は挫折しないかもしれない。
 丁度、ダイエットレコーディングの本を読んだか、資格試験対策の本を読んだか、していた頃である。そこに書かれていたのは、FacebookなどSNSで、あらかじめ目標達成のための決意表明をしておき、毎日それについての報告を(偽りなく)欠かさず行ってゆく、と云う趣旨のことだった。そうすると、たとえば決意表明から外れたことをしてしまった場合、読んでくれている誰彼からその点についてツッコミというか疑問が提出されて、決意表明した側は兎にも角にも目標達成のための努力をしてゆくようになる、というのだ。
 或る意味で、限りなくプレッシャーを掛けられる話である。立場を変えれば無責任な発言の宝庫にもなりかねない。
 が、これは良いアイディアに思われた。最後まで読み通します、なんて宣言するのではないけれど(そんな気は毛頭なかった)、メモを不特定多数に公開してゆくことが聖書という難物を読み進める原動力になり、同時に自分の読み方の確認にもなるだろう。
 斯くして、ネット上での読書メモ公開が決まった。次は、舞台である。HP作成は手に余る。管理するのが面倒臭そう……。当時流行りつつあったWordPressは己の能力の外にある。では──?
 そうしたときだ、ブログ、と云う手段を思い付いたのは。WindowsからMacへの大胆な機種転換を検討して、Macユーザー(=リンゴ信者)のブログをあちこち閲読しているうちに、単に記事を載せるだけならHPよりも簡単で、写真やイラストの挿入もカスタマイズ次第、これはHPなんかよりもかなり自由が効きそうだ。……そんな風に思うて、これに飛びついたのを覚えている。
 新しい表現舞台を模索していた頃は、ブログなんて手段は思い浮かばなかった。ブログを「えいやっ」と始めた当座は、15年も続けることになろうとは想像もしなかった。途中長い空白期があったと雖も、今日まで続けてこられたのは、「書くのが好きだ」と云う形容し難い気持と、執念のゆえである。
 今年9月で本ブログは15年を迎える(たしか)。それまでには更新正常化を果たしていたい。
 ──読者諸兄は知ってほしい。過去にもブログ開始を回想したものを書きました。きっかけについて書きもしました。これもまた、事実の一面なのです。過去の歴史は様々な資料や証言によって立体的に構築されるのです。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。