第2861日目 〈旺文社文庫を知っていますか?〉 [日々の思い・独り言]

 いまでも学校図書館に備え付けられているのだろうか、旺文社文庫は? わたくしの通った高校の図書室には、学校図書館向けに特別あしらえしたてふ単行本のように、ボール紙で厚くした若草色の表紙で装われた旺文社文庫が、文庫コーナーの主役を占めていた。度重なる貸出による表紙の破損等を想定して、あらかじめそのようにしていたと思われる。
 読書の面白さ、愉しさに本式に目覚めた高校時代は別のいい方をすれば本代を如何に捻出するか、どの本を買うか取捨選択の目を養われる時代でもあった。もっともっと、と新しい本を求める飢えて貪欲な心には、自分で買える本に限りが生じる。その渇きを癒やす手段、不足を補う手段が、図書館(室)となるのは必然であった……むろん、わたくしだって例外ではない。
 図書室に入り浸っていたわけでもないが、週1で通うことになり(あぁ、いろいろ事情あってな)、ふと目に付いた海外作家がエドガー・アラン・ポオ(エドガァ・アラン・ポオ)である。旺文社文庫の、刈田元司訳『黒猫・黄金虫 他四編』──これは二重の意味で<出会いの書>となった──1つはポオとの、1つは旺文社文庫との。
 ポオに限らず旺文社文庫の特徴でもあるけれど、名作とされるフィクションのたいていには挿絵が添えられ、解説として作者の懇切な伝記と作品解説、そこに載らぬ代表作や年譜などが付く。その1冊で作者について詳しく知ることができ、またもっと他の作品を読んでみたいと思う情熱駆り立てられた人への指針になるような、そんな本作りがされていたのだ。旺文社文庫でポオを読んでいなかったら、そのあと躊躇いなく創元推理文庫の全集を書店のレジへ積みあげて夏の数週間、流れ落ちる汗をどうにか留めて読むような少しだけ未来の自分はいなかっただろう。
 最近は見掛けないが某SNSで、特定の文庫レーベルを全点揃えようと見境なく買い漁る酔狂漢が居った。その人の集めるのはブックオフを周回すれば概ね集められるような代物であった。
 わたくしがもし同じことをするならば、と妄想すれば、その対象は旺文社文庫以外にあり得ぬ、10代の読書に益あり彩り添えた、わが鍾愛の文庫レーベルだ。古本屋さんで旺文社文庫を見附けると、思わず手にして未蔵の1冊だったら矢も盾もなく買ってしまう(ときが、どちらかといえば多い)のは、それゆえか。
 そんな風にして、縁あり集まってきた旺文社文庫がいまどれだけ、書架に収まっているのか、正確なところは把握していない。が、棚の最前列にあるだけを数えてみると、30冊あった。調べれば3桁は超えよう。ポオは勿論、O・ヘンリー、ラム姉弟、ヘッセ、ハーン、ブロンテ、スタインベック、フールニエ、ゾラ、ドーデ、シュトルム、ワイルド、スティーヴンソン、鏡花、鴎外、独歩、壺井栄、実篤、犀星、達治、春夫、白秋、朔太郎、湖人、亀井勝一郎、戸板康二、池田彌三郎、奈良本辰也、渡辺文雄、小室等、エトセトラエトセトラ。どれもこれも、これまでの人生の一コマで読み耽った、思い出深い文庫たちである。このなかには亡き婚約者が遺したものも混ざっている。過半は火事をくぐり抜けてなおわたくしに寄り添う本である。わたくしが焼き場で焼かれるときは棺の底にこれらの本を、他のものといっしょに敷き詰めてほしい。
 今後も旺文社文庫を、折に触れて買い集めてゆくことになる。この文庫の看板の1人であった内田百閒は、実を申せば2冊しか持っていない。亀井勝一郎の文庫を全点集め終わったら、こちらの方も……と企むこと度々であるが、でもおいら、そこまで百閒先生に耽溺しているわけでもないしなぁ。どうしましょうか。◆

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