第3504日目 〈教科書を読みくらべる面白さ──ブレジネフを例にして。〉 [日々の思い・独り言]

 いきなり本題に入る。
 プーチンやゴルバチョフ、ソ連関係の本を読んでいる現在は、例の30年前の世界史教科書『新世界史 改訂版』と現行の教科書「世界史B」についてもその頃の記述がいちばん比較しやすい。
 試みにブレジネフ時代を読み較べてみよう。すると、30年前の、つまりわたくしが現役高校生だった当時(そんな時代もあったのだ)使っていた『新世界史 改訂版』の方がより詳しく、当時のソ連が内外で抱えていた問題について触れている。長文になるが引用したい。曰く、──

 ソ連では、1964年フルシチョフ首相が農業問題などの責任を問われて失脚、その後ブレジネフ(Brezhnev 1906〜1982[在1964〜82])共産党書記長を中心とする指導体制が固まった。経済建設は進んでいるが、農業の不振に加えて70年代後半工業の成長率が急速に低下した。77年にはスターリン憲法にかわって新憲法が成立したが、政治の民主化は進まず、また思想・文化に対する統制もいぜんきびしく、国内でも一部知識人のあいだから批判がおこっている。また外交でも、70年代ソ連指導部は軍備を強化しつつもアメリカとの緊張緩和(デタント detente)に努めたが、79年ソ連がアフガニスタンに侵攻し、これに西側が強く反発したことからふたたび東西の緊張が高まった。(P365)

──と。
 ブレジネフをトップに戴いていた18年は「停滞の時代」と呼ばれた。農業も工業も頭打ちとなり、軍事を含めた外交は理念と実態が著しく乖離した。八方塞がりの時代だったのだ。そんな様子が上に引用した、30年前の世界史教科書からは窺える。
 翻って今日の教科書は、ブレジネフ時代について語ることが殆どない。『詳説世界史 B』ではわずか1行、ここのみ登場するに過ぎない。曰く、──

 ソ連では、1964年にフルシチョフが解任され、コスイギン首相(Kosygin 1904〜1980[在1964〜80])=ブレジネフ(Brezhnev 1906〜1982[在1964〜82])第一書記の体制にかわり、自由化の進展はおさえられた。(P388)

──と。ブレジネフ時代のソ連の動向については、然るべき項目でこま切れに触れられている。それでも、30年前の教科書とちがってブレジネフ時代の記述はかなり薄い、といわざるを得ない。フルシチョフ解任の理由も『詳説世界史 B』は語らない。僅か10数字さえ惜しんだのであろうか。
 しかし、これはむしろ今日の風潮なのかもしれない。30年前の教科書に於いてブレジネフのソヴィエト時代は、まだ比較的馴染みがある時代であった。そもそもソ連という国自体が健在で、まさか数年後に崩壊するなんて誰も想像しなかった時代である。したがって記述も頗る細かくなっている。いい換えれば、その人のいた時代の輪郭が浮かびあがる風になっている。
 一方で今日の教科書が斯様な書き方をしているのは、積み重ねられた歴史の層が、30年前よりも増えてきているからだ。それゆえに、なにを、どの程度まで書くか、取捨選択の基準が30年前よりも厳しくなってきたのだろう。
 歴史とはけっして完成しないミルフィーユ・ケーキである。人類の営みが続く限り、歴史は作られ続けて、終わりは訪れない。1枚の層にどれだけの歴史を詰めこむか、という論議はあろうけれどそれはさておくとして、とんでもなくでっかいミルフィーユ・ケーキが年々日々時々刻々とうずたかくなっていっているのを想像すると、悠久の時間の流れ、歴史の堆積、生きとし生けるものの命の積み重ねを思うて言葉を失うのである。
 そんな具合だから今日の教科書が、以前は少々詳細に記されていた事柄を簡略に扱ったとしても不思議はない。なぜならその後の歴史のなかにも語るべき、触れるべき事柄は山積しているからだ。もしかすると、ここに20世紀後半の教科書と21世紀の教科書の決定的なちがいがあるのかもしれない。そうしてこの開きは、時が経るに従ってますます大きくなるに相違ない。逆説的にいえば、教科書ガイドや(大学受験用も含めた)学習参考書は教科書の補完という役割を更に強め、ますますその記述や解説を細かくしてゆくわけだ。
 ちなみに、同出版社から大人向けに出されている『もういちど読む 山川世界史』では、同じ時代をどう扱っているか。──なんと、ブレジネフ時代は「内外の政策の変化はなかったが、経済の停滞がめだち、自由化への道は抑圧された」(P284)とあるのみだ。
 簡にして的を尽くした、まったく問題のない記述だが、30年前のあの教科書で育ったわたくしは、なんだか一抹の淋しさと件の教科書へのノスタルジーを抱くのである。
 ソ連邦の崩壊/解体、新生ロシアの誕生、(プーチンの)帝国主義の復活、という変化を間に挟んでいることもあって、ソ連時代の政治に関してはブレジネフの時代なんて知ったこっちゃいないよ、スターリンとゴルバチョフ(あともう1つ、強いていえば「スターリン批判」を行ったフルシチョフ)以外に言及するのは、教科書という性格上難しいことであり、またその必要性も上位にはない、ということなのか。
 とはいえ、である。ブレジネフ政権の功罪が、後にゴルバチョフが提唱・推進したペレストロイカとグラスノチへ至る道筋を作ったのだから、対米デタントや中ソ対立、アフガン侵攻(1979〜89)あたりは、今後、如何なる時代になろうとも記述を省くことはしないでほしいのである。
 さて、30年前と今日の世界史教科書では記載内容がどのように変化したか、ソ連のブレジネフ時代をサンプルとして取りあげた。時間の経過と共に重要性が薄れる事例にもなった。
 が、この点を更に、如実に示すのが実は、教科書と一緒に配布される用語集、用語辞典であるのに気附かされたことを、告白しておきたい。いつ気附いたか? 本稿を書き進めるうちに。
 もうすこしお付き合いいただいて、旺文社の『世界史事典』(1968/06初版 1978/04改訂版)と山川出版社の『もういちど読む 山川世界史用語辞典』(2015/04)を並べて、同じ単語にどのような説明がされているか、見てみよう。サンプル・ワードは勿論、「ブレジネフ」である。スペル・生没年・役職は省く。
 まずは旺文社『世界史事典』に曰く、──

 1931年ソ連共産党に入党。第二次世界大戦後、州党委員会第一書記・党中央委員会書記をへて、64年フルシチョフが解任されたあと、党第一書記となる。66年書記長に就任し、77年6月に最高ソビエト幹部会議長(国家元首)となる。コスイギン首相とともに、集団指導体制をとり、平和共存路線、社会主義諸国への指導性強化、国際政治における指導権確保など、多彩な活動を展開し、77年憲法を改正し、最高指導者の地位を保って死去。(P363)

──と。
 ブレジネフという人物の業績を上手くまとめている。幾つかに補足を要すが、学習目的であれば必要じゅうぶんな情報を詰めこんでいる、といえるだろう。
 ではもう1冊、『もういちど読む 山川世界史用語辞典』はどうか、というと──これがなんと、項目立てされていないのである。巻末索引は、「プレウェザ海戦」から「ブレスト・リトフスク条約」へ飛んでしまうのだ。
 この事実を以て今日の世界史教科書では、戦後のソ連史はスターリン-フルシチョフ-ゴルバチョフの流れを押さえておけばよい、という認識に傾いている、それがほぼ総意である、と考えるべきなのだろうか。歴史が積み重ねられるに従って、教科書/用語辞典は厳しい取捨選択を強いられる──その苦悩を垣間見た思いだ。
 なお、ブレジネフの扱いはソ連最高指導者としてはまだ良い方なのかもしれない。濃淡こそ顕著なれど教科書に記述がされた、用語辞典にも項目立てされたことがある、という点を以て、斯く思う。
 というのも、ブレジネフとゴルバチョフの間をつないで国のトップの座にいたアンドロポフ(在1982/11/12〜1984/09/02)とチェルネンコ(在1984/02/13〜1985/03/13)の名前は、教科書でも用語辞典でも一度だってお目にかかったことがないからだ。任期の短さが大きな理由だろう。もしかすると、本稿を書くに際して使用した架蔵の教科書や用語辞典にたまたま記載がないだけで過去に流通した、他社の世界史教科書や用語辞典には載っていたかもしれない。
 ──かつて渡部昇一は、或る特定の事項が『ブリタニカ百科事典』各版でどのように、どれくらいの分量を費やして書かれているか、その変遷を調べているとささやかな発見があって楽しいと、様々なところで述べていた。それを基にして執筆されたエッセイ、各版の特徴やを述べたエッセイもある。教え子たちの証言もある。『ブリタニカ百科事典』を初版からすべての版を架蔵して手許に置いていた渡部ならではの知的愉悦といえよう。
 此度のわたくしの試みも、これに(結果的に、だが)倣ってみたのである。諸事情により教科書に学ぶ歴史の輪郭から外されてしまった出来事、人物にスポットをあてて手持ちの本を開いて調べてみると、見過ごしていた事実に気附かされるのだ。あらためて自分のなかの知識を整理・点検・修正することができて、愉しいのである。
 秋の夜長の眠れぬ一刻、試してみると面白いと思います。但し、それによって不眠症になってしまったり、翌日眠気に負けて仕事や学業に支障を来すことがあっても当方は一切の責任を取りかねますので、その点だけはご注意の程を。◆

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