第2868日目 〈クライヴ・バーカー《血の本》が日本に登場した頃。〉 [日々の思い・独り言]

 友成純一の本を読んだという人に、「クライヴ・バーカーの《血の本》シリーズがお好きかもしれない」と紹介したのは、きっとシリーズの訳者の1人、宮脇孝雄が『幻想文学』誌のどの号だかのインタヴューにて、翻訳の際(体の器官の表現について)友成の小説を参考にしたことがある、と答えているのを覚えていたからだ。──と或る日のTwitterでのやり取りの背景である。
 そんなリプライをしたあとのことだ、「ああ、そういえばクライヴ・バーカー、しばらく読んでいないな」と、小さな懐かしさと一緒にその名、その作品を思い出し、帰宅して着換えるのももどかしく、ホラー小説を突っこんであるダンボール箱を開けて、各社から出たバーカーの文庫と単行本を引っ張り出し、机の脇に積み重ねてページをぱらぱら目繰ったのは。
 ──わたくしの10代はそのまま1980年代に重なる。その後半から頓に海外文学の翻訳文庫に異変が生じたのを、この目で確かめ、この肌で感じている。むろん、読者の側からである。
 即ち、キングの『シャイニング』が文春文庫から復刊された1986年秋から徐々に、日本の好き者たちのまわりで<モダンホラー>なる名称が囁かれ始め、ハヤカワ文庫が〈モダンホラー・セレクション〉をスタートさせてハーバートやグラントなどを、あとを追う形で創元推理文庫が〈創元ノヴェルス〉を立ちあげてテムやクーンツ、ローズを、扶桑社は後発の不利に甘んじることなく〈サンケイ文庫〉を創刊してキングの短編集やアンドリュースなどを送り出すようになった。と同時に「モダンホラー」てふ名称はイコールキング以後のホラー作家たちを総括するような、一種の便宜を図るためのレッテルとして一般名詞化した。
 同じ時期に国内ミステリでは綾辻行人がデビューして<新本格>が一大潮流を形成しつつあったのは、果たして無関係といえるのだろうか。
 さて、モダンホラーだが、キングを除いては特定のレーベルからいろいろな作家が散発的に紹介されたが精々で、特定の作家が或る程度の数をまとめて、その全貌がなにとはなし見渡せるような形で翻訳・出版される機会はなかなか訪れなかった。と、そこへ殆どなんの前触れもなく登場したのが、キング絶讃の言葉が踊り、当時としてはグロテスクな表紙イラストに飾られた《血の本》シリーズ第1巻『ミッドナイト・ミートトレイン』の作者、クライヴ・バーカーである──「キング絶讃/激賞」は9割ハズレが定説、しかしバーカーの場合は嬉しいことに例外の1割に該当した──。
 そうして今日顧みるにあの頃、バーカー以外の作家たちは読者層も売れ行きもさしたる結果を残すことができないまま、紹介は尻すぼみになっていった感がある。むろん、これはやがてバーカーも辿る道であるわけだけれど。
 ──わたくし? 当時紹介された<モダンホラー>の作者たちのなかではバーカーがいちばんのお気に入りだった。イギリス人作家であることが、贔屓になる理由の1つだった。リヴァプール生まれで、ビートルズのメンバーの誰だかと同窓とかいうエピソードも、気に入った。
 そんな話はともかく、《血の本》シリーズ全6巻が刊行されるたび、ドキドキワクワク、ビクビクゾワゾワしながら、さながら地獄めぐりでもするような気分で、夜更けにたった独りで「恐怖の博覧会」会場をガイドなしで歩くような気持ちで、血と臓器とセックスとユーモアと奇想と暗鬱が奇妙な調和を見せる短編小説群を1つ1つ、舌舐めずりしながら、読んだ。高校、学校帰りの相鉄線各駅停車横浜行の車内;窓を開け放した夕暮れ刻、隣に坐る部活の後輩のY君が覗きこみ、バーカーを読んでいる、と知ると、「よく読めますね、気持ち悪くなりませんか?」と真顔で、感心したような口調でそういうたのを、覚えている。
 そう、高校の行き帰りに読んだ。授業中に隠れて読んだ。放課後、誰もいない(使っていない)新校舎6階の空き教室(の鍵をこっそり開けて)読んだ。流石に寝る前は控えた。いやぁ、だって、夢見がよろしくなく、うなされたこと1度や2度ではなかったもの。えへ。──随分とバーカーに淫していました、あの当時は。それゆえ書く小説にも自ずと影響が出てしまうたのは仕方なきこと。けれど、それはまた別のお話である。
 1980年代後半から1990年代の終わりまで、継続して、出る本すべて購いその端から読み耽った<モダンホラー>の作家は、キングとバーカーだけである(その頃からキングは、なんだか真昼の労働者のようなイメージの作品が続いて、正直なところ、当たり外れが多かった時期であったように思う)。バーカーについては《血の本》のあとに本邦初紹介時は『魔道士』というタイトルで文庫化の際改題された『ヘルバウンド・ハート』(映画『ヘルレイザー』の、いちおうの原作)、映画『ミディアン』の原作『死都伝説』(D.クローネンバーグが悪い医者役を怪演!)、本格的ダーク・ファンタジーである『ウィーヴ・ワールド』に『不滅の愛』、『ダムネーション・ゲーム』、『イマジカ』、そうして21世紀になって『アバラット』と『心の冷たい谷』がお目見えする。刊行ペースのせいもあろうが、バーカーの作品はいつ読んでも期待を裏切られることなく、物語に没入させてくれたものだった。
 バーカーのファンタジーについて個人的に思うところあるとすれば、ホラー小説よりもずっと濃い口で(世界も人物も雰囲気も描写も、なにもかも)、強烈なイマジネーションに支配された、ダークさとハードさという点では当時ブームであった同じ英国産ファンタジーの雄『ハリー・ポッター』シリーズに優っている。『アバラット』の翻訳が中途半端なところで途切れたのは勿論、第2巻が第1巻から実売部数を落として、第3巻出版のエビデンスとなる数字を稼ぐことができなかったためだろう。売れなかったこと、評判にならなかったことが至極恨めしい。その一方で『ハリー・ポッター』と同じようなファンタジーを求める読者層に受け入れられなかったことも、「宜なるかな」という首肯してしまうのだ。
 いま簡単に調べてみると、バーカーの訳書は電子書籍と無縁の様子。良くないなぁ。これは良くないよ。読みたくても読めない状況をそのままにしては、いけない。すくなくとも《血の本》シリーズの版元、集英社はその重い腰をあげて『ミッドナイト・ミートトレイン』から『ラスト・ショウ』までの全6巻に加えて(合本にするのが良いだろう。その際は事情により第6巻へ回された「プロローグ」を、本来の位置に戻していただきたくお願いする)、『ヘルバウンド・ハート』、『死都伝説』、『ウィーヴ・ワールド』まで電子書籍化して供給してほしいのだ。
 いつの時代にもホラー小説の読者、クライヴ・バーカーの読者はいる。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。