第2707日目 〈太宰治『地図 初期作品集』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「内的必然に促されて筆をとり始め、自己の可能性を模索していた時代で、一面においては遊び半分の呑気さが、さまざまな試みを許しています」
 ──昼間、『現代日本文學全集 別巻1 現代日本文學史』の「明治・第三章 明治末期・第六節 夏目漱石」(中村光夫筆)を読んでいたら、こんな文章に行きあたりました(P139)。
 初期の漱石作品が職業の余技に書かれたことを指摘しての一文ですが、これは多くの文学者に対して同人誌等で自由に筆を揮っていた時代を指していえることであります。特にいまわたくしの場合、この文章に行きあたっていっとう先に思い浮かべたのは、紛れもなく太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫)であったのは致し方ないところでありましょう。
 『地図』は太宰が津軽時代に校友会誌や同人誌に、本名或いは変名で書き散らした小説・戯曲を中心に、近年太宰作と認められた、またはなんらかの事情により新潮文庫の作品集からもれた作品を、曾根博義がセレクトして編んだ1冊。これを昨日(一昨日ですか)、09月04日夜に読了しました。
 読み始めた当初はずらり、習作が並ぶので或る程度の覚悟を決めていたのですけれど、いざ読み始めてみたら予想を裏切って、面白い作品ばかりが並んでいたのです。これはうれしい誤算でした。読んで良かった、と心底より思える文庫だったのであります。
 巻を閉じてまず去来したのは、これらはほんとうに無名時代の作品なのか、ということ。『地図』に収められた22編の習作から『晩年』所収作の執筆まで、平均して5年程度の隔たりしかない。それだけあれば……と考えるのは正しい。
 が、そのためには相当の克己精錬が必要だったはず。しかもこの間、太宰は生活に喘いで実家へ無心を繰り返し、その一方で共産主義運動に身を投じてみたり、或いは女性と情交して自殺未遂事件を起こし、なかなか忙しい身の上であったのです。そのかたわらで文学修行とは、いまさらではありますが、太宰治という稀有なる文学者の大きさを実感せざるを得ないのであります。
 いつものことではあるが読み進めながら、特に気に入った作品には二重丸、良かったと思うたものには丸、と符牒を付けてゆきました。習作から二重丸の付いたのは2編、丸が付いたのも2編でした。ついでにいえば三角とバツ、これは1編ずつでした。近年の発見作等6編のうち、二重丸は1編、丸を付けたのは2編であります。
 どれも初読直後の感慨に基づくゆえ、読み返してみれば印象の変わる作など出て来ましょうが、まずは現時点に於けるわがフェイヴァリットということでそれらの題名を挙げてみます。符牒の区別は、( )内に示したとおりです。「地図」(◎)、「針医の圭樹」(○)、「股をくぐる(×)、「彼等とそのいとしき母」(◎)、「此の夫婦」(△)、「鈴打」(○)、「断崖の錯覚」(◎)、「律子と貞子」(○)、「貨幣」(○)、となりました。
 上に挙げた作品群すべてに、文庫の余白やEvernoteに書き留めたメモがあるので清書しておきたいのだが、それは流石に長くなる一方なので止すとします。とはいえ、二重丸を付けた「断崖の錯覚」、丸を付けた「針医の圭樹」と「律子と貞子」については、本作品集に於ける鍾愛の作となることから、ちょっとそのメモを基に書いてみます。
 「針医の圭樹」(○)──
 圭樹はすこぶる傲岸不遜な針医である。多右エ門の世話で一人前の針医となった。その恩人が病に伏し、回復して間もなく圭樹は一緒に湯治へ赴く。ある晩、宿が燃えて逃げ出そうとするが、多右エ門の床にあるを思い出して助けに戻り、自分が命を落とす。●
 恩ある多右エ門に一日でも長く生きてほしい、と願う圭樹は心持ちは純粋だが、その一方で生活が殆ど多右エ門の世話で成り立っているので、この恩人に死なれては困るわけです。火事の晩、多右エ門を助けに戻ったのも、金づるに死なれては困る、という思いが強かったがゆえですが、それが新聞では逆に忠義の行動と受け取られる。
 圭樹の行動は浅ましいものですが、同時に哀しみを帯び、またけっして笑えぬ話であります。善行と世人に見られた行いも皆これすべて自分のためなのにね。こうした出来事は、社会人ならば多かれ少なかれ経験しているのでは。わが身に覚えある側には抉られるようなお話でしたよ。
 「断崖の錯覚」(◎)──
 大作家になるには殺人も止むなし。そう考える男が熱海へ遊びに出かけた。宿には、と或る新進作家の名前で逗留し、宿の者たちもかれを「先生、先生」と呼ぶ。そこの喫茶店で働く少女に入れこんだ男は一晩を一緒に明かしたあと、伊豆半島に連なる断崖から殆ど衝動的に少女を突き落とす。幸い目撃者はなく、断崖の高低差ゆえ唯一男の姿を目撃した木こりも、男の偽りの話に疑うことはなかった。それから5年経っても、男は捕まらない。かつて思うた如く、大作家になるための殺人を果たした。そんな男は未だ傑作の1つも書けず、日々少女の追想に耽っている。●
 これを読んだときは正直、腰を抜かすかと思うた。太宰治がこんなユーモラスでスムース・スポークンな犯罪小説を書いていたなんて、まったく知りませんでしたからね。本作はじつは習作に非ず、昭和9年に発表された小説で、このとき既に太宰は『晩年』を世に問う準備を進めていた。逆にいえば、「断崖の錯覚」が処女作品集に仲間入りしていた可能性だって、十二分にあったわけです。
 小心者が犯した犯罪が露見しない、目撃者の木こりが人の話を鵜呑みにしすぎる、という難点こそ抱えてありますが、それがいったいどうしたというのでしょう。太宰は推理小説を書こうとしていたのでは、当然ない(もっとも当時、推理小説てふ言葉はなかったそうですが)。鎌倉腰越での心中未遂事件──相手の女性は死亡──に依拠した論考もあるようですが、たしかにその影は落ちていましょうけれど、わたくしはむしろその時分、太宰が読み散らした種々の小説に刺激されて行った「さまざまな試み」の一つと事件が有機的に結びついて生まれた一作である、と考えます。
 「律子と貞子」(○)──
 呆れた話である。友なる若者が結婚の相談をしてきたのだ。しかもその相手は姉妹で、どちらを選ぶべきか、相談に乗ってください、というのだ。呆れた話である。友なる三浦君の話;姉妹は山梨下吉田町の旅館の娘なんです。そこはぼくの郷里でもあるんですがね。徴兵検査に極度の近視眼ゆえ丙種で不合格となったので、教師になるつもりで帰省したんです。そこで会ったんですよ、その姉妹と。姉の律子はおとなしくて、妹の貞子はうるさい。妹はぼくが丙種になったのをバカにして、いろいろまとわりついて散々である。数日してぼくはおいとましたわけですが、はて、ぼくはどちらと結婚すれば良いでしょうか;と三浦君の話は終わる。呆れた話だ。私に人の将来の幸不幸を任せられても困る。さて、と思うた私は新約聖書の一節をなにもいわずに、かれに「読め」とだけいうて渡した。三浦君から手紙が来た。ぼく、お姉さんと結婚することにしました。●
 結論からいうと「私」は言外に、妹を嫁にするのが良いんじゃね? というていた様子。三浦君に渡した新約聖書の一節とは、「ルカによる福音書」第10章に出る姉マルタと妹マリヤの姉妹の話。「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」(ルカ10:41-42)
 でも、三浦君はわかったのか、わからなかったのか、「私」の意図とは逆に姉を選んだ。ゆえに「私」はぼやくのだ、「三浦君は、結婚の問題に於いても、やっぱり極度の近視眼なのではあるまいか」(P329)と。面白いですね。この投げやり感。
 いや、なににしても羨ましい話であります。姉妹2人に懸想して、どちらを嫁にしたら良いでしょうか、と呑気に悩めるとは。語り手たる「私」の呆れる様子が目に浮かびます。三浦君は、そもそもの始めから姉律子を妻に、生涯の伴侶に、と最初から思い定めていたのではないか。自分の決心を行動へ移すため、答えは自分と違って構わぬから誰かに背中を押してもらいたかっただけではあるまいか。踏ん切りを付けるためにね。こうしたこと、ありません?
 さりながら律子と貞子、平成を生き令和の時代を迎えたわれらには、どこか引っ掛かる名前でもあります。律子とは某女子校にある軽音楽部の部長兼ドラマーの名前を連想させますし、貞子に至ってはわたくしがなにを、誰を思い描いているか、いわずもがなでありましょう。呵々。それにしても「貞子」は「さだこ」と読むか、「ていこ」と読むか、刹那悩んじゃいますね。
 ……だんだん粗筋と感想が長引いたことに、他意も意図もなし。況んや企み事をや。ふふ。
 <第二次太宰治読書マラソン>を開始してこれが3冊目となりますが、この『地図 初期作品集』がいちばん面白かった。ヴァラエティに富んだ内容、と紋切り型の紹介で済むかわかりませんが、事実その通りなのだから仕方がない。
 冒頭に引いた、「一面においては遊び半分の呑気さが、さまざまな試みを許しています」てふ言葉を具現したかのような奔放な筆運び、その結果たる小説と戯曲の数々が、そんな感想を抱かせたのでありましょう。コンビニ弁当と思うて蓋を開けたら実際は松花堂弁当だった、読み終えてみればそんなオチまで喰らわせてくれたのであります。
 引き続き、途中で読み止したままな『晩年』収録の「道化の華」を読んでしまうつもりだったのですが、今回初期作品に触れたことで、『晩年』全体、或いは1編1編の読後感など変わるかもしれない。というわけで、明日明後日からゆっくり、『晩年』を読みます。◆

追記
どうして「だざい」を変換したら、「太宰」ではなく「堕罪」といちばん最初に変換される? 大丈夫かい、ATOK。残暑にやられちゃった?□

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