第2859日目 〈汚せ、汚せ、汚せ、その本を!!〉 [日々の思い・独り言]

 本を汚すことにいつからか、抵抗がなくなった。学校の教科書や資格試験の参考書を除いては覚えているかぎり、本に書きこみをした最初の記憶は20代中葉の頃でなかったか。専ら電車のなかで岩波文庫の八代集を読み通したときだ。
 1994年3月、春のリクエスト復刊で『後撰和歌集』から『三奏本 金葉和歌集』『詞華和歌集』まで、古本屋で大枚叩かねばならなかった5つの勅撰集が書店の平台に並んだ。それを承けて改めて、『古今和歌集』と『千載和歌集』『新古今和歌集』を単独ではなく<八代集>という一つの大きな流れ──日本文化の美意識の温床ともなったこれらの和歌集を、最初から丸ごかしに、成立した順番に通読してみよう、と思い立った。電車のなかで、喫茶店の片隅で、夕暮れ刻の図書館の窓側の席で、自分の部屋で、シャープペン片手に気に入った歌に符牒を付けて、目次にその数を書いた。
 これが自発的に本を汚した、一等最初の記憶である。
 そのあとで徹底的に書きこんだり傍線を引いたりして、半壊寸前の状態にまでなった本はといえば、即ちそれは聖書であった。然り、本ブログにて使われた新共同訳聖書(旧約聖書続編付き)である。
 聖書を読み終えてからはしばらく、そのようにして何事かを書きこんだり、ページの端を折ったりなど、とにかく読んだ痕跡を残すような読書はしていなかった(ように記憶するのだが、さて?)。椅子をぐるり、と廻して書架を眺めて腕組みし、回想を試みるもまるでヒットする本が思い浮かばず、思い出すのを助けてくれる本が目に付くこともない。ということは、仮にあったとしても、然程印象に焼き付くものではなかった、ということだ。付箋をペタペタ貼った本なら、幾らでも思い浮かぶし、書架を眺めたところで視界に入って自己主張してくるのだが。
 が、ここ数ヶ月、わたくしは特定の本だけを相当に汚すようになった。本、というよりも文庫だね。遠慮なく、琴線に触れた文章のあるページの上端を折り、その文章を括弧で囲み、そうして最近の何冊かは余白に感想など認めている。対象は、新潮文庫版太宰治作品集である、就中『晩年』『二十世紀旗手』『津軽通信』あたりから顕著になってきた。感想文を書く下準備ともメモともいえようが実際はもっと単純な話だ。「この小説を読んでボクが思ったこと」を綴っているに過ぎない。とはいえ、これがあとになってとっても役に立つことは事実である。
 今日(昨日ですか)、太宰の『きりぎりす』を読み終えた。作品ごと終わりのページに1行程度の感想を書き付けたものもあり、余白をびっしり埋めて各作扉にまで及んでいる場合もある。目次にはお馴染みな符牒が舞い、なにやら一言メモがその下にあったりする。開き癖がすっかり付いた文庫は、書店のカバーを外せばぱっと見は綺麗なものだ。が、巻を開けば人の手を経た本特有の紙のめくれ方、感触である。世界でたった1つの本というに相応しい、手垢にまみれ、手擦れのできた、読んでいるときの空気と記憶が詰まった、ゆめ棄てること能わざる“それ”──。
 このような形でわたくしは、『きりぎりす』読了をご報告する。いい方を換えれば、遅かれ早かれ、その感想文が本ブログにてお披露目される、という意味でもある。明日は読み返す日に充てるつもりのため、お披露目は明後日以後になるだろう。『新ハムレット』を読み始めるのも、明後日以後になるかな。◆

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